訃報が相次ぐ。上田秋成研究の先達である浅野三平先生。先生は数奇な人生を辿られた方であったようだ。今私はそのことをここで述べることはしない。
私は私と先生の関係においての先生を語り、追悼の言葉とする。
先生が上田秋成研究に果たしたご功績はこのうえなく大きなものだった。大著『上田秋成の研究』で、秋成の全体像を示したが、特に恩恵に与ったのは『秋成全歌集とその研究』だった。増補改訂版も出して下さったので、古びることなく、私の座右の書となり続けている。秋成の和歌を、文字通り資料を博捜して網羅しているので、たとえば古書店で秋成の和歌短冊が出てきた時に、まず先生の『全歌集』で検索し、新出かどうか、新出でなければどういう作品に収められている和歌かを、たちどころに知る事ができた。秋成研究においては、現在歌文の研究が重要になってきているが、本書は益々その価値を増しているように思える。
先生の研究は、秋成だけではない。たとえば『近世中期小説の研究』という本では、多くの談義本作者を取り上げて論じておられる。18世紀の散文をすこし研究している私にとっては、この本もまた頼もしい先導役だった。
ある時、私は本屋で、先生の書かれた研究書ではない文庫本を見付けた。それが『スピリチュアル犬ジローの日記』だった。同姓同名の方の本かと最初は思ったが、中身を読むと明らかに先生が書かれたものだった。私はその本を購入し、一気に読んだ。それからまもない時期に開催された日本近世文学会の懇親会場に向かうバスで、偶然浅野先生と相席になり、ジローの話題で俄然盛り上った。先生がジローをこよなく愛し、死んだ後も霊となってもいつも近くにいることを信じていらっしゃることがわかった。今頃は、ジローとお会いになっていることだろう。
私が日本近世文学会の事務局をしていた時に、学会初めての試みとして、韓国の高麗大学校で大会を開催したことがあった。大会は大会校をはじめとする関係各位のご協力のおかげで大成功だったが、初日の懇親会も、二日目の懇親会でも、浅野先生に乾杯の音頭を取っていただいたことは、忘れられない思い出である。先生は、スピーチで、三十七年前にソウルであつらえたスーツを着て来たんだとおっしゃっていた。大会を成功に導いて下さったお一人だと本当に感謝している。
他にも、私が主催した秋成シンポジウムのため、はるばる東京から大阪にいらっしゃって下さったこと、秋成の未紹介資料についての私の学会発表について、新出和歌を紹介してくれてありがとうとお声がけ下さったことなど、ありがたい思い出が次々に甦ってくる。まだまだ、お導き下さってほしかった。今は心からご冥福をお祈りするばかりである。
2023年03月06日
2023年03月02日
家康徹底解読
大河ドラマ「どうする家康」がじまって2ヶ月。ドラマは「史実」に沿ってはいるが、大胆なエピソードを虚構しつつ、決断を迫られて右往左往する家康を描いてゆく。かつては山岡荘八原作・滝田栄主演の『徳川家康』も大河で放送された。こちらはなんだか立派な家康だったと記憶する。
我慢強いとか、狸親父とか、地味とか、我々がもつ家康のイメージは、信長・秀吉とは対照的である。では、その実像はどうだったのか、そしてその定着しているイメージはどう形成されたのか。歴史研究者と文学研究者を糾合して、「実像」と「虚像」を追究したのが、堀新・井上泰至編の『家康徹底解読』(文学通信、2023年2月)である。
同じお二人の共編で出た『秀吉の虚像と実像』『信長徹底解読』に続く第3弾である。信長の時には『信長公記』という、絶対的な通路(虚像実像の両方にとって主要な史料)があったが、家康の場合はそうではないだろう。アプローチは様々である。今回も14のテーマについて、歴史側と文学側からの考察が並ぶ。シリーズ3冊目となって、双方が互いに研究方法を理解しあい、シンクロしあっているような章もあれば、何か違うことを論じているのでは?と思わせる章もあって、逆にそれが面白い。シンクロしているように思われたのは、たとえば「小牧・長久手の戦い」であり、この戦いで徳川家康が勝利したという通説が、徳川史観によって創られたものだという考察が、史学(堀新氏)・文学(竹内洪介氏)双方から為されている。互いに草稿の段階で、原稿を交換していたような形跡があって、見事に融合しているように見えた。
尾張人質時代はなかったのではという歴史学からの考察や、三河一向一揆・方広寺鐘銘事件など、さまざまなテーマにおける最新研究成果に基づく、興味深い考察がなされている。
それにしても、歴史研究者の書く歴史とは「確実な「事実」を一次史料で押さえ、一次史料のないところを二次史料で補い、それでも足りないところを合理的な考察で「歴史」として叙述するもの」というのが一つの見方だと思うが、当事者自身の手になる一次史料にも、年記や宛名が欠けているとか、写しであるとか、控えであるとかの外側の問題や、文言そのものの意味不明箇所など、徹底的な解読が必要であり、逆に後世の者が編んだ歴史書から、事実と虚飾を読み取る読解力も求められる。新しい史料が出現したら、これまでの「事実」が転覆することもある。まことに歴史研究は大変である。しかし、そうであるからこそ、歴史研究者は、虚構の混じる文書・記録さらには物語をも読む必要に迫られる。一方で、文学研究者も、作品の背景や作者の思想を探る際に、一次史料に遡ることを余儀なくされることもある。方法と目的を異にするとはいえ、歴史学と文学研究は交差しているし、情報交換を重ねていかねばならないだろう。いずれにしても、「徹底解読」の姿勢だけは持っておかねばならないわけですね。そういう意味で、実像と虚像の両面を「徹底解読」するこのシリーズの果たしている役割は大きいのではないだろうか。
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我慢強いとか、狸親父とか、地味とか、我々がもつ家康のイメージは、信長・秀吉とは対照的である。では、その実像はどうだったのか、そしてその定着しているイメージはどう形成されたのか。歴史研究者と文学研究者を糾合して、「実像」と「虚像」を追究したのが、堀新・井上泰至編の『家康徹底解読』(文学通信、2023年2月)である。
同じお二人の共編で出た『秀吉の虚像と実像』『信長徹底解読』に続く第3弾である。信長の時には『信長公記』という、絶対的な通路(虚像実像の両方にとって主要な史料)があったが、家康の場合はそうではないだろう。アプローチは様々である。今回も14のテーマについて、歴史側と文学側からの考察が並ぶ。シリーズ3冊目となって、双方が互いに研究方法を理解しあい、シンクロしあっているような章もあれば、何か違うことを論じているのでは?と思わせる章もあって、逆にそれが面白い。シンクロしているように思われたのは、たとえば「小牧・長久手の戦い」であり、この戦いで徳川家康が勝利したという通説が、徳川史観によって創られたものだという考察が、史学(堀新氏)・文学(竹内洪介氏)双方から為されている。互いに草稿の段階で、原稿を交換していたような形跡があって、見事に融合しているように見えた。
尾張人質時代はなかったのではという歴史学からの考察や、三河一向一揆・方広寺鐘銘事件など、さまざまなテーマにおける最新研究成果に基づく、興味深い考察がなされている。
それにしても、歴史研究者の書く歴史とは「確実な「事実」を一次史料で押さえ、一次史料のないところを二次史料で補い、それでも足りないところを合理的な考察で「歴史」として叙述するもの」というのが一つの見方だと思うが、当事者自身の手になる一次史料にも、年記や宛名が欠けているとか、写しであるとか、控えであるとかの外側の問題や、文言そのものの意味不明箇所など、徹底的な解読が必要であり、逆に後世の者が編んだ歴史書から、事実と虚飾を読み取る読解力も求められる。新しい史料が出現したら、これまでの「事実」が転覆することもある。まことに歴史研究は大変である。しかし、そうであるからこそ、歴史研究者は、虚構の混じる文書・記録さらには物語をも読む必要に迫られる。一方で、文学研究者も、作品の背景や作者の思想を探る際に、一次史料に遡ることを余儀なくされることもある。方法と目的を異にするとはいえ、歴史学と文学研究は交差しているし、情報交換を重ねていかねばならないだろう。いずれにしても、「徹底解読」の姿勢だけは持っておかねばならないわけですね。そういう意味で、実像と虚像の両面を「徹底解読」するこのシリーズの果たしている役割は大きいのではないだろうか。
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2023年03月01日
古活字探偵事件帖
古活字探偵とは高木浩明さん。古活字本悉皆調査をライフワークとし、精力的に調査を進めておられる。その副産物である論文集も刊行されていて、このブログでも紹介したことがある。われながら、いい紹介文なので(笑)、是非ご参照賜りたい。
高木さんは古活字探偵を名乗る。探偵というより刑事ではないか、と無駄口も出てしまうくらいに、徹底的な聞き込み、いや書誌調査のため、全国を歩き回る。多分海外も視野に入っているだろう。
さて、高木さんの仕事の尊さは、日本文学研究者(とくに中世・近世の研究者)なら誰しも知る所だが、まだまだ一般には周知されていないかもしれない。すくなくとも古本好きには周知されてほしいものだ。したがって『日本古書通信』に高木さんが連載を持つことになったことを風の便りに伺った時は、「それはなにより」と私も喜んだ。題して「古活字探偵事件帖」である。
2023年1月号から開始されて、現在連載は2回。1回目は「古活字版の誕生」と題するが、古活字版入門というべき位置づけになる。つまり探偵心得のようなものである。その中でしっかり胸に刻むべき教えを私なりに選べば、「新たな学問の受け皿として誕生した」「古活字版は整版とは大きく性格が異なっている。どちらかというと写本の性格に近いものがある」(引用ではなく大意です)というものである。つまり、古活字版は、その大部分が立派な本なのである。
2月号は「欠損活字を探せ!」。いよいよ探偵としての最初のミッションが示される。古活字か整版か、一見判断が難しい時に、何が決め手になるのか。「古活字版は、限られた活字を繰り返し用いるので、全く同一の活字が別の丁にも繰り返し出現する・・・確実に同一の活字であることを確認する方法がある。それは「欠損活字を探すことである」」。その結果、古活字版研究の巨人である川瀬一馬氏の考察をひっくり返す、大ドンデン返しが起こるのである。まさに、探偵小説さながらのスリリングな展開。今後の事件帖の公開に期待がかかる。
高木さんは古活字探偵を名乗る。探偵というより刑事ではないか、と無駄口も出てしまうくらいに、徹底的な聞き込み、いや書誌調査のため、全国を歩き回る。多分海外も視野に入っているだろう。
さて、高木さんの仕事の尊さは、日本文学研究者(とくに中世・近世の研究者)なら誰しも知る所だが、まだまだ一般には周知されていないかもしれない。すくなくとも古本好きには周知されてほしいものだ。したがって『日本古書通信』に高木さんが連載を持つことになったことを風の便りに伺った時は、「それはなにより」と私も喜んだ。題して「古活字探偵事件帖」である。
2023年1月号から開始されて、現在連載は2回。1回目は「古活字版の誕生」と題するが、古活字版入門というべき位置づけになる。つまり探偵心得のようなものである。その中でしっかり胸に刻むべき教えを私なりに選べば、「新たな学問の受け皿として誕生した」「古活字版は整版とは大きく性格が異なっている。どちらかというと写本の性格に近いものがある」(引用ではなく大意です)というものである。つまり、古活字版は、その大部分が立派な本なのである。
2月号は「欠損活字を探せ!」。いよいよ探偵としての最初のミッションが示される。古活字か整版か、一見判断が難しい時に、何が決め手になるのか。「古活字版は、限られた活字を繰り返し用いるので、全く同一の活字が別の丁にも繰り返し出現する・・・確実に同一の活字であることを確認する方法がある。それは「欠損活字を探すことである」」。その結果、古活字版研究の巨人である川瀬一馬氏の考察をひっくり返す、大ドンデン返しが起こるのである。まさに、探偵小説さながらのスリリングな展開。今後の事件帖の公開に期待がかかる。
2023年02月28日
追悼井口洋先生
井口洋先生の訃報が届いて愕然としている。コロナ前は研究会のたびにお会いしていたが、コロナになってお会いできない日々が続いていた。しかし、それもあとわずか、春になれば、先生も研究会に対面で出席されるだろうと期待していた。
近松・西鶴・芭蕉。元禄時代、いや江戸時代を代表すると言っていい三大作者のすべてについて論文集を刊行した研究者は、少なくとも私の知る限りにおいては、井口洋先生しかいない。その論は周到で、徹底的に本文を読み抜くことにおいて共通している。
かつて私にとって、井口先生は近寄りがたい「怖い」先生だった。井口先生だけではなく、同世代の上野洋三先生、矢野公和先生など、若い頃とても気軽に口を聞けるとは思っていなかった。そういう時に大失敗もした。私がQ大の助手の時、近世文学会がQ大を会場として行われた。ものすごい趣向に満ちた会ではあったが、懇親会のあとの飲み会もすごかった。一次会の懇親会が西鉄グランドホテル、二次会場の千代の海(だったっけ)というちゃんこ屋に入れなかった人たちが、「ここにはいろう!」という渡辺憲司さんの号令の下に、隣の焼き鳥屋に入る(これ2次会)、そこからタイミングを見計らって千代の海に移動(これ3次会)、そこから別途二次会の行われていた「芝」に移動(これ4次会)、ここに井口先生もいらして、なぜか私は隣にすわってきまずい感じに緊張していたのだが、緊張のあまり、井口先生のズボンにたっぷりの量のお酒をこぼしてしまったのだ。怒りもせず、笑いもせず、表情を変えない井口先生…。こわかったっす。ちなみにそのあと客に踊らせる店「福岡屋」(5次会、大谷篤蔵先生、長谷川強先生らも居て、長谷川先生はおてもやんを扮装させられて踊っていた。ちなみに私はピンクレディー。タイツをはかせられて。完全に逆カスハラである)、そしてそのあと数人で24時間営業の「芙蓉」という店(6次会)。
時は経って1997年、いまからちょうど4半世紀前の近世文学会秋季大会。私はまだ山口にいたころであったが、天理大学で「血かたびら」について発表。語り手人麿論という奇矯なことを言ったために、総攻撃を受けた。その時に手を挙げて質問してくださったお一人が井口先生である。これまた緊張のあまり、内容を憶えていない。壇を降りた後話しかけられて、論はダメだが人麿への着目はいいという評であったかと思う。
2001年、私は大阪大学に転任する。いろんなことがあって、かなり心身とも参っていたが、奈良女子大にいた井口先生は私を非常勤に呼んでくださった。それだけではなく、毎年奈良女子大に招く集中講義講師の方を囲む会にも誘ってくださった。授業は「思う存分、好きなことをしゃべっていいから」と言って下さったのである。奈良に行く時が楽しく、救われた。
京都近世小説研究会でもお会いするので、段々と距離が縮まって、親しくお話できるようになった。
研究会では、井口先生は、若手の発表であっても容赦のない質問・コメントを浴びせる。これは修士課程の学生であろうと、研究者として対等だという認識によるものだろう。教えさとすという感じではなく、議論を仕掛けていくという感じなのである。京都近世には全体としてその雰囲気があるが、一番尖っているのが井口先生ではないだろうか。しかし、実は心根のやさしい方なのである。
井口先生に対して、心から申し訳ないと思うのは、2021年11月に刊行された『『奥の細道』の再構築』のことである。井口先生には個人的にお礼申し上げたが、きちんと読み切っての感想を言えないままであったことである。中尾本『奥の細道』を「芭蕉自筆本」だとして疑わない学界の空気に、先生は違和感を覚えていた。中尾本の添削前のの本文を、『奥の細道』の一異本として読解する孤独な営為。先生はこれを長い時間をかけて徹底的に行い全うする。
そこであらためて「再構築」という書名の言葉に注目したい。古典を「再生」というキーワードで捉え直すという最近の私の試みにあまりにも近しい言葉ではないか。井口先生の中では、この本文批判は、「奥の細道」を未来につなぐための再構築、すなわち「古典の再生」に他ならないのだと、今の私は読む。
「古典の再生」とは、その都度その都度、古典を未来に繋ぐことだということを、井口先生は教えてくれる。
感謝とともに、先生のご冥福を心よりお祈り申し上げる。
近松・西鶴・芭蕉。元禄時代、いや江戸時代を代表すると言っていい三大作者のすべてについて論文集を刊行した研究者は、少なくとも私の知る限りにおいては、井口洋先生しかいない。その論は周到で、徹底的に本文を読み抜くことにおいて共通している。
かつて私にとって、井口先生は近寄りがたい「怖い」先生だった。井口先生だけではなく、同世代の上野洋三先生、矢野公和先生など、若い頃とても気軽に口を聞けるとは思っていなかった。そういう時に大失敗もした。私がQ大の助手の時、近世文学会がQ大を会場として行われた。ものすごい趣向に満ちた会ではあったが、懇親会のあとの飲み会もすごかった。一次会の懇親会が西鉄グランドホテル、二次会場の千代の海(だったっけ)というちゃんこ屋に入れなかった人たちが、「ここにはいろう!」という渡辺憲司さんの号令の下に、隣の焼き鳥屋に入る(これ2次会)、そこからタイミングを見計らって千代の海に移動(これ3次会)、そこから別途二次会の行われていた「芝」に移動(これ4次会)、ここに井口先生もいらして、なぜか私は隣にすわってきまずい感じに緊張していたのだが、緊張のあまり、井口先生のズボンにたっぷりの量のお酒をこぼしてしまったのだ。怒りもせず、笑いもせず、表情を変えない井口先生…。こわかったっす。ちなみにそのあと客に踊らせる店「福岡屋」(5次会、大谷篤蔵先生、長谷川強先生らも居て、長谷川先生はおてもやんを扮装させられて踊っていた。ちなみに私はピンクレディー。タイツをはかせられて。完全に逆カスハラである)、そしてそのあと数人で24時間営業の「芙蓉」という店(6次会)。
時は経って1997年、いまからちょうど4半世紀前の近世文学会秋季大会。私はまだ山口にいたころであったが、天理大学で「血かたびら」について発表。語り手人麿論という奇矯なことを言ったために、総攻撃を受けた。その時に手を挙げて質問してくださったお一人が井口先生である。これまた緊張のあまり、内容を憶えていない。壇を降りた後話しかけられて、論はダメだが人麿への着目はいいという評であったかと思う。
2001年、私は大阪大学に転任する。いろんなことがあって、かなり心身とも参っていたが、奈良女子大にいた井口先生は私を非常勤に呼んでくださった。それだけではなく、毎年奈良女子大に招く集中講義講師の方を囲む会にも誘ってくださった。授業は「思う存分、好きなことをしゃべっていいから」と言って下さったのである。奈良に行く時が楽しく、救われた。
京都近世小説研究会でもお会いするので、段々と距離が縮まって、親しくお話できるようになった。
研究会では、井口先生は、若手の発表であっても容赦のない質問・コメントを浴びせる。これは修士課程の学生であろうと、研究者として対等だという認識によるものだろう。教えさとすという感じではなく、議論を仕掛けていくという感じなのである。京都近世には全体としてその雰囲気があるが、一番尖っているのが井口先生ではないだろうか。しかし、実は心根のやさしい方なのである。
井口先生に対して、心から申し訳ないと思うのは、2021年11月に刊行された『『奥の細道』の再構築』のことである。井口先生には個人的にお礼申し上げたが、きちんと読み切っての感想を言えないままであったことである。中尾本『奥の細道』を「芭蕉自筆本」だとして疑わない学界の空気に、先生は違和感を覚えていた。中尾本の添削前のの本文を、『奥の細道』の一異本として読解する孤独な営為。先生はこれを長い時間をかけて徹底的に行い全うする。
そこであらためて「再構築」という書名の言葉に注目したい。古典を「再生」というキーワードで捉え直すという最近の私の試みにあまりにも近しい言葉ではないか。井口先生の中では、この本文批判は、「奥の細道」を未来につなぐための再構築、すなわち「古典の再生」に他ならないのだと、今の私は読む。
「古典の再生」とは、その都度その都度、古典を未来に繋ぐことだということを、井口先生は教えてくれる。
感謝とともに、先生のご冥福を心よりお祈り申し上げる。
2023年02月27日
『誹諧独吟一日千句』研究と註解(中嶋隆さんへの手紙)
中嶋隆さま
この手紙はご大著『『誹諧独吟一日千句』研究と註解』(文学通信、2023年2月)に触発された私の思いを、きちんとまとまらないままに書きつけ、お礼に代えるものです。
本来、数人の連衆の座を意識しつつ作句していく誹諧を、一人の創作者と不特定多数の享受者という関係に変質させたのは、西鶴が独吟したからである。しかし、その時の不特定多数の享受者を西鶴は連衆と呼んでおり、それは単なる聴衆とは違う。自分と同様、作句能力のある座メンバーである。西鶴の小説における作者/読者の関係は、この関係に似ている。
多様な読者が西鶴の小説にそれぞれのコンテクストを読み取り、作り出すことが、西鶴の誤読や幻想を生んだが、それは西鶴の複綜する文体が生み出したものであり、独吟のあり方は、その文体の秘密の解明を示唆する。
中嶋さんが、一日独吟の註解に取り組んだ理由がようやく腑に落ちました。小説家でもある中嶋さんの関心は、西鶴の小説にあり、その西鶴の小説の独自性の秘密の根が、彼の独吟に見えるからなのですね。
私のこの理解は、あるいは「誤読や幻想」かもしれません。なぜなら私にも、秋成の散文を考えるというコンテクストがあるからなのです。2月12日の「古典の再生」シンポジウムの私の発表で、私は秋成の「長物がたり」「ひとりごと」を取り上げたのですが、それをあるべき読者の不在という観点から考えました。秋成の『春雨物語』はその延長にあり、西鶴のベクトルとは逆に、不特定多数の読者を想定する版本の小説(秋成自身も浮世草子や雨月物語で経験ずみ)創作を経て、特定の人を読者として想定する写本の著述(注釈や和文など)によってモチベーションを確保していた京都時代の秋成が、最も信頼できる読者である「正親町三条公則」を喪って、不在の読者に向けて、ひとりごと、長物がたりをする、という道筋を考えていたからなのです。
秋成自身も体験している連句は、江戸時代における「作者/読者」を考える際に、重要な視点であることに気づかせていただいたと同時に、西鶴や秋成の散文が、どういう読者を想定していたか、おそらく近代読者とは違うだろうという問題を私の中にもたらしました。
この感想自体が逸脱=「長物がたり」ですが、さらに言えば、本書の研究篇の冒頭に、
「寛永期は、中世以前の伝統文化が出版メディアによって再生・再編された時期である」という一文にいまさらながら驚きました。先のシンポジウムでの議論とシンクロしますが、なんと「再生」というワードがここに使われているではないですか。まさに中嶋さんがディスカッサントとして、「源氏物語再生史」の「史」が問題だと言われた意味が前景化するのです。
その状況が進んだ中で生まれた談林の独吟・速吟は、座より個人、質より量という創作価値観の転換を生む。それは寛永期のあと、寛文・延宝期の文化動向の反映である、というのが中嶋さんの描く文学史だということでよいでしょうか。
複綜的なコンテクストには非現実的なコンテクスト(無心所着)があり、それが笑いを生んでいる。その事例をいくつも挙げることで、西鶴の独吟の方法が浮かび上がると同時に、西鶴の小説への展開が見えてきます。
なぜ、このテキストに注釈が必要なのか。それがここまで追究されていることに、感嘆を禁じ得ません。現代を見据えつつ古典に向き合い、「史」の構想を重視する中嶋さんならではの、一書として、本書を受け取りました。私の「誤読と幻想」を招いたことで、中嶋さんは西鶴に連なることになります。
この手紙はご大著『『誹諧独吟一日千句』研究と註解』(文学通信、2023年2月)に触発された私の思いを、きちんとまとまらないままに書きつけ、お礼に代えるものです。
本来、数人の連衆の座を意識しつつ作句していく誹諧を、一人の創作者と不特定多数の享受者という関係に変質させたのは、西鶴が独吟したからである。しかし、その時の不特定多数の享受者を西鶴は連衆と呼んでおり、それは単なる聴衆とは違う。自分と同様、作句能力のある座メンバーである。西鶴の小説における作者/読者の関係は、この関係に似ている。
多様な読者が西鶴の小説にそれぞれのコンテクストを読み取り、作り出すことが、西鶴の誤読や幻想を生んだが、それは西鶴の複綜する文体が生み出したものであり、独吟のあり方は、その文体の秘密の解明を示唆する。
中嶋さんが、一日独吟の註解に取り組んだ理由がようやく腑に落ちました。小説家でもある中嶋さんの関心は、西鶴の小説にあり、その西鶴の小説の独自性の秘密の根が、彼の独吟に見えるからなのですね。
私のこの理解は、あるいは「誤読や幻想」かもしれません。なぜなら私にも、秋成の散文を考えるというコンテクストがあるからなのです。2月12日の「古典の再生」シンポジウムの私の発表で、私は秋成の「長物がたり」「ひとりごと」を取り上げたのですが、それをあるべき読者の不在という観点から考えました。秋成の『春雨物語』はその延長にあり、西鶴のベクトルとは逆に、不特定多数の読者を想定する版本の小説(秋成自身も浮世草子や雨月物語で経験ずみ)創作を経て、特定の人を読者として想定する写本の著述(注釈や和文など)によってモチベーションを確保していた京都時代の秋成が、最も信頼できる読者である「正親町三条公則」を喪って、不在の読者に向けて、ひとりごと、長物がたりをする、という道筋を考えていたからなのです。
秋成自身も体験している連句は、江戸時代における「作者/読者」を考える際に、重要な視点であることに気づかせていただいたと同時に、西鶴や秋成の散文が、どういう読者を想定していたか、おそらく近代読者とは違うだろうという問題を私の中にもたらしました。
この感想自体が逸脱=「長物がたり」ですが、さらに言えば、本書の研究篇の冒頭に、
「寛永期は、中世以前の伝統文化が出版メディアによって再生・再編された時期である」という一文にいまさらながら驚きました。先のシンポジウムでの議論とシンクロしますが、なんと「再生」というワードがここに使われているではないですか。まさに中嶋さんがディスカッサントとして、「源氏物語再生史」の「史」が問題だと言われた意味が前景化するのです。
その状況が進んだ中で生まれた談林の独吟・速吟は、座より個人、質より量という創作価値観の転換を生む。それは寛永期のあと、寛文・延宝期の文化動向の反映である、というのが中嶋さんの描く文学史だということでよいでしょうか。
複綜的なコンテクストには非現実的なコンテクスト(無心所着)があり、それが笑いを生んでいる。その事例をいくつも挙げることで、西鶴の独吟の方法が浮かび上がると同時に、西鶴の小説への展開が見えてきます。
なぜ、このテキストに注釈が必要なのか。それがここまで追究されていることに、感嘆を禁じ得ません。現代を見据えつつ古典に向き合い、「史」の構想を重視する中嶋さんならではの、一書として、本書を受け取りました。私の「誤読と幻想」を招いたことで、中嶋さんは西鶴に連なることになります。
2023年02月26日
『挙白集』評釈 和文篇
ブログを書いたり、Twitterで呟いたりして、いろいろ発信していると、事情通のように思われているかもしれないが、真逆である。あんまり知らないので、「えっ、そんなことも知らないの?」という反応をされることもしばしばある。
『研究と評論』で『挙白集』の注釈が連載されていた時も、え?このメンバーはどういう関係で?と首を捻っていた。きっとみんな知っていることだったのだろう。中嶋隆氏や藤江峰夫氏の守備範囲がすごく広いことは知っていたが、それにしてもお二人が『挙白集』の注釈というのは意外である。
『『挙白集』評釈 和文篇』(挙白集を読む会編、和泉書院、2023年2月)は、『挙白集』和文篇の本格的な注釈書である。
ここでそのメンバーを紹介しておくと、大山和哉、岡本聡、雲岡梓、鈴木淳、中嶋隆、復本一郎、藤江峰夫の各氏である。復本一郎氏の「あとがき」で、読む会の歴史をしることができた。1990年に鈴木淳氏と復本氏が、佐野正巳氏の引き合わせによって、神奈川大学で出会ったことにはじまるようだった。そこで一杯やったときに、二人の自宅が徒歩十分のところにあり、読書会をはじめることになった。そこでメンバーを考えたとき、横浜在住の中嶋氏、藤江氏の名前が挙がったのだという。そう、ご近所読書会だったのである。これは気づかなかった。
『挙白集』を読むことになって、ペースは二ヶ月に一回。たしかにこれは長続きするペースである。その後、長嘯子の専門家である岡本聡氏が参加。箕面から毎回通っていたという。これはすごい。さらに岡本氏が、大山和哉、雲岡梓の若手二人をリクルートし、パワーアップ。出版にいたる詰めでは、若手が大車輪の活躍をしたことが、感謝とともに記されている。
その共同研究が六百頁を超える大冊として実を結んだ。作品を読む際に、会読形式は、本当に勉強になる。三十年以上も続けて、それを形になすのはどれだけ感慨深いだろうか。とくに最初から参加されていた方々の喜びは察するに余りある。コロナ禍のさなかはオンラインで行った模様で、それを乗り越えての慶事である。
近世和文史というものを構想するとしたら、長嘯子はその初期の最重要人物になる。とはいえ、和文は長嘯子に限らず、研究が進んでいなかったのが三十年前だ。注釈もほとんどなかった。近世和歌研究の発展とともに、和文も注目されてはじめてきた。岩波の「文学」が「近世歌文の創造」という特集を組んだのは、まさに30年くらい前か?中野三敏・松野陽一・上野洋三各先生の鼎談が掲載されていた。その後、松野先生はもちろん、風間誠史氏・久保田啓一氏・田中康二氏・岡本聡氏・雲岡梓氏らの研究が続く。秋成研究でも、和文に光が当たりはじめたのは、新日本古典文学大系で『藤簍冊子』の注釈(中村博保・鈴木淳)が刊行されたのが大きい。私も和文消息の『文反古』を数年読んでいくつか拙論を書いた。
しかし、和文といえば、やはり『挙白集』を押さえなければならない。これは上野洋三先生から学会の懇親会で諭されたことである。挙白集の和文は、秋成などと違って読みやすいが、しかし深いのだということが、この本で学べそうである。一度だけ「近世和文史」の授業をしたことがあって、「山家記」を苦心して自己流に注釈したのが懐かしい。
ともかく、決定版の評釈書が出たのは、本当にありがたい。いつでもここに帰ればいいからである。
『研究と評論』で『挙白集』の注釈が連載されていた時も、え?このメンバーはどういう関係で?と首を捻っていた。きっとみんな知っていることだったのだろう。中嶋隆氏や藤江峰夫氏の守備範囲がすごく広いことは知っていたが、それにしてもお二人が『挙白集』の注釈というのは意外である。
『『挙白集』評釈 和文篇』(挙白集を読む会編、和泉書院、2023年2月)は、『挙白集』和文篇の本格的な注釈書である。
ここでそのメンバーを紹介しておくと、大山和哉、岡本聡、雲岡梓、鈴木淳、中嶋隆、復本一郎、藤江峰夫の各氏である。復本一郎氏の「あとがき」で、読む会の歴史をしることができた。1990年に鈴木淳氏と復本氏が、佐野正巳氏の引き合わせによって、神奈川大学で出会ったことにはじまるようだった。そこで一杯やったときに、二人の自宅が徒歩十分のところにあり、読書会をはじめることになった。そこでメンバーを考えたとき、横浜在住の中嶋氏、藤江氏の名前が挙がったのだという。そう、ご近所読書会だったのである。これは気づかなかった。
『挙白集』を読むことになって、ペースは二ヶ月に一回。たしかにこれは長続きするペースである。その後、長嘯子の専門家である岡本聡氏が参加。箕面から毎回通っていたという。これはすごい。さらに岡本氏が、大山和哉、雲岡梓の若手二人をリクルートし、パワーアップ。出版にいたる詰めでは、若手が大車輪の活躍をしたことが、感謝とともに記されている。
その共同研究が六百頁を超える大冊として実を結んだ。作品を読む際に、会読形式は、本当に勉強になる。三十年以上も続けて、それを形になすのはどれだけ感慨深いだろうか。とくに最初から参加されていた方々の喜びは察するに余りある。コロナ禍のさなかはオンラインで行った模様で、それを乗り越えての慶事である。
近世和文史というものを構想するとしたら、長嘯子はその初期の最重要人物になる。とはいえ、和文は長嘯子に限らず、研究が進んでいなかったのが三十年前だ。注釈もほとんどなかった。近世和歌研究の発展とともに、和文も注目されてはじめてきた。岩波の「文学」が「近世歌文の創造」という特集を組んだのは、まさに30年くらい前か?中野三敏・松野陽一・上野洋三各先生の鼎談が掲載されていた。その後、松野先生はもちろん、風間誠史氏・久保田啓一氏・田中康二氏・岡本聡氏・雲岡梓氏らの研究が続く。秋成研究でも、和文に光が当たりはじめたのは、新日本古典文学大系で『藤簍冊子』の注釈(中村博保・鈴木淳)が刊行されたのが大きい。私も和文消息の『文反古』を数年読んでいくつか拙論を書いた。
しかし、和文といえば、やはり『挙白集』を押さえなければならない。これは上野洋三先生から学会の懇親会で諭されたことである。挙白集の和文は、秋成などと違って読みやすいが、しかし深いのだということが、この本で学べそうである。一度だけ「近世和文史」の授業をしたことがあって、「山家記」を苦心して自己流に注釈したのが懐かしい。
ともかく、決定版の評釈書が出たのは、本当にありがたい。いつでもここに帰ればいいからである。
2023年02月23日
近世後期江戸小説論攷
2月22日のにゃんこの日は、国際研究集会「〈紀行〉研究の新展開」と題して、小津久足研究で注目されている菱岡憲司さん、飛鳥井雅有を研究している大阪大学大学院の湯書華さん、海道記研究のアダム・ベドゥナルチクさん、俳諧研究者の辻村尚子さんをお迎えし、さまざまな角度から、「紀行」を照射した。フロアーからの意見も出て、生業と風流、虚実、インターテクスチュアリティ、雅俗・・・などの問題が浮上し、懇談会に突入しても議論は尽きなかった。その開会の挨拶をしている最中に、宅急便が来たんだが、もちろん出ることは出来ない。幸い宅配ボックスに入れてもらっていたのが、山本和明さんの論文集『近世後期江戸小説論攷』である。前著からそんなに時間も経っていないのに早くも第二論文集である。
そして、この第二論文集は、山本さんの思い入れが半端ない京伝を中心とした論文集である。「京伝が好きだ」と本人から聞いたことがある。しかし京伝の読本はあまり評価されていない。それは馬琴の『近世物之本作者部類』の呪縛から、いまの読本研究者が遁れられていないからだという。馬琴と京伝の読本は、めざす方向が違う。同じ物差しで、つまり馬琴読本を基準に京伝読本を測るべきではない、ということを本書ではまず強調している。
第1部が「京伝作品攷」、第2部が「和学・和文小説攷」、第3部が「後期小説の周縁」である。90年代の論文もあり、長い道程を感じる。
ところで、山本さんといえば、国文研のNW事業、つまり30万点の古典籍画像公開という大事業の責任者として、10年間、それこそ滅私奉公的な献身的な働きをしてきたことは、知っている人はよく知っているだろう。この件に関して、山本さんは国内外で数え切れないくらいの講演・レクチャーをしてきているのである。しかし、実は彼は研究上ではデータの人ではなく、本来的に「読み」の人である。大量のデータだけを示すような研究を唾棄している。その本領が発揮されているのが本書なのである。
少し私的なことをいうと、大阪の大学に勤めていた山本さんとは、私が大阪に来る前からの付き合いであり、秋成の遺墨を多くお持ちであった谷川家との縁を繋いでくれ(たまたま谷川さんの親族が山本さんの秋成についての講演を聞きに来ていたというご縁)、十年以上も毎年谷川家調査を一緒にやった。また家人の非常勤を紹介してくれたりもした。研究上では、これも長い長い期間にわたる蘆庵文庫研究会や忍頂寺文庫の研究、そして鹿田松雲堂蔵書調査など、数々の共同研究でご一緒した(あるいは彼を巻き込んでしまった)のである。NW事業の普及の一環として阪大で発表・講演していただいたことも複数回あり、その流れでドイツのシンポジウムに一緒に参加したことも1度ならずあり、さらにはデジタル文学地図プロジェクトでも、お世話になっている。年度によっては同僚よりも会う回数が多かったかもしれない。
そういうわけて、前書以上に、山本さんの思いが溢れている本書には、友人としての感慨を禁じ得ない。友人として認めてくれているかどうかはわからないけれど(笑)。
そして目次をめくっていて驚いたのは第2部第2章に「古典再生ー『飛騨匠物語』」という論文があることだ。「えっ」と思った。初出も「〈古典〉再生ー石川雅望『飛騨匠物語』」である。2月11日・12日に行った国際シンポジウム「古典の再生」。「再生」はパワーワードだと言ってくれた人もいたが、なんと、すでに2003年に山本さんが論文タイトルに使っていたのである。この論文では『更級日記』はそれほど読まれていたテキストではないことから、雅望が、作品に持ち込んだ『更級日記』本文と考証が、『更級日記』という古典の再生になっているという。まさに「古典再生史」に欠かせない一齣だと言えるだろう。山本さんが使った「古典再生」という言葉を、はからずも、20年後、私たちは「再生」したことになるのであった。まさに奇縁である。
そして、この第二論文集は、山本さんの思い入れが半端ない京伝を中心とした論文集である。「京伝が好きだ」と本人から聞いたことがある。しかし京伝の読本はあまり評価されていない。それは馬琴の『近世物之本作者部類』の呪縛から、いまの読本研究者が遁れられていないからだという。馬琴と京伝の読本は、めざす方向が違う。同じ物差しで、つまり馬琴読本を基準に京伝読本を測るべきではない、ということを本書ではまず強調している。
第1部が「京伝作品攷」、第2部が「和学・和文小説攷」、第3部が「後期小説の周縁」である。90年代の論文もあり、長い道程を感じる。
ところで、山本さんといえば、国文研のNW事業、つまり30万点の古典籍画像公開という大事業の責任者として、10年間、それこそ滅私奉公的な献身的な働きをしてきたことは、知っている人はよく知っているだろう。この件に関して、山本さんは国内外で数え切れないくらいの講演・レクチャーをしてきているのである。しかし、実は彼は研究上ではデータの人ではなく、本来的に「読み」の人である。大量のデータだけを示すような研究を唾棄している。その本領が発揮されているのが本書なのである。
少し私的なことをいうと、大阪の大学に勤めていた山本さんとは、私が大阪に来る前からの付き合いであり、秋成の遺墨を多くお持ちであった谷川家との縁を繋いでくれ(たまたま谷川さんの親族が山本さんの秋成についての講演を聞きに来ていたというご縁)、十年以上も毎年谷川家調査を一緒にやった。また家人の非常勤を紹介してくれたりもした。研究上では、これも長い長い期間にわたる蘆庵文庫研究会や忍頂寺文庫の研究、そして鹿田松雲堂蔵書調査など、数々の共同研究でご一緒した(あるいは彼を巻き込んでしまった)のである。NW事業の普及の一環として阪大で発表・講演していただいたことも複数回あり、その流れでドイツのシンポジウムに一緒に参加したことも1度ならずあり、さらにはデジタル文学地図プロジェクトでも、お世話になっている。年度によっては同僚よりも会う回数が多かったかもしれない。
そういうわけて、前書以上に、山本さんの思いが溢れている本書には、友人としての感慨を禁じ得ない。友人として認めてくれているかどうかはわからないけれど(笑)。
そして目次をめくっていて驚いたのは第2部第2章に「古典再生ー『飛騨匠物語』」という論文があることだ。「えっ」と思った。初出も「〈古典〉再生ー石川雅望『飛騨匠物語』」である。2月11日・12日に行った国際シンポジウム「古典の再生」。「再生」はパワーワードだと言ってくれた人もいたが、なんと、すでに2003年に山本さんが論文タイトルに使っていたのである。この論文では『更級日記』はそれほど読まれていたテキストではないことから、雅望が、作品に持ち込んだ『更級日記』本文と考証が、『更級日記』という古典の再生になっているという。まさに「古典再生史」に欠かせない一齣だと言えるだろう。山本さんが使った「古典再生」という言葉を、はからずも、20年後、私たちは「再生」したことになるのであった。まさに奇縁である。
2023年02月20日
和歌と暮らした日本人
21年間の大阪大学在職中、卒論生は毎年1人〜4人であったが、それでも40人くらいは、いる。公務員や教員や、IT企業やアパレル関係や、いろいろなところに就職して、がんばっている。その中のひとりに、中堅の出版社に就職した人がいた。大企業からも内定をもらっていたが、出版社に決めた。それが淡交社にいた八木育美さんだ。私の敬愛する歌人伊藤一彦さんの連載の担当もしていたが、浅田徹さんの『和歌と暮らした日本人』も担当したという。これは、少し前に出た本ではあるが、このたび、少し連絡をしていただくことがあって、彼女から「自分が担当した中でもお気に入りの本」ということで、送っていただいたものである。
雑誌に連載したものの単行本化であるが、国文関係の出版社ではないから、古典文学研究者でも気づいていない人がいるかもしれない。
読んでみると、たしかにいい本である。4章構成だが、特に第3章と第4章は、浅田さんの専門的な知識、研究成果が惜しみもなく披露されている。しかし、一般向けに実にわかりやすく書かれている。私など、蒙を啓かれること少なからず。また、よい本には必ず備わっている、なぜか私の研究のヒントになる記述が、1つ2つに留まらない。さすがである。
和歌がどう生活の中で使われてきたかに焦点をあてたもので、入門的な和歌の本としては、類書がないと思う。2019年9月刊。
雑誌に連載したものの単行本化であるが、国文関係の出版社ではないから、古典文学研究者でも気づいていない人がいるかもしれない。
読んでみると、たしかにいい本である。4章構成だが、特に第3章と第4章は、浅田さんの専門的な知識、研究成果が惜しみもなく披露されている。しかし、一般向けに実にわかりやすく書かれている。私など、蒙を啓かれること少なからず。また、よい本には必ず備わっている、なぜか私の研究のヒントになる記述が、1つ2つに留まらない。さすがである。
和歌がどう生活の中で使われてきたかに焦点をあてたもので、入門的な和歌の本としては、類書がないと思う。2019年9月刊。
2023年02月14日
近世文学史論
鈴木健一さんの『近世文学史論ー古典知の継承と展開ー』(岩波書店、2023年2月)が刊行された。
内藤湖南の名著と同題で、古典文学から近代文学への転換という大きな見取り図の中に近世文学を位置づけ、4つの視点から近世文学を史的に考察してゆこうとした論文集のようである。書き下ろしではないが、体系性をもたせようとしている。
鈴木さんによれば、近世は1603年から1867年まで。
第一の視点は、「学問と文芸の融合ー知の共同体の形成」
第二の視点は、「〈型〉の継承と変容ー新しさの創出への苦闘」
第三の視点は、「画と詩の交響「絵画体験と美意識の浸透」
第四の視点は、「神秘性から日常性へー現実に対処する精神」
それぞれの視点は、いくつかの論文の集成である。
このうち、土日に行われた国際シンポジウム「古典の再生」と、とくに関わるのが第二であろう。「変容」は作者の意識の持ちようで、「再生」とも捉えうるからである。
また、第四の、神秘性から日常性へとは、確かにそういう流れは、怪談史などを構想するならばあり得る推移の一面ではあるが、全体として捉えられる見方といえるかどうかは保留したい。むしろ神秘に対する態度、日常に対する処し方が変わっていくという見方もあるだろう。
ところで、「史」の問題は、前の投稿の「古典の再生」での、第2セッション「源氏物語再生史」でもディスカッサントの中嶋隆さんから重要なものとして言及されていた。メディアに注目する立場から、「アーリーモダン」という切り口を用意される中嶋隆さんは、鈴木さんの文学史をどう考えておられるだろうか。鈴木さんの切り口はおそらく「古典知」と言っていいだろう。だが、「古典知」の内容も、人によってバリエーションがある。「俗解された古典」知もあるので、古典だから雅というわけでもない。鈴木さんは、複雑な様相をわりと明解に説いているのだが、4つの視点はどう複合するだろうか。共同性と個性のバランスということを最後のあたりでおっしゃっている。私はシンポジウムで、和歌における「勅撰集モデル」(共通する心を表現)と「万葉集モデル」(自分自身の心を表現)を秋成が仮設していたというようなことを言ったが、それと重なるようにも思う。しかし、それは十八世紀後半に山があると見ている。
鈴木さんの本はまだめくってみただけで、精読していない。私の見当が外れているかどうか、これからじっくり読ませていただきたい。
内藤湖南の名著と同題で、古典文学から近代文学への転換という大きな見取り図の中に近世文学を位置づけ、4つの視点から近世文学を史的に考察してゆこうとした論文集のようである。書き下ろしではないが、体系性をもたせようとしている。
鈴木さんによれば、近世は1603年から1867年まで。
第一の視点は、「学問と文芸の融合ー知の共同体の形成」
第二の視点は、「〈型〉の継承と変容ー新しさの創出への苦闘」
第三の視点は、「画と詩の交響「絵画体験と美意識の浸透」
第四の視点は、「神秘性から日常性へー現実に対処する精神」
それぞれの視点は、いくつかの論文の集成である。
このうち、土日に行われた国際シンポジウム「古典の再生」と、とくに関わるのが第二であろう。「変容」は作者の意識の持ちようで、「再生」とも捉えうるからである。
また、第四の、神秘性から日常性へとは、確かにそういう流れは、怪談史などを構想するならばあり得る推移の一面ではあるが、全体として捉えられる見方といえるかどうかは保留したい。むしろ神秘に対する態度、日常に対する処し方が変わっていくという見方もあるだろう。
ところで、「史」の問題は、前の投稿の「古典の再生」での、第2セッション「源氏物語再生史」でもディスカッサントの中嶋隆さんから重要なものとして言及されていた。メディアに注目する立場から、「アーリーモダン」という切り口を用意される中嶋隆さんは、鈴木さんの文学史をどう考えておられるだろうか。鈴木さんの切り口はおそらく「古典知」と言っていいだろう。だが、「古典知」の内容も、人によってバリエーションがある。「俗解された古典」知もあるので、古典だから雅というわけでもない。鈴木さんは、複雑な様相をわりと明解に説いているのだが、4つの視点はどう複合するだろうか。共同性と個性のバランスということを最後のあたりでおっしゃっている。私はシンポジウムで、和歌における「勅撰集モデル」(共通する心を表現)と「万葉集モデル」(自分自身の心を表現)を秋成が仮設していたというようなことを言ったが、それと重なるようにも思う。しかし、それは十八世紀後半に山があると見ている。
鈴木さんの本はまだめくってみただけで、精読していない。私の見当が外れているかどうか、これからじっくり読ませていただきたい。
2023年02月13日
国際シンポジウム「古典の再生」報告
2月11日、12日、京都産業大学むすびわざ館で、国際シンポジウム「古典の再生」。前日の打ち合わせ・リハーサルから本日(2月13日)の意見交換会まで、4日間にわたる全日程を終了しました。シンポジウムは何度も企画しましたが、これほどの論客を集め、広く、深い議論をし、反響の大きかった会は、経験がありません。初日のエドアルド・ジェルリーニさんの基調講演、持説の「テキスト遺産」を古典×再生とし、以前うかがった講演をさらにパワーアップした内容で、キー・ノートに相応しい内容でした。それを受けての盛田帝子、ロバート・ヒューイ、アンダソヴァ・マラル各氏の発表は、江戸における王朝文化復興、琉球における日本古典の受容、古事記・日本書紀・風土記の各国訳とその違いなど、異なる視点から古典の再生の事例報告となりました。ディスカサントの荒木さんのコメントと質問は、荒木さんらしい博学と豊富な国際会議経験に基づく示唆深く、鋭いものでした。続く永崎研宣グループによるTEI入門講座+TEIでこんなことができるのプレゼンは、非常な反響をよんでいます。DH系の集会ではなく、古典文学系の研究集会で、これをやったことに大きな意義がありました。さっそく、その日のうちに、今お持ちのテキストデータから索引作成をしたいという研究者が、永崎さんに質問をされていました。特別プレゼンという場を作ってよかったと心から思いました。2日目の3つのセッション、ひとつめの「イメージとパフォーマンス」は、亡くなった楊暁捷先生が作成されていたプレゼンビデオから始まりました。楊先生のご遺族もZoomで御覧になり、喜んでいただけました。佐々木孝浩さんには人麿像について、さすがの蘊蓄・資料を提示、個人的には「ぬば玉の巻」の紹介が嬉しかったです。ジョナサン・ズウィッカーさんは『安積沼』の小平次が近代以降もさまざまなメディアに現れたことを紹介、「生きている小平次」と出征兵とのダブルイメージから小野田寛郎さんのことを思い浮かべた視聴者もいたようです。佐藤悟さんが今傾注されている女房装束の復元事業の紹介にも関心が集まりました。討論者の山田和人さんの相変わらずのスマートな問題整理、安定の仕切りでした。予想通り盛り上がったのが第2セッション「源氏物語再生史」。田渕句美子さんの「阿仏の文」から源氏物語を読み返すと、夕顔のふるまいがこんなに違って見えるのかという驚き、松本大さんの物語色紙を大量に読み込んでの考察、兵藤裕己先生の、もう一つの近代文学(史)を幻視するパースペクティヴをもった樋口一葉論と、まことに多彩でどれもこれも面白い発表、そして「再生史」の「史」にこだわった中嶋さんの怒濤のコメント。しかし周到な中嶋さんはふとフロアの中森康之さんに振る。中森さんのコメントも素晴らしい。いずれにせよ兵藤論は今回のシンポの議論の大きな磁場でした。そして第3セッションは、オンライン参加の山本嘉孝氏の柴野栗山の朝廷文物への関心についての具体報告、アロカイさんの紀行文における古典(レトリック)と古典ばなれの話題、飯倉の、上田秋成の万葉集注釈における逸脱する語りの考察、オンライン参加の討論者合山さんが、次々に簡単には答えられない質問をぶつけてきましたが、質問で討論時間が終わってしまい、議論にいたらなかったのは残念でした。しかし合山さんが、最後に基調講演に戻って、本シンポジウムの意義そのものを問うような問題提起をされたのは重要でした。そして今日13日も、登壇者があつまり、シンポの議論をさらに深める丁々発止のやりとりが行われました。近い未来に向けての作戦会議も。1年前から準備をはじめた大規模シンポ、とりあえず、大きな山を超えました。登壇者のみなさま、対面参加者、オンライン参加者のみなさま、運営スタッフのみなさま、すべてのみなさまに感謝です。
2023年01月31日
近世文学会シンポ傍聴記、読後独言
『近世文藝』117号(2023年1月)が手元に届いた。昨年春の学会での70周年記念シンポジウム「独自進化する?日本近世文学会の研究ー回顧と展望ー」の報告と傍聴記が掲載されている。このシンポ、私もディスカッサントとして参加した。同じディスカッサントであった廣瀬千紗子さんと、最初のパネリストである中嶋隆さんとあわせて65歳を超える三人が、藤原英城さんいわく「爆弾三勇士」よろしく暴れていた印象があるが、この報告と傍聴記で、日本近世文学会における実証主義の堅持、理論的研究の是非、学会というムラの外へのアピールといういくつかの論点が焦点化されている。
パネルがどのように受け止められたかが気になっていたので、「傍聴記」の掲載はありがたい。執筆者は「爆弾三勇士」と同じくロートル組の篠原進さんと、超若手の岡部祐佳さんである。傍聴記もパネルと同じで、ここでもベテランが暴れ、若手はオーソドックスで堅調な書きぶりである。
篠原さんが、いつもの「劇画チック」な、あるいは語弊を恐れずに言えば「プロレス中継的」=古舘伊知郎的文体で、傍聴記を書き上げている。ちょっと暴れすぎの観なきにしもあらずというくらい。篠原さんによれば、私飯倉が、一瞬の空白の後に「剛球」を投じたとあるが、おっしゃる通り、ちょっと煽ってしまったのは事実である。もちろん篠原さんの傍聴記は、篠原さんの思いを交えつつ書かれているので、「いやそこまでは私も考えてはいませんが」というところはあるのだが、「学際化・国際化・社会性を謳うなら、外に向けた思いを言って!」という趣旨であったことは間違いない。
ここからは、私の呟きだが。外の状況、古典や古典研究に「敵対的」とさえ思える発言が公然と出てきている今の状況は、「無視されているよりマシ」だという思いが実はある。「こてほん」がそれを引き出してしまったという批判もあるが、「敵対的」であるということは、関心があるということであり、この「敵対的」な層と議論することが、無関心層の関心を引く努力をするよりも効果的なのである(オセロゲームのように敵対者は支持勢力に回ったら強力な味方である)。「敵対的」な発言をする層は、古典の価値が自明であるという主張が通じないことを教えてくれた。ではどうするか。ここにこそ、理論が必要であろう。たぶん実証的データだけで、古典を学ぶことは必要かつ有価値だと証明するのは難しい。理論と実証の問題は、実はここにリンクするのである。
学会を守ることが、古典研究を守ることとは限らない。さまざまなレベルでの、またさまざまなコミュニティとの議論を企図し、考えぬくこと。それを発信すること。ロートルには限界がある。50代以下、とくに40代・30代の方に、議論の機会をつくることと、外への発信を心からお願いする。
パネルがどのように受け止められたかが気になっていたので、「傍聴記」の掲載はありがたい。執筆者は「爆弾三勇士」と同じくロートル組の篠原進さんと、超若手の岡部祐佳さんである。傍聴記もパネルと同じで、ここでもベテランが暴れ、若手はオーソドックスで堅調な書きぶりである。
篠原さんが、いつもの「劇画チック」な、あるいは語弊を恐れずに言えば「プロレス中継的」=古舘伊知郎的文体で、傍聴記を書き上げている。ちょっと暴れすぎの観なきにしもあらずというくらい。篠原さんによれば、私飯倉が、一瞬の空白の後に「剛球」を投じたとあるが、おっしゃる通り、ちょっと煽ってしまったのは事実である。もちろん篠原さんの傍聴記は、篠原さんの思いを交えつつ書かれているので、「いやそこまでは私も考えてはいませんが」というところはあるのだが、「学際化・国際化・社会性を謳うなら、外に向けた思いを言って!」という趣旨であったことは間違いない。
ここからは、私の呟きだが。外の状況、古典や古典研究に「敵対的」とさえ思える発言が公然と出てきている今の状況は、「無視されているよりマシ」だという思いが実はある。「こてほん」がそれを引き出してしまったという批判もあるが、「敵対的」であるということは、関心があるということであり、この「敵対的」な層と議論することが、無関心層の関心を引く努力をするよりも効果的なのである(オセロゲームのように敵対者は支持勢力に回ったら強力な味方である)。「敵対的」な発言をする層は、古典の価値が自明であるという主張が通じないことを教えてくれた。ではどうするか。ここにこそ、理論が必要であろう。たぶん実証的データだけで、古典を学ぶことは必要かつ有価値だと証明するのは難しい。理論と実証の問題は、実はここにリンクするのである。
学会を守ることが、古典研究を守ることとは限らない。さまざまなレベルでの、またさまざまなコミュニティとの議論を企図し、考えぬくこと。それを発信すること。ロートルには限界がある。50代以下、とくに40代・30代の方に、議論の機会をつくることと、外への発信を心からお願いする。
2023年01月25日
国際研究集会「〈紀行〉研究の新展開」のお知らせ
国際研究集会「〈紀行〉研究の新展開」を開催します。オンラインです。
一つ前の投稿でお知らせしましたように、『大才子小津久足』(中央公論新社)を刊行されたばかりの菱岡憲司さんを、基調講演にお迎えし、他3名の方の発表とともに、さまざまな角度から、〈紀行〉研究の可能性に迫ります。ポーランドからは、アダム・ベドゥナルチクさんをお迎えしました。
興味のある方、是非参加登録をお願いします。
国際研究集会 〈紀行〉研究の新展開
日時 2023年2月22日(水) 15::00-18:40 (日本時間)
開催方法 Zoomによるオンライン
主催 科研基盤研究B「デジタル文学地図の構築と日本古典文学研究・古典教育への展開」(研究代表者 飯倉洋一)
使用言語 日本語
プログラム
基調講演 (15:10-16:10)
小津久足の生業(なりわい)と紀行文
菱岡憲司 (山口県立大学)
【講演要旨】
小津久足は干鰯(ほしか)問屋の主人であり、本宅のある松坂と江戸店の往復や、商用で京・大坂を訪れるついでに名所旧跡に足を伸ばし、多くの紀行文を残している。つまり、もともとは商用を目的としながらも、紀行文では風流の旅として描いている。事実を重んじる久足は、積極的に虚構を描かないが、何を書くか、どう書くか、において創作的営為をおこなう。その具体的な様相を、久足の選ぶ名所旧跡の基準とともに紹介したい。
研究発表(16:20-18:00)
飛鳥井雅有の紀行と蹴鞠―『春の深山路』における東宮への思いをめぐって―
湯書華(大阪大学大学院博士後期課程)
【発表要旨】
飛鳥井雅有(一二四一〜一三○一)は彼の日記・紀行文『春の深山路』(弘安三年、一二八○)で、東宮(後の伏見天皇)への思いや、東宮の即位への強い関心を表している。本発表では『春の深山路』に見える雅有・東宮の親しい関係の形成について、その理由を蹴鞠の側面から考えてみたい。また、雅有が『春の深山路』においてどのような方法で東宮への思いを表現するのかを、同時代や、雅有自身のほかの紀行文と比較しながら検討したい。
文体の要素の一つとして散文化―『海道記』を例に―
アダム・ベドゥナルチク(Adam Bednarczyk) (ニコラウス コペルニクス大学)
【発表要旨】
『海道記』は和漢混交文体の重要な例である。この紀行は、漢文から借用された豊富な語彙だけでなく、漢文学への言及にも基づく高度な漢化を特徴としている。しかし、簡単な暗喩や引用の代わりに、『海道記』の作者は漢詩文の一部を散文化したことが多い。作者は、詩の形式を捨て、散文に変えることで、日本的でありながらその要素が漢文的な原型を持つ現実の姿を描き出した。発表の目的は、『海道記』に『和漢朗詠集』等から借用された詩句がどのような変容を遂げたか、そして何よりも、和漢混交文体の構成の一方法として散文化が果たした役割について論じることである。
歌枕を継ぐ―『継尾集』の位置―
辻村尚子(大手前大学)
【発表要旨】
『継尾集』(元禄五年)は、「奥の細道」の芭蕉を迎えた酒田の不玉が編んだ集である。芭蕉「象潟の雨や西施が合歓花」句を筆頭に、諸家の象潟吟を収録する。なかには、芭蕉の跡を追った支考の「象潟の紀行」もあり、いわゆる「後の細道」の最初期の集としても注目される。
象潟は能因・西行ゆかりの歌枕である。奥の細道以後、そこに、芭蕉が名を連ねることになった。歌枕への俳諧の接続はどのようになされたのか。『継尾集』の例を考察する。
総合討論 〈紀行〉研究の可能性 18:10-18:40
菱岡憲司、ユディット・アロカイ(ハイデルベルク大学)、辻村尚子、中尾薫(大阪大学)
司会 飯倉洋一(大阪大学)
参加登録はこちらからお願いします。

一つ前の投稿でお知らせしましたように、『大才子小津久足』(中央公論新社)を刊行されたばかりの菱岡憲司さんを、基調講演にお迎えし、他3名の方の発表とともに、さまざまな角度から、〈紀行〉研究の可能性に迫ります。ポーランドからは、アダム・ベドゥナルチクさんをお迎えしました。
興味のある方、是非参加登録をお願いします。
国際研究集会 〈紀行〉研究の新展開
日時 2023年2月22日(水) 15::00-18:40 (日本時間)
開催方法 Zoomによるオンライン
主催 科研基盤研究B「デジタル文学地図の構築と日本古典文学研究・古典教育への展開」(研究代表者 飯倉洋一)
使用言語 日本語
プログラム
基調講演 (15:10-16:10)
小津久足の生業(なりわい)と紀行文
菱岡憲司 (山口県立大学)
【講演要旨】
小津久足は干鰯(ほしか)問屋の主人であり、本宅のある松坂と江戸店の往復や、商用で京・大坂を訪れるついでに名所旧跡に足を伸ばし、多くの紀行文を残している。つまり、もともとは商用を目的としながらも、紀行文では風流の旅として描いている。事実を重んじる久足は、積極的に虚構を描かないが、何を書くか、どう書くか、において創作的営為をおこなう。その具体的な様相を、久足の選ぶ名所旧跡の基準とともに紹介したい。
研究発表(16:20-18:00)
飛鳥井雅有の紀行と蹴鞠―『春の深山路』における東宮への思いをめぐって―
湯書華(大阪大学大学院博士後期課程)
【発表要旨】
飛鳥井雅有(一二四一〜一三○一)は彼の日記・紀行文『春の深山路』(弘安三年、一二八○)で、東宮(後の伏見天皇)への思いや、東宮の即位への強い関心を表している。本発表では『春の深山路』に見える雅有・東宮の親しい関係の形成について、その理由を蹴鞠の側面から考えてみたい。また、雅有が『春の深山路』においてどのような方法で東宮への思いを表現するのかを、同時代や、雅有自身のほかの紀行文と比較しながら検討したい。
文体の要素の一つとして散文化―『海道記』を例に―
アダム・ベドゥナルチク(Adam Bednarczyk) (ニコラウス コペルニクス大学)
【発表要旨】
『海道記』は和漢混交文体の重要な例である。この紀行は、漢文から借用された豊富な語彙だけでなく、漢文学への言及にも基づく高度な漢化を特徴としている。しかし、簡単な暗喩や引用の代わりに、『海道記』の作者は漢詩文の一部を散文化したことが多い。作者は、詩の形式を捨て、散文に変えることで、日本的でありながらその要素が漢文的な原型を持つ現実の姿を描き出した。発表の目的は、『海道記』に『和漢朗詠集』等から借用された詩句がどのような変容を遂げたか、そして何よりも、和漢混交文体の構成の一方法として散文化が果たした役割について論じることである。
歌枕を継ぐ―『継尾集』の位置―
辻村尚子(大手前大学)
【発表要旨】
『継尾集』(元禄五年)は、「奥の細道」の芭蕉を迎えた酒田の不玉が編んだ集である。芭蕉「象潟の雨や西施が合歓花」句を筆頭に、諸家の象潟吟を収録する。なかには、芭蕉の跡を追った支考の「象潟の紀行」もあり、いわゆる「後の細道」の最初期の集としても注目される。
象潟は能因・西行ゆかりの歌枕である。奥の細道以後、そこに、芭蕉が名を連ねることになった。歌枕への俳諧の接続はどのようになされたのか。『継尾集』の例を考察する。
総合討論 〈紀行〉研究の可能性 18:10-18:40
菱岡憲司、ユディット・アロカイ(ハイデルベルク大学)、辻村尚子、中尾薫(大阪大学)
司会 飯倉洋一(大阪大学)
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2023年01月24日
大才子小津久足
菱岡憲司『大才子小津久足』(中央公論新社、2023年1月)。
馬琴から「大才子」と称された、伊勢松坂の干鰯問屋(ほかに兼業いくつか・・・)小津久足をクローズアップ。小津を通して、これまであいまいだった「江戸時代」の一面、文化文芸に商人の果たした役割や意味を浮かび上がらせた快作である。読んで面白いのは文章力の確かさ。雑学庵を称した小津と同じく、並外れた読書力・咀嚼力で得た知見と、文学的なセンスがそれを可能にしている。
本書第一章を読みつつ、次々に繰り出される専門書の引用に唖然としながら、それらが菱岡氏が一時期ツイッターで紹介し続けていた経済史・流通史・産業史の本であることを思い出す。確かに久足は商人だから、そこはきちんと押さえなければならない。しかし、その徹底ぶりが半端ない。それらに掲載されている一次史料を読み込んだ上での、商人としての小津(湯浅屋与右衛門)を描き出す。
たとえば上田秋成は、紙油商の上田家に養子に入り、養父亡き後の10年ほどは、主人として過ごしたはずだが、秋成研究者でこれまで、近世中期の紙油商について、その経営のあり方、仕入れや販売ルートや商人間の取引の実態について調べようとした人がいただろうか?しかし、秋成の人生の前半生は紙油商の若旦那であり、店主だったのだ。そういうこれまでの文学研究・作家研究に対して本書は批判の言辞は一切ない。ただただ静かに模範を示すところが逆に刺さる。
こういった、博引旁証から、いくつもの至言を我々は与えられる。第一章では、「江戸時代の商いの実情は、本業もさることながら、兼業に着目しなければ見えてこない」というのがそのひとつ。鰯のように獲れ高に左右される本業の不安定さを補う兼業が、商家の継続の鍵を握るのだ。「兼ねる」ということ。それは人格的にも言える。言うのは簡単であるが、それを等価に調べていくことはそう簡単ではない。また秋成になるが、晩年の秋成は茶人としても際立っていたが、茶人秋成は、文芸作品との関わりにおいて以外は、文学研究者は自分ではあまり調べようとせず、茶道研究者に任せている(あ、これは私だけかも、失礼しました)。もっとも、自ら茶の稽古をしている研究者の方もいらっしゃる(尊敬してます)ので、一般化してはいけないところ。
また江戸時代は「家」の概念が非常に重要だが、菱岡さんは小津家代々について、実に丁寧に叙述してゆく。その上で紹介されるからこそ、家訓書『非なるべし』の家訓に深く感銘を受ける。驚きますよ。「恥をかき、義理をかき、事をかく三角の法は、商いのためには四書六経にもまされるをしへ、陰徳などは必ず心がくべからず。人のためよき事も心がくべからず。まして世のため国家のためなどいふは無用にて、商の道にあらず。商はただわが家繁昌、得意繁昌を思ふの外、無用也。」。いきなり、これを読めば、「やっぱりあきんどやな」と思うだけかもしれないが、菱岡さんの描く干鰯を生業とする与右衛門の透徹した処世観を読んでくれば、この家訓にはむしろ感動する。あくまで「家訓」であり、個人の生き方を示しているのではないのだ。
本書の中で、この第一章の意味は非常に重い。文学研究者は第2章から読みたいかもしれないが、第一章こそが必読なのだ。
第二章では国学・和歌・紀行文という文芸活動を行なった久足。ここでは「雅俗」についての説明があるが、現在いちばんわかりやすい「雅俗」の説明だろう。これは「今古和漢雅俗もみな一致」を唱える久足の文芸観の解説につながっていく。雅俗をきちんと論じるためには、堂上歌壇を無視できない。菱岡さんはそこもきちんと押さえて叙述し、宣長学からの離反という経緯を時代状況の中できちんと描く。
そして第三章。本好きにはたまらない、久足の蔵書「西荘文庫」の形成と、蔵書交流ともいえるネットワークの詳細な解明である。リアルな有様がわかる書簡や文書の的確な引用と、新事実の指摘もさることながら、きわめて重要な指摘をしている。それは江戸出版流通の整備と蔵書形成が深く関わっていること。とくに江戸時代後期になって富裕町人が大蔵書家になるための環境として、それが無視できないことを、わかりやすく説得力ある説明で教えてくれる。これも、出版流通に関わる先行研究の読み込みと、一次史料をきちんと抑える菱岡さんの学問的態度のなせる業である。また蔵書家同士の交流も、膨大な書簡の読み込みから明るみに出していて、ここらあたりは、本好きにはたまらないはずである。この章で重要なのは、えてしてありがちな、江戸・京都・大坂の三都文化圏だけで、江戸の経済や文化を論じようとするあり方への警鐘、そして、発信者(作者・著者)と受信者(読者)だけでなく、中継者という視点が必要で、その三者を総合したところに書籍文化論が成り立つだろうという提言。なるほどと頷かざるをえない。反省せざるを得ない。またまた秋成の話で申し訳ないが、秋成晩年の傑作『春雨物語』が、伊勢商人の間で重宝されている様子が、本書でも生き生きと描かれているが、宣長を生んだ伊勢で、その論敵秋成の作品が、ここまで人気があるという現象を知らないと、その意味はなかなかわからないだろう。秋成の本を写したり貸借する伊勢商人たちの嗜好はいかなるものなのか。これまでの秋成研究に欠けていた視点である(近年、少しずつ注目されはじめているが、これも菱岡さんや、青山英正さんたちの川喜田家蔵書調査の成果によるものである)。川喜田(遠里)は久足の蔵書仲間である。
ところで久足は馬琴から「神速」と呼ばれるほど、本を読むのが早かったらしい。それについて菱岡さんは触れているが、菱岡さんや、菱岡さんが敬愛する松坂出身の柏木隆雄先生(大阪大学名誉教授。本書のあとがきに出てくる。本ブログでも時々とりあげさせていただいている)速読術も尋常ではない。まあ、読書量がだんだんと速度を上げていくのでしょうね。
第三章では、秋成・馬琴・応挙などの本を、久足がどうやって集めていくか、そのさまざまなノウハウについても紹介されているとともに、なぜ久足が、それらを集めたのかという理由についても考察されている。ここも読みどころである。
第四章は宣長学の、前のめりで、一つに収束するような思想に嫌気をさしてそこから離れ、バランスのよい「雑学」を身にまとった「雑学庵」としての久足を描く。古今和漢雅俗一致の思想は、価値の相対化と、「畸人」志向から帰結する。ここにも商人の生業が関わってくる。
久足の膨大な量の紀行文は、そこから見える江戸時代のドキュメンタリーとして貴重である。その一端を示したのが第五章。興味がつきない記述がたくさん出てくる。
さて、いくつもの顔をもつ久足。どれが本当の久足なのか、と、凡庸な問いを発したくなるのだが、菱岡さんは終章で、これまでの内容を見事にまとめた上で、さらに面白い実態、そしてなるほどという見解を披露する。「壱人両名」ということが黙認されていた社会、最後に正体が明かされる近世演劇の「実は」の作劇法は、観客に「名称使い分け」の日常生活があったからすんなり受容できたのではという仮説。そして最後に、久足が蔵書や旅行にお金を使うことが、実は商売を守ることにつながるという一見逆説的なポリシーを紹介する。もうけたお金を元に商売をさらに拡大することのリスク(これで潰れた現代の商売のなんと多いことか)を熟知するゆえに、財産は守るが拡張しない、それが家の継続のために重要な考え方だと。
久足の考え方には今の我々が学ぶべきところが非常に多い。さりげない教訓書だったのか?いやそんなことを菱岡さんは考えてはいない。ただこの本は、読み始めたらやめられないくらいに面白く、わかりやすい。それでいいのだが、あまりにも学ぶところが、多いのだ。研究者には特に。
最後に、拙論たくさん引いてくださってありがとうございます。嬉しかったです(笑)
さて、その菱岡さんを基調講演者としてお招きし、国際研究集会「〈紀行〉研究の新展開」を、オンラインで開催する。2月22日15:00から。改めてまたアナウンスします!
馬琴から「大才子」と称された、伊勢松坂の干鰯問屋(ほかに兼業いくつか・・・)小津久足をクローズアップ。小津を通して、これまであいまいだった「江戸時代」の一面、文化文芸に商人の果たした役割や意味を浮かび上がらせた快作である。読んで面白いのは文章力の確かさ。雑学庵を称した小津と同じく、並外れた読書力・咀嚼力で得た知見と、文学的なセンスがそれを可能にしている。
本書第一章を読みつつ、次々に繰り出される専門書の引用に唖然としながら、それらが菱岡氏が一時期ツイッターで紹介し続けていた経済史・流通史・産業史の本であることを思い出す。確かに久足は商人だから、そこはきちんと押さえなければならない。しかし、その徹底ぶりが半端ない。それらに掲載されている一次史料を読み込んだ上での、商人としての小津(湯浅屋与右衛門)を描き出す。
たとえば上田秋成は、紙油商の上田家に養子に入り、養父亡き後の10年ほどは、主人として過ごしたはずだが、秋成研究者でこれまで、近世中期の紙油商について、その経営のあり方、仕入れや販売ルートや商人間の取引の実態について調べようとした人がいただろうか?しかし、秋成の人生の前半生は紙油商の若旦那であり、店主だったのだ。そういうこれまでの文学研究・作家研究に対して本書は批判の言辞は一切ない。ただただ静かに模範を示すところが逆に刺さる。
こういった、博引旁証から、いくつもの至言を我々は与えられる。第一章では、「江戸時代の商いの実情は、本業もさることながら、兼業に着目しなければ見えてこない」というのがそのひとつ。鰯のように獲れ高に左右される本業の不安定さを補う兼業が、商家の継続の鍵を握るのだ。「兼ねる」ということ。それは人格的にも言える。言うのは簡単であるが、それを等価に調べていくことはそう簡単ではない。また秋成になるが、晩年の秋成は茶人としても際立っていたが、茶人秋成は、文芸作品との関わりにおいて以外は、文学研究者は自分ではあまり調べようとせず、茶道研究者に任せている(あ、これは私だけかも、失礼しました)。もっとも、自ら茶の稽古をしている研究者の方もいらっしゃる(尊敬してます)ので、一般化してはいけないところ。
また江戸時代は「家」の概念が非常に重要だが、菱岡さんは小津家代々について、実に丁寧に叙述してゆく。その上で紹介されるからこそ、家訓書『非なるべし』の家訓に深く感銘を受ける。驚きますよ。「恥をかき、義理をかき、事をかく三角の法は、商いのためには四書六経にもまされるをしへ、陰徳などは必ず心がくべからず。人のためよき事も心がくべからず。まして世のため国家のためなどいふは無用にて、商の道にあらず。商はただわが家繁昌、得意繁昌を思ふの外、無用也。」。いきなり、これを読めば、「やっぱりあきんどやな」と思うだけかもしれないが、菱岡さんの描く干鰯を生業とする与右衛門の透徹した処世観を読んでくれば、この家訓にはむしろ感動する。あくまで「家訓」であり、個人の生き方を示しているのではないのだ。
本書の中で、この第一章の意味は非常に重い。文学研究者は第2章から読みたいかもしれないが、第一章こそが必読なのだ。
第二章では国学・和歌・紀行文という文芸活動を行なった久足。ここでは「雅俗」についての説明があるが、現在いちばんわかりやすい「雅俗」の説明だろう。これは「今古和漢雅俗もみな一致」を唱える久足の文芸観の解説につながっていく。雅俗をきちんと論じるためには、堂上歌壇を無視できない。菱岡さんはそこもきちんと押さえて叙述し、宣長学からの離反という経緯を時代状況の中できちんと描く。
そして第三章。本好きにはたまらない、久足の蔵書「西荘文庫」の形成と、蔵書交流ともいえるネットワークの詳細な解明である。リアルな有様がわかる書簡や文書の的確な引用と、新事実の指摘もさることながら、きわめて重要な指摘をしている。それは江戸出版流通の整備と蔵書形成が深く関わっていること。とくに江戸時代後期になって富裕町人が大蔵書家になるための環境として、それが無視できないことを、わかりやすく説得力ある説明で教えてくれる。これも、出版流通に関わる先行研究の読み込みと、一次史料をきちんと抑える菱岡さんの学問的態度のなせる業である。また蔵書家同士の交流も、膨大な書簡の読み込みから明るみに出していて、ここらあたりは、本好きにはたまらないはずである。この章で重要なのは、えてしてありがちな、江戸・京都・大坂の三都文化圏だけで、江戸の経済や文化を論じようとするあり方への警鐘、そして、発信者(作者・著者)と受信者(読者)だけでなく、中継者という視点が必要で、その三者を総合したところに書籍文化論が成り立つだろうという提言。なるほどと頷かざるをえない。反省せざるを得ない。またまた秋成の話で申し訳ないが、秋成晩年の傑作『春雨物語』が、伊勢商人の間で重宝されている様子が、本書でも生き生きと描かれているが、宣長を生んだ伊勢で、その論敵秋成の作品が、ここまで人気があるという現象を知らないと、その意味はなかなかわからないだろう。秋成の本を写したり貸借する伊勢商人たちの嗜好はいかなるものなのか。これまでの秋成研究に欠けていた視点である(近年、少しずつ注目されはじめているが、これも菱岡さんや、青山英正さんたちの川喜田家蔵書調査の成果によるものである)。川喜田(遠里)は久足の蔵書仲間である。
ところで久足は馬琴から「神速」と呼ばれるほど、本を読むのが早かったらしい。それについて菱岡さんは触れているが、菱岡さんや、菱岡さんが敬愛する松坂出身の柏木隆雄先生(大阪大学名誉教授。本書のあとがきに出てくる。本ブログでも時々とりあげさせていただいている)速読術も尋常ではない。まあ、読書量がだんだんと速度を上げていくのでしょうね。
第三章では、秋成・馬琴・応挙などの本を、久足がどうやって集めていくか、そのさまざまなノウハウについても紹介されているとともに、なぜ久足が、それらを集めたのかという理由についても考察されている。ここも読みどころである。
第四章は宣長学の、前のめりで、一つに収束するような思想に嫌気をさしてそこから離れ、バランスのよい「雑学」を身にまとった「雑学庵」としての久足を描く。古今和漢雅俗一致の思想は、価値の相対化と、「畸人」志向から帰結する。ここにも商人の生業が関わってくる。
久足の膨大な量の紀行文は、そこから見える江戸時代のドキュメンタリーとして貴重である。その一端を示したのが第五章。興味がつきない記述がたくさん出てくる。
さて、いくつもの顔をもつ久足。どれが本当の久足なのか、と、凡庸な問いを発したくなるのだが、菱岡さんは終章で、これまでの内容を見事にまとめた上で、さらに面白い実態、そしてなるほどという見解を披露する。「壱人両名」ということが黙認されていた社会、最後に正体が明かされる近世演劇の「実は」の作劇法は、観客に「名称使い分け」の日常生活があったからすんなり受容できたのではという仮説。そして最後に、久足が蔵書や旅行にお金を使うことが、実は商売を守ることにつながるという一見逆説的なポリシーを紹介する。もうけたお金を元に商売をさらに拡大することのリスク(これで潰れた現代の商売のなんと多いことか)を熟知するゆえに、財産は守るが拡張しない、それが家の継続のために重要な考え方だと。
久足の考え方には今の我々が学ぶべきところが非常に多い。さりげない教訓書だったのか?いやそんなことを菱岡さんは考えてはいない。ただこの本は、読み始めたらやめられないくらいに面白く、わかりやすい。それでいいのだが、あまりにも学ぶところが、多いのだ。研究者には特に。
最後に、拙論たくさん引いてくださってありがとうございます。嬉しかったです(笑)
さて、その菱岡さんを基調講演者としてお招きし、国際研究集会「〈紀行〉研究の新展開」を、オンラインで開催する。2月22日15:00から。改めてまたアナウンスします!
2023年01月12日
古典と日本人
ブログの始動が遅くなってしまいました。本年もボチボチとやっていきますのでよろしくお願いします。
1月7日は、2020年以来の、対面での大阪大学国語国文学会に出席した。オンライン併用ではなかったこともあってか、予想以上に多くの方がいらしてた。久しぶりにお会いした方も多く、「旧交を温める」とはこのことか、と感じ入った次第である。
2月11日・12日に開催予定の国際シンポジウム「古典の再生」、私は司会、発表、そして運営スタッフでもあり、準備に追われている。私自身は、秋成の「古典」語りを通して、「古典の再生」のテーマに迫りたい。具体的には『万葉集』である。秋成は『万葉集』を読者として読むだけではなく、研究し、そして貴顕に対して教えた経験もあった。秋成の『万葉集』への向き合い方は複眼的なのである。『万葉集』評釈という語りを逸脱して自身を語るというあり方、近代古典評論とも異なるその語りは一考の価値があるということを問題提起したい。
そして、「古典の再生」というテーマに非常に関係の深い本が年末に読みやすい新書で出た。前田雅之氏の『古典と日本人』(光文社新書、2022年12月)である。副題が「「古典的公共圏」の栄光と没落」。「古典的公共圏」は前田氏の造語。概念を創出し、それを通すことによって、文学史が俄然見えてくることがあるが、「古典的公共圏」もそのひとつで、私はこの概念を借りながら、文芸や文壇について様々に考えることができた。前田氏の「古典的公共圏」論が、読みやすい形で体系的にまとめられたらどんなにいいかと思っていたところ、まさにドンピシャの本が出たわけである。
近時話題になることの多い、古典教育不要論も意識している。古典や古典教育を感情的に擁護するのではなく、厳しく冷めた目で現状を分析した上で、なぜ古典が、古典学びが必要であるかを説いている。まずは前田氏の「古典的公共圏」の定義をみておこう。124頁。
古典的公共圏とは、古典的書物(『古今集』・『伊勢物語』・『源氏物語』・『和漢朗詠集』)の素養・リテラシーと、和歌(主として題詠和歌・本歌取り)の知識・詠作能力とによって、社会の支配集団=「公」秩序(院・天皇ー公家・武家・寺家の諸権門)の構成員が文化的に連結されている状態を言う。
「古典的公共圏」は、ドイツの社会哲学者ユルゲン・ハーバーマスのいう「代表具現的公共圏」と密接に関わる。前近代の公共圏である「具現的公共圏には修辞的語法がつきものである」(カール・シュミット)。行動・服装・言葉という礼儀作法が重要である。日本の古典的公共圏では、古典の素養や題詠和歌の詠作能力や、有職故実の知識が必須となるわけである。最重要の古典は、先に挙げた4つの古典で、万葉集や今昔物語は入っていない。
この「古典的公共圏」は、古今集以下の4つの古典の注釈が現れ、本文校訂が現れ、徐々に形成されてゆき、それが確立した時代は後嵯峨院の時代であった。後嵯峨院は2度勅撰集を下命した。どちらも20巻であり古今集を継承する意識が明確である。そしてこの時代には古典のパロディーも現れた。
戦乱の中でも和歌を読む事や古典の知識は重視された。それどころか和歌と政治は密接につながっていた。
古典を写す行為は重要だった(松平定信は源氏物語を7回写している)。
とはいえ、古典の教養と人格は関係ないことも、前田氏ははっきり言明している。これには強く共感する。多くの古典擁護論は、古典がよい人格を作るという言説をたてるが、これは何の根拠もない、ポジショントークといわれても仕方のない論なのだ。
日本における前近代人と近代人の文章や論理の変化についても興味深い指摘をする。前近代の思考は、言葉と言葉の連想が基軸となっていた。記憶・連想による思考だ。対して近代の思考は、AだからBという線形論理である。また前近代の人間には「要約」という行為ができないという。これはなかなか大胆な仮説だが、確かに前近代の文章に「要約」というものを見ることがほとんどない。要約とは本質の摘出であるが、それをしない。彼らはこまめに抜き書きをするのである。面白いなあ。いやはや、100パーセントではないと思うが。とはいえ「近代」を論じた部分は、一等前田氏らしい議論が次々に出てくる。余談だが、「いやはや」「とはいえ」「一等」は前田氏の文章に頻出する前田節である。
なかなか類書を見出し難い本である。肯定的であれ、否定的であれ、古典文学研究者はやはり必読だし、古典に関心のあるすべての人に読んでいただきたい本である。
1月7日は、2020年以来の、対面での大阪大学国語国文学会に出席した。オンライン併用ではなかったこともあってか、予想以上に多くの方がいらしてた。久しぶりにお会いした方も多く、「旧交を温める」とはこのことか、と感じ入った次第である。
2月11日・12日に開催予定の国際シンポジウム「古典の再生」、私は司会、発表、そして運営スタッフでもあり、準備に追われている。私自身は、秋成の「古典」語りを通して、「古典の再生」のテーマに迫りたい。具体的には『万葉集』である。秋成は『万葉集』を読者として読むだけではなく、研究し、そして貴顕に対して教えた経験もあった。秋成の『万葉集』への向き合い方は複眼的なのである。『万葉集』評釈という語りを逸脱して自身を語るというあり方、近代古典評論とも異なるその語りは一考の価値があるということを問題提起したい。
そして、「古典の再生」というテーマに非常に関係の深い本が年末に読みやすい新書で出た。前田雅之氏の『古典と日本人』(光文社新書、2022年12月)である。副題が「「古典的公共圏」の栄光と没落」。「古典的公共圏」は前田氏の造語。概念を創出し、それを通すことによって、文学史が俄然見えてくることがあるが、「古典的公共圏」もそのひとつで、私はこの概念を借りながら、文芸や文壇について様々に考えることができた。前田氏の「古典的公共圏」論が、読みやすい形で体系的にまとめられたらどんなにいいかと思っていたところ、まさにドンピシャの本が出たわけである。
近時話題になることの多い、古典教育不要論も意識している。古典や古典教育を感情的に擁護するのではなく、厳しく冷めた目で現状を分析した上で、なぜ古典が、古典学びが必要であるかを説いている。まずは前田氏の「古典的公共圏」の定義をみておこう。124頁。
古典的公共圏とは、古典的書物(『古今集』・『伊勢物語』・『源氏物語』・『和漢朗詠集』)の素養・リテラシーと、和歌(主として題詠和歌・本歌取り)の知識・詠作能力とによって、社会の支配集団=「公」秩序(院・天皇ー公家・武家・寺家の諸権門)の構成員が文化的に連結されている状態を言う。
「古典的公共圏」は、ドイツの社会哲学者ユルゲン・ハーバーマスのいう「代表具現的公共圏」と密接に関わる。前近代の公共圏である「具現的公共圏には修辞的語法がつきものである」(カール・シュミット)。行動・服装・言葉という礼儀作法が重要である。日本の古典的公共圏では、古典の素養や題詠和歌の詠作能力や、有職故実の知識が必須となるわけである。最重要の古典は、先に挙げた4つの古典で、万葉集や今昔物語は入っていない。
この「古典的公共圏」は、古今集以下の4つの古典の注釈が現れ、本文校訂が現れ、徐々に形成されてゆき、それが確立した時代は後嵯峨院の時代であった。後嵯峨院は2度勅撰集を下命した。どちらも20巻であり古今集を継承する意識が明確である。そしてこの時代には古典のパロディーも現れた。
戦乱の中でも和歌を読む事や古典の知識は重視された。それどころか和歌と政治は密接につながっていた。
古典を写す行為は重要だった(松平定信は源氏物語を7回写している)。
とはいえ、古典の教養と人格は関係ないことも、前田氏ははっきり言明している。これには強く共感する。多くの古典擁護論は、古典がよい人格を作るという言説をたてるが、これは何の根拠もない、ポジショントークといわれても仕方のない論なのだ。
日本における前近代人と近代人の文章や論理の変化についても興味深い指摘をする。前近代の思考は、言葉と言葉の連想が基軸となっていた。記憶・連想による思考だ。対して近代の思考は、AだからBという線形論理である。また前近代の人間には「要約」という行為ができないという。これはなかなか大胆な仮説だが、確かに前近代の文章に「要約」というものを見ることがほとんどない。要約とは本質の摘出であるが、それをしない。彼らはこまめに抜き書きをするのである。面白いなあ。いやはや、100パーセントではないと思うが。とはいえ「近代」を論じた部分は、一等前田氏らしい議論が次々に出てくる。余談だが、「いやはや」「とはいえ」「一等」は前田氏の文章に頻出する前田節である。
なかなか類書を見出し難い本である。肯定的であれ、否定的であれ、古典文学研究者はやはり必読だし、古典に関心のあるすべての人に読んでいただきたい本である。
2022年12月30日
『やそしま』最終号と柏木隆雄先生
柏木隆雄先生(大阪大学名誉教授・大手前大学名誉教授)が、大阪市市民表彰を受けられたというニュースが少し前に届いた。おめでとうございます。大阪大学のウェブサイトにそのことが報じられたたが、先生のコメントに「上方文化芸能協会の機関誌「やそしま」第15号、最終第16号に寄せた拙文を読まれた方が、大阪文化への寄与の証として推薦されたのでしょう」とある。その「やそしま」最終号について書く。
柏木隆雄先生は、このブログでも度々紹介させていただいているが、松阪ご出身で、工業高校を出られて、化学関係の企業(住友金属)の研究所に就職されながら、文学への想いやまず転身、大阪大学文学部に入学され、フランス文学を専攻、バルザック研究の第1人者として、仏文学界隈では知らない方はいない。化学を学んだ先生らしく、「触媒」という概念を作品生成論に用いたという話を聞いて、「なるほど、さすが」と(わたしが)うなったことがある。しかし、先生のすごいところは、尋常ではない読書量でもって、古典から近現代作品まで、日本文学を自在に論じるところである。とても仏文学専門とは思えない。その豊富な知識と比較文学的方法で、日本文学関係の論文もすくなくない。それだけでなく、さまざまな文化全般、そしてワインにも通じていらっしゃる。まさに「教養」が服を着て歩いている感じで、ちょっとした挨拶にも、文学者の言葉を適切にさらにと引用する、その知の広さたるや、わたしの知る中でも一番ではないかなあと思う。
上方文化芸能協会は、南地大和屋女将の坂口純久(きく)さんが主唱し、作家司馬遼太郎氏と当時の大阪大学学長山村雄一氏に協力を得て、大阪府・大阪市・や大和屋贔屓の経済人・知識人らが賛同集結して、大阪の芸能文化を継承するために出来た財団法人で、昭和58年に設立された。平成19年には、当時の岸本忠三総長のお声がけで、阪大文学研究科が協力することになり、文学研究科の中に「上方文化芸能協会」の運営委員が何人かで組織された。私も当初から声をかけられてメンバーとなった。というと何か貢献をしたみたいだが、実際の貢献はほとんどなく、会議もほぼすわって先生方の蘊蓄をきいているだけ。むしろ、住吉御田植神事や上方の舞踊の舞台などに招待されて、文字通りの「役得」を味わってきたのだった。
さて前置きが長くなったが、柏木隆雄先生は、文学研究科は機関誌を刊行することに主として協力していこうということで、「やそしま」という雑誌を作ることになった。柏木先生は、毎号巻頭の座談会の司会として参加されていたと思うが、能であろうが、文楽であろうが、落語であろうが、どんな芸能の超一流のゲストが来られても、見事にさばいて、適切なコメントを入れていく。絶対にわたしにはできない芸当で、毎回「さすが」とやはりうなっていた。
さて、女将もご高齢であり、いろんな状況から、引き時とみられたのであろう、上方文化芸能協会は幕を閉じ、「やそしま」も16号で最終号となった。柏木先生が、「『やそしま』の十五年」として巻末に長い回顧を書いておられる。これは資料的にもすばらしい。編集にもずっと関わってこられた柏木先生にしか書けない文章である。そこで書いていただいているように、私も創刊号に拙稿を載せていただいた。「秋成と住吉」あたりで何か書けないか?と依頼されたようだった、なにか捻り出そうとした。秋成は確かに住吉のことを書いてはいるのだが、実際にどういう経路で行ったのかとか、考えてみるとイメージできなくて、住吉の地図や文献をいろいろ当時調べて、すごく短い文章を出した。あとで、編集のM丸さんから、「先生のはなあ、堅すぎたわなあ」と苦笑まじりに言われて、「嗚呼!」と、わが未熟さを嘆いたものであった(笑)。
文学研究科は寄稿で貢献する、ということだったが、私はその後一度も貢献せず、大活躍されたのは橋本節也先生だった。2号以降、たぶん毎号、かなりの力作を寄せて、大阪の画家と芸能をつなぐ興味深い話を次々と投入された。橋本先生も、「大阪の画家たちを連載して」という回顧的な文章を寄せている。もちろん坂口純久女将のご挨拶のことばもある。あらためて、全号を読み返してみたいと思う最終号であった。
柏木隆雄先生は、このブログでも度々紹介させていただいているが、松阪ご出身で、工業高校を出られて、化学関係の企業(住友金属)の研究所に就職されながら、文学への想いやまず転身、大阪大学文学部に入学され、フランス文学を専攻、バルザック研究の第1人者として、仏文学界隈では知らない方はいない。化学を学んだ先生らしく、「触媒」という概念を作品生成論に用いたという話を聞いて、「なるほど、さすが」と(わたしが)うなったことがある。しかし、先生のすごいところは、尋常ではない読書量でもって、古典から近現代作品まで、日本文学を自在に論じるところである。とても仏文学専門とは思えない。その豊富な知識と比較文学的方法で、日本文学関係の論文もすくなくない。それだけでなく、さまざまな文化全般、そしてワインにも通じていらっしゃる。まさに「教養」が服を着て歩いている感じで、ちょっとした挨拶にも、文学者の言葉を適切にさらにと引用する、その知の広さたるや、わたしの知る中でも一番ではないかなあと思う。
上方文化芸能協会は、南地大和屋女将の坂口純久(きく)さんが主唱し、作家司馬遼太郎氏と当時の大阪大学学長山村雄一氏に協力を得て、大阪府・大阪市・や大和屋贔屓の経済人・知識人らが賛同集結して、大阪の芸能文化を継承するために出来た財団法人で、昭和58年に設立された。平成19年には、当時の岸本忠三総長のお声がけで、阪大文学研究科が協力することになり、文学研究科の中に「上方文化芸能協会」の運営委員が何人かで組織された。私も当初から声をかけられてメンバーとなった。というと何か貢献をしたみたいだが、実際の貢献はほとんどなく、会議もほぼすわって先生方の蘊蓄をきいているだけ。むしろ、住吉御田植神事や上方の舞踊の舞台などに招待されて、文字通りの「役得」を味わってきたのだった。
さて前置きが長くなったが、柏木隆雄先生は、文学研究科は機関誌を刊行することに主として協力していこうということで、「やそしま」という雑誌を作ることになった。柏木先生は、毎号巻頭の座談会の司会として参加されていたと思うが、能であろうが、文楽であろうが、落語であろうが、どんな芸能の超一流のゲストが来られても、見事にさばいて、適切なコメントを入れていく。絶対にわたしにはできない芸当で、毎回「さすが」とやはりうなっていた。
さて、女将もご高齢であり、いろんな状況から、引き時とみられたのであろう、上方文化芸能協会は幕を閉じ、「やそしま」も16号で最終号となった。柏木先生が、「『やそしま』の十五年」として巻末に長い回顧を書いておられる。これは資料的にもすばらしい。編集にもずっと関わってこられた柏木先生にしか書けない文章である。そこで書いていただいているように、私も創刊号に拙稿を載せていただいた。「秋成と住吉」あたりで何か書けないか?と依頼されたようだった、なにか捻り出そうとした。秋成は確かに住吉のことを書いてはいるのだが、実際にどういう経路で行ったのかとか、考えてみるとイメージできなくて、住吉の地図や文献をいろいろ当時調べて、すごく短い文章を出した。あとで、編集のM丸さんから、「先生のはなあ、堅すぎたわなあ」と苦笑まじりに言われて、「嗚呼!」と、わが未熟さを嘆いたものであった(笑)。
文学研究科は寄稿で貢献する、ということだったが、私はその後一度も貢献せず、大活躍されたのは橋本節也先生だった。2号以降、たぶん毎号、かなりの力作を寄せて、大阪の画家と芸能をつなぐ興味深い話を次々と投入された。橋本先生も、「大阪の画家たちを連載して」という回顧的な文章を寄せている。もちろん坂口純久女将のご挨拶のことばもある。あらためて、全号を読み返してみたいと思う最終号であった。