2019年10月23日

井田太郎『酒井抱一』

 井田太郎さんの『酒井抱一−俳諧と絵画の織りなす抒情』(岩波新書、2019年9月)を拝読した。
フランス文学から日本文学に転身した井田さんは、学界でも独自の風貌である。オシャレなのである。そのオシャレぶりは、自信に満ちあふれているときほどとんがっている。とても余人に真似はできないが、密かに、その、誰もが簡単に真似できないところを私は尊敬している。
 研究スタイルも異色。今でこそトレンドとなったが、文学研究の対象として絵画を俎上に載せて論じてきた。日本近世文学会で、もしかして初めて発表全体をパワポでやった方かもしれない。繊細なのにマイペースなので、つかみどころがないように見えるかもしれない。いや、別に親しくさせていただいているわけではないが、一緒に仕事をしたことがあって(忍頂寺文庫の研究)、全く知らない人でもないのである。で、一言でいうと現代の畸人である。
 さて、『酒井抱一』である。言わずとしれた琳派の絵師。そのファンは多いのではないか。しかし美術史研究者でなく、井田さんに評伝の依頼が来たのは、おそらく、抱一を文人として全体的に押し出すため、つまりその文芸的な面を重視した人選だろう。井田さんは俳諧研究者なのだ。
 18世紀後半から19世紀前半にかけて、江戸の文化は成熟し、雅俗が融和して、非常に高度な遊び心に満ちた作品が、文学・美術を問わず輩出した。身分的な面から見れば、公家・武家・町人がそれぞれの階層を往来し、重層的で豊潤な文化を作り上げている。
 抱一はその文化を作った一人である。大名家に生まれは血筋のよさに加えて、抜群のアートのセンス。そしてその背後に、俳諧で培われた古典教養。レイヤーをまたがる人脈。この時代にこういう人は多いが、やはり抱一はその育ちのよさから、根っからの「雅」が備わっている。だから、抱一の作る俳諧は俗に見えない。たぶんこのころから、抱一周辺の俳諧は、和歌より格下ということではなくなったのだろう。雅俗が融和して、と言ったが、もはや雅俗の区別がないように見える。そういう時代の空気を、井田さんは抱一の伝記を辿りながら描いている。じっくり読めば、この時代の表現文化の機微が会得されるかもしれない。それは重層的あるいは多義的、輻輳的ということである。
 この本の白眉はやはり第4章にある。琳派の絵が古典教養抜きには語れない、いやむしろ古典教養に基づけばこれほど豊かに読めるのかということを見事に証明した章である。それは「夏秋草図屏風」の、本来的な鑑賞である。この絵をただ見て「いいねえ」と言っているだけではもったいなさすぎる。そもそもこの絵は、光琳の「風神雷神図屏風」の裏屏風として制作されたものである。そのことの意味について、これでもか、これでもかと井田さんは考察を深めていく。
 抱一は光琳の屏風を「脇起(わきおこし)」(俳諧の付合の一法で追善すべき故人の句を発句とし、それに脇句を付けることで故人を顕彰する)における立句とみなし、主題と構図において脇起を行ったのだという。そのように見た時に、非常に多層的に意味が発生する。まず「風(神)」と「草」。『論語』に、君子の徳は風なり、小人の徳は草なり」。上に立つものの徳は風で下にいる草は風によって善にも悪にもなびく。この風と草との取り合わせ自体が、古典の常套。そして雨と草。国を豊かにする雨の恵みを受けて草は生い立つ・・・・ここからはじまって、もういくつもの抱一の意図が解き明かされる。ネタバレになるのでこれくらいにしておくが、圧倒的な迫力である。そして井田さんは、抱一の夏秋草図屏風に「もののあはれ」を見い出すのである。
 副題の抒情という言い方は前近代の表現芸術用語ではないのだが、あえて抱一に「抒情」の語を用いるのが井田さんの勝負手だろう。たぶん第4章の「もののあはれ」をそう呼ぼうとしているのかもしれない。そういえば柏木如亭の詩をそう呼んだ人もいたか。
 ひとつの琳派の絵はこれだけ深い。それをいやというほど知らされる快著である。琳派ファンにお勧めである。

 
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2019年10月08日

滝川幸司『菅原道真』

滝川幸司さんの『菅原道真』(中公新書、2019年9月)を拝読。
もし、書評か紹介を書くことになったら、「文学部出身の実務官僚」とタイトルをつけたい。
つまり、道真とは今で言えばそういう人らしい。
氏育ちがものをいう平安時代において、異例の出世をした人物。漢詩人というよりも官僚としての姿を描き出す。当時の政治社会の中で、どういう存在だったのかを解き明かそうとする立場だ。
儒家とは儒学を基礎とした実務官僚であると明快に説明され、あらためて納得。そして当時の社会で漢詩を詠むとはどのような行為かという問いが、全編にわたって貫かれている。
普通なら劇的に描きたくなるだろう太宰府左遷についても、なぜそうなったのかを冷静に、淡々と述べていく。それが逆に迫力を持つ。しかし所々に、やはり滝川さんの研究成果が鏤められているのがわかる。なにやら小さい活字で羅列される参考文献の多さにも圧倒される。まさに滝川さんは、学者として誠実なのである。
漢詩に訳をつけているのだが、原文を残して、「可憐(ああすばらしいことだ)」とルビを施すのは、最近の漢詩文研究では普通なのだろうか。これがとても斬新で巧みだと感心した。
その滝川さんを、10月から、わが日本文学研究室の新しいスタッフとしてお迎えした。頼もしいこと、この上ない。

余言だが、文学部出身の実務官僚をどんどん出してゆくような教育をこれからはしていかなければならないな、と改めて思う。ドイツで会った文学部出身の外務省職員、すばらしい方だった。こういう人に官僚になってほしいと思ったものだった。
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2019年09月23日

「蕪村の手紙」展

 東京では芭蕉展が評判のようだが、伊丹の柿衞文庫では、特別展「蕪村の手紙」展が開催中である。昨年の「芭蕉の手紙」展に続く「手紙」シリーズ。担当は辻村尚子さん。手紙だけではなく、関連資料も多数展示されている。図録も充実している。
 22日には、田中道雄先生の関連講演が行われた。題して「蕪村の句は近代的か?」である。田中先生は同窓の大先輩であり、八十代半ばでいらっしゃるが、声は朗々として熱量がしっかり伝わるご講演。子規に見いだされて以後、「近代的」と言われることがいまだに多い蕪村句を、趣向でまずは解釈すべきであると提言され、具体的に示された。尾形仂先生や先生ご自身が、蕪村句の評価を転換させたはずなのに、蕪村はいまだきちんと読まれていない。「趣向」で読むことを徹底してやった人がいまだにいないと。
 また、嘯山・蝶夢・蕪村という先生の研究対象が、俳諧史において、どのような役割を果たしていたかを、分かりやすく語られた。田中先生の論文はほぼ拝読しているし、演習で『芭蕉翁絵詞伝』を取りあげたこともあり、先生の見取り図は大体理解していたつもりであったが、肉声で説明していただくと、不思議にぐっと深く理解されるように思う。ともあれ、研究の原点に帰ったような、爽快感の残るご講演であった。
 「古典詩歌の正統を継いで最後に輝く光」と見立てられたその蕪村観に到達するには、蕪村の手紙が欠かせなかったのだという。なるほど。すこし勉強した上で、もう一度学生たちと見に来よう。
 
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2019年09月20日

雅俗18号 その2 光るエッセイたち

『雅俗』の面白さは商業誌ではないのに、企画物が盛りだくさんということである。日本文学系商業誌が次々と撤退した今だからこそ、という川平さんの思いがある。川平さんは見かけによらず(失礼)、企画・人選が上手い。
 今回また新たな企画「この三冊」が登場した。寄稿者にお願いするのは、これぞという不朽の研究書・自分ともっとも縁の深い古典・院生に勧める一冊の3点である。佐藤至子さんが登場。『絵本と浮世絵』、『御存知商売物』、『落語の世界1 落語の愉しみ』を挙げている。
 白石良夫さんの連載エッセイ。これも相変わらずの手練れで読ませる。研究資料の提供とな何なのか、研究成果の発信とは何なのか、を具体的な例話で説いている。前半の「香炉峰の雪はいかならん」を紫式部のエピソードとする近世の読み物を、間違いと斥ける前に、なぜそういう説が流通したのかと考えるところに「江戸に出かけて江戸人に聞け」の注釈精神があると。これは私もQ大で鍛えられ、学生にも伝えているつもりである。後半の、翻刻に句読点や濁点をつけて提供するのはリスキーだが、やらねばならない、というところに学問の良心をみる話。これも全く賛成である。
 板坂耀子さんの「カルチャーセンターの周辺」。学ぶ意欲満々のカルチャーセンターの方々を、学問に「活用」できないかという提言。これも「我が意を得たり!」である。思い出したのは「みんなで翻刻」である。多くの一般の方が参加され、学問的に貢献されている。私の妄想では、「みんなで現代語訳」「みんなで翻訳」「みんなで二次創作」と、これはいくらでも広がってゆく可能性。学問とまなぶ意欲満々の方々をどうつなぐか、難しいと考えずにいろいろやってみる。リタイアしたら試してみたいこともいろいろあるな、などと更なる妄想を拡げた次第。
 渡辺憲司先生の「秋十年却って馬関指す故郷」。あの有名なメッセージ「時に海を見よ」の渡辺先生も、かつてはQ大の研究会で同席した方。そのあたりの頃をふくめて思い出を書かれている。これまた文章が巧すぎて引き込まれた。そしていつだったか渡辺先生のご自宅を訪れた時に、靴箱に蓄積された仮名草子用例のカードを拝見した日のことを思い出した。
 
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雅俗18号 その1 青山英正氏の春雨物語流通論

 いろいろ遅れて紹介しているのがあるけれど、雅俗の会の『雅俗』18号(2019年7月)は、リニューアル『雅俗』史上、私にとって最もエキサイティングだった。
やはり、その第一は青山英正さんの「伊勢の文化的ネットワークと『春雨物語』の流通」である。写本というのは、この世に唯一であり、その書写者・所蔵者(それが代わっていく場合も)のドラマがそこには秘められている。それは「手紙」に近いものである。拙著『上田秋成 絆としての文芸』以来、授業や講座で繰り返し述べてきたことである。秋成の『春雨物語』こそ、その典型的な事例である。『春雨物語』には富岡本と呼ばれる系統と、文化五年本と呼ばれる系統がある。前者は京都の羽倉信美への謝礼、後者は伊勢の商人(長谷川家)の依頼によって書かれたものであり、両者の本文の違いは渡す相手を反映したものではないかというのが、私が拙著でも書いた仮説だった。しかし、私もそうであるが、秋成研究者は、この問題を、秋成中心で考えてきた。ところが、近年、石水博物館の川喜田家の資料が調査され、秋成周辺の伊勢の文化ネットワークが劇的に明らかになりつつある。青山さんが春雨物語の貸借の状況などを明らかにし、今回の論文でも伊勢の人的ネットワークを背景にして春雨物語の流通を考えることを提言している。文化五年本の中でも桜山本の筆者とされる正住弘美に焦点をあて、彼がなぜ春雨物語を筆写したのかについて、諸資料を博捜して明らかにした。最後に青山氏の卓抜な比喩を引用しよう。
  川喜田遠里や小津桂窓のような江戸店持ち商人たちは、こうした伊勢の局所的ネットワークに接続する一方、江戸や上方とも文化的、商業的関係を持つことで三都をハブとする広域ネットワークとも接続していた。つまり、彼らは、伊勢の局所的ネットワークと、三都を含めた広域ネットワークとを中継する、いわばルーターのような役割を果たしていたのである。

 
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2019年09月16日

シンポ「古典は本当に必要なのか」が、本になりました。

 今年の成人の日に行われ、大きな話題となった、明星大学人文学部主催のシンポジウム「古典は本当に必要なのか」。ついに書籍化され、文学通信から刊行された。書名は『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』。すでに店頭に並んでいるところもある。仕掛け人の勝又基氏の編。表紙には当日のパネリスト、否定派猿倉信彦氏、前田賢一氏、肯定派渡部泰明氏、福田安典氏、司会飯倉洋一の名前が記される。シンポジウムは活字化に伴い、読みやすいように若干の編集があるが、ほぼ完全に当日の模様を再現している。さらに当日シンポ後にとったアンケート・意見、さらに公開されたYoutube動画へのコメント欄に寄せられた意見も掲載、登壇者の「あとがき」、そして勝又氏の原稿用紙80枚におよぶ「総括」が加えられ、読み応えのあるものになっている。この総括がつまり、書名の由来である。勝又氏の本気度が伝わる内容である。

 人文学の危機が叫ばれはじめて久しい。人文学、あるいは文学部の危機を訴え、その存在価値を再確認して共有するシンポジウムが、諸処で開かれた。大阪大学金水敏先生(当時文学研究科長)の「文学部の意味」をあらためて問いかける卒業式のスピーチが大きな話題となったことも記憶に新しい。それらを通して、「あなたのやっていること何の役に立つの?」と問われ続けてきた文学部出身者・在籍者は、〈すぐには役に立たないけれども、人生に大きな意味を持つ文学部の学問の意義〉を共有し、「そうだそうだ」と溜飲を下げたのである。しかし勝又氏は、それは「身内の怪気炎」にすぎなかったという。本当の文学不要、古典不要の考えの人たちと議論してこなかったのではないかと。

 勝又氏が企画した「古典は本当に必要なのか?」は、少し毛色が違った。これまでの登壇者とちがって、古典に愛情も、存在価値もほぼ認めない、徹底的な否定論者を、パネリストとして招いたのである。SNSでこの企画が告知されると、大きな注目を浴びることになった。その理由は、ひとえにシンポジウムタイトルの過激さと、下手をすれば人文学が手痛い傷を負うかもしれないという容赦なさにあっただろう。チラシは「仁義なき戦い」の映画ポスターを完全にパクったデザイン(実はこれこそが古典の手法なのだが)、否定派論客対肯定派論客のデスマッチという触れ込みで前評判も上々。会場には百人を軽く越える人々が集まった。ネット上で読書家論客として知られるブロガー、歴史研究者でベストセラーを書いた著者の姿、大手出版社の文庫担当編集者の姿も見えた。
 議論は、高等学校の必修科目に古典は必要か、という論点に絞って行われた。企画者側(私も一枚噛んでいる)は、否定派の議論の土俵にあえて立とうとしたのである。否定派は、国際競争が激化している現代における優先度という観点から、GDPに貢献しない古典は必修ではなく選択(それも美術・音楽と同様芸術科目で)であるべきだとし、古い道徳的価値観を刷り込む古典はポリコレ的にも問題があり、これを墨守しようとするのは既得権益にこだわるポジショントークだと断じた。文学研究擁護派は、こんな厳しい批判にさらされたことがなかったのである。一方の肯定派は、同じ土俵の上に立つのを回避し、古典の面白さや古典を読むことの幸福感などを主張した。議論はかみ合わなかったのである。会場で意見分布をアンケートしたところ、議論後に、否定派に傾いた者数名。その逆はない。数字としてはわずかではあるが、ディベートとしては、否定派の勝利と言わざるを得なかった。現在進行形で、シンポジウムが中継されていたこともあり、twitterでは、ハッシュタグ「#古典は本当に必要なのか」が、一時ツイートのトレンドに上がる勢いを見せた。その後、シンポジウム傍聴記がいくつもネット上に上がり、私自身も私なりの総括をブログで行った
 今回、これまで沈黙していた主催者勝又氏が、総括として長編論考を付載した。当日は出ていない論点がいくつかあり、賛成派として、否定派にしっかり向き合う議論になっていると思う。これをふくめて、今後行われるであろう、さまざまなレベルでの議論のたたき台としていただければ、関係者として非常にありがたい。私自身の考えの一端は、「あとがき」に述べている。
 
 
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2019年09月09日

第49回西鶴研究会

通常は、東京で年2回行われる西鶴研究会。久しぶりに大阪での開催となり、9月7日に聴きに行きました。阪急インターナショナル内の関西学院大学サテライト教室。素晴らしい立地ですね。印象的だったことを、メモります。
発表2本と講演1本。
 長谷あゆすさんの『本朝二十不孝』の一篇、「親子五人仍書置如件」。富裕な財産「見せかけ」のために、虚構の遺言書を書くからと、息子たちに言って死んでいった虎屋の家長。この虎屋のモデルとして三井越後屋が考えられるとし、そう考えたら読みが拡がるという。その通りだなとは思ったが、これでもかこれでもかと繰り出す資料でそこと結びつけようとするのは逆効果だったかなと。長谷流の読み健在というところだが、遺産が多いように見せかけるという趣向、次男以下が急転遺言書通りの相続を主張する展開、さらには壮絶な殺害事件という結末、こういった部分に、三井越後屋の影が指摘できればね。長谷さんは論が立ち、調べがすごい方なので、この方法を「一度」捨ててみて、別の問題の立て方をしてみてほしい。ついでに西鶴からもちょっと離れてみてほしい。懇親会で話せなかったのが残念だったが。というかその時伝えたいことが茫洋としていたので、この場を借りて記しておきたい。
 対照的に染谷智幸さんの発表は、昨今の『男色大鑑』ブームの経緯と展望、古典作品を社会とどうつなげるかの事例報告だが、最後におっしゃった「現代語訳が大事」とのお考えに同意した。わたしの疑問は今のBLブームに乗ったから上手くいった特殊ケースなのではないか、ということ。でもその時流を捉えた嗅覚は、研究者的ではなく、プロデューサー的。いまこれが古典研究者には必要なのだ、と私は思う。染谷さんは東アジアを視点に日本文学を照射する国際派。韓国語でも発表できる。今後の日本文学研究、社会との連携の展望について、懇親会や二次会で意見交換した。
 最後の河合真澄さんの講演は、西鶴の表現を「利用」した役者評判記の文章から、逆に西鶴の難読箇所を解読するというやり方。すべての例示が鮮やかで、難読箇所を放置して作品を論じるなんて空論よ、というメッセージが込められている。河合さん自身が言っていた「京大流」である。私の母校もどちらかというと京大流の学風で、注釈を徹底的に突き詰めてそこから突破口を開くという論のスタイルが、研究者としての私の血液にも流れている。京大流は、それで終わらず、大胆な読みに繋げていくところがある。そこがスリリングなのだが、河合さんはあえてそこを封印して、京大流の基本を示して見せたといえる。これぞ関西での開催の大きな意味であろう。
 まさに三者三様。そして、西鶴研究会は次の50回で一応の区切りを迎えると。世代交代の意味もあり、日本文学研究を取り巻く状況の大きな変化という背景もある。妥当な判断だと思う。そもそも一人の「作者」の名を冠した研究会というものの可能性よりも、限界の方が今は突きつけられている。では西鶴研究会はどうリニューアルされるのか?それは、ちょっと注目してみたい。
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2019年09月08日

古典文学の常識を疑う U

『古典文学の常識を疑う』の続篇として、『古典文学の常識を疑う U 縦・横・斜めから書きかえる文学史』(勉誠出版、2019年9月)が出ました。前著の時もここで紹介したが、今回は私自身も、一項目を担当している(「秋成の学問は創作とどう関わるのか」)ので、またまた紹介させていただく。
 編者は、松田浩・上原作和・佐谷眞木人・佐伯孝弘の各氏である。「はじめに」では、元号「令和」の出典である『万葉集』をめぐっての安倍総理の談話を引く形で、研究最前線ではすでに否定されている古典文学の常識がまだ根強いことを例示するなど、なかなか攻めている感じである。歴史でもそうだと思うが、日本古典文学でも、いわゆる定説・常識が本当に根強い。私が担当した上田秋成にしても、秋成は怪異作家であり代表作は『雨月物語』というのが「常識」だろう。しかし、秋成研究の最前線では、その認識はもはや古い常識なのである。このブログでも何度も書いてきたが・・・。そのような定説と研究最前線の認識がかなりズレている例はたくさんあり、それゆえに、今回の第2弾となったのであろう。
 第1弾の時と同様、全体としては「ここが知りたい、古典文学」というのがコンセプトのように見受けられる。必ずしも常識をくつがえすだけではなく、古典文学への新しい視点の提示である。日本文学研究者・国語教育関係者・日本文学愛好家には、必備書といってよい。
 このテーマは、第3弾もありうるかな、と勝手に期待している。その時は、「古典文学は役に立つのか」「古典文学はポリコレ的に問題なのか」「古典文学不要論にどう反論すべきなのか」「古典文学は好きな人が読んでいればいいのか」・・・・というテーマも立てて欲しいですね(笑)。あ、別の出版社の企画でもいいですけど。
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2019年09月02日

「勉強をしていない」(立教大学日本文学122号)

ちょっと理由があって、立教大学日本文学会から「立教大学日本文学」122号を送っていただいた。
そこに、名古屋大学との合同研究会の報告みたいな特集があって、「教員セッション」のトップバッターとして石川巧さんが話をしている。
この文章に引き込まれた。
というのは、石川さんがここに書いているが、彼がはじめて赴任した山口大学(教養部)の、専門としては最も近い同僚が私だったからだ。
30歳の石川さんにきていただいて、ある意味、彼の人生はそこで大きく運命づけられるのであるが、その後、九州大学に移り、さらに今の母校の立教大学に、いわゆる「帰った」のであるが、山口大学時代の彼のことを私は近くで見ていたので、ここに書かれていることが非常によくわかるのだ。山口大学・九州大学のころの石川さんは、

「研究上の苦悩など殆どなく、自由に研究ができていたような気がします」
「東京(=中央)を仮想的に見立てて、「オレは地方に根を張って、いま自分が立っている場所から見える光景を問題化していくんだ」と」
「私の三〇代は、毎日ひらすら勉強し」

当時は「国文学」や「解釈と鑑賞」といった商業雑誌があり、若手研究者にはよく無理難題のテーマが与えられ、それがいい修行になったという話もされている。

立教に来てから、大型プロジェクト・学内外の共同研究・海外の大学との交流など「欲」がでて、研究計画書ばかり書くようになった。自分の論文より学生の論文のチェック・・・・。

「結局、自分が「勉強をしていない」ということに突き当たるわけです・・」

(私は)30代の時にも勉強していなかったという点が(石川さんと)違うが、それ以外は「実によくわかる」と思う。
実際は石川さんが私の何倍も教育研究に時間を割いているに違いないので、僭越だが気持ちは「よくわかる」。
それにしても、すごく率直に話されているので驚いた。
石川さんは、まだこれから十年の展望をすることができるが、私にはその時間も残されていないのに、なにかまだいろいろなことをやろうとしていて、「勉強をしていない」。

この焦燥感というもの。これはもう正当化なんてできない。

私の30代も石川さん同様山口大学とともにあって、まだ大学教員は余裕があった時代で、あーあのころをもっと計画的に有意義にすごせば・・・という悔恨にいつもさいなまされるのだが、一方で自分自身にも淡泊なので、まあ仕方ない、それがオレだから、と諦めてしまうのである。
だから、なにか自分の心の声を、スピーカーモードでさらされたような、そんな恥ずかしさを感じつつ拝読した石川さんの文章であった。

石川さんの作品論は非常に面白かった。しかし作品論に興味を持てなくなったというのは、時代の先をやはり読んでいたのだと思う。私は50になっても作品論を書いていた。いまはちょっと別のことがやっと面白くなってきたところだ。まあ12月には、25年ぶりに、文学の話でもしてみたいと思う。







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2019年08月30日

『源氏物語の近世』

 レベッカ・クレメンツ、新美哲彦共編『源氏物語の近世』(勉誠出版、2019年8月)が刊行された。
 『源氏物語』の俗語訳として最初に公刊された都の錦『風流源氏物語』その続編として編まれた梅翁(奥村政信)『俗解源氏物語』『若草源氏物語』『雛鶴源氏物語』『紅白源氏物語』の全篇を翻刻し、挿絵も収載、注までつけている。
論考編として、クレメンツ氏、ピーター・コー二ツキー氏、マイケル・エメリック氏の、それぞれの江戸時代『源氏物語』受容論と、新美哲彦氏の、奥村政信の俗語源氏に関する考察を掲載する。
 つまり、本書は海外の研究者が中心となって出来上がった本である。これには一瞬驚くのだが、「カノン」理論や受容理論に習熟している海外の日本文学研究者たちならではの本とも言えるだろう。しかし1冊になってみると、俗訳源氏物語の集成のインパクトは大きい。江戸時代における源氏物語の広がりに、我々は時々驚かされるのだが、本書を通覧すれば、俗語訳・あるいは翻案の果たした役割は実に大きいと思わざるを得ない。現代の源氏漫画の金字塔『あさきゆめみし』に繋がっている。
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2019年08月28日

田中則雄『読本論考』

田中則雄さんの『読本論考』(汲古書院、2019年6月)が刊行されてかなり時が経ってしまった。ともあれ遅ればせながら紹介する。
8月中旬に京都大学で大高洋司さんの科研研究会があり、そこで本書の書評会のようなことが行われると聞いていた。科研メンバーではないものの、参加も可と聞いていたので参加するつもりだったが、あいにくその日は東京出張だったためコメントだけを寄せることにした。以下は、そのコメントをベースにしているが、同じ内容ではない。
 田中さんの積年の研究成果の多くが一書にまとまったことはまことに喜ばしい。私自身はもちろん、演習、卒業論文、修士論文の作成において、学生が、よく田中論文を参照するのだが、このたびの本書刊行で、今後はすぐに当該論文に行き着くのみならず、関連論文にも目を通すことができるということになった。学界にとっても非常にありがたいことと言わねばならない。
 全体として、非常に緻密で隙がなく、実証的手法に厳格に則り、あくまで論理的整合性を求めるという、論文としてまさに模範的な論考がならんでいる。読んでいて想起したのは日野龍夫先生の論文である。その文体もそうだが、論の運びにも師の調子(私に云う日野調)が継承されていると感じられた。私は個人的に、日野先生の「読本前史」、「秋成と復古」「秋成と時代浄瑠璃」に強く影響を受けていて、何度も読み返しているので、田中さんの論文には、日野先生の血が流れていると実感できると豪語しておこう。
 一書にまとめていただいて見えてくることがある。田中さんは文芸思潮に強い関心があり、近世文芸思潮史の構想をお持ちだということ。これが実によくわかった。それがよくあらわれている「上田秋成と当代思潮」についてすこし私見を述べる。
 本論は『雨月物語』の「貧福論」の中の銭の霊の言説を発端に、その思想的背景について深い読み込みを行っている。金の集散離合は人の善悪と関わらない認識を示すこの議論は合理思想とも神秘思想とも言われてきたが、田中さんは、それを止揚する新たな見方を提示する。田中さんの論は、宣長との比較に及ぶが、その際に、秋成『安々言(やすみごと)』の中の儒仏容認論を検討し、「そのふさへる大理」の次元から問題を捉える思考態度であることに着目するのはユニークである。秋成が宣長と異なる点として、宣長の絶対的思想に対する相対的思想をもつということがよく言われるが、田中さんは相対的思想を支える老子的な「道」にベースを置く当代思潮の流れに秋成も位置づけられるのだと説いている。ここからは私の批評だが、「理」を以て現実をとらえるという思考方法をとるがゆえに、その現実が不条理きわまりないと意識し、「理」は不測であるとの認識を深めたという解説の仕方は私にはややわかりにくい。「事物みな自然に従ひて運転するを」(『安々言』)という時の「自然」と理の関係はどうなるのか。私の理解不足である可能性が高いが、「自然」「理」「道」が相互互換性があるかのような論展開に戸惑ってしまった。ただ、理を以て世界を見るからこそ、不条理を強く意識するという論理構造は、命録という運命を享受しながらも自らの不遇を憤るという秋成における精神の拮抗状態とパラレルであるという点で興味深い。「貧福論」の議論は、懐徳堂の、蓄財は仁と矛盾しないという思想(やや乱暴な言い方だが)へのアンチテーゼと捉えられないかなどと私は妄想するのだが、田中さんの「貧福論」分析は、「理を以て見る」という秋成の根本思想に到達するというスリリングな展開になっているものの、この短編で「金」が主題として選ばれた背景については、述べられていない。今後、そこまで論が及ぶことを期待したい。
 秋成についての論はもう1篇あるが、重要なことは秋成を論じるというより、秋成を当代思潮との関わりにおいて論じることに大きな意味があるということ、これは本書のとくに前半が、作品を媒体にした当代思潮史の構築という前人未踏の試論だったのではないかと思うのである。ただ、そのことを、この本は謳ってはいない。そこが田中さんの奥ゆかしさなのかもしれない。本書はむしろ近世思想史研究者に読んでいただきたいものである。近年高山大毅さんが取り上げて注目されている「断章取義」も、高山さん以前に田中さんがとりあげて論じていたのだということがわかった。文学史と思想史の狭間に田中さんの諸論考は埋もれてしまい、研究のトレンドを作る力が、高山さんのようにあるにも関わらず、田中さんの論文集は、あまりにも地味な顔をしている。しかし、本書の本領は必ず明らかになる。この本を多くの日本思想史研究者に読んでもらうことで、さまざまな議論が生まれることを切に願う。
 田中さんは後半の後期読本論においても、重要な提言をしている。上方風というものについて、である。ある論文からの一部引用という形で、田中さんの意に悖るかもしれないが、次のようなところにそれは明確に出ている。
 「浄瑠璃を読本化するに当たり、苦悩の発生やその終結の背後に超越的な力の作用を置くか、人間的な要因に帰結されるかというところに、大きな捉え方としてそれぞれ江戸・上方の作風を見て取ることができると考える。ただもう一つ踏み込んで、超越的な力に如何なる意義を持たせるか、あるいは、人の心情の如何なる面を追究し描写を如何に組み立てるかといった点に即して見たならば、各の作者が考えた読本の様式とはどのようなものであったかという、より細緻な問題へ行き着くものと思われる。(「浄瑠璃の読本化に見る江戸風・上方風」)
 読本総論として、大高さんのいわゆる「読本的枠組」があるが、田中さんは、どちらかといえばそれを江戸読本の枠組とし、上方読本では、江戸読本の影響を受けた場合も、人間の心の動きの必然が連鎖するという構成が行われる、とする見方が面白かった(これはやや粗雑な私の整理であって、田中さんの物言いはもっと慎重で周到である)。
 最後に、田中さんは大江文坡についても2論文を収めておられるが、ここで私の科研報告書に掲載した『荘子絵抄』を使って下さっていて深謝する。一部の方に、『荘子絵抄』をわざわざ(科研報告書に)載せるかね?みたいな評をいただいていたので、お役に立てたのが嬉しいのである。

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2019年08月23日

深谷大『さし絵で楽しむ江戸のくらし』

深谷大さんが『さし絵で楽しむ江戸のくらし』(平凡社新書、2019年8月)を刊行した。
江戸の雑学をウリにする本は多いが、どこまで信用していいのかと、ちょっと悩むこともあるが、深谷さんは、すべての記述にきちんと出拠を示しておられるので、安心して「受け売り」ができる。
黄表紙の絵を主な素材として、江戸の人のくらしを、挨拶、お祝い、踊り、下駄、足袋など、さまざまな切り口で軽快に紹介している。しかし、やはり芸能研究者だけあって、浄瑠璃や甚句の説明になると、軽快な中にも学者としての、「きわめる」性が垣間見えて、私からみるとそこが面白い。
それにしても、今のサブカルチャーや音楽シーンもきちんと抑えていて、今と江戸を軽々と往来するのには舌を巻く。とともに、今といっても、ちょっと前の歌謡曲などが例示していて(むしろいまの若者は知らないだろう西城秀樹の歌詞とか)、にやりとしてしまうというものである。ご当地ソングの羅列には、ついつい口ずさんでしまいそうになるう。
ともあれ、「楽しむ」とタイトルにあるように、肩肘張らずに楽しめる、それでいて研究の凄みもちゃんと伝わる本である。
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2019年08月10日

盛田帝子『天皇・親王の歌』

 笠間書院の人気シリーズ、コレクション日本歌人選の第四期が完結したようである。
 家人の盛田帝子も、その1冊を担当した。『天皇・親王の歌』(笠間書院、2019年6月)である。
 天皇の歌に関しては、谷知子さんの『天皇たちの和歌』(角川選書)、鈴木健一さんの『天皇と和歌』(講談社選書メチエ)がある。
 いずれも、読みやすい好著である。今回の盛田の本は、これらの先行書と差別化するということもあり、かなり大胆に「江戸時代の天皇」を中心に置いた構成になっている。
 また、「天皇(親王)」が、自身が天皇(親王)であることを意識した歌を選んでいるという。したがって、これまでほとんど知られてもいない歌がたくさん出てくるのである。
 さらに、江戸時代以前の天皇の歌については、江戸時代の天皇が意識したであろう歌を選ぶという方針で臨んだようである。
 そういう意味で、類書にない構成・選歌になっているのである。
    おほけなくなれし雲居の花盛もてはやし見るはるも経にけり 後桜町天皇
    陸奥のしのぶもぢずり乱るるは誰ゆゑならず世を思ふから  孝明天皇
 副題に「和歌という形でつづる天皇のことば」とあるゆえんである。
 したがって、店頭で本書を手にとって、「?」となった方も少なからずいらっしゃるだろう。和歌で綴る江戸時代天皇史の趣なのである。なお、現上皇の歌を含め、近代以降の天皇の和歌も収めている。

 
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2019年08月02日

大谷雅夫先生集中講義

 今年度、日本文学の集中講義には大谷雅夫さんをお招きし、和漢比較文学の視点で、さまざまなトピックを縦横に講義していただいた。
 通うのはちょっと大変ということで、大学近くのホテルに宿をおとりになったのを幸い、食事も連夜おつきあいいただいたのであった。
 大谷さんは、研究会などでお会いすると、親しくお声がけしてくださるけれど、そもそも私は〈親しい〉間柄でもなく、〈友達〉というわけでもないのであるが、とにかく、その学問を敬愛するがゆえに、また学生に是非聞いてもらいたい一心で、思い切ってお願いしたところ、ご快諾をいただいたというわけである。しかし・・・、実は、大谷さんのお話によれば、私が九州大学助手のころに、大谷さんが九大を訪ねてこられ、京大の先輩である今西祐一郎先生が、一席もうけて、中野三敏先生も同席された会があり、そこに私もいたのだという。恐ろしいことに、そのことを全く憶えていないのである!普通、忘れていても話をきくと思いだすものだが、なぜか思いだせない。水炊き屋だったというから、たぶん芝なんだろうが・・・。
 それはともかく、伊勢物語と仁斎、仁斎学と宣長学がテーマの2コマだけはお願いして、聴講させていただいた。伊勢物語で昔男が、おばあちゃん?の望みをかなえてあげる段については、最近の注釈書でも結構評判が悪いことを紹介したあと、近世期の注釈では、昔男のふるまいを称賛している例を挙げて、仁斎の「恕」の思想と関係づける。非常に面白い。また宣長の「物のあはれを知る」説は仁斎の「思無邪」(これは論語の詩経解釈のことば)についての注釈、つまり「正に帰す」という朱子学的解釈ではなく、仁斎『論語古義』の「思無邪」は「直」、つまりストレートに述べたものだという解釈を受け継いでいることを、仁斎ー東涯ー景山ー宣長の流れで説明し、ともすれば近代的な文学観と評価されがちな宣長の「もののあはれ」の説も、倫理的な面があって、近世的といえるということ、非常に説得力があった。この話は鈴屋学会でお話しされたものだという。
 学生も大谷雅夫先生の講義が聴けるということで昂揚し、喜んでくれていたので、よかったよかった。4日間15コマみっちりやっていただいて、お疲れ様でした。本当にありがとうございます!
 
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2019年07月30日

星槎グループ監修『真山青果とは何者か』

 真山青果といえば、なんといっても『元禄忠臣蔵』の作者。忠臣蔵の物語は、この青果の作品で現代ドラマになったと言えるかもしれない。
しかし、青果は劇作家というだけではない。もともとは自然主義小説作家であり、またその収入の大半を西鶴研究をはじめとする近世文学研究に注ぎ込んだ研究者でもある。本書は、真山青果の旧蔵書の管理を引き受けられた星槎グループ(幼稚園から大学院まで、さまざまなユニークな学びを実践する教育グループ)の全面的支援を受け、国文学研究資料館の協力を得て、蔵書調査・学術シンポジウム・展示などの実績を踏まえて出版された、さまざまな顔をもつ真山青果の仕事の再評価の書、それが『真山青果とは何者か?』(文学通信、2019年7月)である。編者は真山蘭里氏・日置貴之氏と私で、執筆者・対談者は総勢25名。T交遊関係、U小説家・研究者、V劇作家、W青果作品小事典、Xビジュアルガイドの五部構成。特別座談会として、中村梅玉・神山彰・中村哲郎・織田紘二・日置貴之の「青果劇の上演をめぐって」。読み応えあります。詳細はこちらを御覧いただきたい。
 私は本書成立の経緯を後書きとして書いているだけなのだが、不思議な縁つながりで本書は出来上がっている。25名の執筆者の皆様と、星槎グループの皆様に心より御礼申し上げます。
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