2022年05月21日

学生の同人誌に江戸時代紀行文の翻刻が

退職・転居にともなう様々な手続きと、後片付けがなかなか終わらない。とはいえ、新しい環境はなかなか新鮮で、買い物がてら近所を探訪し、美味しい物を安く売っているお店をみつけたりして喜んでいる。
そうしているうちにも、時間はどんどん過ぎてゆく。たのまれている講演もあと10日ちょっとだし、6月の学会のシンポジウムではディスカサントをつとめることになっている。ピンチヒッターで急遽頼まれたふたつ授業のうち、ひとつは大人数のため、準備もけっこう大変(リアクションペーパーにフィードバックするので)ではあるが、結構楽しくやらせてもらっているのは長年の習いか。
 さて、そういう中で、ここ数ヶ月、いただいた本についてコメントをずっとさぼっている。ブログの更新回数もめっきり減っているところ、反省している。おいつけるかどうかわからないが、少しずつ少しずつ・・・。
今日は、大阪大学の学生サークルが出している『待兼山文學』2022上半期号を紹介する。この同人誌、ありがちな文芸誌とはちがってちょっと学術色があるのが特徴で、以前私もインタビューを受けたことがある。
 今回の特集は、大阪大学の刀根山寮の寮長らへのインタビューと、マルグリッド・デュラス『破壊した、と彼女は言う』の読書会記録。そして投稿作品のなかになんと、自分の持っている写本紀行文の注釈付き翻刻(それも連載第1回)がある。この著者Sさんは、入学直後に、漢詩文の稿本(和本)について私に質問してきて驚かせてくれた人で今3回生。現在日本史専修で近世出版史や思想史をやりたいという人である。こういうものが阪大の学生の同人誌に載っていること自体、ここに書きとめておく価値のあることだろう。盛岡藩士が地元から江戸経由で甲府・伊勢・そして大阪へと旅した記録で、今回は江戸にいたるまで。非常に面白い史料で、この史料だけでも論文が書けそうだ。
 また本誌には「暖」というペンネームで「江戸文学と序文と勧善懲悪」という評論を書いている人がいるが、この人はこの人で、どうも私のよく知っている学生のようである・・・・。
 

  
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2022年04月15日

『語文』116・117

大阪大学国語国文学会が刊行する学会誌『語文』116・117号は3月下旬に刊行されている。金水敏先生と私の退職が同じ時になったため、二人の退休記念特輯となっている。素晴らしい研究・教育そして研究科運営・学内運営の実績のある金水先生と並んで名前を出していただけるのは、なんとももったいないことであるが、幸せなことでもある。
巻頭の送辞を書いていただいた岡島昭浩さんは、金水先生の後をになう国語学の教授でもあるが、私の大学時代の後輩でもある。過分なお言葉をいただきこれまた恐縮である。
さてこの特輯号には、私の教え子である5人の方が論文を掲載してくれている。当たり前のことだが、博士課程在学中までは、彼らの論文を私は必ず読んで何かコメントしてきたわけだが、博士論文を提出したあとは、もう彼らが自分で論文を書いていくわけである。ある意味、自由である。今回、仲沙織さん、辻村尚子さん、浜田泰彦さんの論文がそれにあたる(岡部祐佳さん、金智慧さんはどっかの段階でそれなりに私が見ている)。三者三様というか、それぞれが、独自の研究方法と文体をものしつつあるという印象を受けた。
浜田さんの「書名「奇談」素描−文事領域拡大の原動力」については、私の「奇談」研究を拡げるという意図をもつもので、実は少し驚いた。近世後期の読み物によく出てくる「奇談」の書名については、私も気にはしていたが、とても網羅的に調べられるものではないとちょっと諦めていたので。
いずれにせよ、彼らは既に学会の中堅といえる経験を積んできている、だがまだ一書を成すにいたっていないので、どういう本を書いてくれるのかというのが、私の退職後の楽しみになるだろう。
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2022年04月13日

サロン!雅と俗。大坂画壇の復権

 退職はしたものの、今度は引っ越しでてんやわんやである。本をふくめて、この20年間でいろんなモノがたまりにたまっている。しかし、なにを捨てるかを撰んでいる暇もない。なにはともあれ、こういうモノに溢れた住まいには退職後は住みたくないので、かなり思い切ってすてるのだが、本だけはなかなかむずかしい。70%くらい処分するのが理想なのだが、今の調子じゃ7%くらいじゃないの?そんなことでいいのか!
と自問自答していくうちにも引っ越し予定日はせまってくる。前期は週に2回非常勤があって、そのうち1回は京都である。そこで、その日に合わせて、「サロン!雅と俗 京の大家と知られざる大坂画壇」の展示を見に、京都国立近代美術館へきのう行ってきた。この展示だけは絶対に外せない。どんなに時間がなくても。
かくして会場へ行って1点1点見ていくと、もうこれが喜び、驚き、感激の連続で・・・・。
 とはいえ、最も注目すべきなのは、近世絵画といえば「京都画壇」という「常識」をひっくりかえし、「大坂画壇」の重要性、歴史的意義を打ち出し、若冲や蘆雪なども大坂画壇抜きでは語れないという視点である。展示図録の解説でいえば、関西大学名誉教授中谷伸生の主張である。
 最近、丹羽桃溪のことを調べることがあり、そこから大坂画壇の豊かさについて思いをいたしていただけに、まさに膝を打つ指摘であった。
 蕪村も秋成も大雅も若冲も、大坂と関わりがある。そして蒹葭堂というネットワークの中心にいる人物の画業にも照明があてられた。秋成作の涼炉には、葦と蟹の意匠。最近私が話した(書きもした・・・まだ公刊されていないが)「浪花人秋成」を象徴する意匠である。蒹葭堂日記の実物も。
 とにかく素晴らしい展示。ありがとう。観覧後、同館のカフェテラスで食事していると、春の爽やかな風が散り初めた桜の香りを運んできてくれた。
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2022年04月05日

古典の中の地球儀

荒木浩さん『古典の中の地球儀』(NTT出版、2022年3月)が刊行されました。
すでに川平敏文さんが、ブログで的確な書評を書いておられます。100%同感なので、何も言うことはないのですが、かつての同僚(私の研究室のお隣の研究室だった)である荒木さんの研究の進化(あるいは深化)と拡がりに感嘆している者として、「研究者荒木浩」について思うところを述べてみたく思います。
 荒木さんの論文を拝読していると必ず驚くような自在な展開があります。その連想力、繋げる力は、もちろん該博な知識を前提としているものの、単なる豊富な知識だけのものではありません。また、松田修のような強烈な感性による華麗な展開という個人プレーでもありません。全体としては「荒木節」になってはいますが、いわゆるアクの強さというものを感じさせない、ニュートラルな展開を可能にしているのは、むしろ余人を以て代えがたい文章芸だと感じます。
 さて、『古典の中の地球儀』ですが、文字通り古今東西の様々な文献(のみならず、映画や落語や演劇も)が出てきます。しかし、そういう博学を誇るタイプの本はもちろん他にもあるのですが、荒木さんの本はいつもひと味違います。
 それは咀嚼力というべきものではないかと私は見ています。旺盛な筆力を誇る研究者は、自分の読み込んだテキストと関わらせつつ考察を展開するケースがよく見受けられますが、荒木さんにはそういう「出た!」という定番テキストがそんなにないように思います。一見恣意的な結びつけでありながら、非常に興味深い関連テキストを持ってくる。論の展開を追っているうちに、そのテキストを補助線として論じるのが「それしかない」と思わせるほど魅力を持ってしまう。しかし荒木さんでない人が同じ論じ方が出来るのかと問うと、それは真似できなさそうだと思います。なにが違うのかというと、テキストの咀嚼力ではないでしょうか。その咀嚼は荒木流ではあるけれど、咀嚼そのものの強さによって、誰にも飲み込めるものにしてしまっている。すっと入ってくるのです。
 本書にはグローバルといえる魅力的な主題がいくつかあります。そのひとつが仏伝と源氏物語の関係。すでに荒木さんには源氏物語を論じた著書もありますが、本書は、インドでの客員教授体験談から紡ぎ出される異文化理解の文脈と、斎藤美奈子のいわゆる「妊娠小説」として『源氏物語』を読むという視点から、『源氏物語』が鮮やかなほど妖しい物語として再生します。仏伝が源氏物語の典拠であるというレベルにとどまっていないのです。古典文学再生のヒントが鏤められているのです。それは本書のひとつの「意匠」であると言い方もできるでしょう。
 
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2022年04月04日

退職のごあいさつ

ご挨拶が遅くなりましたが、3月31日をもって大阪大学を退職しました。
在職中は、様々にご迷惑をおかけしましたが、皆さんのおかげで無事に退職にいたりました。どうもありがとうございます。
4月1日からは、大阪大学招へい教員として受け入れていただき、いくつかの非常勤のコマを持つことになります。研究プロジェクトや出版企画にもいくつか関わっていきます。私自身、やり残した研究課題がありますので、それにも取り組んでいきたいと思います。
近いうちに、私の研究用のウェブサイトも立ち上げる予定です。
当面、本ブログでは、紹介しようと思っていたいくつかの研究書や研究雑誌、研究報告書についてぼちぼち紹介していこうと思います。
よろしくお願い申し上げます。
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2022年03月31日

近世中後期上方文壇人的交流データベース開始のお知らせ

私が代表を務めていた2017年度〜2020年度科研基盤(B)「近世中後期上方文壇における人的交流と文芸生成の〈場〉」は、コロナ禍のため調査が思うようにできず、2021年度まで繰り延べをいたしまして、先般ようやく成果報告書を刊行し、各方面に配布したところです。
さて、その報告書の送り状にも書きましたとおり、掲載した2つのデータベース、すなわち、小沢蘆庵自筆『六帖詠藻』と、妙法院蔵『妙法院日次記』の安永5年から寛政8年までの本文における、人的交流に関わる事項を一度に検索できるポータルサイトが出来ました。近世中後期の上方文壇でいかなる人的交流が生まれていたかを調べることができます。データ入力のための資料としては、蘆庵文庫研究会編『研究叢書486 小沢蘆庵自筆 六帖詠藻 本文と研究』(和泉書院、2017年)と、妙法院史研究会校訂『妙法院日次記』(第22までは続群書類従完成会、第23から25までは八木書店)を使用しました。『六帖詠藻』は人的交流資料の宝庫とされています。また18世紀後半における京都文壇でキーパースンの役割を果たした妙法院宮真仁法親王の人的交流は、文壇のみならず画壇研究からも注目されています。是非一度お試し下さい。
https://jintekikoryu.is-trm.net
いろいろな使い方が可能で、たとえば「妙法院日次記」を指定して、キーワードに「真仁」を指定、安永5年〇月から安永6年〇月と期間を指定すると、そのままその期間の真仁の人的交流年表として使えます。
このデータベースは研究分担者の加藤弓枝さんの御仲介で、鶴見大学の田辺良則先生、荻野菜々さんが作成して下さいました。どうもありがとうございました。
お使いになってお気づきの点などあれば、どうぞお知らせ下さい。
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2022年02月06日

名所の図像学 シンポジウム

2021年度大阪大学文学研究科国際共同研究力向上推進プログラム「デジタル文学地図の構築と日本文化研究・教育への貢献」主催、
科研基盤研究(B)「デジタル文学地図の構築と日本古典文学研究・古典教育への展開」共催の国際シンポジウム「名所の図像学」を下記の要領(オンライン)で開催いたします。
ご関心のおありの方は、是非ご参加ください。事前登録制(上限100名、締め切り2月13日)です。
ご興味のありそうな方にもお知らせ下されば幸いです。

国際シンポジウム 名所の図像学
2022年2月16日(水) 16:00〜19:00 Zoomによるオンライン

16:00 開会のあいさつおよび登壇者紹介

第1部 基調講演(16:05〜17:05)
大久保純一(国立歴史民俗博物館教授、町田市立国際版画美術館館長)
 広重の作品から考える名所絵の要件

第2部 パネルディスカッション(17:15〜19:00) 名所の図像学
【発表】
田代 一葉(静岡県富士山世界遺産センター学芸課准教授)
 江戸時代の屛風歌・障子歌にみる名所
真島 望 (成城大学非常勤講師)
 名所イメージの生成と固定 江戸地誌・名所絵本を例として
門脇 むつみ (大阪大学)
 名所絵の作り方
【討論】
大久保純一・田代一葉・真島望・門脇むつみ
ディスカサント ユディット・アロカイ
司会 飯倉洋一

事前登録のグーグルフォーム
https://docs.google.com/forms/d/1YAvAbGtBsqH4M1o2PMxjv3qirr4gAkPJW0Jh5lSFWbA/

チラシのQRコードからも登録できます。
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2022年01月30日

在職あと2ヶ月

研究の紹介を旨とするこのブログでありますが、最近さっぱりで自分のことばかり書いて申し訳ありません。ただいま科研報告書を絶賛作成中なのですが、ちょっと一息ついてこの文章を書いています。
1月に入ってあっというまに30日。いよいよ退職が迫ってきております。
 1月27日の木曜日には、学部生の日本文学演習を行いましたが、これが私の最後の授業となりました。最近発見され、昨年5月に影印翻刻が出たばかりの、秋成自筆『春雨物語』羽倉本を、各諸本比べながら地道に読んでいくオーソドックスな通年の演習で、受講者は20名ほど。コロナが収まった後期の10回ほどは、対面でやることも出来ました。2年生が大部分のクラスでしたが、彼らの成長は著しく、結構本気で面白がってくれて、毎時間時間オーバーになるくらいの活発な議論が展開されました。この未知のテキストを読むことで、最後がまとまるのではなく、開かれたまま終わる感じがよかったです。
 最後の議論では、研究者の議論かとまがうような高度な議論が展開されていて、オンラインながら思い出に残りそうな「最終授業」となりました。私はいわゆる最終講義はしませんので、これが正真正銘の最終講義となりました。
 山口大学で14年、大阪大学で21年、ほかいろいろなところで非常勤もやらせてもらい、あまりリピートはしない方なので、たぶん100以上の違った演習・講義をやったかなと思います。その予習と現場での学生とのやりとりが私の財産です。まあ、これからも多少教育に関わりますし、研究も従来通り続けますので、それに生かせればと思っています。
 とはいえ、まだまだ後片付けモードにはなっていません。主宰するシンポジウムが1本、登壇するシンポジウムが1本、書かねばならない論文が2本あるほか、卒論・修論・博論の試問が18本あって、そのうち9本が主査です。博論は5本で主査3本。最後まで走り続ける感じですね。採点の祭典もこれからです。最後までバタバタいたします。とりあえず次のエントリーは、シンポジウムのご案内になるでしょう。いましばらくお付き合いを。
 そして、研究書の紹介はもう少しあとになりそうです。申し訳ありません。
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2022年01月08日

浪花人秋成

あけましておめでとうございます。
年賀状は印刷したものの、まだ少ししか出せていません。この場を借りてお詫び申し上げます。
遅れてしまいますが、これから出しますので。

今年最初の記事は、大阪大学国語国文学会。院生3名の発表と、昨年4月に着任された渡邊英理さん、今年3月に退職する金水敏さんと私の講演があった。
(ブログでは基本さんづけなのでご理解ください)
とくに私たちの講演はひとり90分も時間をいただいていたので、全体としては大変な長丁場になった。
私は「浪花人秋成」と題して講演。新出秋成自筆羽倉本『春雨物語』の奥書に「浪花人」と秋成は記していた。それがこの問題を考えるきっかけ。調べていくと、最晩年に「浪花」「難波」を意識した歌や署名が多い。京都に住んでいるのに、である。そういえば過去帳にも、わざわざ「大坂の人、歌道の達人」と記す。これは、秋成が(60歳以後)京都に住んでいながら、「浪花人」を強く自覚し、また標榜していたということではないか。なぜ?
 それを追究してみたわけである。時間を余して議論したかったのだが、馬鹿なことに時間配分を失敗し、90分めいっぱいしゃべってしまった。とはいえ、オンライン懇親会のブレークアウトルームで、結構楽しい議論が出来たのでよかった。
 自分の出身と違う土地で暮らしたり、働いたりする人は多いから、この問題はじつは普遍的である。金水先生も挨拶の中で、阪大にきてからのアウェー感を語っていたけれど、それである。そのアウェー感を、空間的雅俗論と重ねて提示したのが今回の講演の趣旨であった。金水先生がいみじくも指摘されていたように、秋成のこの問題、私自身が大阪に出てきて感じたことと重ねていたのである。
 ブレークアウトルームの議論では、久しぶりに私のゼミの1期生、現ゼミ生、そしてOBの方、さらには国語学の人まで来てくれて、楽しい議論ができたことに感謝!である。
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2021年12月26日

雅俗論のゆくえシンポジウム

お久しぶりです。この間、多くの素晴らしい研究書がいくつも刊行されていて、ここで取り上げるべきなのですが、いましばらくお待ち下さい。
ただ、今日は下記のことを書くことをお許し下さい。

今日は「雅俗の会」主催で、「雅俗論のゆくえ」と題するシンポジウムがオンライン(teams)で開催されました。
私もパネリストとして参加。研究関係では今年度の仕事納めとなりました(教育・事務関係はまだまだあります)。
基調報告は、川平敏文さんの「雅俗論史」で、これまでの雅俗論研究史を整理するとともに、その問題点を指摘、見事な整理だったと思います。
ついで行われたパネルは、深沢了子さんが宗因、私が秋成、小林ふみ子さんが南畝、菱岡憲司さんが小津桂窓(と馬琴)に即して、雅俗の問題について、それぞれの立場から提言を行った。ディスカサントの勝又基さんも、シンポを総括して雅俗論の今後について提言した。フロアを含めての討論では、雅俗論の可能性と限界について議論がなされた。中野三敏先生の三回忌記念でもあった本シンポジウムには、ご子息の学而さんと泰而さんも参加されていた。
私としては非常に勉強になった3時間だったが、改めて雅俗論のもつせいポテンシャルと、その混沌性を強く認識させられた。
シンポジウムのあとで、メールを下さった方もいて、たいへん嬉しく手応えを感じた。
シンポのあとで、司会の川平さんとパネリストでちょっと反省会もどきのおしゃべりをしたのだが、ここで議論を終えるのはもったいないと思って、参加してくださった方にご意見・ご感想を求める提案をした。本シンポの内容は次号の『雅俗』に掲載されるということだが、通算20号を数えて一つの歴史をつくってきた『雅俗』の次の10年を見据えた特集になることを心から期待している。
久しぶりに、九州の研究会に戻った気分で楽しかった。川平さんをはじめとする雅俗の会のみなさん、そしてパネリストの皆さんに感謝である。
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2021年12月06日

親孝行の日本史

 勝又基さんの『親孝行の日本史』(中公新書、2021年11月)が少し前に刊行されたが、ようやく読了。最近いわゆる「こてほん」で一緒に仕事をして、いままた別の企画で協同しているのだが、実は私の大学院の後輩でもある。一回り以上歳下ではあるが、目覚ましく活躍されており、とくに海外での教育活動に熱心である。私も海外学会に誘っていただいて大変感謝している。
 江戸時代の親孝行といえば勝又さんの専売特許・・・、ところが本書は「日本史」を謳い、古代から近代までをカバーする通史的な本になっているので驚いた。中公新書では「〇〇の日本史」というタイトルの本がいくつか出ていてそれに連なるものである。
近代以降に結構力が注がれていて、私としてはここが一番面白く読んだ。
森鷗外や太宰治が江戸時代の「孝」をテーマとするテキストを典拠として創作した小説が、彼らのどのような視線で書き換えられ、別の主題にとって変えられたかを論ずる第六章、明治以後の孝子顕彰や疑似家族的天皇制国家デザインに親孝行推奨を絡めて考察する第七章など、なかなか面白い。いずれも江戸時代の孝についての見識がなければ書けない内容であることが重要だ。ちなみに鷗外の『最後の一句』の、事実を踏まえた創作については、阪大リーブル『江戸時代の親孝行』(大阪大学出版会)で湯浅邦弘さんも考察していたと思う。
 第六章は、江戸の「孝」思想と近代の「孝」観の違いを浮き立たせているが、第七章はむしろ「孝」における江戸と明治の連続を指摘しているようである。
第六章は文学を、第七章は政治を扱っているともいえるが、近代におけるこの両面のあり方を今後掘り下げていただければと思う。
 本書のあとがきには、校正中に急逝されたご母堂への謝辞が記されている。本書の出版はなによりの親孝行だっただろう。
 それだけではなく、本書は彼の師である(私の師でもある)、中野三敏先生の三回忌にあたるタイミングで出版されている。これは偶然ではなさそうだ。なぜなら、中野先生は、彼にとって(私にとってでもあるが)学問上の父であり、尊敬する父へ捧げられた本でもあると思われるからだ。
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2021年11月24日

上田秋成研究最前線

『アナホリッシュ國文學』10号(2021年11月)は、「特集〈文人〉の季節−上田秋成とその時代」と銘打って、久しぶりに「上田秋成」の雑誌特集が出た。岩波の『文学』が没後200年を記念して出して以来12年ぶりである。この間、秋成研究はどう進んできたかというと、それほど隆盛というわけではなかった。実は少し前某雑誌で秋成特集の編集を打診されたことがあったが、なんとなく時期ではないと思った。しかし、羽倉本『春雨物語』が今年春に誰でも見られるようになって、にわかに活気づいてきた。その前からこの特集は予定されていたから、これは本当に偶然なタイムリーである。この雑誌のあちこちに、羽倉本についての言及があるだけでなく、はじめての本格的な論文も2本出た。羽倉本の出現で、秋成研究の景色が変わる、その発端となる雑誌特集になったのである。
巻頭は高田衛先生と長島弘明さんの対談。ここ30数年、高田先生にいたっては50年ちかく、秋成研究を牽引しつづけてきたお二人である。高田先生の不朽の名著『上田秋成年譜考説』の出版裏話がはじめて具体的に公にされる。また新出羽倉本『春雨物語』出現の意義を長島さんが語る、そして村上春樹『海辺のカフカ』と秋成についての高田説や映画『雨月物語』談義。
論文についてもいくつか。稲田篤信さんの「「天津処女」考」は、春雨物語を絵詞として読むシリーズのひとつ。同話のエピソードが画題と重なる内容があるという指摘。私には魅力的な説にうつる(私も「目ひとつの神」を「絵のない絵巻」として読むことをかつて述べた)。
『雨月物語』では風間誠史さんの「仏法僧」論や井上泰至さんの「菊花の約」論。いずれも独自の問題設定が肝。問題設定が独自であれば、どんなに論じ尽くされた作品でも、新しい読みが可能であるという事例である。もっとも私は「仏法僧」をつまらないとは思わないし、「菊花の約」で「男色」を敢えて秘したとは思わないが。こういう作品論はやはり議論の俎上に載せないとね。西鶴は最近けっこう議論されたが、秋成は秋成でおおきな論点がなくみんなが好きに言いっ放しなような気もするから、どっかでそういう場を設けられればと思うが(菊花の約では木越さんと私の論争がちょっと前にあったし、空井伸一さんからもこっぴどく批判されていたから、おまえがやれって言われそうだ)。
一戸さんの橋本経亮(つねすけ)は、もう第一人者の貫禄か。それにしても「つねあきら」と読み誤られてきたことについて、かなり憤慨しておられるのは当然か。ただ冒頭「秋成」を「あきなり」と読めない人は一般人でもいないだろうとおっしゃっていますが、「シュウセイ」という人は結構いますね。
長島さんの羽倉本『春雨物語』論は、さすが緻密な、そして大胆な分析と考察。この本の出現によって、秋成が読者によって本文を変えるという、私や高松さ亮太さん(鈴木淳さんもそういう感じがある)の考え方を長島さんもちょっと認めてくださってきたというのは誤解でしょうか?
その高松さんも羽倉本を含めた春雨の本文系統論を図で示した。これを機会に春雨本文論が再び活発化してほしい(これも、おまえもやれよと言われそう)。
劉さん、丸井さん、高野さんら、秋成研究もようやく若い方が出てきて、世代交代の萌しを見せてきたのも嬉しいことです。
私の論は、雅俗往来という言葉で、堂上と地下の人的交流の中に秋成をおいて、とくに京都時代の文事を考えたものであります。ご批正を。
とりあえずは、上田秋成研究最前線を示した雑誌特集だったといえるだろう。

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2021年11月22日

学会記(国文研オンライン)

この土日は日本近世文学会。土曜は某研究会、日曜はリハーサルとていずれも9:30からZoom入り。閉会の言葉を言わねばならないのもあって、全ての発表を視聴しました。初日は、「見せる/魅せる 近世文学」というテーマで、海外2館をふくむ国内外6館の展示担当者によるパネルディスカッション。みなさんのそれぞれの努力と工夫に感服しました。「何を、どこを」「どのように」「誰に」見せるのか、そもそもどうやって展示会場に来させるのか、どうやって来た人をリピーターにするのか、また拡げてもらうのか、さまざまな課題に日々取り組んでおられる。それぞれの情報交換でもあり、今後の展望でもあったが、研究者コミュニティはそこにどう絡むのかという議論もあってよかったかもしれない。それにしても、まさに我々研究者が研究の何を、誰に、どう見せるのかという問題を突きつけたパネルでもあった。いずれにせよ、学会員以外、研究者以外に学会を開いていかねばならないとつくづく感じる。近世文学会はわずか650名のコミュニティであり、そこでしか通じない言葉で得々と語り合っている場合ではないのではと。
2日目の研究発表会では、やはり和本の表紙裏の紙に漉き込まれた人の毛髪から当時の食環境がわかるという文理融合研究であり、新しい潮流を見せたものである。もっともこの研究の目的は江戸時代の食環境(史)を明らかにするもので、江戸と上方の食生活の違いや、時代が下るにつれて食環境が変わってくる様子がデータから裏付けられるというのはすごい話であった。ただその結果は常識を覆すというものではなく、その先、あるいはそれが文学研究にどうフィードバックされるのかという点が今後の課題なのだろう。この文理融合研究、今は「文理融合できること」探しの段階のように思える。その点、古地震研究の文献学との融合は、何を明らかにするかが先にある点で、必然性というかモチベーションが高い。我々の立場から言えば理系の研究に資することは本当に大事なことであるが、一方で理系的方法をとりこまねばどうしてもわからない(料紙や墨の年代測定はそのひとつである)ところからの文理融合案件を実現していく必要があるかと思う。これには学術行政の問題でもあり、たとえば学会や国文研などが議論を起こしていくべき問題だろう。
オンライン学会ということで、質疑応答の管理がマニュアル化して、スムースだったし若い人の質問が多かったことはよかったと思う。650人のコミュニティを膨らます方向はほぼ望みがないので、他の学会や研究コミュニティとの連携、今回のような美術館のようなところとの連携、一般の方への開放など、大胆に今後を展望していく必要があるなと思ったが、若い人たちの感度には期待がもてると思っている。
学会報告というよりも、私の感想記になってしまいました。
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2021年11月12日

資料論がひらく軍記・合戦図の世界

井上泰至さん編の『資料論がひらく軍記・合戦図の世界−理文融合型資料論と史学・文学の交差』(勉誠出版、2021年11月)は、新たな学術モデルを提唱する共同研究の成果報告書といえる。
内容的にいえば、2つのポイントがあって、それは副題に如実なように、@資料論における理文融合とA史学・文学の学際的研究である。
いずれも、井上さんの立場からいえば、文理融合であり、文学と史学の交差であるのだか、タイトルはあえて、理と史を先に出している。
相手側へのリスペクトの表れである。これは態度論として重要だ。
ただ「資料論がひらく」というのはタイトルだけからはよくわからなかった。これは「資料の新しい見方、新しい扱い方によって見えてくる」という意味のようである。とくに料紙の科学的分析・計量テキスト分析・色材の分析など。確かにこのような論文は、単発ではみることがあっても、まとまった形でこのように出されると、インパクトがある。とくに冒頭の石塚晴通氏の「コディコロジー(文理融合型総合典籍学)の実践」は長年の研究の積み重ねの上での立論だけに説得力がある。
そこに「理文融合」があるのだが、ただこの場合も、理系と文系の研究者が共在するものと、理系的な方法を文系研究者が使うという二種類があって、本書の場合はほぼ後者である。この中ではシステム工学が専門の日比谷孟俊さんが理系であるが、すでに日比谷さんは吉原についての本も出していて、日比谷さん自身が理文融合を体現化しているのだ。京大の古地震研究会のように、理系と文系のさまざまな分野の研究者が一堂に会するというのとはちょっと違う。ただ、理系的方法を駆使することでこれまで見えていなかったもの、思い込まれていたものが、新たな相貌を見せるという点で、この共同研究の問題提起の意味は少なくない。文献的学的研究に加えて書誌学的研究も必要なことが、佐々木孝浩さんや高木浩明さんらによって研究者に周知されてきたが、これにくわえて料紙や色材の科学的分析も必須の知識になってくるのかもしれない。
もうひとつの史学と文学の交差の問題については、軍記や合戦図という研究対象がそれを必然にしたと言えるが、これまではそれぞれが別々の価値観で別々にやっていたというのが実情なので、実録や歴史を題材とする読本研究などでも、この動きが起こると面白い。
なお、本の作りとして、各論にコメントが付されているのは効果的で、論文の理解自体を助けている。日本史系の学術誌では見かける方式だが、日本文学系ではほぼ見ないので、大いに参考になると思う。
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2021年11月03日

木越治さんから鼓舞される2冊の本

木越治さんが亡くなって3年半がたつ。しかし、木越さんの存在感は薄れないどころか、ますます大きくなっているのではないか。
「木越治さんをしのぶ」と最初投稿に題したが、実際は「木越治さんから鼓舞される」2冊の本だったので、そう書きかえた。
期せずしてか、期してか、私は知らないが、ほぼ同時期に、木越治さんの遺稿をベースにした本が2冊出たのである。

到着順に紹介する。まず木越俊介・丸井貴史編『ひとまずこれにて読み終わり』(2021年10月、文化資源社)。木越秀子さんと俊介さんからお送りいただいた。
瀟洒な文庫本のスタイルで、木越さんの多くのエッセイから編者が選び抜いたものだ。どれを読んでも木越さんらしく、文学と映画と音楽と人への愛情が感じられる。私だけかもしれないが、木越さんの文章、とくに常体の文章で「と思う」という言い方がよく出てくるように感じられる。これは感じられるだけかもしれない。ただ、この「と思う」というところに、木越さんの思いが非常に率直に語られている気がしている。「と思う」なんて、誰でも使うだろう、と言われそうだが、木越さんの「と思う」は何か強い。
そして木越さんのエッセイに感じられるのは若さである。膨大な読書量をほこるのに、衒学的なところがなく、いつも好奇心旺盛であり、若者に対して同じ目線で語るところがある。若者に対する敬意があり、「今の若い者は」的発想がない。それがすごいな、と思う。

そして今日届いたのが木越治・丸井貴史編『読まなければなにもはじまらない』(文学通信、2021年11月)。木越さんが書こうとして残された原稿の続きを丸井さんが書こうとしたが、それは不可能だと考え、丸井さんと同世代の研究者仲間、教育現場や社会で古典に関わり続けている人に声をかけ、「古典を読む」ことをテーマにした文章を集め、されに創作者たちとの座談会を付して、木越さんの遺志を継ぐ形を整えた。
結果として、本書は素晴らしい本になった。やはり若い人たちだけで作られているということが大きいのではないか。本書は一種の「古典文学への招待」本であるが、非常に爽やかで既視感のない仕上がりになっている。木越さんの遺した原稿の部分は「語り」から古典文学を読む実践を示したものだが、その中心テーマとなるはずだった近世文学の語りの解説が途中で絶えたままになった形であった。しかし、これだけでも非常にユニークな試みであった。すこし私的なことを言えば、一時春雨物語の語りについて論文を書いていた頃、木越さんにはとても重要な切り口だと、大分励まされた。木越さんは創作者に寄り添う人なので作者の語りの工夫に注目されるのだと思う。私はどちらかといえばその後読者側から作品を読む方向にシフトして行く。そこで「菊花の約」論争にいたったかと思うが、もう少し議論ができていればと惜しまれる。
さて、木越さんの遺志を継ぐ若い人たちの論考12編と、座談会。論考はいずれも、古典入門の授業を想定したような語り口になっている。つまりオムニバス授業の体裁である。ほとんどの方がよく知っている方なので、楽しく読み進められる。高松亮太さんは、最近出現した羽倉本も加えた春雨物語諸本論。なぜ春雨物語の本文は、同じ人物が書いているのに揺れ動いているのか、従来「推敲」という観点から考えられてきたが、本文を与える読者に応じて秋成は本文を変えたのではないかというのが私の仮説で、高松さんもその立場のようだ。孤立無援でなくなったことは大変嬉しい。いま学部で羽倉本を読んでいるが、学生は諸本の異同についてかなり興味を持ってきていて、深く考察された発表をする。意外にも古典入門の入り口になりうるんだな、とこのごろ思っているところである。現場の教員である加藤十握さんは冒頭「古典は本当に必要なのか」論争に触れる。古典教育について正面から論じた文章で、非常に参考になった。そして座談会は、オムニバス授業のスペシャル回か。なんだか頼もしくなった。
 その他の論考にひとつひとつ触れることはできないが、いずれも「読む」ことの可能性を示したものである。若者たちによる若者たちのための古典導入本、ありそうでなかった本が、木越治さんの遺稿から展開して成ったことに感慨を覚えたのである。




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