東海近世文学会のブログが開設されています。
5月研究会は「豪華3本立」のようです。(昨日の京都近世小説研究会の豪華3本立は期待にたがわぬ充実ぶりでした。参加者は通常回での新記録28名。そのうち馬琴研究者、東京から駆けつけた人もふくめ、10名ほど)
ちなみにブログの担当は、加藤弓枝さん。
最近、好著『細川幽斎』(笠間書院)を上梓されました。笠間の歌人シリーズの1冊。加藤さんの専門は小沢蘆庵ですが、このシリーズでは、あえて専門ではない人を指名することがあるようです。自分の専門のことを書くと、どうしても「守り」に入ってしまいますが、専門外になると「攻め」の姿勢で書けるということがありますが、加藤さん、いい意味で、伸び伸びと書いていますね。
2012年05月20日
2012年05月18日
チュラーロンコーン大学との国際研究交流集会
大阪大学文学研究科は、タイのチュラーロンコーン大学との国際研究交流集会を開催している。今回は3回目である。担当は合山林太郎氏。若い学生中心の研究集会である。以下ご案内する。
第3回 大阪大学・チュラーロンコーン大学日本文学国際研究交流集会−知がむすぶ絆−
日時:2012年6月2日(土)午後2時〜6時
会場:大阪大学豊中キャンパス 全学教育総合棟T(1階)・開放型セミナー室
詳細はこちらをご覧下さい。
なお、合わせて、以下のワークショップを開催します。
ワークショップ 異言語環境において日本近代小説を読む−太宰治『黄金風景』を例に−
日時:2012年6月2日(土) 午前11時〜午後1時
会場:大阪大学豊中キャンパス 全学教育総合棟T(1階)・開放型セミナー室
日本文学研究室では、今年、留学生が集まり、皆で議論しあいながら、太宰治『黄金風景』を、自身の言語へ翻訳するという試みを行いました。中国語、英語、韓国語、ヒンディー語、ロシア語、タイ語、ウルドゥー語など、様々な言語を操ることのできる学生が、現在の私たちの研究室には在籍しています。
翻訳において感じた問題点は、それぞれの言語によって異なるものでした。このワークショップでは、各言語での作業過程について担当者が報告し、「日本の文学作品は世界の人々にどう読まれるのか」というテーマについて議論してゆきます。
詳細はこちらをご覧下さい。
第3回 大阪大学・チュラーロンコーン大学日本文学国際研究交流集会−知がむすぶ絆−
日時:2012年6月2日(土)午後2時〜6時
会場:大阪大学豊中キャンパス 全学教育総合棟T(1階)・開放型セミナー室
詳細はこちらをご覧下さい。
なお、合わせて、以下のワークショップを開催します。
ワークショップ 異言語環境において日本近代小説を読む−太宰治『黄金風景』を例に−
日時:2012年6月2日(土) 午前11時〜午後1時
会場:大阪大学豊中キャンパス 全学教育総合棟T(1階)・開放型セミナー室
日本文学研究室では、今年、留学生が集まり、皆で議論しあいながら、太宰治『黄金風景』を、自身の言語へ翻訳するという試みを行いました。中国語、英語、韓国語、ヒンディー語、ロシア語、タイ語、ウルドゥー語など、様々な言語を操ることのできる学生が、現在の私たちの研究室には在籍しています。
翻訳において感じた問題点は、それぞれの言語によって異なるものでした。このワークショップでは、各言語での作業過程について担当者が報告し、「日本の文学作品は世界の人々にどう読まれるのか」というテーマについて議論してゆきます。
詳細はこちらをご覧下さい。
2012年05月13日
説話集の構想と意匠
私のこの偏奇なブログは、いわゆる書評ブログではない。公平とか目配りということとは無縁であり、私自身のわがままできまぐれな選択と、その時の気分で、本や論文の感想を記している。だから、時々「取り上げてくださってありがとうございます」とお礼を言われると、大変恐縮してしまう。ある選択基準があって、選んでいるのではない。その本や著者への自分の関わりや、テーマについての自分自身の思いつきをだらだら書くのは、これが書評ではないからである。
さて、今日は、荒木浩著『説話集の構想と意匠 今昔物語集の成立と前後』(勉誠出版、2012年4月)をめぐって、次第不同に(?)語りたい。
私は前任校の演習の授業で、『宇治拾遺物語』を2,3年取り上げていたことがあった。私の所属していた教養部が解体、人文学部に分属することになったが、人文学部にはすでに近世文学専門の先生がおられたので、近世以外の授業をする必要があったという事情による。しかし、私にとっては、専門分野の学生を相手に演習を行うのは初めてでもあり、教養部時代のゼミ(こちらはこちらでとてもよかったのだが)とは違った意味で、非常に楽しかった。のちに西鶴の説話集を読むときにもなにかヒントになっているかもしれない。
そこで私の出会った論文に、荒木浩さんの「次第不同の物語」や「異国へ渡る人々」などがあった。独自の発想とアプローチの仕方に感心したわけだが、数年後、研究室もお隣の、同僚になった。同僚になる前は、「中世説話研究者」という認識だったのだが、中世とか説話とか、日本文学とかを超えた、とんでもない知的巨人であることがだんだんわかってくる。研究のことだけではなく、いつもバランスのいい感覚で、発言され、私たちの研究室に大きな存在感を占めていた。そのご転出で、わが教室は喪失感を味わったものだ。しかし、新天地でのご活躍をうかがうにつけ、それを遠くから祝福したい気持ちをずっと持ち続けている。
だいぶ前から、論文集の構想があることはうかがっていたが、ついに出たなと思った。この本文だけでも700頁を超える大著は、しかし荒木さんの研究の集大成ではない。まだまだ一部にすぎない。それでも、切り口のユニークさ、エキサイティングな論の展開、緻密で周到な用例探索、広がる問題の大きさ、そして何より面白さ、どれをとっても一流である。とても全部をすぐ読めるものではないが、半分くらいは初出を読ませていただいているし、今回の本で、かなりの書き直しがあるようだが、すでに2本は拝読。そのように引き込む力があるのだ。
勉誠出版であれば、それなりに「意匠」を凝らした装丁もあり得たはずなのに、あえて紺色クロスカバー、箱入りの、典型的な学術出版の形にしていることには、荒木さんの美意識を感じる。あとがきにも書かれているように、メイキングについて言及することにも禁欲的であるが、論文の取捨選択、配列、書き換え、造本について、さまざまな思い入れがあるはずだ。
冒頭論文「〈今は昔〉の文学史―起源と再生―」は、〈今は昔〉で書き始められる物語の語りについて、『竹取物語』がこれを使用するが、『源氏物語』の出現によって衰退、しかし説話物語集の起語として復活するという流れを前提に、スリリングに論じていく。とはいえ、荒木さんの論文は、簡単な要約を許さない。大きな構想世界を持つゆえに、それへの展望と、単純な図式的理解を拒否する留保と、膨大な先行文献への目配りが、さまざまに交差するのである。、荒木さん自身があとがきでいうように、この知的営みに本当についていける読者が多くはないことは事実だろう。しかし、優れた学問的達成とはそういうものである。この本がすごいということは、まず誰もがわかるわけで。
そういう荒木さんには、さらに、夢の問題や、源氏物語論、徒然草・方丈記など、一書をなすべきテーマがさまざまにある。これらをまた世に問いつつ、一般読者向けにも、ぜひ本を書いていただきたいと切に希望する。
さて、今日は、荒木浩著『説話集の構想と意匠 今昔物語集の成立と前後』(勉誠出版、2012年4月)をめぐって、次第不同に(?)語りたい。
私は前任校の演習の授業で、『宇治拾遺物語』を2,3年取り上げていたことがあった。私の所属していた教養部が解体、人文学部に分属することになったが、人文学部にはすでに近世文学専門の先生がおられたので、近世以外の授業をする必要があったという事情による。しかし、私にとっては、専門分野の学生を相手に演習を行うのは初めてでもあり、教養部時代のゼミ(こちらはこちらでとてもよかったのだが)とは違った意味で、非常に楽しかった。のちに西鶴の説話集を読むときにもなにかヒントになっているかもしれない。
そこで私の出会った論文に、荒木浩さんの「次第不同の物語」や「異国へ渡る人々」などがあった。独自の発想とアプローチの仕方に感心したわけだが、数年後、研究室もお隣の、同僚になった。同僚になる前は、「中世説話研究者」という認識だったのだが、中世とか説話とか、日本文学とかを超えた、とんでもない知的巨人であることがだんだんわかってくる。研究のことだけではなく、いつもバランスのいい感覚で、発言され、私たちの研究室に大きな存在感を占めていた。そのご転出で、わが教室は喪失感を味わったものだ。しかし、新天地でのご活躍をうかがうにつけ、それを遠くから祝福したい気持ちをずっと持ち続けている。
だいぶ前から、論文集の構想があることはうかがっていたが、ついに出たなと思った。この本文だけでも700頁を超える大著は、しかし荒木さんの研究の集大成ではない。まだまだ一部にすぎない。それでも、切り口のユニークさ、エキサイティングな論の展開、緻密で周到な用例探索、広がる問題の大きさ、そして何より面白さ、どれをとっても一流である。とても全部をすぐ読めるものではないが、半分くらいは初出を読ませていただいているし、今回の本で、かなりの書き直しがあるようだが、すでに2本は拝読。そのように引き込む力があるのだ。
勉誠出版であれば、それなりに「意匠」を凝らした装丁もあり得たはずなのに、あえて紺色クロスカバー、箱入りの、典型的な学術出版の形にしていることには、荒木さんの美意識を感じる。あとがきにも書かれているように、メイキングについて言及することにも禁欲的であるが、論文の取捨選択、配列、書き換え、造本について、さまざまな思い入れがあるはずだ。
冒頭論文「〈今は昔〉の文学史―起源と再生―」は、〈今は昔〉で書き始められる物語の語りについて、『竹取物語』がこれを使用するが、『源氏物語』の出現によって衰退、しかし説話物語集の起語として復活するという流れを前提に、スリリングに論じていく。とはいえ、荒木さんの論文は、簡単な要約を許さない。大きな構想世界を持つゆえに、それへの展望と、単純な図式的理解を拒否する留保と、膨大な先行文献への目配りが、さまざまに交差するのである。、荒木さん自身があとがきでいうように、この知的営みに本当についていける読者が多くはないことは事実だろう。しかし、優れた学問的達成とはそういうものである。この本がすごいということは、まず誰もがわかるわけで。
そういう荒木さんには、さらに、夢の問題や、源氏物語論、徒然草・方丈記など、一書をなすべきテーマがさまざまにある。これらをまた世に問いつつ、一般読者向けにも、ぜひ本を書いていただきたいと切に希望する。
2012年05月09日
ふらんすの北斎漫画
この1月に縁あって、ニースのシェレ美術館所蔵の『北斎漫画』15編15冊の調査のお手伝いをした。その調査報告が柏木加代子・飯倉洋一「ニース・シェレ美術館所蔵『北斎漫画』についての調査報告」(「京都市立芸術大学美術学部、2012年3月)としてまとめられた。
三編に「北遊斎」なるものの書き入れがあり、「すわ!自筆書き入れ?」とニースの関係者から、調査鑑定を依頼された柏木加代子先生が、研究プロジェクトの連携研究者(調査要員)として私に声をかけてくださったのが、ことのはじまりだった。
残念ながら、自筆書き入れ本ではなかったものの、伝来系統、旧所蔵者など興味深い事実が明らかになってきた。なかでも、注目すべきは15編(北斎死後に出版されたもの)で、これは表紙を欠くが、こよりで仮綴じされており、扉の表題の部分が、本来「北斎漫画十五編」とあるはずのところ、まったく彫られておらず木目が見える。どうも見本刷のようである(収集者もそれを認識している)が、他に伝本はあるのだろうか?見本刷であれば、そんなに部数はないはずで、稀覯本だと思われる。永田生慈氏の北斎漫画についての書誌的な論考をみたが、見本刷の話は出てこない。しかし絵本研究に疎いので見落としているかもしれない。
その他の編も、取り合わせ本とはいえ、目利きの収集家が集めたのではないかと思われる。12編は色刷ではなく、初刷かと思われる墨刷。だが何分北斎漫画の伝本調査など、とても無理なので、広くご教示を乞いたいところである。
三編に「北遊斎」なるものの書き入れがあり、「すわ!自筆書き入れ?」とニースの関係者から、調査鑑定を依頼された柏木加代子先生が、研究プロジェクトの連携研究者(調査要員)として私に声をかけてくださったのが、ことのはじまりだった。
残念ながら、自筆書き入れ本ではなかったものの、伝来系統、旧所蔵者など興味深い事実が明らかになってきた。なかでも、注目すべきは15編(北斎死後に出版されたもの)で、これは表紙を欠くが、こよりで仮綴じされており、扉の表題の部分が、本来「北斎漫画十五編」とあるはずのところ、まったく彫られておらず木目が見える。どうも見本刷のようである(収集者もそれを認識している)が、他に伝本はあるのだろうか?見本刷であれば、そんなに部数はないはずで、稀覯本だと思われる。永田生慈氏の北斎漫画についての書誌的な論考をみたが、見本刷の話は出てこない。しかし絵本研究に疎いので見落としているかもしれない。
その他の編も、取り合わせ本とはいえ、目利きの収集家が集めたのではないかと思われる。12編は色刷ではなく、初刷かと思われる墨刷。だが何分北斎漫画の伝本調査など、とても無理なので、広くご教示を乞いたいところである。
2012年05月05日
「海賊」と「漁父辞」
「海賊」の典拠を新たに指摘。村谷佳奈「「海賊」の典拠と主題―「漁父辞」と『土佐日記』―」『金沢国語国文』37号。この人、学部生だって。えーっ。演習の成果ですか?それにしてもすごいな。これまでまったく指摘のない典拠、それもかなり重要な典拠、そして有名すぎる典拠を指摘。しかも、そのヒントというか、ほとんど答が、冊子本本文に示されていたとは。先生はあの、一戸渉氏。うーん、とにかく、すごいわ。
追記1。出所が諸儒箋解本『古文真宝』「漁父辞」とその注であるということ。秋成の晩年の和文は『古文真宝』所収の漢文を和文化したり、それを踏まえたものが少なくない(『藤簍冊子』『文反古』)ので、そのあたりも補強材料になるだろう。
追記2.典拠の意味を過大視して、典拠の隠蔽といったり、典拠を読みかえといったりするのは、いかがでしょうね。論文にするには、そういう方向で書かざるを得ないとは思いますが。
いずれにせよ、学部生の論文としてはレベルすごく高いです。脱帽でございます。
追記1。出所が諸儒箋解本『古文真宝』「漁父辞」とその注であるということ。秋成の晩年の和文は『古文真宝』所収の漢文を和文化したり、それを踏まえたものが少なくない(『藤簍冊子』『文反古』)ので、そのあたりも補強材料になるだろう。
追記2.典拠の意味を過大視して、典拠の隠蔽といったり、典拠を読みかえといったりするのは、いかがでしょうね。論文にするには、そういう方向で書かざるを得ないとは思いますが。
いずれにせよ、学部生の論文としてはレベルすごく高いです。脱帽でございます。
2012年05月04日
京都近世、豪華3本立
京都近世小説研究会5月例会はかなり豪華版。
◆日時:5月19日(土)午後3時より
◆場所:同志社女子大学今出川校地 ジェームス館2階 201号室
参照(http://www.dwc.doshisha.ac.jp/access/imadegawa/campusmap.html)
◆発表:
神谷勝広氏「〔資料紹介〕馬琴の自作批評ー石水博物館蔵『著作堂旧作略自評摘要』ー」
廣瀬千紗子氏「菊花の約・浅茅が宿・青頭巾―「待つ」と「約束」をめぐって」
ローレンス・マルソー氏「鳥山石燕の「和漢」ー『画図・百鬼夜行』シリーズを中心にー」
4月例会でちょこっとうかがった神谷さんの資料紹介は、馬琴研究者に衝撃を与えること間違いなし。とんでもないものが出てきた。吃驚。廣瀬さんの雨月論は酒席で時々聴いたことがあるが、発表されるのは初めて。かつて私は廣瀬さんの「蜘蛛の糸」論に衝撃を受けたことがあるが、未発表の「すごい読み」をたくさん持っている人だ。どんどん公開してほしい。帰国前に発表されるマルソーさんは現在京都近世の常連だが、コメントを聴いていると日本の研究者かと思うほど細かいことをゆるがせにしない。
この豪華3本立。講演会なみのラインナップ。
◆日時:5月19日(土)午後3時より
◆場所:同志社女子大学今出川校地 ジェームス館2階 201号室
参照(http://www.dwc.doshisha.ac.jp/access/imadegawa/campusmap.html)
◆発表:
神谷勝広氏「〔資料紹介〕馬琴の自作批評ー石水博物館蔵『著作堂旧作略自評摘要』ー」
廣瀬千紗子氏「菊花の約・浅茅が宿・青頭巾―「待つ」と「約束」をめぐって」
ローレンス・マルソー氏「鳥山石燕の「和漢」ー『画図・百鬼夜行』シリーズを中心にー」
4月例会でちょこっとうかがった神谷さんの資料紹介は、馬琴研究者に衝撃を与えること間違いなし。とんでもないものが出てきた。吃驚。廣瀬さんの雨月論は酒席で時々聴いたことがあるが、発表されるのは初めて。かつて私は廣瀬さんの「蜘蛛の糸」論に衝撃を受けたことがあるが、未発表の「すごい読み」をたくさん持っている人だ。どんどん公開してほしい。帰国前に発表されるマルソーさんは現在京都近世の常連だが、コメントを聴いていると日本の研究者かと思うほど細かいことをゆるがせにしない。
この豪華3本立。講演会なみのラインナップ。
2012年05月03日
剪燈新話
日本文学協会近世部会の出す『近世部会誌』第6号(2012年3月)。
編集後記によれば「その入手方法は謎に包まれている」。
ありがたいことに今号もまた入手できました。どうもありがとうございます。
さて、今号は20頁。7本。基本的にここには研究余滴的な文章を書くようですが、なかなか看過できない佳品があるので要注意。
執筆者は近藤瑞木・水原信子・木越秀子・紅林健志・木越治・風間誠史・閻小妹だが、7名中、か行が5人もいますね。どうでもいいことですが。
ところで驚いたのは、このうち木越秀子さんと閻小妹さんのお二人が拙論を引いてくださっていること。どうも古傷をつつかれているような気分。利用はしてくださっているが、批判(ともとれる指摘)もチクチク。とくに閻さんの「再論『剪燈新話』の対偶構成」は、私の談義本・初期読本の方法として挙げた、寓言の怪異作品への応用(「怪異と寓言」、『西鶴と浮世草子の研究』2、2007で5つほどあげました)が、すでに『剪燈新話』にあるから、それとの関係を考えねばならないと、注で指摘されている。
おっしゃる通りで、中国文言小説・白話小説から学んだ部分を明らかにしていく必要がありますね。その上で奇談の方法として考えればよいかと思います。拙論を使っていただいたこととともにご教示どうもありがとうございます。
編集後記によれば「その入手方法は謎に包まれている」。
ありがたいことに今号もまた入手できました。どうもありがとうございます。
さて、今号は20頁。7本。基本的にここには研究余滴的な文章を書くようですが、なかなか看過できない佳品があるので要注意。
執筆者は近藤瑞木・水原信子・木越秀子・紅林健志・木越治・風間誠史・閻小妹だが、7名中、か行が5人もいますね。どうでもいいことですが。
ところで驚いたのは、このうち木越秀子さんと閻小妹さんのお二人が拙論を引いてくださっていること。どうも古傷をつつかれているような気分。利用はしてくださっているが、批判(ともとれる指摘)もチクチク。とくに閻さんの「再論『剪燈新話』の対偶構成」は、私の談義本・初期読本の方法として挙げた、寓言の怪異作品への応用(「怪異と寓言」、『西鶴と浮世草子の研究』2、2007で5つほどあげました)が、すでに『剪燈新話』にあるから、それとの関係を考えねばならないと、注で指摘されている。
おっしゃる通りで、中国文言小説・白話小説から学んだ部分を明らかにしていく必要がありますね。その上で奇談の方法として考えればよいかと思います。拙論を使っていただいたこととともにご教示どうもありがとうございます。
2012年04月23日
現代の連歌
杭全神社編『平野法楽連歌 過去から未来へ』(和泉書院、2011年4月)が刊行された。
1993年に同体裁の『平野法楽連歌 過去と現在』が刊行されている。
昭和56年に復活した杭全神社の連歌は現在も続いている。
大阪大学文学部の土橋文庫は、平野の連歌資料が多くあり、今回の本にも竹島一希さんが翻刻紹介してくださっている。
それにしても現代の連歌というのは実際にどういう句が読まれるのだろうか、その疑問は本書後半の現代の平野法楽連歌記録を見れば明らかである。そして、これを担ってきた方々による座談会が面白い。連歌の上手とは、自分が輝く句を作る人ではなく、前句を輝かせる人だとか、連歌は最終的には奉納というところに行くとか、付けるときは含蓄のある話が次々に出てくるのである。そして、きちんとこれまでの営みを検証し、自己批判もしているのに感心する。
この本を読むと、お、連歌っていいな、やってみたいなと思わせる。連句をやる前にやっぱ連歌だな、などと思ってしまうのである。
1993年に同体裁の『平野法楽連歌 過去と現在』が刊行されている。
昭和56年に復活した杭全神社の連歌は現在も続いている。
大阪大学文学部の土橋文庫は、平野の連歌資料が多くあり、今回の本にも竹島一希さんが翻刻紹介してくださっている。
それにしても現代の連歌というのは実際にどういう句が読まれるのだろうか、その疑問は本書後半の現代の平野法楽連歌記録を見れば明らかである。そして、これを担ってきた方々による座談会が面白い。連歌の上手とは、自分が輝く句を作る人ではなく、前句を輝かせる人だとか、連歌は最終的には奉納というところに行くとか、付けるときは含蓄のある話が次々に出てくるのである。そして、きちんとこれまでの営みを検証し、自己批判もしているのに感心する。
この本を読むと、お、連歌っていいな、やってみたいなと思わせる。連句をやる前にやっぱ連歌だな、などと思ってしまうのである。
2012年04月21日
三弥井の春雨物語
三弥井書店の古典文庫シリーズ近世編の一冊として『春雨物語』が刊行された。2012年4月。井上泰至・一戸渉・三浦一朗・山本綏子による本文校訂、注、そして読みの手引きを備える。文化五年本で全編に注釈がつくのは、はじめての事。これまでは富岡本と文化五年本の取り合わせ本だった。
またこれだけ詳細な読みの手引きのついた注釈書はこれまでにないので、『春雨物語』を少し丁寧に読んでみようと思う読者には、好適の本である。最新の研究も踏まえており、講読のテキストにもふさわしい。「海賊」(一戸渉担当)などは重要な新見が盛り込まれていますねえ。
ただ各編の注・読みの手引きに、精粗差がなきにしもあらず。これは分担執筆の宿命ですね。
とまれ、さきの角川文庫に続き、『春雨物語』が読みやすい形で提供されたことは慶賀慶賀。
さっき拝受したばかりなので、とりあえずのご紹介です。
またこれだけ詳細な読みの手引きのついた注釈書はこれまでにないので、『春雨物語』を少し丁寧に読んでみようと思う読者には、好適の本である。最新の研究も踏まえており、講読のテキストにもふさわしい。「海賊」(一戸渉担当)などは重要な新見が盛り込まれていますねえ。
ただ各編の注・読みの手引きに、精粗差がなきにしもあらず。これは分担執筆の宿命ですね。
とまれ、さきの角川文庫に続き、『春雨物語』が読みやすい形で提供されたことは慶賀慶賀。
さっき拝受したばかりなので、とりあえずのご紹介です。
2012年04月16日
和漢朗詠集の版本
たくさんあるんだろうなあ、とかねてより思っていたが、調べたことはない。
でも、それを調べるには、まず明星大学人文学部日本文化学科を訪ねるといいかもしれない。
6月に日本近世文学会が開かれる明星大学の人文学部スタッフが、このたび『明星大学人文学部日本文化学科所蔵 古典籍目録』(2012年3月)を刊行した。「一般書」「近世木活」「和漢朗詠集」の三部に分かれている。
「一般書」の部にも、人情本や孝行物など「ちょっと集めているな」というジャンルがみられるが、近世木活の19点、和漢朗詠集の版本105点は、コレクションといえるもの。とくに朗詠集は圧巻である。青裳堂から一括購入したということ。
1点1点、図版と書誌・解説つき。近世学会で配られるそうであるから、「学会参加すべし」ですね。
でも、それを調べるには、まず明星大学人文学部日本文化学科を訪ねるといいかもしれない。
6月に日本近世文学会が開かれる明星大学の人文学部スタッフが、このたび『明星大学人文学部日本文化学科所蔵 古典籍目録』(2012年3月)を刊行した。「一般書」「近世木活」「和漢朗詠集」の三部に分かれている。
「一般書」の部にも、人情本や孝行物など「ちょっと集めているな」というジャンルがみられるが、近世木活の19点、和漢朗詠集の版本105点は、コレクションといえるもの。とくに朗詠集は圧巻である。青裳堂から一括購入したということ。
1点1点、図版と書誌・解説つき。近世学会で配られるそうであるから、「学会参加すべし」ですね。
2012年04月13日
「わかった」ことをことばで伝える
研究室の新2年生を歓迎する宴で、芥川を研究している比較文学の先生が挨拶に立ち、「僕は羅生門を誰よりもわかっている」と言われた。もちろん自らの研究の方法を語るという流れがあっての開口である。先生は、芥川作品を何度も筆記される。羅生門もそうである。そして、考え抜いた結果、「わかった」らしいのだ。しかし、こう私が書くと、浅薄に聞こえかねない。つまり「わかった」ことを人に伝えるのは至難なのである。私なりに『春雨物語』の序が「わかった」と思える時点があった。しかし、それをうまく書けたかといえば、「?}だ。だから「よくわかりました」と、言ってくださった方がいたときには嬉しかったものである。すくなくともこの人には通じたんだと。
昨日の教員の新歓で、件の先生に質問をぶつけた。「「わかった」ことを、言葉でつたえることができますか?」。そもそもわかるって何か。以前、書いたことがあるが男女が「わかりあう」のは、結局は触れ合うことによってしかありえないとすれば、それは言葉を超えている。我々が人の書いたものを「わかる」というのは、結局は共感のようなもので、それを言葉に還元すると、なにか違ってくるのではないか。先生は、「羅生門」は可能であるという。しかし、「心」は難しかった。といい、「心」論執筆体験を話された。貴重な話を聞くことができた。
それでも、我々は人とつながろうとするときに、どうしても言葉に頼る。本当は、目をはじめとして、自分の五感をフル稼働してそれをやらなければならないのであるが、言葉もまた、五感に連なるものでなくてはならない。
そのような言葉こそが、「文明」の鍵である。ところが、文明が進化したはずのいまほど、言葉が通じない時代はないのではないか。そこで「ことばの力」を見つめなおそうというプロジェクトが、京大人文研の「文明と言語」だった。その共同研究報告書が横山俊夫編『ことばの力 あらたな文明を求めて』(2012年3月、京都大学学術出版会)である。ことばにこだわる京大の伝統を感じるとともに、私の現在の問題意識に共振するので嬉しい、私にとってはタイムリーな本である。参加しているのは人文系の研究者だけではない、自然学、歴史人類学、分子生物学、霊長類学と、超域である。これから読むのが楽しみである。近世文学からは廣瀬千紗子さんが参加。上記の視点から、くるわのことばについて論じる。遊里のことばの研究は、風俗的研究か国語学的研究にどうしても偏るが、人と人とをつなぐツールとして見ていくと、新たな相貌が立ち上がるのではないかと、期待が膨らむ。こちらはまた別の機会に。
昨日の教員の新歓で、件の先生に質問をぶつけた。「「わかった」ことを、言葉でつたえることができますか?」。そもそもわかるって何か。以前、書いたことがあるが男女が「わかりあう」のは、結局は触れ合うことによってしかありえないとすれば、それは言葉を超えている。我々が人の書いたものを「わかる」というのは、結局は共感のようなもので、それを言葉に還元すると、なにか違ってくるのではないか。先生は、「羅生門」は可能であるという。しかし、「心」は難しかった。といい、「心」論執筆体験を話された。貴重な話を聞くことができた。
それでも、我々は人とつながろうとするときに、どうしても言葉に頼る。本当は、目をはじめとして、自分の五感をフル稼働してそれをやらなければならないのであるが、言葉もまた、五感に連なるものでなくてはならない。
そのような言葉こそが、「文明」の鍵である。ところが、文明が進化したはずのいまほど、言葉が通じない時代はないのではないか。そこで「ことばの力」を見つめなおそうというプロジェクトが、京大人文研の「文明と言語」だった。その共同研究報告書が横山俊夫編『ことばの力 あらたな文明を求めて』(2012年3月、京都大学学術出版会)である。ことばにこだわる京大の伝統を感じるとともに、私の現在の問題意識に共振するので嬉しい、私にとってはタイムリーな本である。参加しているのは人文系の研究者だけではない、自然学、歴史人類学、分子生物学、霊長類学と、超域である。これから読むのが楽しみである。近世文学からは廣瀬千紗子さんが参加。上記の視点から、くるわのことばについて論じる。遊里のことばの研究は、風俗的研究か国語学的研究にどうしても偏るが、人と人とをつなぐツールとして見ていくと、新たな相貌が立ち上がるのではないかと、期待が膨らむ。こちらはまた別の機会に。
2012年04月06日
いつまでたっても
昨日帰宅すると、A山学院大学日本文学会の「会報」が送られてきていた。集中講義に行ったからかな?ずいぶん丁寧なことだな、と思ってめくっていくと、集中講義の紹介文を学生さん(学部2年生)が書いてくれているのである。「なるほどそれで。あー、そういえば、何か書かなければならないので、と言ってたなあ」、と最後に質問に来てくれた女子学生さんのことを思い出した。驚いたのは、最初に「マクラ」のつもりた話した、村上春樹が秋成をどう読んだかという私見に、かなりの紙幅を費やしておられたことである。実は、そういう話をしたことをすっかり忘れていたので、我ながら「へーっ」と思った。
秋成が描く現実の中での人との「かかわり」の不可能性に春樹が共鳴したというようなことを話していたらしい。たしかにいま講義メモを読み返すとそんなことも書いているのだが、さらに、第三者が現れることで不可能になる二者間のかかわりの困難さという問いの解決を、異界にいる人とのコミュニケーションに求める、というように秋成の作品を解説していたようなのである。これはメモにもないから、多分そのときに、話しながら思いついたのに相違ない。
やはり夏に斉藤希史さんが集中講義に来ていて、斎藤さんの講義内容も私のやつの隣に紹介されているのだが、そこで斎藤さんが、「作家は考えながら、作品をかいていく。先にモチーフがあるのではなく書いていくうちに、作家自身がモチーフを発見する場合もある」ということを仰ったらしいのだが、まさに「作家」を教員に、「作品」を授業に置き換えればその通りである。シラバス通りにやる授業なんて、文学研究では…、おっと筆がすべった。ちなみにこの斎藤さんの考えは本当に重要で、作家が最初に主題を決めて、計算通りに書き終えたというようなことは実際はほとんどないんだろうと思う。我々は作品論を書くときに、えてして、作者が計算通り、予定通りに書き上げたという前提で論じるものなのだが。だがその作家の執筆のメカニズムについての研究はあまりない。語り論というのは、テクスト論的ではなく、むしろ生成論的にやるべきなのだ。かつて秋成の「長物がたり」をそのつもりで論じたことがあるが、その時はまだ中途半端だった。
ところで、私の集中講義の紹介をしてくれたKさんは、私へのインタビューを最後に採録している。「先生にとって秋成とはどういう存在ですか?」と問われて、おや、何と答えたのかな?(これも忘れている!)と我ながら期待して読んでみると、「実に抽象的な質問ですね(笑)。いつまでたってもわからない存在です。わからないからこそいつまでも付き合えると思うんです」などと答えている。えらそーだが、集中講義でずっとしゃべりつづけて、「あー、こんなことわかったようにしゃべっているけど、本当はわかってないんだよなあ」と自己嫌悪に陥っていたから、こんな言葉が出てきたんだろうか。今となってはよくわからない。
ともあれ、Kさん、ありがとうございました。考えてみると、自分の講義にこんな長い感想を書いてもらったのは、はじめでだったので(多分もうないかもしれない)、大変うれしく、また自分でも発見がありました。彼女は最後にこのブログのことも言ってくれているのだが、これ、読んでいらっしゃるかな?
秋成が描く現実の中での人との「かかわり」の不可能性に春樹が共鳴したというようなことを話していたらしい。たしかにいま講義メモを読み返すとそんなことも書いているのだが、さらに、第三者が現れることで不可能になる二者間のかかわりの困難さという問いの解決を、異界にいる人とのコミュニケーションに求める、というように秋成の作品を解説していたようなのである。これはメモにもないから、多分そのときに、話しながら思いついたのに相違ない。
やはり夏に斉藤希史さんが集中講義に来ていて、斎藤さんの講義内容も私のやつの隣に紹介されているのだが、そこで斎藤さんが、「作家は考えながら、作品をかいていく。先にモチーフがあるのではなく書いていくうちに、作家自身がモチーフを発見する場合もある」ということを仰ったらしいのだが、まさに「作家」を教員に、「作品」を授業に置き換えればその通りである。シラバス通りにやる授業なんて、文学研究では…、おっと筆がすべった。ちなみにこの斎藤さんの考えは本当に重要で、作家が最初に主題を決めて、計算通りに書き終えたというようなことは実際はほとんどないんだろうと思う。我々は作品論を書くときに、えてして、作者が計算通り、予定通りに書き上げたという前提で論じるものなのだが。だがその作家の執筆のメカニズムについての研究はあまりない。語り論というのは、テクスト論的ではなく、むしろ生成論的にやるべきなのだ。かつて秋成の「長物がたり」をそのつもりで論じたことがあるが、その時はまだ中途半端だった。
ところで、私の集中講義の紹介をしてくれたKさんは、私へのインタビューを最後に採録している。「先生にとって秋成とはどういう存在ですか?」と問われて、おや、何と答えたのかな?(これも忘れている!)と我ながら期待して読んでみると、「実に抽象的な質問ですね(笑)。いつまでたってもわからない存在です。わからないからこそいつまでも付き合えると思うんです」などと答えている。えらそーだが、集中講義でずっとしゃべりつづけて、「あー、こんなことわかったようにしゃべっているけど、本当はわかってないんだよなあ」と自己嫌悪に陥っていたから、こんな言葉が出てきたんだろうか。今となってはよくわからない。
ともあれ、Kさん、ありがとうございました。考えてみると、自分の講義にこんな長い感想を書いてもらったのは、はじめでだったので(多分もうないかもしれない)、大変うれしく、また自分でも発見がありました。彼女は最後にこのブログのことも言ってくれているのだが、これ、読んでいらっしゃるかな?
2012年04月05日
「近世風俗文化学の形成」の報告書完成
国文学研究資料館公募共同研究『近世風俗文化学の形成―忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺』(同プロジェクト編、国文学研究資料館発行、2012年3月)が遂に刊行の運びとなりました。
2008年度にはじまったこのプロジェクト、大阪大学と国文学研究資料館の研究連携事業である「忍頂寺文庫・小野文庫の研究」(2005年度スタート)と密接な関係を持ちながら、調査・研究会・シンポジウムを重ね、昨年は『忍頂寺文庫目録』の完成にも寄与したが、ようやく報告書をまとめることができた。A4判総ページ数666頁。収まりきれない情報はCDROMにおさめた。
5部構成となっており、第1部が「忍頂寺務 その人と著述」。福田安典さんの評伝、福田さん・青田寿美さん・尾崎千佳さんによる年譜データベース、肥田晧三先生の「忍頂寺務の著作を集める」(講演記録)、そして肥田先生・近衞典子さんによる著述目録である。
第2部は、2010年秋に行われたシンポジウムの記録。武井協三先生の基調講演に、内田さん、福田さんの報告、そして質疑応答を収める。
第3部は、論文・報告編で、鷲原知良・飯倉洋一・高橋則子・川端咲子・山本和明・近衞典子各氏の執筆。そして務の実孫であられれる忍頂寺晃嗣さんへのインタビュー聞書。
第4部が圧巻で、忍頂寺務宛書簡目録と解題220頁。内田宗一さん渾身の研究成果である。次の蔵書印一覧も、旧蔵書悉皆調査に基づく青田寿美さん執念の報告。
第5部は、研究者垂涎の務自筆稿本『近代歌謡考説』と『訪書雑録』を初公開。
これまで、共同研究員は、忍頂寺文庫研究の成果をいろんなところで発表してきたが、それらの再録は、肥田先生のご講演を除いてひとつもない。すべて報告書オリジナルである。
このプロジェクトを牽引してこられた福田さん、膨大な事務手続き、編集作業に従事してくださった青田さん、献身的な書簡調査を数年にわたってつづけてこられた内田さんには、特に篤くお礼申し上げたい。
666頁という分量があまりに多く、一時は出版できない状況にも追い込まれたが、青田さんの不屈の編集魂と、国文研のご理解で、なんとか出版にこぎつけたのは本当に感慨深い。印刷の質がちょっとと思われるむきもあろうが、これはひとえに予算内に収めるための措置である。お許しいただきたい。本研究にご協力をたまわったすべての方に御礼申し上げます。
ちなみに私の報告「『近代歌謡考説』とその周辺」は、『近代歌謡考説』の出版(これは頓挫しましたが)に、中村幸彦先生がご尽力されていたことを、務宛書簡数通を使って考証した部分が中心。
2008年度にはじまったこのプロジェクト、大阪大学と国文学研究資料館の研究連携事業である「忍頂寺文庫・小野文庫の研究」(2005年度スタート)と密接な関係を持ちながら、調査・研究会・シンポジウムを重ね、昨年は『忍頂寺文庫目録』の完成にも寄与したが、ようやく報告書をまとめることができた。A4判総ページ数666頁。収まりきれない情報はCDROMにおさめた。
5部構成となっており、第1部が「忍頂寺務 その人と著述」。福田安典さんの評伝、福田さん・青田寿美さん・尾崎千佳さんによる年譜データベース、肥田晧三先生の「忍頂寺務の著作を集める」(講演記録)、そして肥田先生・近衞典子さんによる著述目録である。
第2部は、2010年秋に行われたシンポジウムの記録。武井協三先生の基調講演に、内田さん、福田さんの報告、そして質疑応答を収める。
第3部は、論文・報告編で、鷲原知良・飯倉洋一・高橋則子・川端咲子・山本和明・近衞典子各氏の執筆。そして務の実孫であられれる忍頂寺晃嗣さんへのインタビュー聞書。
第4部が圧巻で、忍頂寺務宛書簡目録と解題220頁。内田宗一さん渾身の研究成果である。次の蔵書印一覧も、旧蔵書悉皆調査に基づく青田寿美さん執念の報告。
第5部は、研究者垂涎の務自筆稿本『近代歌謡考説』と『訪書雑録』を初公開。
これまで、共同研究員は、忍頂寺文庫研究の成果をいろんなところで発表してきたが、それらの再録は、肥田先生のご講演を除いてひとつもない。すべて報告書オリジナルである。
このプロジェクトを牽引してこられた福田さん、膨大な事務手続き、編集作業に従事してくださった青田さん、献身的な書簡調査を数年にわたってつづけてこられた内田さんには、特に篤くお礼申し上げたい。
666頁という分量があまりに多く、一時は出版できない状況にも追い込まれたが、青田さんの不屈の編集魂と、国文研のご理解で、なんとか出版にこぎつけたのは本当に感慨深い。印刷の質がちょっとと思われるむきもあろうが、これはひとえに予算内に収めるための措置である。お許しいただきたい。本研究にご協力をたまわったすべての方に御礼申し上げます。
ちなみに私の報告「『近代歌謡考説』とその周辺」は、『近代歌謡考説』の出版(これは頓挫しましたが)に、中村幸彦先生がご尽力されていたことを、務宛書簡数通を使って考証した部分が中心。
2012年04月02日
中国笑話と日本文学
島田大助さんが研究代表者をつとめる科研基盤研究(C)「中国笑話集と日本文学・日本語との関連に関する研究」(2012年3月)の報告書がすごい。
中国笑話集『解顔新話』の国字解の注釈なのだが、原文の漢文に施された注が半端ではないのである。典拠を示し、その漢文にまた注をつけている。典拠のみならず類話もしめし、その原文もあげている。さらにその上、訳までつけてくれているのだが、とてもこなれていて読みやすい。
そして、その話を採用した日本出版の漢文笑話集・噺本なども紹介する。
参考文献をみると笑話集の研究は中国でも日本でも蓄積がかなりあるようで、これらの先行研究の成果を十分に取り入れているのであろう。
川上陽介さんが中国笑話集の注釈を担当されているようだが、その知見と博捜はさすがである。
ただこの報告書、字間をもうすこし詰めて、行間をもう少しとっていただけたら、読みやすくなるのではと思いました。それと、最初すこし注釈の仕方に戸惑うので、注釈要領を凡例のところに書いておいていただくとありがたかったかもしれない。
それにしても、報告書としては、実に中身の詰まったものである。ありがたや。
中国笑話集『解顔新話』の国字解の注釈なのだが、原文の漢文に施された注が半端ではないのである。典拠を示し、その漢文にまた注をつけている。典拠のみならず類話もしめし、その原文もあげている。さらにその上、訳までつけてくれているのだが、とてもこなれていて読みやすい。
そして、その話を採用した日本出版の漢文笑話集・噺本なども紹介する。
参考文献をみると笑話集の研究は中国でも日本でも蓄積がかなりあるようで、これらの先行研究の成果を十分に取り入れているのであろう。
川上陽介さんが中国笑話集の注釈を担当されているようだが、その知見と博捜はさすがである。
ただこの報告書、字間をもうすこし詰めて、行間をもう少しとっていただけたら、読みやすくなるのではと思いました。それと、最初すこし注釈の仕方に戸惑うので、注釈要領を凡例のところに書いておいていただくとありがたかったかもしれない。
それにしても、報告書としては、実に中身の詰まったものである。ありがたや。
2012年03月31日
まとめてご紹介します
今年度もいよいよ今日で終了。それにしても皆様の生産力の高さには脱帽!私はといえば論文生産力どころかブログ筆力も低迷しています。下記は、本来はひとつひとつ紹介すべきものですが、このままではズルズルいきそうなのでまとめて。
まずは、池澤一郎さんの大著『雅俗往還』(若草書房、2012年2月)。すでに的確なレビューが、いくつか出ているようで、私の出る幕ではないが、池澤さんの主意は、「あとがき」にわかりやすく述べられている。図式的な雅俗論を排し、雅俗両端を行き来する文学表現を把捉しようとする。雅俗を論じようとするときに、今後必読の研究書になることは間違いなかろう。本のタイトルが秀逸である。
浅野三平先生の『鬼神論・鬼神新論』(笠間書院、2012年2月)。霊犬ジローの話は文庫本で拝読したが、演習でも鬼神論を読んでいたのですね。丁寧な注と現代語訳。
湯浅邦弘さんの『論語』(中公新書)。この2,3年で10冊くらい本を出されているが、このたびの本は、きわめてスリリング。ポイントは孔子の夢の解釈。『論語』に孔子の絶望が書かれている、そしてそれは隠蔽されてきた。孔子を聖人に押し上げるために。大胆な読みの提言。
工藤重矩先生の『源氏物語の結婚』(中公新書)。平安時代の結婚制度は一夫一妻制。もう30年ちかくこれを唱えられているのに、いまだに平安朝は一夫多妻制だという解説をよくみる。この新書で、工藤先生の説も一般に認知されることになるだろう。明快ですもの。その前提で読めば『源氏物語』のなんとわかりやすいこと。
佐藤勝明さんのNHKラジオテキスト『芭蕉はいつから芭蕉になったか』(4−6月のテキスト)、田中仁さんの『江戸の長歌』(森話社、2012年3月)。これらも読みたいと思いつつ、積ん読状態です。年度末なので、抜刷や報告書も各方面からいただいているんですが…。
来年度は、すこしは読み書きの量を増やしたいと思います。
まずは、池澤一郎さんの大著『雅俗往還』(若草書房、2012年2月)。すでに的確なレビューが、いくつか出ているようで、私の出る幕ではないが、池澤さんの主意は、「あとがき」にわかりやすく述べられている。図式的な雅俗論を排し、雅俗両端を行き来する文学表現を把捉しようとする。雅俗を論じようとするときに、今後必読の研究書になることは間違いなかろう。本のタイトルが秀逸である。
浅野三平先生の『鬼神論・鬼神新論』(笠間書院、2012年2月)。霊犬ジローの話は文庫本で拝読したが、演習でも鬼神論を読んでいたのですね。丁寧な注と現代語訳。
湯浅邦弘さんの『論語』(中公新書)。この2,3年で10冊くらい本を出されているが、このたびの本は、きわめてスリリング。ポイントは孔子の夢の解釈。『論語』に孔子の絶望が書かれている、そしてそれは隠蔽されてきた。孔子を聖人に押し上げるために。大胆な読みの提言。
工藤重矩先生の『源氏物語の結婚』(中公新書)。平安時代の結婚制度は一夫一妻制。もう30年ちかくこれを唱えられているのに、いまだに平安朝は一夫多妻制だという解説をよくみる。この新書で、工藤先生の説も一般に認知されることになるだろう。明快ですもの。その前提で読めば『源氏物語』のなんとわかりやすいこと。
佐藤勝明さんのNHKラジオテキスト『芭蕉はいつから芭蕉になったか』(4−6月のテキスト)、田中仁さんの『江戸の長歌』(森話社、2012年3月)。これらも読みたいと思いつつ、積ん読状態です。年度末なので、抜刷や報告書も各方面からいただいているんですが…。
来年度は、すこしは読み書きの量を増やしたいと思います。

