2019年04月12日

『三獣演談』について

 いくつか前のエントリーで『三獣演談』の翻刻を刊行したという報告をしたが、それは是非欲しいという方も本日時点で現れなかったわけですが、少しずつ押し配りしている次第である。明日4月13日(土)は、京都近世小説研究会で、この象と牛と馬の鼎談というスタイルの本書について、報告する予定。題目は「『三獣演談』について」です。
 例によって「奇談」書のひとつで、文学史的位置は重要なんだが、ほとんど知られていない。
 研究会だが、今年度から、場所が京都府立大学になるということである。15:30分から、稲盛記念館2F会議室。
 報告内容は空っぽなので告知するのも気が引けるのですが、このブログが研究実績のメモがわりとなるので書いています。お許し下さい。
 なにか享保十四年の象の来日についてご存じの方は教えてくださいませ。もちろん研究会では、せめておみやげにってことで、翻刻『三獣演談』を配布します。
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2019年04月04日

摂津名所図会は何を描いたのか

 大坂の学校といわれた懐徳堂、その歴代の堂主たち、また近代にいたるまで懐徳堂の維持に貢献してくださった人々の遺徳を偲び,顕彰する「懐徳忌」が、4月6日、午前11時から、上本町の誓願寺で行われる(直近の駅は谷町九丁目)。誓願寺には中井竹山・履軒をはじめとする懐徳堂関係者の墓の他に、西鶴の墓もある。近世文学研究に関わる人は一度は訪れておきたいところですね。ちなみに近隣には契沖の円珠庵、木村蒹葭堂の墓もある大応寺、近松門左衛門のMも、え、こんなところに、という感じであり、近世文学散歩に最適。
 懐徳忌では、懐徳堂や大坂にまつわる講演があるのだが、なんと今年は私がタイトルのような内容で行うことになっている。これまでは運営側だったが、記念会の役員をやめたとたんに、お声がかかったのである。恐れ多いことである。
 小さなお寺の本堂での講演なので上限30名という制限があるが、余席はまだあるらしいので、ここに告知しておく次第。
 ご参加の方は事前に懐徳堂記念会事務局にお電話でご一報いただきたい。06-6843-4830です。
 『摂津名所図会』は竹原春朝斎が一番多く挿絵を描いているが、その他にも何人か絵師がいて、特に丹羽桃渓という絵師は、『摂津名所図会』の中でも有名な絵を描いた画家である。歴史・人物・風俗の絵を多く描いているが、彼を起用したことで、『摂津名所図会』は他の名所図会とくらべて際立つ特徴をもつ名所図会になったように思われる。そういうことをお話するつもり。
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2019年04月01日

再見なにわ文化

「令和」の新元号が発表された。新年度が始まった。本ブログは、相変わらずマイペースで進めてゆきたい。
触れると予告した本について遅れているままになっているが、今日は肥田晧三先生の『再見なにわ文化』(和泉書院2019年2月)について、である。
読売新聞大阪本社版に連載されたものの単行本化。
大阪生まれで、大阪文化についての文字通りの生き字引である肥田先生の、素晴らしい記憶・博識で語られる、江戸から近代にかけての、生き生きとした大阪の芸能や本の話である。先生ご自身の関わりに触れながらの藤沢桓夫や織田作之助らの作家・文化人の話、先生ご自身がハマっておられたOSKや歌舞伎・落語さらにはジャズなどの芸能の話は、目の前に当時が再現されるかのような語りの力である。
もちろん、先生ご自身がご所蔵されている大阪の本に基づく蘊蓄。立版古という珍しい組み立て式錦絵の話、生玉人形や耳鳥斎(画師)についての興味深い謎解きなど、どれを読んでもやめられない面白さである。
とりわけ、上方子ども絵本については、岩波から子供絵本集を出すにあたって、上方篇を我が師中野三敏先生と一緒に編集した経緯が詳しく書かれて、一等興味深く拝読した。
まあ、これらを読むと、自分などが授業や講演で「大阪の文化とは」などとしたり顔で話すのが実に恥ずかしくなり、ゴメンナサイと謝りたくなるってってもんである。いわゆる「お笑い」だけが「なにわ文化」ではない。肥田先生が語っておられるのは、恐らく今の大阪の人も忘れてしまっているような、上品で暖かく、ハイレベルな「なにわ文化」である。
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2019年03月23日

象と牛と馬が知的な議論をする話

2017年度の学部演習の受講登録は2回生のTさんがたったひとりだった。『英草紙』の注釈をするもの。担当をひとりでやるため、あまりに負担が大きいため、授業の目的のひとつである「板本のくずし字を読めるようになる」という学習目標を重視することにして、くずし字解読の訓練の時間を大幅に増やすべく、未翻刻の「奇談」書、『三獣演談』の翻字をすることにした。大学院生のFさんも自主的に聴講してくれ、またくずし字を勉強したいという国語学のM君も加わって読み進めた。この作品、授業で一部紹介したことがあり、「全文読みたい!」という希望もあったので、いつかは翻刻をやろうと思っていたのである。この際、概説と諸本解題を付して刊行しましょうかと提案したらTさんFさんとも乗ってくれて、2018年度は自主的に我が研究室に定期的に集まって読み合わせなどを行った。そして予定より遅れに遅れたが(これは私の怠慢のせいだが)、なんとか年度内に完成した。概説はTさん、諸本解題はFさん。Fさんはこのために、仙台へ、東京へ、天理へ。尾道の藤沢毅さんがやっている読本翻刻シリーズに倣ったものである。この冊子、京都近世小説研究会、上方読本を読む会、6月の近世文学会や授業などで配布予定。是非欲しいという方にはご相談に応じますので、コメント欄にでも。PDF公開もいずれ、と考えている。三獣とは象と牛と馬で、これは享保十四年の象の来朝をふまえ、同年に江戸で出版されたものである。三獣がなかなか知的な議論を展開するのである。
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2019年03月06日

『叢』の終刊、お疲れさま!

『叢』40号が出た。2019年2月。いつもにまして分厚い。表紙の目次を見ると、黒石さんの黒本・青本『太平記綱目』を冒頭に、10本の草双紙の翻刻と研究。その相貌はいつもと変わりない。しかし、一番最後に黒石さんの「ご挨拶」がある。ん、何だろう?
 そこには、終刊の挨拶があった。黒石さんの、振り絞るような言葉が連ねられていた。
 『叢』の創刊は昭和54年である。九州大学の当時の院生たちが発刊した『文献探究』と同じく、手書き同人研究誌だった。『文献探究』創刊メンバーではないが、初期の活動に関わった者として言わせていただければ、『叢』は『文献探究』と兄弟の契りを結んだような、そういう研究誌だと思う。そのころ院生たちを中心とする手書き雑誌は他にあまりなかった。手書きではなくなったが、ともに今も続いている。
 しかし、雑誌を続けていくことはすごくエネルギーを要する。モチベーションを保ち続けるのは至難である。運営・資金繰りも大変。
 『叢』は研究同人誌としては非常に特異である。
 第一に、東京学芸大学関係の方のみで運営・編集・執筆をしている。
 第二に、草双紙の翻刻・研究に限定している。
 これで四十年途絶えることなく雑誌を続けてきたことは、もう奇跡に近いだろう。小池正胤先生・黒石陽子さんのご人徳と、そこに集う学生たちの真摯な学問への志があり、「叢の会」の、研究会としての纏まりが、その奇跡を生んだのである。
 しかし、いよいよ終刊。本当に本当に、ありがとう。お疲れさま、といいたい。
 
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2019年03月02日

白話小説の時代

 丸井貴史さんの『白話小説の時代−日本近世中期文学の研究』(汲古書院、2019年2月)が刊行された。まずは慶びたい。『上方文藝研究』の同人でもあり、遠方から2年連続来ていただいているし、かつては金沢から読書会にも来ていただいていた。そして、授業で『英草紙』を読んでいるのだが、丸井さんが上文に掲載してくれた『英草紙』の解説はとてもいい入門になっているし、また論文にも学生がよく言及するところである。非常にこのごろ助けていただいている。
 さて、この本の意義だが、その書名がよくあらわしているように、十八世紀を「白話小説の時代」と見立てたことである。十八世紀は私も自分の専門とちかいので、大いに議論したいところだ。そういう見方もありだ、と思う。丸井さんのポジションから言えば、そういうことになる。実際、いろいろな要素があるなかで、やはり「白話」だというところは、この本の最後の論文(書き下ろし)で熱く語られている。ここに私の論文をたくさん引いていただいていて有り難かったのであるが、私は、丸井さんの顰みに倣って、近世中期は「奇談の時代」だ!と言いたくなったのですよ。いい意味で刺激を受けた。なにしろ、考えてみたら、書名(巻名)として認められる「奇談」の初出は、白話小説の功績者の岡島冠山の「和漢奇談」なのである。白話と奇談は実は関係が密なのである。
 この本のいいところは、解決には到らないにしろ、多くの問題系を提示しているところである。
 たとえば、都賀庭鐘をはじめ当時の知識人が白話小説を校合した上で小説に取り組むと言うことの意味、ただしその意味は解明されてはいないが。
 また『太平記演義』の読本史上の意義。不遇の作者像の問題と、読本初期の「史」はなぜ太平記ばかりなのかという視点。演劇のことは考えなくてもいいのかな。忠臣蔵とか。というのが素朴な感想である。
 また吉文字屋の浮世草子は実は女性向けに作られたのではないのかという仮説。女子用往来や百人一首(ちなみに百人一首は一種の往来物である)を多く手がけた吉文字屋だから、なかなか魅力的であるが、散らし書きに往来物よろしく読み順番号をつけているという一例だけでは、なかなか仮説の域を出ない。散らし書きの手紙は男が読むものであり、男に教えているとも言えるだろう。
 しかし、素晴らしいのは、そういう魅力的な問題提起が沢山行われているということだ。
 もうひとつは中国白話小説そのものの諸本調査。中国留学の成果を活かして、中国にある本をかなり調査しているし、パリの本も調査している。この諸本調査で、読本の典拠研究はぐっと精度を増すであろう。
 他にも、私にとっては貴重な指摘がたくさんあった。学恩とはこのこと。ありがとうございます。

 ところでこの本のあとがきは、丸井さんの師匠の木越治さんの「中国に行け」という言葉が、彼の人生を決めた話が書かれている。研究者というのは本当に不思議で、決定的な「言葉」や「出会い」によって、その人の研究が運命づけれらるのである。

 
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2019年02月27日

近世戯作の〈近代〉

 山本和明さんの論文集『近世戯作の〈近代〉−継承と断絶の出版文化史』(勉誠出版、2019年2月)が出た。科研による出版助成を受けたものだ。紹介すべき本がいくつかたまっているところだが、出張から帰って来てこの本が来ていて、ありていに言って、すごく嬉しかったので、祝意を込めてポストする。
 私と山本さんとの関わりが深くなったのは大阪に来る少し前からだろう。秋成の遺墨を今に守る谷川家を紹介してくださったところからである。山本さんの担当する市民対象の講座に、谷川家のご親族にあたる方が聴講に来られていたということで、ご紹介を受け、山口から新幹線で姫路まで行き、そこからご親族に車で案内していただいた。山本さんには秋成の論文もあって、もしかすると、そのことで話をしたことがあったかもしれない。記憶は漠としているが、それからまもなく私は大阪に来た。それで谷川家にも浅からぬ縁が出来た。
 しばらくして国文研が谷川家の調査に入ったが、山本さんとは毎年一回2日間、谷川家に残る資料(谷川家は江戸時代眼科医であり、天領である屋度の代官も兼務していた名家なので、文書が多く残る)を十数年、一緒に調査した。また蘆庵文庫の調査でも一緒であった。こちらは20年くらい一緒に活動した。それだけではない。忍頂寺文庫の研究にも巻き込んでしまったし、鹿田松雲堂旧蔵書の調査にもお声がけしてしまった(これは本書にも反映している)。どちらも山本さんの関心のあるところだったからではあるが、私の甘えでもあったのである。家人は山本さんの前勤務先で非常勤をさせていただいており、こちらも感謝である。さらにさらに、国文学研究資料館がらみでも・・・。
実際、大阪で私が曲がりなりにもやっていけているのは山本さんの存在がとても大きいことは事実である。私の恩人のひとりである。
 さて山本さんが国文学研究資料館に移ってからの5年間は、本当にすごかった。歴史的典籍の30万点web公開事業の責任者として、質量ともにこれ以上のない仕事をしてきたといえる。この事業の評価は徐々に高くなってきているが、山本さんの努力が大きい。文字通りの東奔西走、研究ではなく業務としての講演活動がどれだけあっただろう。しかし、その中での博士論文執筆、そして出版。これはやっぱりすごい。ご苦労をよく知っている者として、心からお祝いを申しあげたいのである。
さて、この論文集、近世戯作がどのように明治に受容されたか、というところを、人物は仮名垣魯文を軸に、そして出版文化史を視角として論じたものである。既読のものが多いが、初出時からかなり改稿されているように思う。第二部第四章の「近世的表現としての「序」」を興味深く再読。序という様式が「格」を持っていて、その読みにくい字体にこそ意味があるという指摘には全く同意。この中で拙稿を引いて下さったいるが、私も序についてはいろいろ考えるところがあって、テクストと外部の境界に位置する(私は思うのだが)序は、一部の作品を除いて、読みにくいこともありあまり注目されてはいなかったが、今後無視できない重要な要素であるとあらためて認識した。明治以後もそのあり方が続いているというところを学ばせていただいた。
 鹿田松雲堂のサロンの考察は鹿田さんの御子孫も喜ばれることだろう。お誘いしてよかったとこれも思うのであった。思い出話が大半になってしまったが、本が出版された際に、こういう風に思い出話を書いてしまうのが私のブログのパターンなのです。



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2019年02月22日

四季交加(しきのゆきかい)

 大高洋司さんは馬琴や京伝などをはじめとする読本研究者として知られる。しかしこのたび大高さんが編んだ京伝の『四季交加』は、「江戸の通町に煙草店を構える京伝が店先の「大路」を「交加」する人々を眺め、「四時月日」に分けて綴った」(神林尚子さんの附説より)風俗絵本である。京伝の教養と江戸への愛情、文章の洒脱が遺憾なく発揮された、上品な「戯作」だと言えよう。戯作の研究といえば、「戯作の研究者というのは、真面目な人が多い」という師中野三敏先生の言葉を思い出すのだが、大高さんも非常に真面目な方である。『四季交加』についても、長いこと読み続けてこられていたようであるが、その時間を感じさせる奥行きの深い注釈を、昨年2018年11月に太平文庫の1冊として上梓されていたのである。ご紹介が遅れてしまった。
 京伝といえば、黄表紙などにみる発想の奇抜さ、洒落本にみる人情の機微の描写、読本にみるストーリーテラーぶり、どれをとっても超一流であり、江戸を代表する作者であろう。しかし、近代小説との親和性があまりないため、一般にはまだまだ知られていない。岩波文庫あたりでどんどん作品を出してほしい作者である。
 さて、「四季交加」の注釈。非常に勉強になるのだが、江戸を描くということで、先人平賀源内に多く依拠していることが明らかになっている。また鴨長明が作者に仮託されている『四季物語』も大いに参照されている。今から見ると「パクリ」に見える京伝のこの典拠利用は京伝の十八番であるが、現在とちがって、それも文章術のひとつであるのが近世である。
 京伝にしては地味なこの作品は、商業的にはヒットしなかったが、『江戸名所図会』や『東都歳時記』そして鍬形寫ヨの『近世職人尽絵詞』に継承されているという。影印編と注釈編の二分冊は、影印を読みながら注釈を読める配慮。図版も大きくて味わい深い。
 江戸名所記や江戸年中行事の本の系譜の中に位置づけた神林尚子さんの付説は、上方の名所図会をこのごろちょっと読んでいる私にとっては有り難い指針となった。
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2019年02月21日

科研研究会(人的交流と場)のお知らせ

私が代表者をしている科研研究会のお知らせです。たぶんこじんまりとした会です。
3月2日にお近くにいらっしゃる方で、お時間ある方で、興味のある方は覗きに来てみて下さい。
ゲスト発表者は天野聡一さんです。

科研基盤研究(B)「近世中後期上方文壇における人的交流と文芸生成の〈場〉」公開研究会 U
日時 2019年3月2日(土) 13:30-17:20
会場 大阪大学豊中キャンパス 文法経本館 大会議室

プログラム
1 加藤弓枝 禁裏御書物所と勅撰和歌集
―出版変遷とその影響を中心に
2 山本嘉孝 光格天皇歌壇と漢詩
― 天明三年九月十三日当座詩歌会を中心に
(休憩)
3 盛田帝子 天皇の和歌空間
−南殿の桜をめぐって
4 天野聡一 五井蘭洲の和学について 
―宝暦期を中心に―

題目は変更されることがあります
※事前連絡不要・入場無料・使用言語は日本語
お問い合わせ先 
大阪大学文学研究科 飯倉洋一 iikuraアットマークlet.osaka-u.ac.jp
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2019年02月19日

いましばらく

大高洋司さん、揖斐高さん、小林ふみ子さん、丸井貴史さんらのご本を紹介したいところだが、いましばらくお待ちいただきたく候。
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2019年02月02日

男色大鑑〈武士編〉

西鶴の『男色大鑑』の全訳第1弾、武士編が昨年12月に文学通信から刊行されている。
染谷智幸さん、畑中千晶さん編で、数名の若手西鶴研究者が担当。イラスト陣にあんどうれい、大竹直子、九州男児、こふで、紗久楽さわ。
西鶴研究者がこれまで正面から取り組んで来た、とはいいがたい『男色大鑑』という作品。やはり、避けられてきたのである。
しかし、ここ数年のBLブーム、さらにいえば「性文化に起きつつある地殻変動」(染谷さんあとがき)と歩調を合わせるかのように、まずKADOKAWAコミックでコミカライズされ、学界でも議論されるようになり、『男色を描く』という本も出版された(本ブログでも紹介)。やがて若衆文化研究会なる研究会が何度も開かれ、ついに男色大鑑祭りとなって爆発したのが昨年の8月、怒濤の勢いでの現代語訳出版である。
原文は付けずに現代語訳だけ。しかし注をつけることで、本作品が「古典」であることを実感させているようである。
そこで、コンテンツビジネスとしての古典の事例として、この出版の動きを注視したい。続編の〈歌舞伎若衆編〉が出て完結した時に、あらたな波が起こるのかどうか。センター試験の玉水物語の反響を顧みると、〈萌える〉古典シリーズなんてのも、ありそうではないか。教養としての、だけではなく、コンテンツビジネスとしての古典を考えていくこと、重要ではないか。この点も、「古典は本当に必要なのか」で学んだことなのである。


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2019年02月01日

明治の医師の日記翻刻

日下古文書研究会が明治の医師の日記、末田茂吉『忍耐堂見聞雑誌』を翻刻。2019年1月刊。明治30年〜40年代。全部が揃っているわけではないようだが。全体にざっと見ると、文語体(漢文訓読体)から徐々に口語体へ移行している感じがある。これは国語史資料として面白いかも。もしろん医学史資料としても貴重なものに違いない。原文は漢字カタカナ交じり。やはりこの時代の人で、漢詩・和歌・俳句を嗜んでいる。浜田昭子氏による詳細な解説付き。とてもいい仕事だと思います。
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2019年01月22日

「上田秋成の人と文学」という題目で講演します。

一応告知しておきます。1月26日土曜日14:00から大手前大学で講演いたします。題目は「上田秋成の人と文学」。申し込み要、無料です。『雨月物語』のことはほとんどお話いたしません。秋成の人生をざっくり説明し、いくつか、「人と繋がる文芸」として、秋成の歌文を紹介するという感じです。怪談作家ではなく、歌人、国学者というのが、当時の評価です。そこのところを説明する感じです。ご案内はこちら
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2019年01月21日

「古典は本当に必要なのか」シンポの司会として

1月14日に明星大学で行われた標記シンポの模様は、Youtubeで公開されています。司会をしました。いろいろと考えるところがあり、総括をしたいと思っていましたが、いろいろなことが重なってなかなか書けないでいました。しかし、これ以上遅延するのも問題かなと思い、やや雑ですが、まとめてみたいと思います。

既に、ブログ等で貴重な「まとめ」やご意見がいくつも出ておりますが、主催者の方でまとめられるであろう報告書にフィードバックされることと思います。シンポ開催前から、非常に関心を集めておりましたが、シンポ後もアーカイブ動画が公開されていたことと、ツイッターでハッシュタグ(#古典は本当に必要なのか)が一時上位ランキングに出たこともあり、シンポ参加者・視聴者以外までも、古典についていろいろ発言されるという、まったく意想外の展開となりました。これにセンター試験での古文出題(玉水物語)がこれまた話題となり、相乗効果もあったようです。

今回、とくに否定側で登壇していただいた、両先生にはまず深く御礼申し上げます。お二人が所属を名乗らなかったのは、所属先の見解と誤解されないため、ということだとうかがっています。主催者側の趣向ではありません。肯定派側で登壇いただいた両先生にも感謝申し上げます。そして、なにより、遠方からも含め、120名ほどの参加者の皆様に、心より御礼申し上げます。発言を希望されていた方はとても多かったのですが、司会の不手際で、取り上げることができなかった意見が多くありました。まことに申し訳ございません。

 このシンポジウムの模様にご興味のある方は、全体をまとめてくださったこちらのサイトを御覧下さい。また、討論の優れた分析としては、こちらがあります。他にも多くの方がブログで触れています。

 噛み合った議論を期待しましたが、論点設定の問題もあり、私の司会スキルの問題もあって、否定派と肯定派の議論は噛み合わなかったといえます。もっと言えば、否定派の論理の枠組で議論するのは、肯定派にはちょっと厳しかったのだと思われます。

 否定派の枠組は、教育全体の中での「古典」の「優先度」を再考せよということ。高校で必修から外し、芸術の一科目として選択にせよと。否定派が提示した問題提起のキイワードでした。もし否定派がこれをひとつに絞って(たとえば行列)きて、行列か古典か、それぞれがプレゼンして、どちらを選ぶかフロアに問う、という議論の方向がありえたかもしれません。この「優先度」は、教育の基本・基準は何かと言う問題と関わりますから、教育は何のために行われるか、という議論へ展開することになりますね。否定派は、経済成長・国際競争のための効率のよい教育という考え方ですね。肯定派はこの枠組ではちょっときびしかったわけでしょう。それと関わるのが「幸福」というキーワードでしょう。フロアから、両方の主張の中に、共通して指摘できるキーワードだという発言がありました。「幸福」ですから個人に即して言うわけですが、収入がUPすることか、精神的な幸福感か?、という選択です。しかし、この議論も、建設的に行う論点としては難しそうです。

 ではそうでない論点はなかったのか。私は「国語力」ではないかと思います。これが大事だということは両派に共通しています。英語でのコミュニケーション力やプレゼン力も「国語力」が大事であることは否定派もおっしゃていました。それなのに「古典」が「国語力」にどう関わるかが、議論されませんでした。この問題は、「古典」を「芸術」科目にしようと提言する否定派の考え方とも関わります。

 私は「古典」必修の主張として、「国語力」の水準の維持、あるいは向上のためには古典教育が必要だからだ、ということを申し上げたく思います。つまり、現代文理解のためにこそ、古典そして古典(文語)文法が必要だということです。

 現代文と古文は切り離されているわけではなく、接続しています。「走る」「防ぐ」「立つ」「見る」などの動詞や、「多い(多し)」「古い(古し)」などの形容詞、「顔」「足」「水」などの名詞など、現在使っている言葉と変わらない言葉(基礎語)が沢山あることはご存じでしょう。現代語は、新語もたくさんありますが、古語から続いているものの方が基本用語には多い。古語は死語ではないのです(ラテン語とは少し意味が違う)。古文の構造は現代文と全く同じ、その点はなにも難しいことはありません。文語文法は、現代語文法よりも法則性が強い。むしろ現代語文法よりも本当は学びやすい。しかし、むずかしく感じるのはなぜか、それは必修レベルで、やや多くの語彙や文法を教えすぎているからではないか、と思います。助動詞などはもっと減らしてもいい。源氏物語などの中古作品と、中古文に連なる徒然草や擬古文を中心に置いたために、敬語をはじめとして、ややこしいことをたくさん教えなければならなかったわけです。高校における古典必修を私は主張しますが、あくまで現代文を理解するための基礎として考えるということから、柱になるのは、漢文訓読文のスタイルではないかと思います。現代の論理的な文章にもよく出てくる「いわんや」とか「なきにしもあらず」とか、そのような言い回しは、現代語訳ではなく、そのまま使えるようでありたい、そのためには、現代文にも使われるような語句がたくさん出てくる読みやすい古文を必修で学ぶことでしょう。源氏などの中古文はむしろ選択で学ぶようにすればどうだろうかと思います。古典は情緒的だという先入観も、これまでの教科書のテキストの編成に原因があるのではないでしょうか。漢文訓読的文章を中心に、より広い分野のテキストを配列すればよい。

 「古典」が芸術科目にできない、というのは、そういう意味で「古典」とは文学作品に限定されないからです。宗教思想・歴史学・本草(薬草)学・天文学など、文理を越えた古典が沢山あります(福田氏のプレゼンでも)。それを読むのです。すでにこれもどなたかが指摘していましたが、古典とは古いと同時に、現代にも通じる普遍的なテキストです。「典」がその意味を持ちます。逆に現代にインパクトをもたないもの、読む価値のない文は、単なる歴史的文章であって、古典ではない。古典とは読み続けられる価値のあるもので、しかも時代時代によって、その価値を発見されつづけるものです。百年読み継がれれば、つまり漱石あたりから、もう古典といってよいでしょう。淘汰されてきてなお新たな価値を見いだされ続けているものが古典です。それは現代語訳で学ぶだけでは無意味です。現代語訳とともに学んでこそ意味があります。
 古典は、文章自体が、重層的に出来ているものが多い。文章の背後に和歌や、それより古い古典が隠れているという時間的重層もあるし、掛詞や連想ということばレベルの重層もあります(前田雅之氏の「記憶と連想」発言参照)。これは現代語訳では消えてしまう。だから原文で読むことが必要。その粹(すい)は、和歌でしょう。『和歌のルール』という本がありますが、かなり売れています。和歌は情緒的だと思われがちですが、そうではない。きわめて知的で論理的。和歌のルールのマスターは国語力の基礎たりえます。また漢文は、もともと漢籍をよむために工夫された日本語の文体。それを読み下したのが漢文訓読です。この漢文を学んだおかげで、日本人が明治以後西洋の抽象概念を漢語で次々に造語した。この造語力、いまでも必要ではないか。「共創」などという漢語も結構新しいですよね。それだけではなく、「しかるに」とか「けだし」とか、今でも普通に使われることばは漢文訓読から。またちょっと前の法律を読んだり、文書を読むためには、漢文力が絶対に必要となります。ビジネスでもそれは必要ではないか。
 しかも、それらの漢文・古文は、何百年も価値を認められ続けて生き残ってきたものでありますから、内容的にも今読んでも必ず学びがあります。ここでは詳しく触れませんが。
 
 でもポリコレがあるでしょう?と反論されるかもしれない。古典にはもちろん古い価値観や道徳観があります。ないと言ってはいない。しかし、それは古文だけではない、昭和、いや平成でも、そういう作品・映画・ドラマ・漫画はいくらでもあります。それらを教室で読むときには、当然それらを注意して読む。これは教師の役目です。古典で、男尊女卑や年功序列をすり込まれるというのは、かなり無理のある主張と言わねばなりません。むしろ、逆に気づきを与えるチャンスだとも言える。ここはだから論点にはならないと思います。

 このように書いてくると、否定派のご主張は自体あまり有効ではないように思われるのですが、いかがでしょうか。にもかかわらず、私自身の古典教科書観は、否定派と案外近いようにも思います。もし高校必修が攻防線でなかったら、同じ陣営だったかもしれません。それは、私が否定派になったというよりも、否定派のおふたりが肯定派になっていたのでは、という意味ですが。

 なお、フロアから出た意見で、すでに古典は高校によっては、ほとんどやられていない。現代語訳で教えられているところもある。そういう現実を見ないで議論するのはエリートの議論であるという批判、また教科そのものの枠組を考え直すべき時に来ていると思うがいかがか、という意見がありました。この意見は、SNSのご当人の書き込みを読み、それをふまえて動画を見直すと、「すべての先生に」、つまり私自身にも向けられていたようなのです。それをネグレクトした形になったことで、私への人格批判もありました。私へも回答を求めていたとはちょっと気づきませんでしたし、気づいたとしても、他の質問者との間で私が答える場面はなかったので、答えなかったとは思いますが、この場を借りて、お答えしておくと、エリートの議論というのはその通りで、現状すでにこうなっているというご教示はありがたいです。もっともこの討論は、直前になって論点が定められたので、司会の私を含め、現在の高等学校の国語の現場についての情報が不足していました(どちらかといえば、古典の意義とは何か、という議論を当初は想定していたので。しかし否定派の論理を傾聴するという趣旨で、高校必修の論点となりました)。また教科の枠組については、私はさきほどの理由で、古典は「国語」だと思っているので、その枠組を変える必要はないという考えです。この問題を論点にすることも出来ましたね。
 
 なお主催者は報告書(書籍になるかどうかわかりませんが)を作成すると思いますので、そこでまとめをされることと思います。やや拙速ですが、以上です。

 



 
 
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2019年01月06日

古典は本当に必要なのか

 1月14日(月)14:00から17:30まで、明星大学で、古典は本当に必要なのかを、古典否定(不要)派、古典肯定(必要)派が火花を散らしてガチ議論する公開シンポジウム「古典は本当に必要なのか」が開催される。主催は明星大学日本文化学科、コーディネーターは直前のエントリーで紹介した『怪異を読む・書く』の編者、勝又基さんである。詳細な内容は、明星大学のこちらのウェブサイトでご確認いただきたい。入場無料・予約不要・使用言語は日本語である。関心のある方々のご来場を、お待ちしている。
 人文学の危機、文学部不要・縮小論が言われはじめて、すでに10年以上たつだろうか。流れは加速しているように見える。これに抗するかのように各大学の文学部では、文学部の意義を再確認したり、逆襲の論理を模索するシンポジウムが開かれるようになった。
 今回は文学部の存在意義を議論するのではなく、古典の存在意義を議論するものだが、重要なのは、人文学や文学部の存在意義に疑問を抱いている識者が登壇し、古典不要論を説くのに対し、実際に古典教育・研究を行っている側が、これに反論するという基本的構図があるということである。
 不要派の一人猿倉氏は「現代を生きるのに必要度の低い教養である古典を高校生に教えるのは即刻やめるべき」という挑発的な、しかし論点の明確な題目を出されている。もうひとりのパネリスト前田氏は、某大手電機メーカーOBであるが、理系目線から「古文・漢文より国語リテラシー」と題する発表を行う。迎え撃つ形の肯定派パネリストは、和歌文学研究者で昨年角川源義賞を受賞した渡部泰明氏と、「医学書のなかの文学」という著書もあり、江戸の「理系」書も博捜している近世文学研究者の福田安典氏である。二人ともオーソドックスな日本文学研究者ではなく、結構とんがっているところがあると私は思う。
 否定派は厳しい論理で、「古典」不要を説くだろう。今回のパネリストはガチの否定派であって、まったく容赦はないはずである。日本文学の研究者はこのような古典否定派の批判にほとんどさらされたことがないのが実情である。文学部の中だけで、その支持者だけで、文学部の意義とか、力とか、逆襲といっているのは、やっぱり温室の議論ではないのか。コーディネーターの勝又さんの問題意識はそこである。相談を受けて私も共感した。当初、本当に壇上に立ってくれる否定派がいなさそうだったが、本物の否定派、日本文学研究者に全く知り合いのいない、つまり遠慮する必要のない立場の方とコンタクトが取れた。もしかすると、最強の古典否定論者かもしれないという方々である。
 私が司会をすることになった。勝又さんも私も、古典を教育・研究しているが、現在の古典教育研究のあり方に問題があることを感じている。我々はまず、シビアな不要論を受け止めるところから始めなければならない。古典擁護派がこれまで説いてきた議論が、本当に否定派に通じるのかどうかを確かめなければならない。
 どっちが勝つか、というイベント性を装っているし、事実、添付したチラシの図案は映画「仁義なき戦い」をもじったものである。しかし、このイベントから、古典教育研究のめざす方向が見えてくるのではないか、あるいは全く意外な副産物があるのでは、という期待がある。本気の批判を受け止めてからではないと、本気の改革は始まらないのではないか。議論の時間は90分が予定されている。フロアからの質問や意見も交えて進めてゆきたいと考えている。是非是非、シンポジウムにご参加いただきたい。image.png
 
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posted by 忘却散人 | Comment(4) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする