2019年06月11日

シラネ・ハルオ先生の講演会を実施します。

ハルオ・シラネ先生(コロンビア大学教授)が第26回山片蟠桃賞を受賞されました。この機会に来阪される機会をとらえ、大阪大学文学研究科では先生の講演会を開催します。
6月18日(火)14:40〜16:10
大阪大学豊中キャンパス法経講義棟2番教室
場所はこちらをご参照ください。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/ja/access
「四季の創造 日本文化と自然観の系譜」。入場無料、事前申込不要。
お問い合わせは、bunsouhaku-syomu@office.osaka-u.ac.jp (大阪大学文学研究科庶務係)
講演は授業の一環として行われます。
同会場は10分前まで、別の授業がございますので、入場は約10分前からになります。よろしくお願い申し上げます。
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2019年06月09日

学会記(鶴見大学)

 恒例の学会記。本年度春季大会は、鶴見大学。前日は国文研の会議に出た後、横浜でちょっと私的なお祝いの会。土曜日午前中は、慶應大学三田キャンパス図書館に出向いて「本の虫・本の鬼」展を観た。いや、すばらしかったです。眼福とはこのことかな。田町からJRで鶴見駅に到着すると、多くの知り合いがいて、迷うことなく到着できました。鶴見大学はよく学会を開催することがあって、学生さんも馴れていて、そつがなく、おもてなすぶりがすごい。過剰なサービスがあるわけではないのだが、とにかくいこごちがいい。これは指導が徹底しているというよりも学生さんがすべてわかっていて、的確に行動できるということに他ならない。ちなみにここの学生さんはKuLAでよく勉強されているようで、しみまるCVの私も、ゆるきゃら並の歓迎を受けたのである(大げさ)。あまりの嬉しさに、しみまるの声でいろいろやってみせていると、N大のK員M江さんに、「やめなさい」と注意をされてしまいました。ちょっと軽すぎましたか。
 もちろん、神林尚子さんと加藤弓枝さんの開催校実行委員コンビも完璧で、テンパった様子もなく、まるで日常業務をこなすかのように、きちきちと進めていくのである。図書館で行われていた展示も、ただいいものを見せるというのではなく、非常に学術的に構成されているのに感心した。それのみならず、いろいろと配慮が!
 発表は9本、若手・中堅・ベテラン・大家が、バラエティーに富む発表をした。印象に残ったのは、「その調査は何のために?」「その調査結果からどういう見通しが」というような質問が多かったことであろうか。
 ところで、2日目の午前中に偵察すると、学生とともに演習の成果として刊行した『翻刻『三獣演談』』の売れ行き(無料なのですが)が芳しくなかったので、昼休み前にアナウンスさせていただくと、なんとあっというまになくなってしまったのは嬉しい驚きだった。
 ただし、そのアナウンスで言うのを忘れていたので、ここで申しあげるが、すでに翻刻に関して、翻刻ミスをはじめさまざまなご指摘をいただいていた。それを「正誤表」などの形で反映することが、私の怠慢でできないまま、学会で配布してしまったのである。そのことのお詫びと、また翻字ミスのご指摘をお願いするのを、忘れてしまったのである。この場でお願い申しあげる次第です。
 そういえば、初日の2次会マップで、「一推しです」と学生さんに勧められた、ドイツ料理のお店、美味しかったです。
 いつもに比べると、ちょっと軽めの学会記、どうもすみません。でも一応全部聴きましたので。
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2019年06月03日

〈奇〉と〈妙〉の江戸文学事典

長島弘明さんの東大ご退職記念となる『〈奇〉と〈妙〉の江戸文学事典』(文学通信、2019年5月)が上梓された。
まことにおめでたい。
この辞典の素晴らしさは、まず、企画である。これまでにないアイデアの「読む」事典ですね。もちろん、索引を使って、引く事典としても使えるし、ジャンル別の索引があるのも便利である。
そして、すべての執筆者が、直接間接に教え子だということ、それが約40人、というのは本当に驚くべきこと、みなさん第一線で活躍している方ばかりである。今、自分の教え子だけで、多ジャンルにわたる事典が作れるというのは、近世文学では長島さんしかいないだろうが、それにしてもこの人数は突出しています。
一般の方向けに、平易に書かれているとはいえ、専門家にもとても役立つ本になっている。信頼できる著者により、最新の研究を踏まえた文献案内が付されているので、安心である。
このようにジャンルを解体し、テーマで分類することで、江戸文学の新たな魅力が再発見される。
奇妙な本を集めているように見えて、スタンダードもほとんど網羅している(少しの例外はあるが・・・)ところも、本書が広く読まれ、また公共図書館や大学・高校の図書館に置かれるだろうなと想像できる理由である。
ソフトカバーにして、価格もリーズナブルな設定。卒論に近世文学を選ぶ学生に、まずこれを読んでみて、と勧められる1冊でもある。
今回は、〈奇〉と〈妙〉がテーマだった。テーマを変えてもいいから、古稀記念でも、1冊出して欲しい。江戸文学には、まだまだ、傑作・問題作・爆笑作はいくらでもあるのですから。あ、そのためにはこの本、売れて欲しいですね。
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2019年06月02日

和歌を読み解く 和歌を伝える

 海野圭介さんの、浩瀚な論文集『和歌を読み解く 和歌を伝える −堂上の古典学と古今伝授』(勉誠出版、2019年2月)は、「古典研究は本当に必要なのか」という問いに答えてくれる論文集だ、ということもできるだろう。
1月に行われた「古典は本当に必要なのか」というシンポジウムの問いは、「(現代において)古典(教育)は、(高等学校の必修科目として)本当に必要なのか」という論点で議論されたわけだが、本書は直接それに答えるものでは、もちろんない。
しかし、室町から江戸初期にかけての、とくに公家たちをはじめとする知識階級の、知的基盤・行動規範・倫理基準にもなりえたのが、平安期に成立した古典であって、その古典を研究し、継承することは、彼らの生きることとほぼ同義であったことを、この論文集は示しているだろう。
歴史的な古典研究を研究した古典研究書、ということになるわけだが、当然、それは現在の古典研究を照射することにもなる。
 先人たちが古典とどう向き合ってきたのか、ということを知らずして、現在における古典研究の意義を語ることはできないだろう。
 その意味で、本研究書は、和歌研究史・学問史などにおいて、重要な一書となったと同時に、現代的な意義も大いに有していることを、あらためて感じている。
 海野さんの強みは、膨大な資料収集と読解に基づく緻密な実証主義と、日本文学研究者に少ない英語力を駆使して海外研修や国際会議での活躍の経験に富むという国際性を兼ね備えた、希有の研究者であるということだ。したがって、一見、細かいことを研究しているようで、その先に大きな展望がある。グローバルな学問的課題に応えることのできる発想の基盤がある。
 ここ10年くらいの研究の動向を見ていると、海野氏のこの強みが、ますます今後必要とされてくるに違いない。
 大阪大学で何年か同僚として過ごした縁で、本書の中の一つの論文は、私が編集に関わった本に書いていただいたものであり、また資料編として収められたものは、私が大阪大学に来てしばらくして創刊した雑誌に寄稿していただいたものである。そのため、あとがきで律儀に私の名前も出していただいていて、ありがたい次第である。今後のご活躍を期待してやまない。
   
 

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2019年05月13日

宗因先生こんにちは

これ、『宗因千句』注釈の本の題名である。和泉書院から、2019年5月刊行。副題に「夫婦で『宗因千句』注釈」とあって、「そうなのか」、とわかる。
そう、これは夫婦で連歌俳諧研究者である深沢眞二・深沢了子夫妻の、対談形式による注釈である。今回はその上巻で、雑誌「近世文学研究」に連載のもの。
このブログではじめてとりあげたのが2011年の秋だった。あのころは私も少しはブログ記事に工夫をしていて、『雨月物語』「浅茅が宿」の登場人物である勝四郎・宮木夫婦の対談形式でのレビューだったのだ(レビューって、内容ほどんど触れていないのだが・・・)。読んでいない人もいるだろうからここで再掲しておこう。

勝四郎:ノリコとシンジがユニットだよ。
宮木:えーっ、酒井法子と原田真二?!
勝:古いなあ。深沢夫妻のことだよ。
宮:あーっ、なるほど。了子さんと真二さんね。あなた夫婦だからユニットあたりまえでしょ。
勝:でも、俺たちはそうじゃなかったな。ってその話じゃないよ。そうじゃなくて、「近世文学研究」第3号(2011年10月)に、宗因独吟「つぶりをも」百韻注釈を、対話形式でやっているって話。
宮:知っているわよ。「世の中に」に次ぐ第2弾ね。
勝:あの二人だから、中身はすごく充実しているし、勉強になるね。
宮:でも対話形式ってところが面白い趣向ね。
勝:そこだよ。むかし木越治さんが「対話形式による文化五年本春雨物語論の試み」だったっけな、そういう論文を対話式で書いていたし、新聞での五人女の連載もりえとひかるという女子大生を登場させてやってたし、西田耕三さんが、対話形式による書評というのをやっていたが、いずれも一人二役。でもこれは、正真正銘二人の対話形式。しかも夫婦だよ。
宮:拾い読みしたけど、面白いわね。夫婦ならではの会話というか、ちょっと脱線するじゃない。
勝:どちらかというとノリコさんの方が、面白いことをよくいうよね。
宮:私とちがって、ユーモアがあるわね。
勝:こういう注釈なら、すらすら読めるなあ。
宮:って、読んだの?
勝:いや、まだ。少しだけ。葛のうら葉のかえる秋にはきっと読むよ。
宮:もう秋なんだってば。

いや、なかなか草。(追記:これを書いている時に「草」というのはDisりだと思っていて、自分のギャグを自虐的にくさしていたつもりでしたが、どうも、草には「笑い」という意味しかないようなので、それだと自賛みたいになってしまいます。それで、「草」を「ださー」に改めておきます)

そのあとも何回か紹介しているが、「この注釈は、ご夫妻が本当に楽しそうに会話しているかのように作文されています。しかし実のところ、どういう風に作られているのだろう?と、どうでもいいことに興味が向かいます」と疑問を呈していたら、「それは企業秘密です」とこの本の後書きで答えられていた!とは嬉しいというべきか、恥ずかしいというべきか。だって他の方の名前もたくさん出ているけれど、みなさん、お二人の注釈の内容に具体的に関わるご指摘やご意見を述べた方ばかりですから。そういうことを述べて後書きに載るとは、なんとも恥ずかしいのう、やはり(←なんで急にじいさんになる)。

とくに、尾崎千佳さんが何度も登場する。尾崎さんが宗因研究の第一人者であることと、尾崎さんの誠実さ。真面目さによるもので、すごいなあと一々感心する。そう、この注釈は夫婦対談形式というのが異例なら、そこに寄せられたコメントを(多分、許可が得られた方のは全部)そのまま掲載しているということである。さらに、それへのご夫婦のコメントもまた載せているのである。まさに場の文芸に相応しい本づくりである。
 さて、またまた内容に関わらないことばかり申し上げているが、この注釈が連載されていた『近世文学研究』が終刊となってしまって、ユニークな夫婦注釈の掲載誌がなくなってしまった・・・。そこでわが『上方文藝研究』がご相談をうけた。「査読しますよ」というのを条件に、投稿していただいたのが、前号の注釈だった。合評会には尾崎さんもいらっしゃって、激論が戦わされたことは記憶に新しい。そういうことで、この本は深沢夫妻+そこに積極的にコメントした人々が作り上げた、注釈の巻なのであります。忘却散人はそれを紹介するだけなのであります。

こちらに詳しい情報があります。
 

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2019年05月05日

上田秋成と令和

は?何の関係が?とおっしゃるかもしれませんが、
西日本新聞本日朝刊に、標記の拙稿が掲載されました。「拙稿」をクリックしていただければ御覧いただけます。
令和の出典→万葉集巻五の「梅花歌三十二首」の序→秋成はどう言っている?→江戸時代の万葉集研究→秋成の大伴旅人への関心→梅を愛でる心→中国文化への親炙。という流れで書いています。お題をいただいたので、有り難く書かせていただきました。
いつまでWEB上にあるかわかりませんが。
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2019年05月04日

木越治さんの問い

 2018年12月に出た『北陸古典研究』33号について書く。
 木越治追悼特集が編まれていて、教え子や研究仲間がそれぞれに木越治の投げかけた問いに答えている。
 丸井貴史・紅林健志・奥野美友紀・高橋明彦・山下久夫・山本一のめんめんである。
 北陸古典研究会は木越さんが立ち上げた研究会である。私も1度だけ参加したことがある。その時は、小林一彦さんや山本淳子さんも発表されたと記憶する。九州や関西のいくつかの研究会に参加したことがあるが、一番尖っている研究会だな、という印象で、それはやはり、木越さんとそれに共振する人々の「文学」への熱い思いに由来するものと思われる。
 木越さんは、今の、ご自身の、作品に対する感覚を大事にされていたと思う。「文学」とは、「語り」とは、という彼の問いは、すべて、いまここのご自身から発せられている。
 追悼の文章も、「読む」とは、「語り」とは、「面白さ」とは、「文学性」とは、という木越さんの問いを受け止めて、各人が真摯に答えたものと捉えられる。紅林さんの「〈つまずき〉と〈語り〉」では、ちらっと「菊花の約」の語りをめぐる木越飯倉論争が取り上げられている。紅林さんは、『雨月物語』全体の語りを、そして近世小説全体についての〈語り〉についてどう考えるかを詳しく説明せよという宿題を私に下さった。感謝申し上げるが、私はそれについて書くことはない。今の私には、「文学」とは、とか「語り」とは、という問いはない。「菊花の約」の場合も、あくまで近世の読者はこの話をどのように読んだか(もちろんその読みは多様だろうが、多様の中の可能性のひとつとして)、という着想で考えた結果、語りの問題が不可避となったわけであり、最初から「語り」とはという問いがあったわけではないからである。
 しかし、木越さんは、「それも飯倉の(今の)読みだ」と言われるのである。そう言われてみれば、その通りなのだが、なぜ私がそういう読みをするかという出発点は、大いに木越さんとは違うのである。
 だが、江戸時代の人はどう読んだか、という考え方は、私の師から学んだと言ってよいが、元々私は近代人だし、また「読み」の人間なので、本当は木越さんの言うとおりなのかもしれない。江戸時代のことも本当はあまり知らないしなあ。だけど、そういう私が、今の感覚で放恣な読みをすれば、他人が読んでも多分どうしようもなくつまらないだろう。しかし木越さんの読みは、凡百の秋成作品論とちがって、無視できない存在感がある。そういう木越さんの「読み」を経た作品だから、論じたくなるということは否めない。私の作品論は私が後輩だから当然だが、木越さんの読み方が大きな影響力をもたらしている作品を扱ったものが多いのだ。「菊花の約」「血かたびら」「海賊」「二世の縁」などなど。
 書いているうちに、わけがわからなくなったが、この特集に触れて、やはり何かを動かされるのは、木越治さんの問いの魅力から私も逃れられないからだろう。
 
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2019年04月29日

日本漢文学研究の新潮流

 さて、2019年1月に勉誠出版から刊行された、滝川幸司・中本大・福島理子・合山林太郎編『文化装置としての日本漢文学』は、今後の日本漢文学研究者必携の1冊であると断言できる。
 国文学研究資料館のNW事業(日本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築計画」)公募型共同研究である「日本漢文学プロジェクト」の共同研究成果報告書という位置づけになるだろうが、現在慶應大学の合山林太郎さんが大阪大学在籍時に代表者となって進めてきたプロジェクトであって、NW事業に少し関わってきた私としては、立ち上げの熱いシンポジウムから見てきているので、このような刺激的な一書が出来たことに感慨を禁じ得ない。
 まず、大阪大学のスタッフ・OBが執筆者の過半数を占め、表紙にも阪大ゆかりの懐徳堂学主中井竹山の有名な後ろ向きの肖像を使っていただいているということ。阪大漢文学の層の厚さを見た。教え子の康盛国さんが論考を寄せているのも嬉しい。
 そして、本書の切り口の新しさ。通史的な論集になっていることも大いに有益だが、日本漢文学研究の最近の潮流を反映して、東アジア漢文交流というテーマを立てていること(日本と朝鮮、日本と清)、幕末維新における和歌と漢詩の交錯の模様、さらには漢学教育への視点に加え、特筆すべきなのは、世界の漢文学研究の現状を紹介していることで、英語圏・韓国・台湾の三つのケースが紹介されている。少し前には考えられないことだが、現在漢文学研究に、国内外を問わず優秀な人材が集まり、英語・中国語・日本語の壁を易々と越えて議論できる人材が輩出してきたからである。
 また福島理子さんの「エクソフォニーとしての漢詩」という視点。多和田葉子の著作から知られるようになったキーワードを日本漢詩文に応用し、和臭というネガティブな評価を、ポジティブに考える視点を打ち出している。鷲原知良さんもその観点からの論。
 そして抜群に面白いのが、マシューさんの、英語圏における日本漢詩文研究の現状分析である。英語圏で議論されている、そもそも日本漢詩文とは何かに関する様々な最近の考え方は、非常に考えさせられるものであった。

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2019年04月28日

近松時代浄瑠璃の世界

 韓京子『近松時代浄瑠璃の世界』(ぺりかん社、2019年3月)。
 前のエントリーからの繋がりで、この本を取り上げる。
 長島弘明さん門下であり、しかも大屋多詠子さんと同じ青山学院大学に奉職された韓京子さんの論集。
 私は近松浄瑠璃の論文について、専門家として評する資格はまったくないので、全く個人的な感想であることをまずお断りしておきたい。
 近松といえば、どちらかといえば世話物が人気であろう。義理と人情の葛藤に悩む人間の真情、日常の中に突然やってくる陥穽のリアリティ・・・・、そういう近代的な個人の問題が、先取りされていることを評価されてきたように思う。
 しかし、江戸時代の浄瑠璃の本道はやはり時代物なのだろう。近松においてもしかりではないのだろうか。
 韓さんの論集は、時代物の考察の中でも、まず「趣向」を問題にしている。「趣向」とはすぐれて近世的な問題であろう。つまり、近松を近世的に読む、というのが韓さんの一貫した姿勢であり、それはやはり長島さんの指導の賜物ではないかと思うのである。

 
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2019年04月27日

馬琴と演劇

 日本近世文学研究のいまの30〜40代で活躍している人たちを思い浮かべると、前エントリーで書いた小林ふみ子さんもそうだが、長島弘明門下の人が多く、またそれらの人々がほとんど博士論文を中心にして、研究書を既に出版していることに改めて気づかされる。これも長島さんの指導の方針なのだろう。まもなく某社から、長島さんの東大退休記念の、ユニークな本が出るときいたが、そのラインナップを見ても、これだけの研究者を育てたのか!(まあ勝手の育つ面もあるが)、と驚かされるのである。
 その一人が大屋多詠子さんである。かつて大高洋司さんの読本の研究会でご一緒して以来は、学会以外でお会いすることはなかったが、今回、立派なご本を出された。
 これも新刊紹介としてはちょっと遅れていますが、花鳥社から出た『馬琴と演劇』という文字通りの大著である。およそ700頁。そのうち馬琴と演劇の関わりを正面から論じたものが10本ほどある。いつのまにこれだけ書きためていたのですね。
 附録として、歌舞伎台帳『園雪恋組題』翻刻、『加古川本蔵綱目』影印・翻刻・注釈。そして文化年間読本演劇化年表は労作である。
 一口に演劇との関係といっても、演劇から受けた影響、読本の演劇化、その背後にある演劇界・出版界の状況など、さまざまな問題がある。河合真澄さんの論集が屹立していた感があるが、それに続く論集の誕生である。
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2019年04月26日

へんちくりん江戸挿絵本

 小林ふみ子『へんちくりん江戸挿絵本』(集英社インターナショナル新書、2019年2月)。この本も2ヶ月前に紹介を予告していたものです。大変遅くなって申し訳ございません。
 小林さんも今や中堅。国際的・学際的に活躍している女性研究者。これからの江戸文化研究を引っ張っていくことになる一人である。
 私の偏見かもしれないが、戯作研究者は、戯作を真面目に扱い、論じる方が多い。あの方も、あの方も・・・。
 その中で、文章が軽やか〜な感じがするのは鈴木俊幸さんあたりだが、小林さんも明るい文体で、戯作の一般書を書くのにぴったりである。
 縦横無尽に江戸のパロディ絵本の面白さを説いてゆく。中野三敏先生のいう、真面目とふざけの弥次郎兵衛。つまり、真面目な本がびくともしないくらいの存在感をもってリスペクトされているがゆえに、パロディは安心してそれを茶化せるという構造が、この本を読むと、具体的によくわかる。
 神仏・思想・学問・文学・・・・と章立てされた中に並ぶのは、江戸時代に理屈無しに仰ぎ見られていたものたちとそのパロディである。ただ、「へんちくりん江戸挿絵本」というタイトルは、ちょっと惜しい感じが個人的にはする。この本はパロディ戯作から、パロディされる側の江戸時代の文化を照射する仕組みになっている。へんりくりんな本をただ紹介しているだけではないからである。
 『へんりくりん挿絵本から見る江戸』ってのはどうでしょう?は?ダサい?やっぱりそうですか。すみません。撤回します。
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2019年04月25日

コレクション日本歌人選 蕪村


揖斐高『コレクション歌人選65 蕪村』笠間書院、2019年1月刊。
蕪村を「仮名書きの詩人」と言ったのは上田秋成。これは上手いコピー。当時の「詩人」とは漢詩人のこと。
そして、句を読み解くのは、漢詩の専門家の揖斐高先生である。この人選絶妙。揖斐先生、50の句を、「故郷喪失の自画像」「重層する時空」「画家の眼」「文人精神」「想像力の源泉」「日常と非日常」の6つに配した。とりわけ、蕪村句の時間に注目している点、面白く読んだ。そして「想像力の源泉」に「月の宴秋津が声の高きかな」の句。「酔泣の癖」(泣き上戸)のあった古代の人物秋津を想像して創作した句だが、この秋津、『春雨物語』の「海賊」に出てくる。これを重視した日野龍夫先生の「海賊」論(上田秋成と復古)を、思い浮かべてだろう、「海賊」のことに触れつつ評釈している。これは私としても嬉しいのだ。日野先生も、タイガースと同じくらいに蕪村が好きだったと、蕪村を論ずる文章で書いておられたな。おふたりとも漢詩文研究の専門家だが、ロマンチスト(これは私の勝手なラベリングだが)で、蕪村好き。いろんな意味で、じんわりとくる本である。
ということで、少し前に出た本を、ぼちぼちとまた紹介してゆきます。
【追記】ご指摘を受けて、文章を一部削除しました。実は歌人コレクションに名を連ねた俳人は蕪村だけ、などと誤った情報を流していました。伊藤義隆さんの『芭蕉』が第2期にありました。伊藤さん、ごめんなさい。m(_ _)m
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2019年04月12日

『三獣演談』について

 いくつか前のエントリーで『三獣演談』の翻刻を刊行したという報告をしたが、それは是非欲しいという方も本日時点で現れなかったわけですが、少しずつ押し配りしている次第である。明日4月13日(土)は、京都近世小説研究会で、この象と牛と馬の鼎談というスタイルの本書について、報告する予定。題目は「『三獣演談』について」です。
 例によって「奇談」書のひとつで、文学史的位置は重要なんだが、ほとんど知られていない。
 研究会だが、今年度から、場所が京都府立大学になるということである。15:30分から、稲盛記念館2F会議室。
 報告内容は空っぽなので告知するのも気が引けるのですが、このブログが研究実績のメモがわりとなるので書いています。お許し下さい。
 なにか享保十四年の象の来日についてご存じの方は教えてくださいませ。もちろん研究会では、せめておみやげにってことで、翻刻『三獣演談』を配布します。
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2019年04月04日

摂津名所図会は何を描いたのか

 大坂の学校といわれた懐徳堂、その歴代の堂主たち、また近代にいたるまで懐徳堂の維持に貢献してくださった人々の遺徳を偲び,顕彰する「懐徳忌」が、4月6日、午前11時から、上本町の誓願寺で行われる(直近の駅は谷町九丁目)。誓願寺には中井竹山・履軒をはじめとする懐徳堂関係者の墓の他に、西鶴の墓もある。近世文学研究に関わる人は一度は訪れておきたいところですね。ちなみに近隣には契沖の円珠庵、木村蒹葭堂の墓もある大応寺、近松門左衛門のMも、え、こんなところに、という感じであり、近世文学散歩に最適。
 懐徳忌では、懐徳堂や大坂にまつわる講演があるのだが、なんと今年は私がタイトルのような内容で行うことになっている。これまでは運営側だったが、記念会の役員をやめたとたんに、お声がかかったのである。恐れ多いことである。
 小さなお寺の本堂での講演なので上限30名という制限があるが、余席はまだあるらしいので、ここに告知しておく次第。
 ご参加の方は事前に懐徳堂記念会事務局にお電話でご一報いただきたい。06-6843-4830です。
 『摂津名所図会』は竹原春朝斎が一番多く挿絵を描いているが、その他にも何人か絵師がいて、特に丹羽桃渓という絵師は、『摂津名所図会』の中でも有名な絵を描いた画家である。歴史・人物・風俗の絵を多く描いているが、彼を起用したことで、『摂津名所図会』は他の名所図会とくらべて際立つ特徴をもつ名所図会になったように思われる。そういうことをお話するつもり。
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2019年04月01日

再見なにわ文化

「令和」の新元号が発表された。新年度が始まった。本ブログは、相変わらずマイペースで進めてゆきたい。
触れると予告した本について遅れているままになっているが、今日は肥田晧三先生の『再見なにわ文化』(和泉書院2019年2月)について、である。
読売新聞大阪本社版に連載されたものの単行本化。
大阪生まれで、大阪文化についての文字通りの生き字引である肥田先生の、素晴らしい記憶・博識で語られる、江戸から近代にかけての、生き生きとした大阪の芸能や本の話である。先生ご自身の関わりに触れながらの藤沢桓夫や織田作之助らの作家・文化人の話、先生ご自身がハマっておられたOSKや歌舞伎・落語さらにはジャズなどの芸能の話は、目の前に当時が再現されるかのような語りの力である。
もちろん、先生ご自身がご所蔵されている大阪の本に基づく蘊蓄。立版古という珍しい組み立て式錦絵の話、生玉人形や耳鳥斎(画師)についての興味深い謎解きなど、どれを読んでもやめられない面白さである。
とりわけ、上方子ども絵本については、岩波から子供絵本集を出すにあたって、上方篇を我が師中野三敏先生と一緒に編集した経緯が詳しく書かれて、一等興味深く拝読した。
まあ、これらを読むと、自分などが授業や講演で「大阪の文化とは」などとしたり顔で話すのが実に恥ずかしくなり、ゴメンナサイと謝りたくなるってってもんである。いわゆる「お笑い」だけが「なにわ文化」ではない。肥田先生が語っておられるのは、恐らく今の大阪の人も忘れてしまっているような、上品で暖かく、ハイレベルな「なにわ文化」である。
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