2008年11月30日

研究史の再構築

高田衛「「血からびら」幻想―二人の帝王の物語―」(『国文学研究』2008年10月)を拝読。近時、高田氏は、次々と『春雨物語』論を書かれています。一書におまとめになるとも仄聞しているので楽しみです。

一連の春雨論では、研究史に長く触れる傾向がありますが、これがなぜなのかということが実はピンと来てなかったのですが、今回の「血かたびら」論で、「そういうことか」と思うところがありました。

高田氏は、春雨物語研究の現状が行き詰まっていると見ておられ、その原因を、研究史のきちんとした把握がなされていないことに見ているのではないか。あるいはその突破口を研究史の再構築に求めてそれを試みているということかもしれません。

今回の「血からびら」論は、1973年の木越治論文にはじまり、日野龍夫、小沢笑理子、山下久夫などの論を経て、必然的に浮上する「平城帝とは何か」という根本的問題が問い直されておりますが、その際、各論文に非常に詳しく触れておられます。

そしてこの研究史を問題系として把握する方法こそ、従来の春雨論に欠けていたのではないかという問題提起がなされているように思えたのです。研究史を「整理」するのではなく、「問う」ということ。

もちろん、これだけアクティブに研究史に向き合うことができるのは、木越論文以前から、秋成研究を見つめ続けている高田氏だからだともいえ、そういう意味では、なかなか真似できるものではないのですが。
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2008年11月29日

内容記述的データベース

大阪美術倶楽部で塩村さんの講演を聞きました。
前にアナウンスした木村蒹葭堂顕彰会主催の講演です。
テーマは岩瀬文庫に眠る蒹葭堂資料ということでしたが、岩瀬文庫の成り立ち、それを西尾市が市民一体となって守り続けていること、これから悉皆調査の成果をどう公開していくかという話にも感銘を受けました。

その関連として、名古屋大学所蔵の古典籍を、データベース化した、「名大システム古典籍内容記述的データベース(約3500点ほど)」についてお話をされました。

このデータベースは多くの人の協力から成っているのでしょうが、完全に塩村さんのコンセプトが活かされているところがすごい。2005年から公表されているこのデータベースのことを知らなかったことはまことに迂闊でしたが、実に考えさせられます。

このデータベースのデータ内容の充実は異常です。こんなに詳しく書かなくても、興味のある人は見に来てもらえばいいではないか、と普通は思うわけですが、そうではないのです。

塩村さんは、内容記述的なことをデータベース化することによって、これまで不可能であったことが可能になるというのです。それについてはサイトの「このデータベースについて」に譲りますが、いや普通は、ここまで惜しげもなく公開しないのではないか。単にデータベースを作るというのではなく、高い志に裏付けられていることを知ることができました。

これを今度は岩瀬文庫でやろうとされているようです。悉皆調査も8割進んだということで、たぶんあと数年以内のことでしょう。楽しみです。このデータベースが、ネットで気軽に情報収集という方向を助長するのではなく、原本回帰・原本志向をもたらすことを願ってやみません。そこに塩村さんの志もあるわけですから。

ともあれ、有意義な講演を聞くことが出来てありがたかったです。
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2008年11月28日

ふたたび鉄斎美術館

所用で鉄斎美術館に出かけました。前(9月18日)にも紹介したところです。

http://www.kiyoshikojin.or.jp/tessai/tessai.html

「鉄斎―印癖を楽しむW」という展示が行われています(12月14日まで)。広々とした1部屋の展示場で、ゆったりと、じっくりと見ることができます。印章を楽しむのが主眼ですが、もちろん絵も同時に楽しめます。

「寿老人像」という作品に衝撃を受けました。90歳まで生きた鉄斎の最晩年の作。寿老人と鉄斎じしんの自画像が重ねられているからこそ表現される、闊達で矍鑠とした「気」のようなものに圧倒されました。無為で自由。いやこういうおじいさんになりたいな、と心から思います。

 わたしの中の鉄斎は、まだ秋成を愛した人というイメージが先行しているのですが、鉄斎自身にもかなり魅力を感じはじめています。


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2008年11月27日

カラー版 浮世絵

岩波新書の『カラー版 浮世絵』(2008年11月)が刊行されています。大久保純一氏による、浮世絵全般にわたる概説書ですが、図版がふんだんに用いられ、最新の学説に基づいてわかりやすく説かれています。
新書ではありそうでなかった本ですね。江戸絵画に関する本は多いのですが、浮世絵を学術的に概説というのは・・・・。



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2008年11月24日

高橋明彦「西田哲学の射程」

日本文学協会編『日本文学』11月号の「子午線」というコーナーに、高橋半魚明彦さんが、「西田哲学の射程」という文章を載せています。ここでいう「西田哲学」とはキタローではなく、コーゾー。

はい私も長い書評を書かせていただいた、西田耕三についての論です。そのことをここでちょっと書いたところ、半魚さんからコメントをいただいていました。私も興味をもって半魚さんの文章を読みました。

まあ、その本(西田『主人公の誕生』)を読んでいなければ、なんのことやら、むずかしい文章ですね。ご本人から書くということをうかがっていたのですが、『日本文学』をとっていない私は、なかなか読む機会がなくて、もしかして、と思って検索してみると、ネットに転載されていました


 プラトニズムとか、実体論とか、ドゥルーズとか、フーコーとか、華麗にして難解な文章。単純化を志向する私とは違い、半魚さんは、複雑なシステムを表現するのをあきらめない傾向があるようです。粘り強いような、なげやりなような、なんだが不思議な文章ですが、これも半魚さんのはじらいのあらわれなのでしょうか。

 なるほど「射程」としているところがミソで、私のように、単純な整理をして自己満足している者を批判しているわけではないんでしょうが、チト耳がいたい(いや冒頭あたり、批判の意図がある?)。ただ全体としてみれば、半魚さんが人間に、世界に、と大きく「西田哲学」の射程を見ようとしているのに対して、私は西田氏の本を高度に思想的ではあるが、あくまで文芸研究だと思っています。

 この「文芸にとどまるところ」に、西田耕三の魅力を感じるのです。まあ、言っていることは裏返しで同じなのかも知れませんが。
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2008年11月21日

あるインタビュー記事

ベストセラー『武士の家計簿』(新潮新書)。江戸時代の1両は「現代感覚」では30万円と説いていたのには唸りましたが、さまざまなデータをあげてかなり説得力のある計算になっていますよね。

その著者、磯田道史氏は、国文学で目覚ましい活躍を続ける小川剛生氏と同じ慶応義塾のご出身、年齢も近いようで、学生時代から交遊があるらしいです。

というのも、最近『三田評論』2007年5月号で、磯田氏が小川氏にインタビューしている記事を発見(『三田評論』2007年5月号)しまして、喜んでいるのですが…。知っている方には、何をいまさらという古い情報で申し訳ありません。しかし歴史学の若きスターが国文学の若き天才にインタビューという、なかなかの企画ですね。三田評論ならでは、です。

小川さんが、高校時代の自身を語るなど興味深い内容です。しかし、インタビュアーのレベルが高くて、小川さんの研究のスタンスを巧みに引き出しているのは、流石ですね。



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2008年11月16日

続「字姿」

二つまえのエントリーの続き。

「字姿」を様式のひとつとして考えることは十分可能です。浄瑠璃などの正本、黄表紙のひらがなの多い小さな字、篤胤本の楷書に近いやや丸っこい字…。これは書道や書(芸術)というよりも、「字姿」史の問題でしょうか。

 文学としての書というのは何か。書が文学的営為と関わる要素は、色紙・短冊などへの揮ごうの場合はもちろん、単に紙に書く場合も、墨の濃淡、字詰め、くずし方、連綿、散らし書き、改行、仮名字母などいろいろとあります。

 その場合は、様式ではなく、個人の××です。この××のところに、どういう言葉を入れればよいのか?難しいところです。「癖」「性格」「工夫」「意図」・・・・。

 それらのテクスト上での意味については、わずかに近世小説の仮名字母とか、古活字版の連綿の問題などが論じられたことがありますが、文学的営為としての位置づけとまではいかないような印象です。

 しかし、現代のわれわれでさえ、手書で手紙でも書こうというときには、少し緊張し、どこで改行するか、余白はどうするかとかで、あれこれ考えているわけですから、江戸時代の著述の主体(作者)が筆をとる時は、さまざまに神経を使っていたことでしょう。そうなってきますと、「字姿」は意味を持ってしまうことになります。

 書が問題になるのは基本的には写本ですが、写本の模倣である意識のある版本でもそれは同様、むしろ版本ならではの「字姿」にこだわるところもあったでしょう。印刷史との接点です。
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2008年11月14日

国立国会図書館関西館は

前にも書きましたが、国立国会図書館関西館の展示を見に行きました授業の一環です。勤務先から車で1時間ほど(帰りはちょっと渋滞があって1時間20分)で、案外近い。高速利用も500円だけ。

展示の内容は、なかなか充実したもので、たいへんよかったです。じっくり見ました。

実はここに来るのはじめて。まあ古典籍がないので、来る用事がなかったというか。しかし、なかなかの壮観で、中はおそろしく広々としています。エントランスを入ると、広くて浅めの階段がずーっと伸びていて、美術館のようです。。
IMG_2178.JPG

全体に清潔で、すっきりしたデザインです。かなり広い総合閲覧室には、辞書や基本的な文献が開架されています。コピーや出納で待たされることもなさそう。家の近くだったら、しょっちゅういくかもしれません。

4Fのカフェテリアで食事。一緒に行った学生たちも、私も「美味い!」と感心。ここは明らかに東京より上でしょうな。

学生の一人が、入口に立つ警備員の方に、「記念撮影するのでカメラのシャッターを押してください」とお願いしていましたが、申し訳なさそうに、「所定の場所を離れることができませんので・・・」と言っていました。なかなか、いいやりとりでした。
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書道史的視座による江戸文学

 江戸時代の本は外見である程度その内容が推せるというのは、長沢規矩也の言としてわが師中野三敏『江戸の板本』にも引かれるところ、これらは、まがりなりにも江戸時代の本を扱って三十年ほどになる私などにも、少しは感覚がわかるようになってきました。

 もちろん、そのように何度も教えられてきたからだともいえるのですが、それなりに(ほんとにそれなりですが)本を見る量が累積しての当然の結果でもありましょう。

 また、江戸時代の文芸の研究者であれば、誰もがそのように思っているはずであるわけですが、とはいっても、あるテキストの書誌的なデータを、その内容と結びつけて論じるというものは、あまり多くはみられないようなのです。

 むしろ、そのようなスキルを十分もっているにもかかわらず、いざ作品を論じる段になると、たちまちテクスト論っぽくなったり、思想論っぽくなる人が結構いますね。近世的視点と現代的視点が同居し、葛藤しているのです。

 とはいえ、こういう研究者のあり方を簡単に「それはだめだ」と切り捨ててはいけないような気がします。その分裂、葛藤に、大きなヒントが隠されているのではないでしょうか。

 現代的視点のみの研究は、寒々しいのですが、近世的視点のみの研究というのもまた、そこで明らかにしたことの現代的意義づけを、他者に投げてしまう可能性があるという意味では、寒々しい。

 いや、学者のやることはそこまでだといわれるかもしれません。ではなぜ、それを「面白く」書くことが要求され、歓迎されるのでしょうか。「それは何の意味があるの」と問う時、その「意味」とは何でしょうか。

 さて、そのような相克の中で、近年、書(芸術)としてのテクストというようなことを私も考えるようになってきたのですが、「江戸文学」39号所載、岩坪充雄「「書の視座」による江戸史料の再考」は、まさにその問題を取り上げています。つまり「江戸文学研究を書道史的視座によって扱う」ことの提案です。書道史的立場から、岩坪氏は「字姿」の問題を取り上げています。

 もちろん、私達も「字姿」というものについては漠然と、それが内容に関わるという前提に立っているのですが、「字姿」そのものをテクストの分析に用いることはなかなかありません。ある意味、それは常識的なこととして、わざわざ触れなかったのかもしれない。

 しかし、これからはもっと声をあげて言うべきなのかもしれないと思います。隣接領域の人から、江戸時代の文学研究が、「字姿」のようなものを問題にしてこなかった、と見られているとしたらです。
 
 もちろん、秋成についていえば、たとえば晩年に「アダンの筆」で書いたモノがあること、あるいは晩年になるほど字母の数が多くなることなどが問題にされてきました。しかし、たしかに、それが大きく作品論の議論の中心になるということはなかったように思います。

 私達は、それらの外見的要素を補助線にして、相変わらず、活字に一元化されたテクストを読むことで、中身の議論ばかりをしてきたのではなかったでしょうか。

 しかし、補助線ではなく、もっと正面から論じるべきなのではないでしょうか。もちろん装丁論とか書籍文化論ということではなく、まさにテキストを論じるという意味でです。字姿もテキストだということなのです。

 またそれは、コミュニケーション・ツールとしての「文芸」の問題ともかかわると思います。嗚呼、もうすこし明瞭に語る能力を持ちたい・・・。いつもの妄言的所懐です。

  
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2008年11月11日

芭蕉二つの顔

田中善信氏『芭蕉二つの顔』。十年前に講談社選書メチエの1冊として刊行。絶版となっていましたが、2008年9月、講談社学術文庫として再び刊行されています。文庫版あとがきを読むと、本書は新聞の読書欄をはじめとして一般読者には非常に反響が大きかったけれども、俳文学界からは反応がなかったということが書かれていました。

 田中氏といえば思い出すことがあります。私がまだ学生の、随分昔の話ながら、九州福岡の柳門舎(中村幸彦先生の門下という意味。先生の号は痩柳)が『江戸時代文学誌』という研究同人誌を出していました。毎号連載として手紙の翻刻をしていました。当時は「名家手簡」を読んでいた。田中氏は、九州の研究会が苦心の上ようやく読んだ翻刻に対して、いくつかの間違いを指摘してこられました。これだけのメンバーが読めなかった字を読むなんてすごいな、この先生はどういう人なのか、と学生ながらに思ったものです。

 田中氏はその後、江戸時代の書簡を読むための入門書も出されているほどの人で、字の読める研究者として定評のある方です。また田中氏は、国文学界では数少ない、よく論争を挑む研究者であり、その意味で、非常に貴重な存在であられます。

 その田中氏が芭蕉の伝記で問題になっている芭蕉の甥の桃印について、桃印は芭蕉の妾寿貞と駆け落ちをし、芭蕉はそれをもみ消すための一策として深川に移ったという仮説を出されました。あれから十年がたつのかと思うと時のたつのは早いものです。

 さて、この仮説は、たしかに推測の域を出ていないものですが、非常に面白く読めますし、それ以外のところも実に丹念に史料を読みこんでいて、私などには実にありがたい本です。ただ、俳文学界が反応しないというのは、「推理は推理として面白いけれども実証されていない以上コメントできない」ということでしょう。その反応の是非はともかく、丸谷才一氏・木田元氏などに絶賛され、文庫版で再版されるということは、とても素晴らしいことです。研究者は、ある時は実証の枠を超えて語ることがあってもいい。大いに語るべきだと思います。ただそれは研究者の書いた本であっても、「研究書」ではたぶんないのですから、研究界からコメントがなくても構わないのではないのか、そのように愚考いたします。

 田中氏は、かつて私がお送りした俳諧関係の拙論についても、実に丁寧なご批評をしてくださったことがあり、深謝しています。田中氏が学界の反応のなさに、なかば憤りなかば諦めていることは、たいへんよくわかりますが、一般読者を動かすような、研究書を超えた本を書かれたこと、そのことをむしろ後学の私などはすごいことだと思っています。

 ただ一言だけ言えば、本書は研究書を元に成った本なので、やはり切り貼りの印象をまぬかれない部分があるということ。そして文体の特徴として、「と見てまちがいない」という言い方が頻出するということ、その点が気になりました。

 芭蕉研究とは全く縁のない私ですので、感想として書かせていただきました。ともあれ絶版書の文庫化はめでたし。
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2008年11月10日

佐賀の黄檗展

佐賀大学地域学歴史文化研究センターと佐賀県小城市の交流事業として行われている「黄檗僧と鍋島家の人々」の展示図録を拝受。

錦織亮介氏の解説によれば、江戸時代、肥前は摂津・近江についで、全国で三番名に黄檗寺が多い地。天保時代には全国二番目だったという。

佐賀は中国文化の窓口、長崎に近いということと、殿様の熱意が並ではなかったことが、黄檗が盛んだった理由であろうとの由。

江戸時代における明風移入に大きな意義を持つ黄檗僧たちの活躍については、もっと理解をもたなければと思っているので、ありがたかったです。

詳しくは佐賀大学の地域学歴史文化研究センターへ。
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2008年11月07日

史料としての文芸

『江戸文学』39号(2008年11月)は、「史料からみる文芸、史料としての文芸」という特集。

監修は鈴木俊幸氏。信越地域をフィールドに、旧家に残る書籍調査に長年携わる鈴木俊幸氏は、かねてより、書籍を史料として時代に位置づけることで、当代の時代の文化や人間の営為が再現されるとし、精力的に調査研究をされ、それを公にしてこられました。今回の特集は、その鈴木氏の方法意識に即した特集です。

大名文芸については大名の蔵書・文芸資料の悉皆調査によって、一種の文化圏研究がおこなわれることが盛んになってきています。しかし鈴木氏の場合は、たとえば小千谷の普通の家の蔵書を丹念に調べ上げて、一地方の普通の人の文芸・書籍享受の実態を推し量るということを少しずつ積み重ね、書籍享受論・文芸営為論へと組み立てていくのです。これはなかなか真似のできない、忍耐強い仕事です。いや、ご本人は楽しくて仕方ないに違いないのですが。鈴木氏の編者のことばから少し引用。

 芭蕉でも南畝でもない彼らが、生活の仲で残した句や歌や詩そのものを、彼らの生活から切り離して評価しても、豊かな成果はえられないであろう。それらの「史料」としての有効性を最大限に生かし、彼らの生活の中に正確に位置づけてはじめて、彼らの文芸の意味するところ、時代の文芸の果たした役割が見えてくるはずである。 

 これまでの文学史とは根本的に違った発想ですね。歴史学的な発想と言えるかもしれません。この特集については、改めてまた書くことといたします。

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2008年11月06日

我ながら

下記エントリの国会図書館関西館のOさん(学生時代は近世文学を専攻)からメールが来ました。

貴重書展の説明員をやらねばならないということで、かなりあわてておられるようです。なにせ学問から離れて、×年です。そこでOさんいわく。

  先生に、
  「学問的営為に無駄はいっさいない。途中でやめたとしても、
  少なくとも人生の無駄になることはない」と言っていただいたことがあります。
  その時には、そういうものか、というほどの気持でおりましたが
  まさかこう早く実感することがあろうとは思いませんでした。

ううむ。我ながらいいことを言っているではないか!、と(忘れていたので)感心いたしました。

 ある方からいただいた丹波の黒豆を茹でて食したら、ものすごく美味い! と舌鼓を打っております。ああ、なんだか希望が出てきた。できるかもしれない。Yes We Can!
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2008年11月05日

国会図書館60周年貴重書展示会

国会図書館関西館に勤務している私の教え子のOさんから、国会図書館60周年を記念した貴重書の展示会のお知らせをいただきました。

11月13日から26日まで。江戸期のものが中心で、なかなか充実した展示になるようです。重要文化財もあります。詳細な情報は下記でご覧ください。

http://www.ndl.go.jp/jp/service/event/60th_exbit.html
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2008年11月04日

岩瀬文庫に眠る蒹葭堂資料

実に魅力的な講演タイトルですが、下記エントリと、関連ある講演会のお知らせです。

日時 2008年11月28日(金) 14:00〜

場所 大阪美術倶楽部
   大阪市中央区今橋2丁目4番5号

講師 名古屋大学大学院教授 塩村 耕 氏

演題 岩瀬文庫に眠る蒹葭堂資料

参加費 1000円(茶果代)

平成12年以来、西尾市岩瀬文庫の悉皆調査という大事業に当たられている、岩瀬文庫の生き字引塩村耕氏のお話。
これは聴きたい!(たのむから会議よ入らないで!)
さて、大阪美術倶楽部は、北浜の旧鴻池本邸跡で、リニューアルしたというので、これまた楽しみです。
11月28日は木村蒹葭堂生誕の日だということです。

以上の情報元も、「蒹葭堂だより」第8号です。



   


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2008年11月02日

上田秋成と蒹葭堂

『蒹葭堂だより』(平成20年11月、木村蒹葭堂顕彰会)第8号に、「上田秋成と蒹葭堂」という一文を載せていただきました。

昨年11月に同会で講演した内容を簡単にまとめたものです。「和学」というコンセプトでしたので、そういう方面での二人の交流について話したものです。

木村蒹葭堂顕彰会の事務局は大阪では著名な古書店の中尾松泉堂書店です。代表は水田紀久先生。
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