東京学芸大学の黒石さんの研究室が刊行している草双紙の研究誌『叢』が30号を迎えています。
小池正胤先生時代から続いている息の長い研究同人誌です。草双紙の紹介と研究に徹した雑誌で、30号続くというのは、これは「継続は力なり」の模範的な例ですね。草双紙研究を文字通り牽引してきた雑誌であります。この間に、『草双紙事典』などの刊行があり、この分野の研究は飛躍的に進みました。
『叢』はかつて、手書きでした。私達の先輩は創刊して、いまも続いている『文献探究』(よく「探求」と書かれる)も、手書きでした。先生方からいただいた原稿は、シコシコと手書で清書して版下造り。『叢』が研究室に送られてくるたびに、親近感をもって、この雑誌を眺めていたものです。
2009年02月26日
2009年02月24日
揖斐高『近世文学の境界』
揖斐高さんの『近世文学の境界 個我と表現の変容』(岩波書店、2009年2月)が刊行されました。氏にはすでに『江戸詩歌論』(汲古書院)の大著がありますが、その後発表された論文を中心に構成された論文集です。
書名が「近世文学の境界」に決まるまでには、編集者との議論があったようです。そのことが「あとがき」に書かれています。この「あとがき」には、単に個人的な感懐が書かれているのではなく、「近世文学研究」の現在の研究状況に対する揖斐さんのスタンスが書かれていることが重要です。
かつて『江戸詩歌論』の「あとがき」で、揖斐さんは、歴史主義的な文学研究や、「論文」という形式そのものへの懐疑を表明していました。それがポストモダンという時流の影響ではなく、揖斐さんがが若いころから感じていた、研究への違和感から醸成したものであることが、比較的長文で書かれていました。文学作品を時系列へ位置づけること、つまり歴史的に評価することへの違和感です。それが富士川英郎さんや森銑三さんの影響であることも告白されていました。
今回の本のあとがきで、揖斐さんは、「歴史主義的な文学研究の超克や、「論文」という形式からの離脱は、言葉でいうほどに簡単なものではなかった」とし、しかし、「既成の文学史的な枠組みを前提として、それに都合よく嵌るような作品や文学現象のみを対象とし、予定調和的な評価を下していくという研究のあり方だけは、すくなくとも回避しているのではないかいう思いも、一方ではあった」と言います。
つまりは、揖斐さん自身の感触で、これだと思った表現、愛着をもった表現だけを対象とし、従来の「文学」の枠組みにとらわれずに、その面白さを取りだしてくるということをめざしたというのです。
揖斐さんは、みずからの方法を採鉱の「狸堀り」になぞらえ、本書の構成を最初はもっとシンプルに考え『近世文学のありか』というタイトルの本にしようと思われていたそうですが、編集者とのやりとりの中で、四部構成の形になったということです。
森銑三の文章に私のようなものも、あこがれを感じ、及ばずながら揖斐さんの気持ちがわかるような気がします。「文学史」という制度に私も縛られているのだなと強く自覚いたしました。
しかし、それは制度だけの問題なのだろうかという気持ちも一方ではあります。物事を時系列に位置づける研究方法は、たしかに前近代には少なかったかもしれませんが、まったくなかったわけではない。因果という考え方、加上という考え方。私達が、時間軸で生きている以上、というより時間とは「私」そのものであるという考え方からすれば、物事を時系列に位置づけるという方法は、制度というよりも、生きることそのものと深くかかわっているかもしれない。
そのようなことを少し考えてみました。所収された論文は、拝読したものもあれば、未読のものもあり。揖斐さんは、音楽のようにではなく、絵のようにこの論文集を作ろうとされたのだろうかと思います。それを十分に堪能したいなと思うとともに、時系列に位置づけようとしてしまう癖が出てきそうな予感もするのでした。
書名が「近世文学の境界」に決まるまでには、編集者との議論があったようです。そのことが「あとがき」に書かれています。この「あとがき」には、単に個人的な感懐が書かれているのではなく、「近世文学研究」の現在の研究状況に対する揖斐さんのスタンスが書かれていることが重要です。
かつて『江戸詩歌論』の「あとがき」で、揖斐さんは、歴史主義的な文学研究や、「論文」という形式そのものへの懐疑を表明していました。それがポストモダンという時流の影響ではなく、揖斐さんがが若いころから感じていた、研究への違和感から醸成したものであることが、比較的長文で書かれていました。文学作品を時系列へ位置づけること、つまり歴史的に評価することへの違和感です。それが富士川英郎さんや森銑三さんの影響であることも告白されていました。
今回の本のあとがきで、揖斐さんは、「歴史主義的な文学研究の超克や、「論文」という形式からの離脱は、言葉でいうほどに簡単なものではなかった」とし、しかし、「既成の文学史的な枠組みを前提として、それに都合よく嵌るような作品や文学現象のみを対象とし、予定調和的な評価を下していくという研究のあり方だけは、すくなくとも回避しているのではないかいう思いも、一方ではあった」と言います。
つまりは、揖斐さん自身の感触で、これだと思った表現、愛着をもった表現だけを対象とし、従来の「文学」の枠組みにとらわれずに、その面白さを取りだしてくるということをめざしたというのです。
揖斐さんは、みずからの方法を採鉱の「狸堀り」になぞらえ、本書の構成を最初はもっとシンプルに考え『近世文学のありか』というタイトルの本にしようと思われていたそうですが、編集者とのやりとりの中で、四部構成の形になったということです。
森銑三の文章に私のようなものも、あこがれを感じ、及ばずながら揖斐さんの気持ちがわかるような気がします。「文学史」という制度に私も縛られているのだなと強く自覚いたしました。
しかし、それは制度だけの問題なのだろうかという気持ちも一方ではあります。物事を時系列に位置づける研究方法は、たしかに前近代には少なかったかもしれませんが、まったくなかったわけではない。因果という考え方、加上という考え方。私達が、時間軸で生きている以上、というより時間とは「私」そのものであるという考え方からすれば、物事を時系列に位置づけるという方法は、制度というよりも、生きることそのものと深くかかわっているかもしれない。
そのようなことを少し考えてみました。所収された論文は、拝読したものもあれば、未読のものもあり。揖斐さんは、音楽のようにではなく、絵のようにこの論文集を作ろうとされたのだろうかと思います。それを十分に堪能したいなと思うとともに、時系列に位置づけようとしてしまう癖が出てきそうな予感もするのでした。
2009年02月22日
天保の孝子顕彰
こちらのコメント欄で盛り上がった天保の孝子顕彰の冊子、昨日行われた京都近世小説研究会に、服部さんがお持ち下さり、実見できました。旅行パック15000円分をキャンセルして、わざわざ、それを見に来られた勝又さんも「来てよかったっす」と満足。
服部さんのいわれる通り書肆出雲寺が短期間に連続して出したと思われる2〜3丁のパンフレットを合綴したもので、様式は同じ。絵も入っている刷り物。たいへん面白いものです。ふと思い出すのは、忍頂寺務さんが大量にあつめた薄物の歌謡本(現在大阪大学附属図書館所蔵)。片や親孝行、片や俗謡なれど、なにか通い合うものがあるような気がします。
研究会は豪華2本立。有意義な発表で、面白かったのですが、終了後トイレから帰って来ると、私の隣にすわっていた濱田啓介先生が、2本のマフラーを両手に持って、「どっちだ?」と首をかしげていらっしゃいます。
なんと、濱田先生と私とがまったく同じ茶色のマフラー。私のが下に落ちて、見わけがつかなくなったということ。私はそのしわの入り方から、すぐに自分のがわかりましので、「こちらが私のです」と。「ほんとか?」とおっしゃりながらも納得されました。濱田先生とマフラー兄弟になれるとは、ラッキーでした。
服部さんのいわれる通り書肆出雲寺が短期間に連続して出したと思われる2〜3丁のパンフレットを合綴したもので、様式は同じ。絵も入っている刷り物。たいへん面白いものです。ふと思い出すのは、忍頂寺務さんが大量にあつめた薄物の歌謡本(現在大阪大学附属図書館所蔵)。片や親孝行、片や俗謡なれど、なにか通い合うものがあるような気がします。
研究会は豪華2本立。有意義な発表で、面白かったのですが、終了後トイレから帰って来ると、私の隣にすわっていた濱田啓介先生が、2本のマフラーを両手に持って、「どっちだ?」と首をかしげていらっしゃいます。
なんと、濱田先生と私とがまったく同じ茶色のマフラー。私のが下に落ちて、見わけがつかなくなったということ。私はそのしわの入り方から、すぐに自分のがわかりましので、「こちらが私のです」と。「ほんとか?」とおっしゃりながらも納得されました。濱田先生とマフラー兄弟になれるとは、ラッキーでした。
2009年02月21日
夢から覚める
薪能を大学二年生の時だったか見に行きました。はじめての観能でしたが、となりにいた老人が「能というのは、居眠りしながら見るのも、高級な観方のひとつです」と教えてくれて、驚いたことをよく覚えています。
中野先生の『和本の海へ』と同時刊行された、石井倫子『能・狂言の基礎知識』(角川選書、2009年2月)にも、「よい舞台だと眠くなる。それぐらいの気持ちでゆったり構えていると、能ももっと気楽に見ることができるのではないでしょうか」(観劇案内1 そこが知りたいQ&A「眠くなったらどうしたらいいの?」)と書いてあって、やっぱりそうなのかと改めて思いました。
それにしても能は、よほどのモチベーションがないと見に行かないのですが、2週間ほど前、京都観世会館に見に行きました。もちろんここははじめてです。近世文学会会員の山崎芙紗子さんが「邯鄲」のシテを舞うということをたまたま教えていただいたので。
一畳台の中での舞など難度の高い演技でしたが、声もよく通り、舞もまことに素晴らしく、心から感動いたしました。それにしても驚いたのは、夢から覚める場面。この場面だけ、ゆったりとした動きが突然早くなる。舞童が走って舞台から立ち去っていく。そしてシテは大ジャンプして一畳台に飛び込んだなり、横たわる!という演技です。「ドン!」と音がして、ああっ、山崎さん、大丈夫?!っと思わず心で叫んでしまいます。
まさしく「夢から覚める」場面にふさわしい。見る方も居眠りしていたとしたら、文字通り目が覚めるはずです。居眠りしていたわけでない私が目が覚める感じでしたから。素人考えで一般にはアクセントの少ない能で、これほどインパクトのある場面はそうそうないのでは、と考えるのは素人なのかな?ともかく驚きました。
石井さんの本にもこの場面のことが書かれていました(102頁)。
余韻さめやらぬ中、和菓子屋で和菓子を買っていると、「センセイ!」と声をかけられました。「ええっ!」と見ると、なんとそんなところで会うはずのない、学生さんが。ん、これは夢かと思っていたら、説明をきいて納得。夢から覚めたという次第でした。
中野先生の『和本の海へ』と同時刊行された、石井倫子『能・狂言の基礎知識』(角川選書、2009年2月)にも、「よい舞台だと眠くなる。それぐらいの気持ちでゆったり構えていると、能ももっと気楽に見ることができるのではないでしょうか」(観劇案内1 そこが知りたいQ&A「眠くなったらどうしたらいいの?」)と書いてあって、やっぱりそうなのかと改めて思いました。
それにしても能は、よほどのモチベーションがないと見に行かないのですが、2週間ほど前、京都観世会館に見に行きました。もちろんここははじめてです。近世文学会会員の山崎芙紗子さんが「邯鄲」のシテを舞うということをたまたま教えていただいたので。
一畳台の中での舞など難度の高い演技でしたが、声もよく通り、舞もまことに素晴らしく、心から感動いたしました。それにしても驚いたのは、夢から覚める場面。この場面だけ、ゆったりとした動きが突然早くなる。舞童が走って舞台から立ち去っていく。そしてシテは大ジャンプして一畳台に飛び込んだなり、横たわる!という演技です。「ドン!」と音がして、ああっ、山崎さん、大丈夫?!っと思わず心で叫んでしまいます。
まさしく「夢から覚める」場面にふさわしい。見る方も居眠りしていたとしたら、文字通り目が覚めるはずです。居眠りしていたわけでない私が目が覚める感じでしたから。素人考えで一般にはアクセントの少ない能で、これほどインパクトのある場面はそうそうないのでは、と考えるのは素人なのかな?ともかく驚きました。
石井さんの本にもこの場面のことが書かれていました(102頁)。
余韻さめやらぬ中、和菓子屋で和菓子を買っていると、「センセイ!」と声をかけられました。「ええっ!」と見ると、なんとそんなところで会うはずのない、学生さんが。ん、これは夢かと思っていたら、説明をきいて納得。夢から覚めたという次第でした。
2009年02月19日
変貌する?近世文学研究
『国文学 解釈と鑑賞』(2009年3月号)は、「変貌する近世文学研究」という特集。10年ほどまえに『国文学』(学燈社)で「近世文学の新局面」という特集があったかと記憶しますが、それを思い出しました。
さて今回の「変貌」の中身は如何と覗いてみると、商業誌とは思えない、実にきっちりとした論文が並んでいました。ひとつひとつの論文は実に有益な指摘に満ちているもの多し。
ただ、雑誌全体としては、近年の学会誌や、紀要、研究同人誌などの「論文集」とさほど変わらない雰囲気だなと思うのは、私の僻目でしょうか。それだけに「変貌」という、この特集タイトルの意味しているところは、やや「?」。
それに、どういうわけか「韻文」・「散文」の二部構成になっているあたりも、あまり「変貌」を感じません。
好意的に解釈して、ここ二十年ほど、小説・俳諧が中心であった近世文学研究が、漢詩・和歌などの雅文芸や、書画・出版・舌耕・写本などへの関心と連動した研究、幕末や明治への着目など、次第に対象が拡がりつつあること、つまり「このように変貌しています」ということを伝えたいのであるのならば、なぜ、そのように変貌しているのか、なにを目指しているのか、そこを問い、総括するような論考なりが必要ではなかったのでしょうか。
いずれにせよ、現在、ドラスティックに変貌しているかのようなタイトルはやはり疑問でした。「さらなる活性化を企図する」というわりには。ひとことでいうと、「冒険(ロマン)がないんじゃない?」
いささか辛口でした。このごろ、「最近のブログは何ですか。あいさつばかりしてないで、がんがん批評してくださいよ」って、某若手に叱咤されましたが、だからってわけでもありませんが。
一本一本は、有益な論文が並んでいて、実際ありがたく読んでいるんです。だがなぜこの特集タイトル?
もっとも、若手を多く起用していることはとてもいいことだと思います。若手の方、がんがん面白いこと書いてね。
さて今回の「変貌」の中身は如何と覗いてみると、商業誌とは思えない、実にきっちりとした論文が並んでいました。ひとつひとつの論文は実に有益な指摘に満ちているもの多し。
ただ、雑誌全体としては、近年の学会誌や、紀要、研究同人誌などの「論文集」とさほど変わらない雰囲気だなと思うのは、私の僻目でしょうか。それだけに「変貌」という、この特集タイトルの意味しているところは、やや「?」。
それに、どういうわけか「韻文」・「散文」の二部構成になっているあたりも、あまり「変貌」を感じません。
好意的に解釈して、ここ二十年ほど、小説・俳諧が中心であった近世文学研究が、漢詩・和歌などの雅文芸や、書画・出版・舌耕・写本などへの関心と連動した研究、幕末や明治への着目など、次第に対象が拡がりつつあること、つまり「このように変貌しています」ということを伝えたいのであるのならば、なぜ、そのように変貌しているのか、なにを目指しているのか、そこを問い、総括するような論考なりが必要ではなかったのでしょうか。
いずれにせよ、現在、ドラスティックに変貌しているかのようなタイトルはやはり疑問でした。「さらなる活性化を企図する」というわりには。ひとことでいうと、「冒険(ロマン)がないんじゃない?」
いささか辛口でした。このごろ、「最近のブログは何ですか。あいさつばかりしてないで、がんがん批評してくださいよ」って、某若手に叱咤されましたが、だからってわけでもありませんが。
一本一本は、有益な論文が並んでいて、実際ありがたく読んでいるんです。だがなぜこの特集タイトル?
もっとも、若手を多く起用していることはとてもいいことだと思います。若手の方、がんがん面白いこと書いてね。
2009年02月18日
NEO season4
NHK「サラリーマンNEO」ホームページ「ニャっと通信」によれば、NEOのシーズン4が4月から放映開始の由!日曜日23時からだニャン。ちょっと情報がおそいけど。
2009年02月16日
坪内稔典先生
子規写生論の博士論文の公開審査には、俳人で仏教大学教授の坪内稔典先生が登場されました。
子規写生論をめぐって、日本近代文学、ドイツ文学、俳句(しかも第一線の実作者)、それに日本近世文学という四名の審査員があつまっての公開審査は、異種格闘技みたいで、非常に勉強になるものでした。
フロアからの質問が少なかったのが、この場合に限っては幸いで(というより、みな抑制してたのか)、坪内先生の多彩な質問、その中で披歴される鋭い読み、そして何よりその〈語り口〉の巧みさをたっぷり聴けまして魅了されました。
自分が審査員であることを忘れて、聴き入ってました。はじまる前は、コホコホとあまりお元気がないのでは?とすこし心配していましたら、質疑・講評の番が回ってきて、話し始めたら、朗朗と響き渡る声で、次々と質問・指摘をなされて、どんどん盛り上げていく。一瞬「話芸」という言葉がよぎりましたな。
終わりますと、照れくさそうにニコニコ挨拶され、風のように去っていかれました。ネンテン先生恐るべし!
子規写生論をめぐって、日本近代文学、ドイツ文学、俳句(しかも第一線の実作者)、それに日本近世文学という四名の審査員があつまっての公開審査は、異種格闘技みたいで、非常に勉強になるものでした。
フロアからの質問が少なかったのが、この場合に限っては幸いで(というより、みな抑制してたのか)、坪内先生の多彩な質問、その中で披歴される鋭い読み、そして何よりその〈語り口〉の巧みさをたっぷり聴けまして魅了されました。
自分が審査員であることを忘れて、聴き入ってました。はじまる前は、コホコホとあまりお元気がないのでは?とすこし心配していましたら、質疑・講評の番が回ってきて、話し始めたら、朗朗と響き渡る声で、次々と質問・指摘をなされて、どんどん盛り上げていく。一瞬「話芸」という言葉がよぎりましたな。
終わりますと、照れくさそうにニコニコ挨拶され、風のように去っていかれました。ネンテン先生恐るべし!
2009年02月15日
子規の内なる江戸
子規の写生論についての博士論文を読むために、講談社学術文庫の『俳人蕪村』を読みました(審査はすませました。これについては別途また)
きわめて明快に蕪村句の特徴をとらえているのに感心します。子規は漱石と同世代の人物ですから、その教養には漢籍があり、それが西洋美術論の受容をスムースにしていたと思います。明治になっての欧米文化の輸入は、一見前近代の儒学的教養の否定の上に成り立っているかのようですが、実は儒学的教養があるから、それを高度な水準で理解できたのだというべきでしょう。
これはあるスポーツが得意な人が他のスポーツも得意であるとか、語学堪能な人は何カ国語でも話せるとかいうのと同じで、儒学的教養がしっかりしていれば、西洋的教養も身につきやすかったというところでしょう。彼らが二十代であれだけの立論ができるのは、西洋学ではなく儒学的教養のたまものです。
子規に戻ると、ちょうど角川書店の『俳句』に井上泰至さんが「子規の内なる江戸」を連載しています。子規研究の現状には無知ですが、子規を江戸からとらえる視点は、そんなにないのでは? なかなか連載というのは、シンドイと思うのですが、期待しています。
きわめて明快に蕪村句の特徴をとらえているのに感心します。子規は漱石と同世代の人物ですから、その教養には漢籍があり、それが西洋美術論の受容をスムースにしていたと思います。明治になっての欧米文化の輸入は、一見前近代の儒学的教養の否定の上に成り立っているかのようですが、実は儒学的教養があるから、それを高度な水準で理解できたのだというべきでしょう。
これはあるスポーツが得意な人が他のスポーツも得意であるとか、語学堪能な人は何カ国語でも話せるとかいうのと同じで、儒学的教養がしっかりしていれば、西洋的教養も身につきやすかったというところでしょう。彼らが二十代であれだけの立論ができるのは、西洋学ではなく儒学的教養のたまものです。
子規に戻ると、ちょうど角川書店の『俳句』に井上泰至さんが「子規の内なる江戸」を連載しています。子規研究の現状には無知ですが、子規を江戸からとらえる視点は、そんなにないのでは? なかなか連載というのは、シンドイと思うのですが、期待しています。
2009年02月14日
『和本の海へ』
本ブログでも「中野三敏」のカテゴリーをつくらないといけないかなと思うほど、次々に新著や論文を発表される先生ですが、今回は、角川選書『和本の海へ 豊饒の江戸文化』(角川選書、2009年2月)の刊行。
『彷書月刊』連載の和本エッセイを中心に、いくつかのエッセイを加えて成ったもの。帯に「目指すのは和本の復権」とあるように、最近唱えられている「和本リテラシー」(私流にいえば、くずし字読解能力や和本取扱いのスキルおよび和本にこめられる「江戸」への親和力ということでしょうか)の復権という、メッセージ性の強い「和本の海へ」と題されたまえがき的文章。付録として、「和本の海へ」漕ぎだすためのツールとしての参考文献「解説」(というより評判)があります。
もしそれがなければ、完全に江戸趣味・古書趣味に徹した本だということになりそうな本です。聞いたこともないような、それでいて魅力的な本の数々が豊富な図版とともに紹介されています。
しかし、このまえがき的文章を読めば、江戸趣味・古書趣味と見える数々の「珍書」は、多くは我々が近代主義の価値観から忘れ去ったものであり、江戸時代には、巷に溢れていた「フツー」の本、今に置き換えれば、駅のコンビニに置いてあったり、電化製品の取扱説明書だったり、大学で使う教科書だったり、人名録だったり、つまりは現代をよく知るための印刷物ということになります。そういうものこそ、「江戸」を知るのにふさわしいもの、というわけです。
そして、現代の週刊誌や、広告チラシや、PR誌なんかが図書館には保存されにくいように、こういう江戸のなんということもない資料は図書館が保存してこなかった。そのため、当時の人には貴重だった源氏物語が、現在は全国の図書館に多数あるのに対して、たとえば、江戸の俗謡を記録した2、3枚のパンフレットのようなもの(当時はちまたにあふれていた)は図書館にはなかなかなく、捜すのは実は大変という逆転現象が起こります。
そういう江戸を知るための格好の和本がたくさん紹介されているのがこの本ですから、マニアックな江戸趣味の本のようでいて、実は絶好の江戸入門書ということになるのです。ではどんなものがあるのか、「通俗易占書」(今で言えば血液型占い本のような)、「見本帖」、「遊里案内」、「武家作法」、「わ印(春本)」、「大工用語集」、「法帖」(書道のお手本)…こう並べれば大体わかると思います。確かに従来、江戸文化・江戸思想を論じるときに用いられるものとはかなり違うものが多いわけで。
江戸趣味の本のように見えて、実はフツーの、等身大の江戸文化への入門書ということがおわかりいただけるかと思います。などとわかったように言っている私も「何だろう、この本は?」。実は聞いたこともない、見たこともない本だらけ(というか、教えていただいたのに忘れていた本も多く)。いろいろ難しいことを抜きに、とても楽しめる本です。著者の半生記『本道楽』(講談社)の、カタログ編といってもよろしいかも。
『彷書月刊』連載の和本エッセイを中心に、いくつかのエッセイを加えて成ったもの。帯に「目指すのは和本の復権」とあるように、最近唱えられている「和本リテラシー」(私流にいえば、くずし字読解能力や和本取扱いのスキルおよび和本にこめられる「江戸」への親和力ということでしょうか)の復権という、メッセージ性の強い「和本の海へ」と題されたまえがき的文章。付録として、「和本の海へ」漕ぎだすためのツールとしての参考文献「解説」(というより評判)があります。
もしそれがなければ、完全に江戸趣味・古書趣味に徹した本だということになりそうな本です。聞いたこともないような、それでいて魅力的な本の数々が豊富な図版とともに紹介されています。
しかし、このまえがき的文章を読めば、江戸趣味・古書趣味と見える数々の「珍書」は、多くは我々が近代主義の価値観から忘れ去ったものであり、江戸時代には、巷に溢れていた「フツー」の本、今に置き換えれば、駅のコンビニに置いてあったり、電化製品の取扱説明書だったり、大学で使う教科書だったり、人名録だったり、つまりは現代をよく知るための印刷物ということになります。そういうものこそ、「江戸」を知るのにふさわしいもの、というわけです。
そして、現代の週刊誌や、広告チラシや、PR誌なんかが図書館には保存されにくいように、こういう江戸のなんということもない資料は図書館が保存してこなかった。そのため、当時の人には貴重だった源氏物語が、現在は全国の図書館に多数あるのに対して、たとえば、江戸の俗謡を記録した2、3枚のパンフレットのようなもの(当時はちまたにあふれていた)は図書館にはなかなかなく、捜すのは実は大変という逆転現象が起こります。
そういう江戸を知るための格好の和本がたくさん紹介されているのがこの本ですから、マニアックな江戸趣味の本のようでいて、実は絶好の江戸入門書ということになるのです。ではどんなものがあるのか、「通俗易占書」(今で言えば血液型占い本のような)、「見本帖」、「遊里案内」、「武家作法」、「わ印(春本)」、「大工用語集」、「法帖」(書道のお手本)…こう並べれば大体わかると思います。確かに従来、江戸文化・江戸思想を論じるときに用いられるものとはかなり違うものが多いわけで。
江戸趣味の本のように見えて、実はフツーの、等身大の江戸文化への入門書ということがおわかりいただけるかと思います。などとわかったように言っている私も「何だろう、この本は?」。実は聞いたこともない、見たこともない本だらけ(というか、教えていただいたのに忘れていた本も多く)。いろいろ難しいことを抜きに、とても楽しめる本です。著者の半生記『本道楽』(講談社)の、カタログ編といってもよろしいかも。
2009年02月11日
古典講座集中コースの夏は…
御依頼を受けて、標記の拙文を『懐徳堂記念会だより』NO.82(2009年2月)に寄稿いたしました。2006年から3年にわたって8月に3回連続講座として秋成のお話をした感想です。ご笑覧。
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古典講座集中コースの夏は・・・
(財)懐徳堂記念会運営委員 飯倉洋一
「上田秋成を読む」と題して、3年にわたり懐徳堂古典講座夏季集中コースを担当させていただきました。1年目は、あまり知られていない秋成の諸作品、2年目は『雨月物語』から「菊花の約」、3年目は『春雨物語』を読みました。
毎年酷暑の中、非常に受講者の方が熱心で、9回全部の講座を受講してくださった方も少なくありません。講義が進むにつれて、早口でまくしたてる私の話は、お聞きづらかったことと思いますが、話し終えた後のご質問には、大学院生かと思うくらいにレベルが高いものもあり驚きました。
堂島永来町の紙油商の養子となった秋成は、懐徳堂で学んだと言われています。五井蘭洲のことを「先生」と呼んでおり、『胆大小心録』には、中井竹山・履軒兄弟の話も出てきます。彼らに対して忌憚のない悪口を書いていますが、秋成は親しい友人たちのほとんどを俎上に挙げて憎まれ口を叩いていますから、仲が悪かったわけではないでしょう。
そういうわけで、秋成のことを古典講座で取り上げるのは、それほど的外れではなかったと思います。1年目の講座では、秋成の失明の回復に尽力した眼科医の谷川良順ら三兄弟のご子孫である谷川好一さんに、秋成から贈られた墨跡と手紙をご持参いただくなどのご協力を得て、秋成真筆に接していただけたのは望外の喜びでした。2年目の「菊花の約」の講読では、受講者の方のさまざまな解釈を伺えましたが、それに刺激を受けて、私なりに新しい作品解釈に到達することができました。3年目の『春雨物語』の講読でも、話している途中で突然あることがひらめきました。どうも、受講者の皆さんの熱気で、私の読みの感性が覚醒したようなのです。
中には秋成のことが新聞記事になっていると教えて下さり、そのコピーを下さる方もいらっしゃいました。また秋成ゆかりの香具波志神社のことをよくご存じの森本吉道様には、神社にご同行いただき、同社では秋成が奉納した自筆短冊六十八枚(『献神和歌帖』)を見せていただきました。私の教え子の卒業生何人か(在学生も)が、忙しい中、講座を聴きに来てくれたこともうれしいことでした。古典講座集中コースの夏は、私に良き思い出を残してくれました。また機会を与えていただければと思っております。
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平成22年は懐徳堂記念会創立100周年です。
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古典講座集中コースの夏は・・・
(財)懐徳堂記念会運営委員 飯倉洋一
「上田秋成を読む」と題して、3年にわたり懐徳堂古典講座夏季集中コースを担当させていただきました。1年目は、あまり知られていない秋成の諸作品、2年目は『雨月物語』から「菊花の約」、3年目は『春雨物語』を読みました。
毎年酷暑の中、非常に受講者の方が熱心で、9回全部の講座を受講してくださった方も少なくありません。講義が進むにつれて、早口でまくしたてる私の話は、お聞きづらかったことと思いますが、話し終えた後のご質問には、大学院生かと思うくらいにレベルが高いものもあり驚きました。
堂島永来町の紙油商の養子となった秋成は、懐徳堂で学んだと言われています。五井蘭洲のことを「先生」と呼んでおり、『胆大小心録』には、中井竹山・履軒兄弟の話も出てきます。彼らに対して忌憚のない悪口を書いていますが、秋成は親しい友人たちのほとんどを俎上に挙げて憎まれ口を叩いていますから、仲が悪かったわけではないでしょう。
そういうわけで、秋成のことを古典講座で取り上げるのは、それほど的外れではなかったと思います。1年目の講座では、秋成の失明の回復に尽力した眼科医の谷川良順ら三兄弟のご子孫である谷川好一さんに、秋成から贈られた墨跡と手紙をご持参いただくなどのご協力を得て、秋成真筆に接していただけたのは望外の喜びでした。2年目の「菊花の約」の講読では、受講者の方のさまざまな解釈を伺えましたが、それに刺激を受けて、私なりに新しい作品解釈に到達することができました。3年目の『春雨物語』の講読でも、話している途中で突然あることがひらめきました。どうも、受講者の皆さんの熱気で、私の読みの感性が覚醒したようなのです。
中には秋成のことが新聞記事になっていると教えて下さり、そのコピーを下さる方もいらっしゃいました。また秋成ゆかりの香具波志神社のことをよくご存じの森本吉道様には、神社にご同行いただき、同社では秋成が奉納した自筆短冊六十八枚(『献神和歌帖』)を見せていただきました。私の教え子の卒業生何人か(在学生も)が、忙しい中、講座を聴きに来てくれたこともうれしいことでした。古典講座集中コースの夏は、私に良き思い出を残してくれました。また機会を与えていただければと思っております。
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平成22年は懐徳堂記念会創立100周年です。
2009年02月08日
人文学振興の委員会記録
文科省の「学術研究推進部会・人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第1回) 議事録」が載せているWEBサイトを発見。文部省での委員会が完全再現されています。和本リテラシーについての議論。中野三敏先生がゲストとして呼ばれています。座長は伊井春樹先生。非常に興味深い議論が行われているし、猪口孝氏などは、エール(日本文学界への叱咤)を送ってくれているようで。興味のある方は一読を。
我々はいつも「文科省は理解がない」とか、「世間は理解がない」とかいっているけれど、案外マンパワーの問題が最大なのかもしれない、と考えさせられますね。みなさんの感想は如何。
我々はいつも「文科省は理解がない」とか、「世間は理解がない」とかいっているけれど、案外マンパワーの問題が最大なのかもしれない、と考えさせられますね。みなさんの感想は如何。
2009年02月07日
京都近世小説研究会
同志社女子大学の廣瀬千紗子さんのお世話で、同大学を会場に行われている「京都近世小説研究会」という研究会があります。江戸時代の親孝行についてのエントリーのコメント欄で、服部仁さんご所蔵の孝子顕彰の冊子の話題で盛り上がり、服部さんが当研究会にご持参いただけるということですので、興味のある方はどうぞ。ということのついでに、研究会のご案内をいたします。
ただし、万一、服部さんがなんらかの事態でいらっしゃれないことがあっったとしても、それは致し方のないことですので、予めご承知おきをお願いします。また、飛び入り参加の方は、ここのコメント欄にでも、実名でご表明いただくか、私にメールをください。係の方に御連絡いたしますゆえ。
◆日時:2月21日(土)午後3時より
※今回は二本立てのため、通常より開始時刻が早くなっております。
お気を付けくださいませ。
◆場所:同志社女子大学今出川校地 栄光館1階 E104会議室
*正門から直進、正面が栄光館です。
正面入口が閉まっている場合は、左側入口からお入りください。
◆発表:中村 綾氏「陶山南涛『忠義水滸伝解』とその後」
廣瀬千紗子氏「『古今いろは評林』刊行時の小さな謎」
ええっと、これは私のところに来た研究会通知の無断転載ですが、なにとぞおゆるしを。
ただし、万一、服部さんがなんらかの事態でいらっしゃれないことがあっったとしても、それは致し方のないことですので、予めご承知おきをお願いします。また、飛び入り参加の方は、ここのコメント欄にでも、実名でご表明いただくか、私にメールをください。係の方に御連絡いたしますゆえ。
◆日時:2月21日(土)午後3時より
※今回は二本立てのため、通常より開始時刻が早くなっております。
お気を付けくださいませ。
◆場所:同志社女子大学今出川校地 栄光館1階 E104会議室
*正門から直進、正面が栄光館です。
正面入口が閉まっている場合は、左側入口からお入りください。
◆発表:中村 綾氏「陶山南涛『忠義水滸伝解』とその後」
廣瀬千紗子氏「『古今いろは評林』刊行時の小さな謎」
ええっと、これは私のところに来た研究会通知の無断転載ですが、なにとぞおゆるしを。
2009年02月06日
「奇談」の議論
先に触れた「文学」の秋成特集号。ぼちぼち反応も出てきています(閑田子さんのブログや私信などで)。稲田篤信・木越治・長島弘明3氏と私の座談会は、それぞれの秋成へのスタンスが図らずも浮き彫りになったようです。秋成から時代思潮(あるいは時代の空気)を探る稲田氏、あくまで「文学」にこだわる木越氏、伝記研究と作品研究の融合をめざす長島氏、そして文芸史・言説史的に秋成をとらえたい私であります(私のはあまり明瞭ではないか?)。これを評して、さる大家よりたまわりし歌五首のうち二首をご披露します。
懲りずまにおきなに迫るこゝろざし人それぞれに思はくありて
携へて魂に迫ればいと易く躱(かは)し逃るるわたなしおきな
【注】 わたなしおきな…秋成の号のひとつは「無腸」つまり「わたなし」。
さすが、いい得て妙ではないでしょうか。
閑田子さんのブログでも取り上げられているように、『雨月物語』を「奇談」の流れでとらえ、「奇談」の一特色である「寓言」的方法として改めて読んでみたいという私の発言に対し、長島さんから強い批判がなされています。「奇談」は私が近世中期の仮名読物史を構築する際に提唱しているジャンル的カテゴリー概念であり、ある方からもおっしゃっていただいたのですが、本誌巻頭論文の高田衛先生も、「奇談」を既に認められたジャンル概念であるかのように使われています(これは、私にとって非常にありがたいことでした)。また篠原進さんも本誌所収のご論で「奇談」について触れられていますし、浮世草子系怪談や談義本、前期読本あたりの研究者にも、最近ぼちぼち引用される概念になってきました。
ただ、こういう概念は、きちんと批判を受けて、ほんとうにそれが有効な概念であるかどうかを絶えず検証していくことが必要です。座談会の席とはいえ、そういう批判を出していただいたことについて、私は長島さんに感謝しています。これまでさまざまな方から好意的に触れてきていただきましたが、公的な批判は初めてだと思います。ある新説・仮説に対して、批判が公的に出るということは、この世界では非常に少ないことであり、これはほんとうにありがたい。
そして「奇談」というのはあくまで仮設的なジャンル的カテゴリー、あるいは様式、比喩的には器であり(「ジャンル」と言い切るのはまずいと思っています。これまで使ったことがありますが、これはきちんと反省)、これを仮設することで、見通しをよくするという試みだということをもう一度再検討の上、言うべきだと思いました。長島さんの批判は、本屋の分類を過大評価するなというところにありますが、それはまったくそのとおりでありまして私も同意見です。私は本屋の分類を実体的なジャンルとして提唱しようというのではなく、その分類に使われた「奇談」という概念を借用して、この時期の仮名読物を整理することを企図しているのです。このあたりすこしすれ違っていると思いました。ただここは反論を書く場ではないので、ここまでといたします。
ことしは秋成200年祭ですので、このブログでは秋成研究について、このように、いろいろ語りたいと思っています。「文学」所収論文については、続考したいと思います。
懲りずまにおきなに迫るこゝろざし人それぞれに思はくありて
携へて魂に迫ればいと易く躱(かは)し逃るるわたなしおきな
【注】 わたなしおきな…秋成の号のひとつは「無腸」つまり「わたなし」。
さすが、いい得て妙ではないでしょうか。
閑田子さんのブログでも取り上げられているように、『雨月物語』を「奇談」の流れでとらえ、「奇談」の一特色である「寓言」的方法として改めて読んでみたいという私の発言に対し、長島さんから強い批判がなされています。「奇談」は私が近世中期の仮名読物史を構築する際に提唱しているジャンル的カテゴリー概念であり、ある方からもおっしゃっていただいたのですが、本誌巻頭論文の高田衛先生も、「奇談」を既に認められたジャンル概念であるかのように使われています(これは、私にとって非常にありがたいことでした)。また篠原進さんも本誌所収のご論で「奇談」について触れられていますし、浮世草子系怪談や談義本、前期読本あたりの研究者にも、最近ぼちぼち引用される概念になってきました。
ただ、こういう概念は、きちんと批判を受けて、ほんとうにそれが有効な概念であるかどうかを絶えず検証していくことが必要です。座談会の席とはいえ、そういう批判を出していただいたことについて、私は長島さんに感謝しています。これまでさまざまな方から好意的に触れてきていただきましたが、公的な批判は初めてだと思います。ある新説・仮説に対して、批判が公的に出るということは、この世界では非常に少ないことであり、これはほんとうにありがたい。
そして「奇談」というのはあくまで仮設的なジャンル的カテゴリー、あるいは様式、比喩的には器であり(「ジャンル」と言い切るのはまずいと思っています。これまで使ったことがありますが、これはきちんと反省)、これを仮設することで、見通しをよくするという試みだということをもう一度再検討の上、言うべきだと思いました。長島さんの批判は、本屋の分類を過大評価するなというところにありますが、それはまったくそのとおりでありまして私も同意見です。私は本屋の分類を実体的なジャンルとして提唱しようというのではなく、その分類に使われた「奇談」という概念を借用して、この時期の仮名読物を整理することを企図しているのです。このあたりすこしすれ違っていると思いました。ただここは反論を書く場ではないので、ここまでといたします。
ことしは秋成200年祭ですので、このブログでは秋成研究について、このように、いろいろ語りたいと思っています。「文学」所収論文については、続考したいと思います。
2009年02月02日
江戸時代の親孝行
大阪大学出版会のハンディな教養書シリーズ、「阪大リーブル」の11冊目は、懐徳堂シリーズの第2弾『江戸時代の親孝行』(湯浅邦弘編、四六判・並製・232頁)です。
とりいそぎ、お知らせばかりですが。
近世文学でも孝行説話の研究は結構されているのですが、それらは残念ながら取り上げられていません。このテーマでの領域横断的な共同研究がなされることを期待します。
とりいそぎ、お知らせばかりですが。
近世文学でも孝行説話の研究は結構されているのですが、それらは残念ながら取り上げられていません。このテーマでの領域横断的な共同研究がなされることを期待します。
2009年02月01日
『近世文藝』89号
日本近世文学会の機関紙『近世文藝』89号が刊行されました。
タイトルが皆さん長いので、ここでは論題の引用はいたしませんが、田草川みずき氏が宇治加賀掾の浄瑠璃芸論『竹子集』の序文について、河合真澄氏が、紀海音の浄瑠璃『三井寺開帳』について、高橋圭一氏が実録の『通俗三国志』利用について、川平敏文氏が松平定信の随筆『花月草紙』について、神田正行氏が馬琴の羅貫中認識について書かれています。
さて、この学会誌、本屋では残念ながら売っていないのですが、年2回刊行で、歴史は長く、数々の名論文を載せてきました。バックナンバーについては、こちらをご覧いただきたいのですが、バックナンバーを含めて、学会員でなくとも事務局に申し込めば、購読することができます。
江戸文学に興味のある人は、ぜひお試しください。前年度も115件の購読があったようです。ぺりかん社の『江戸文学』はテーマをたてた特集を毎号やっていますが、『近世文藝』は、自分の本当に書きたいことを、じっくり40枚で書いているので、読み応えがありますし、ある程度江戸文学に親しんでいる人であれば、面白く読むことができるはずです。
今回は、なかなか力作が並んでいますが、私の関心から高橋圭一氏の論文をまず拝読。実録研究者の高橋氏の研究発表を聞いたことがある人は御存じでしょうが、この人の発表はまるで講談をきくような調子・面白さがあります。そして文章もよく構成され、練られていますが、それを下支えしているのは、日頃から熱心に現代の話芸を聴きに行っていることと、そしてなにより厖大な読書量にあるようです。
今回も、『通俗三国志』を再読して曹操が敗走する場面が八回あったとさりげなく確認していますが、そういうことをまったく厭わないほど、こういう読み物が好きなんでしょうね。
当然、論文も面白い。なるほど真田幸村は孔明、家康は曹操か。へたな小説よりよっぽどスリリングな論文で、気づいたら読了。筆の冴えに感服。
タイトルが皆さん長いので、ここでは論題の引用はいたしませんが、田草川みずき氏が宇治加賀掾の浄瑠璃芸論『竹子集』の序文について、河合真澄氏が、紀海音の浄瑠璃『三井寺開帳』について、高橋圭一氏が実録の『通俗三国志』利用について、川平敏文氏が松平定信の随筆『花月草紙』について、神田正行氏が馬琴の羅貫中認識について書かれています。
さて、この学会誌、本屋では残念ながら売っていないのですが、年2回刊行で、歴史は長く、数々の名論文を載せてきました。バックナンバーについては、こちらをご覧いただきたいのですが、バックナンバーを含めて、学会員でなくとも事務局に申し込めば、購読することができます。
江戸文学に興味のある人は、ぜひお試しください。前年度も115件の購読があったようです。ぺりかん社の『江戸文学』はテーマをたてた特集を毎号やっていますが、『近世文藝』は、自分の本当に書きたいことを、じっくり40枚で書いているので、読み応えがありますし、ある程度江戸文学に親しんでいる人であれば、面白く読むことができるはずです。
今回は、なかなか力作が並んでいますが、私の関心から高橋圭一氏の論文をまず拝読。実録研究者の高橋氏の研究発表を聞いたことがある人は御存じでしょうが、この人の発表はまるで講談をきくような調子・面白さがあります。そして文章もよく構成され、練られていますが、それを下支えしているのは、日頃から熱心に現代の話芸を聴きに行っていることと、そしてなにより厖大な読書量にあるようです。
今回も、『通俗三国志』を再読して曹操が敗走する場面が八回あったとさりげなく確認していますが、そういうことをまったく厭わないほど、こういう読み物が好きなんでしょうね。
当然、論文も面白い。なるほど真田幸村は孔明、家康は曹操か。へたな小説よりよっぽどスリリングな論文で、気づいたら読了。筆の冴えに感服。