2009年03月30日

足の裏に影はあるか?ないか?

「こういう本を、ずっと書きたいと思ってきた」

 これがプロローグの冒頭文であり、本書の帯にも書かれている。実に映画的な、コピーのような書き出しである。もちろん計算づくだ。入不二基義『足の裏に影はあるか?ないか? 哲学随想』(朝日出版社、2009年3月)が出た。まぎれもない「哲学随想」である。

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入不二さんは、私の山口大学時代の友人であるが、昨年夏、7年ぶりに偶然に出会って以来、古くて新しい友人という関係である。以来、送っていただく彼の著作はここに必ず取り上げることになるのだが、それは私にとってはごく自然なことで、義理でもないし、挨拶でもない。

 彼は自ら告白しているように、書くことが異常に好きなのである。幼稚園から手帳を持ち歩き、気づいたことをメモするのが好きだったとか、同棲している彼女にラブレターを書き続けるとか、これはもう、近世流にいえば「畸人」である。おそらくは、本を読んでいても、プロレスを見ていても、彼の頭の中には思考というよりも、美しい逆説をいくつも内包した文章が湧き出て抑えられなかったのだろう。しかもその文章は、徹底して読者を意識していたはずだ。その第一の読者は、たぶんラブレターの相手なんだろうな。

 文章だけではなく、構成にも仕掛けがある。見開きの目次の折れ目、第III部の冒頭の随想が「love letter」だ。ちょうど本全体の真ん中あたりにこのエッセイがくるようになっている。書店でこの本を立ち読みするとすれば、まずここに目がゆく。

 「あのころ、数え切れないほどのラブレターを書き続けた」

と、これまた映画のキャッチコピーのような冒頭文がある。うひやあ、ナルシシズム寸前、いやナルシシズムそのもののこの文章は、ナルシシズムを経由させることでしか実感しえない「ただいっしょにいること」の充足感に落着する。これも計算すくなのですね。

 「哲学と黒板」。哲学の講義に、黒板が有用であるということ。

  私は哲学の講義をするときには、哲学の謎を追い続ける様子を「スローモーション」で再現し、「見え方」の変化の体験をできるだけ共有できるように心がけている。

 そのために不可欠付なのが黒板なのだそうだ。入不二さんの授業を実際に受講した学生から聞いた話だが、入不二さんの板書は、出来あがった時に参考書のようにきれいなのだそうだ。哲学講義と黒板の相性のよさ。ホワイトボードではだめだという。私も図解するときは、最初からプリントせずに黒板を使う。たしかにホワイトボードは嫌だ。粉の飛ばないチョークを誰か発明してくれたらな。本書には、黒板がよくてホワイトボードはだめだという理由も書かれている。しかしその理由は哲学的なものではないぞ。そこを哲学的に書いてほしいと思いました。

 入不二さんを知る人は、そのキーワードとして「予備校」「プロレス」を挙げるだろう。元カリスマ予備校講師にして、プロレス愛好家。プロレスについての哲学的考察である「ほんとうの本物の問題としてのプロレス」はその道の(どんな道だ)本格的レビューに譲るとして、ここでは、「観客への伝達としての「パフォーマンス」」において、プロレスと予備校との同型性を見る「コミュニケーションとしてのプロレス」をあげておこう。トータルコミュニケーション力が要請される予備校講師とプロレスとの共通点の指摘はなるほどと思うくらいだが、レスラー同士の戦いはメタコミュニケーションになる。相撲では絶対にありえない、相手に対して「おい、八百長野郎!」とののしるようなこともプロレスならあり。子供のころによくやった「プロレスごっこ」こそプロレスの起源・あるいは原型といわれて、唸ってしまう。
 これは真と偽という問題ではない。ある問題を徹底的に問いつめ、考えぬいても、いやそうすればこそ、どこかに充足されない「感じ」、欠如感が残る。その欠如性の問題である。プロレスはそれを考えさせる。

 「便利と快楽とニヒリズム」。情報誌「ぴあ」を非功利的に読んだ思い出から、ネットサーフィンに転じ、功利的な成果主義に対する「今・ここ」の充足感を味わうことの賛美・・・・という予定調和的な展開をやはり裏切る。徹底的に相対的な思考は、入不二さんらしいものだ。

 だが入不二さんの文章の真骨頂は、たとえば、

  過去の方を見ながら未来へと後ずさりして行くことは、「かけがえのなさ」を「時間」へと託すこと、必然でも偶然でもない、あるいは必然でも偶然でもある「運命」を感じること、そういう事柄へと通じているかもしれない。(Memoranda 1991-1992)
 
というような、詩的なことばである。一流の哲学者の言葉とは結局は比喩であり、詩である。「寓話「外へ」」は、安部公房をちょっと髣髴とさせるファンタジーだ。

 随想的哲学書なのか、哲学的随想集なのか。答えはどちらでもない。「哲学随想」という、そういうジャンルの本なのである。
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2009年03月29日

懐徳忌のお知らせ

2009年度の懐徳忌は、下記のとおり執り行われます。

◆日 時:平成21年4月4日(土)

◆場 所:誓願寺(大阪市中央区上本町西4丁目)
    (大阪市営地下鉄谷町九丁目下車、上町筋を北に徒歩10分)

◆内 容:11:00〜法要・墓前祭 11:30〜講演(約一時間の予定)

◆申 込:懐徳堂記念会事務局まで御連絡ください。
     電話・ハガキ・FAX・メール何でも結構です。

◆講演要旨:「懐徳堂ゆかりの絵画」奥平俊六(大阪大学文学研究科教授)

 江戸時代には絵画がもう少し身近なところにありました。ガラスケースの向こうにあるものを眺める、といった接し方ではなく、自ら画巻や画軸を巻きひろげたり、絵の描かれた襖を開け閉めすることは、ごく日常的なことでした。
 懐徳堂の講義室にも襖絵があり、鴨居上には文字額の他に額装の絵が掲げられていました。また、竹山や履軒の肖像、あるいは歴代学主が賛を施した軸もあります。それらは一部ではありますが、大切に保存され、今日に伝えられています。今回は、その中から、いくつかの作品を取り上げて紹介します。
 まず、歴代学主が着賛した作品の中から、竹山と履軒の父であった二代学主中井甃庵が、在りし日の友の遺した絵を見ながら後賛した珍しい作品、および履軒が賛をした象の絵を取り上げます。ついで、よく知られている竹山と履軒の肖像について、その特徴と意義を、肖像画の歴史の中で考えてみたいと思います。
 かつて懐徳堂にあった襖絵は、竹山が、たまたま大坂に逗留していた谷文晁(松平定信の御用絵師)に依頼したものです。また、鴨居上に掲げられていた「宋六君子図」は、蔀関月、中井藍江という懐徳堂に出入りしていた師弟の合作です。この文晁、関月、藍江のほかに、岩崎象外と履軒自身の画業(これはなかなかわからないのですが)についても考えてみたいです。さらに、これらの作品を保存、顕彰しようとした中井天生(木菟麻呂)の思いとその執念を実感できる模写について紹介できればと思います。
(記念会ホームページより転載)

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ウチの院生が・・・・

手前味噌の話題。『国文学』4月号臨時増刊号の「学界時評 国語」に、我が大阪大学国語国文学会の「語文」91号(2008年12月)の特集が大きく取り上げられている。ここでも少し触れました。この特集は2008年の学会における公開ワークショップを活字化したもので、テーマは「会話文」である。語学・文学、前近代・近代を問わず、同じテーマで大学院生が取り組んだ成果である。

実は私はここに辛口の傍聴記を書いたのだが、小野正弘氏は大変ほめてくださっている。

 ある一つの統一テーマをめぐって院生が一斉に研究を展開する、というのは、やれそうでいて、なかなかやれないことであろう。

そして語学の側では、所与の注釈書というテキストに示された括弧のなかを、無条件に「会話文」として受け容れているとし、その反省を示唆されたとしている。「なるほど、ウチの院生はほめられてるじゃないの」と、自分は辛口批評していながら、嬉しくなる。自分はなんにもやってないのにね。

このワークショップのテーマのヒントをくださった濱田啓介氏、『語文』を送られて大変喜んでおられました。院生諸君に伝えていなかったので、この場を借りてご報告。
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2009年03月28日

ブログ開設1周年

本日、忘却散人ブログ開設1周年を迎えました。この間、御多忙の中、アクセスしていただきました方々、コメントをお寄せいただいた方々に深く感謝いたします。

今年の年賀状には、ブログについて触れている方が数名おられ、中には思いがけない方もいて驚きました。学会や研究会でも、ブログのことを話しかけられることが時々あります。論文を書いても、ここまで反応はないので、喜んでいいのかどうかわかりませんが。

まさか、と思うような方がご覧になっていたり、コメントを寄せてこられたりすることもあり、私なりに楽しかったです。

もともとこのブログを開設する前に、ブログ風の日記をつけはじめていました。さまざまな情報や記録を管理するのが苦手なので、ブログにヒントを得て、エディタに日付とタグを付けて、トピックごとに記録・日記・情報をどんどん書き連ねるというやり方です。何か思い出せないことがあれば、検索で思い出すことができます。ひとつのファイルで管理するので、情報検索が楽になりました。

その1部を公開するという形はじまったのが現在のブログです。もっとも切り張りしていたのは最初のうちで、だんだん直接ブログに書き込むようになり、日記が二重化している感じです。

どうやって増え続ける本や情報を管理すればいいのか、いろんな本を読みましたが、実行できたためしがない。すこし情報があふれ出してくると、忘れ物、失せ物が続出し、思い出したり、捜すのに膨大な時間を費やすという、最悪のパターン。どうも情報整理術が長続きしないのですね。

その中で、ブログが1年続いたということは、なにかヒントがありそうです。読者の存在かな?

ともかくも、近世文学研究の情報発信の場として、きわめて個人的な嗜好に偏ってはいますが、今後とも続けていきます。

とはいえ、個人ブログという媒体の特質に甘えておりますので、それ以外のことを書くこともあります。全体にはおとなしすぎた観のある1年でした。来年はもう少し骨のある内容にしたいと考えています。なにとぞよろしく。

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角川ソフィア文庫『日本永代蔵』

堀切実訳注『新版日本永代蔵』(角川ソフィア文庫、2009年3月)が刊行されています。

角川学芸出版は、最近、角川選書や、角川ソフィア文庫で古典に力を入れているように見受けられます。太平記や西鶴織留などを出していた、昔の角川文庫を髣髴とさせる、われわれにとっては、ありがたい傾向です。

もちろん現代人向けに、活字は大きく、読みやすい工夫がなされています。今回の新版では、各編ごとの解説に加えて、挿絵ひとつひとつに説明がなされているのが文庫本としては画期的でしょう。

近年の西鶴研究の成果もが取り入れられているようですし、まずこの一冊から永代蔵に入っていけるのだろうという感じがします。

このような文庫本をさらに出して、本屋の書棚を五段、六段と埋め尽くしてほしいなあと思います。日本文学系の出版社も、単独では文庫本は出しにくいでしょうが、研究者とのコネクションという財産があるのですから、いい本をつくることはできるはず。ぜひ、文庫本をもつ大手出版社と協力して、気軽によめる古典の本文を提供するという方向を模索していただきたいと思います。
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2009年03月27日

『忍頂寺文庫・小野文庫の研究3』

2008年度大阪大学大学院文学研究科共同研究(国文学研究資料館研究連携事業)研究成果報告書『忍頂寺文庫・小野文庫の研究3』(「忍頂寺文庫・小野文庫の研究」共同研究グループ・国文学研究資料館編、2009年3月)が刊行されました。2005年度・2006年度につづく第3弾で、42頁という薄冊のものですが、出せてやれやれというところです。

大阪大学附属図書館のコレクションの一つに忍頂寺務さんの歌謡・洒落本などを中心とする優れたコレクションがあります。在野の研究者であった忍頂寺務さんの顕彰と、その収書の紹介、蔵書形成(将来的には目録の作成)、有数のコレクションである洒落本を用いてのテキストデータベースの展開などが、当共同研究事業の内容ですが、今回は、コレクションの目玉である薄物唄本から、ほんの一部ではありますが、何点か紹介した他、去年のいちょう祭(阪大でGW中に行われるもの)で展示した追善の本についても特集しています。

目次は以下の通りです。

忍頂寺文庫・小野文庫の研究―2007年度、2008年度― 飯倉洋一
忍頂寺文庫所蔵薄物唄本「尽くし物」紹介―兵庫口説を中心に― 浜田泰彦編
忍頂寺務による都踊口説および兵庫口説作者の伝記に関する考察 浜田泰彦
忍頂寺文庫・小野文庫蔵〈追善の本〉抄 大阪大学近世文学ゼミ編

なお、「忍頂寺文庫・小野文庫の研究」は共同研究メンバーのみでブログを開設していますが、まもなく本共同研究のホームページが出来る予定です。もっともコンテンツは最初はほそぼそとした感じになります。整ったらここでまた通知いたします。

1号から3号まで在庫ございますので、御希望の方はiikura(あっとまーく)let.osaka-u.ac.jpまでお問い合わせください(1号は在庫薄)。
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小林ふみ子『天明狂歌研究』

 小林ふみ子さんの『天明狂歌研究』(汲古書院、2009年2月)。2004年に提出された博士論文を基にして成った論文集で、3章15節から成ります。近年若い方が博士論文を刊行するケースをよくみかけますが、翻刻編などを付して一書を成すことが多い中で、本書は15本の論文からなる堂々たるもので、博士論文提出後の論文も6、7本あります。

 先行研究をきちんと踏まえ、資料を駆使してオーソドックスに論じていく各論は、非常に安定している感じがします。天明狂歌壇催事年表を付し、今後、スタンダードになっていくであろうと思われる本です。一番古いものが1999年。コツコツと10年やれば、一書が編めるんだという好例です(どこかの散人は20年かかっとるものな)。

 それに近世文学の研究書として異例なのは、長文の「英文要旨」がついているということでしょう。海外での日本文学研究が進展する中でも、それに対応していける研究者は非常に少ないと思いますが、小林さんは相当な英語の使い手と伺います。誰でも英語をやらなきゃならないとは思いませんが、戯作研究は在外資料を用いることも多いわけで、これは大いに役に立つスキルでしょう。

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2009年03月26日

世阿弥を歩く

天野文雄著『能苑逍遥(上)世阿弥を歩く』(阪大りーぶる、2009年3月)が刊行されています。
既に大著『世阿弥がいた場所』(ぺりかん社、2007年)など、多数の著述のある天野先生が、能楽のパンフレットなどに書きためた原稿を再編成して、能苑逍遥という3部作をおつくりになるということで、その第1弾です。

本書は「第一部 世阿弥の事蹟を歩く」「第二部 世阿弥の理論を歩く」という二部構成になっています。この中には、私が編集した大阪大学文学研究科広域文化表現論研究報告書『テクストの生成と変容』(2008年3月)に御寄稿いただいた文章も含まれており、ありがたく思います。

 32のトピックが自在に語られるのを愉しむうちに、世阿弥への理解が深まっていくという非常に贅沢な本です。天野先生の柔軟な思考が、わかりやすく親しみやすい文章として読者に開示されています。

(中)(下)も近い内に刊行されると漏れ聞いております。楽しみです。
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湯浅邦弘さんの『諸子百家』

同僚の湯浅邦弘さんが、『諸子百家 儒家・墨家・道家・法家・兵家』(中公新書 2009年3月)を刊行されました。

湯浅さんは、中国古代思想・懐徳堂研究に関する多数の著書を刊行されており、その精力的で、丹念なお仕事ぶりには、本当に目を瞠らされます。とりわけ、この1年は、『墨の道 印の宇宙』(阪大リーブル)、『孫子・三十六計』(角川文庫)と、単著を刊行しており、ほかに編著として『江戸時代の親孝行』(阪大リーブル)もあり、その生産力は驚異的というべきでしょう。

本書は、最新の出土文献研究の成果を取り入れた中国古代思想の入門書で、豊富な図版を用いて、わかりやすく書かれ、すみずみまで気を配った構成がなされています。最終章の「諸子百家の旅」は、とくに著者の実体験に基づく紀行文形式で、現代中国に伝えられる諸子百家を読者に伝えるというユニークなものです。テレビ番組のような手法で、実に楽しく読めます。

 最新の研究成果を取り入れているということが実感される中国古代思想の入門書です。
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2009年03月21日

『鯉城往来』第11号

広島近世文学研究会が刊行する研究同人誌『鯉城往来』第11号が刊行されました。

巻頭末まつ(ごめんなさい、字がでません)昌子氏の「浅井了意『可笑記評判』における「婦人の仁」と「仁の端」」は、了意における「仁」の思想を、『可笑記』への批評を通して丁寧に分析した論文。杉本好伸氏の新出「《稲生物怪録》について」は、氏の独擅場となった《稲生物怪録》諸本探究の新稿で、諸本博捜に基づくゆるぎない自信が窺えます。他もこれから勉強させていただきます。

この研究会、山口にいたころ、私も何度か顔を出したことがありますが、杉本さんを中心として、久保田啓一氏、藤沢毅氏、島田大助氏らの中堅が、若手を育てているという趣きの会でしたが、そのありようは、今も変わりないようです。
 連載のひともと草注釈、手紙の翻刻、広島大学蔵の近世文学関係書書誌解題などは、注釈力・翻字力・書誌記述力という、いわば三つの基礎力をきたえる場になると同時に、これを責任をもって公表することで、実践力をつけていくという、あるべき教育が行われているように見受けられます。

このスタイルを貫き通して10年以上、研究同人誌のひとつのスタイルを築いたといえるでしょう。早稲田の『近世文藝研究と評論』は、同窓の研究同人誌ですが、こちらは広島という地域に集う近世文学研究者の結束の場だと言えるでしょう。

 気になるのは、奥付と実際の刊行のタイムラグ。3月に送られてきて「2008年12月」というのは、ゆったりしているといえばそれまでなのですが、いかがなものでしょうか。まあ、年度ごとに刊行しなければならないような、どこかの大きな機関の紀要にも、こういう事例はよくあるのですが、研究同人誌の場合、そういう操作が必要なのかどうか。
 
 同じような研究同人誌を出している身として、こういう事態が起こる背景は本当によくわかるのでありますが。
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2009年03月18日

島津先生おせんべい

島津忠夫先生の著作集の完成をお祝いする会が舞子であり、私のつれあいが(校正をお手伝いさせていただいた縁で)出席させていただいたのですが、そこで配られたお祝いのおせんべいを持って帰りました。開けてびっくり。
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亀井堂総本店の神戸名物瓦せんべいの特別版ですね。会はたいへんな盛会だったようですね。おめでとうございます。
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2009年03月17日

プリンセスライン

京都駅八条口より京都女子大学に向かふバスに「プリンセスライン」なる赤き車体のバスあり。いと便利なるバスなり。散人、初めて乗りしが、運転手、若き女性なり。「なるほど、それゆゑ、プリンセスラインなるか」と納得せり。そを研究会の仲間に語れば、その人「それは違ふ」といふ。散人、「プリンセスラインの運転手は全て女性、画期的なるバス会社かな」と思ひ込みてゐたり。
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2009年03月14日

広嶋進さんの『西鶴新解』

広嶋進さんの『西鶴新解』(ぺりかん社、2009年3月)が上梓されました。前著『西鶴探究』に続く論集ですが、本著では武家物・好色物が扱われ、「色恋と武道の世界」という副題がついています。

広嶋さんの論文は、一本一本が実に粘り強く、きちんと研究史に向き合い、それとの対話の中から、新しい読みを拓こうという、非常にオーソドックスな書き方で貫かれています。

源氏のパロディとして言及されることの多い『好色一代男』を、「十七世紀後半の西行の流行の影響を受けながら、それに拮抗する形で成立している」としたり、可憐な恋として読まれてきた『好色五人女』巻四の吉三郎とお七の恋(八百屋お七の話)を、男色と女色のすれ違いの滑稽と読んだり、前田愛氏の、近代になってはじめて黙読する読者が誕生したという有名な「近代読者の成立」の説を、『西鶴諸国はなし』を検討することで相対化するなど、広嶋さんの模索は、さまざまな方面に及んでいます。

西鶴研究をリードしてきた早稲田の西鶴学では、師匠の説を批判して乗り越えるというスタイルが伝統的に行われているように思いますが、自然主義的な読み」がほぼ近代的な読み方として退けられている現在の研究状況のなかでの暉峻康隆説批判は、広嶋さんの師匠である谷脇理史先生の読み方を継承するという印象があります。

 しかし、広嶋さんは、むしろ自然主義文学の読みをもう一度徹底的に取りだして、これを批判するという原理的な方法を取られる(序章)。これはもう常識だろうと思うのですが、そうではないのかもしれませんね。「小説」ではない西鶴の読み方というのは、たぶん一般読者には、小説的読み方以上に魅力的なように、研究者側はまだ示し得ていないという認識が、広嶋さんにはあるのでしょう。

 一方で谷脇先生への批判が展開されるのは『日本永代蔵』成立論。これはもう専門家の議論であって、ここに入らないとわからないように感じます。

 暉峻西鶴・野間西鶴・谷脇西鶴というのは、それぞれ(よくもわるくも)強烈な色を持っています。広嶋さんには広嶋西鶴と呼ぶようなアクの強さ、また広嶋調と呼ぶような独特の文体は見られないように思いますが、むしろそれがないことが、バランスのとれた現在の西鶴の読みを象徴しているようにも思えます。

 しかし、正直いうと、どこか寂しいところもあります。我々は西鶴を読むときに、他の近世散文とは違って、ある突出したものを感じる。その突出したものとは何なのか、それは研究史の相対化だけではわからないような気がします。もちろんそれは、私自身の研究している秋成にも言えるんですけどね。ではどういう読みをすればいいのか。むしろこの問いは私自身に向けられているようです。ともあれ、本格的な西鶴論の刊行、喜ばしいことです。
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2009年03月07日

忍頂寺務著述・旧蔵書を考える研究会

国文学研究資料館公募研究「近世風俗文化学の形成―忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺―」公開研究会・講演会のお知らせです。

下記の通り行います。興味のある方はどうぞ。なお、すわることができるのは最大46名です。

日時 2009年3月7日(土) 12:30〜16:30
会場 大阪大学総合学術博物館 待兼山修学館 3Fセミナー室(最大収容46名 *入場無料) (以前2Fと告知していたのは誤りです)

―研究発表― 12:30〜14:20

鷲原知良(仏教大学非常勤講師)
幕末期京摂の漢詩人と忍頂寺聴松−忍頂寺務氏紹介の来簡をめぐって−

福田安典(愛媛大学教授)
忍頂寺務の評伝作成のために

―講 演― 14:30〜16:30
肥田晧三(元関西大学教授)
忍頂寺務氏の著作を集める
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2009年03月05日

小さな和古書目録

『大阪大学附属図書館蔵和古書目録 第二稿』(大阪大学附属図書館発行、2009年2月)というのを刊行いたしました。

 平成元年に、伊井春樹先生によって第一稿が刊行されましたが、20年ぶりに、その際未整理であった和古書163点を目録化して刊行したものです。うすいうすい目録ですが、ちょっと感慨があります。中身はまあ平凡といえば平凡なのですが、実はちょっとめずらしいものも少しあり、源氏大鏡の写本もあります。

 暑い盛りに、学生諸君と汗まみれになって、近代本・漢籍などと、ごった煮状態の和本を抜きだし、分類して、バラバラのものをそろえ、カード化したものを元になったのです。

 とくに現名古屋大学大学院のわく田将樹君の活躍が大きかったです。彼がこの未整理本のことを図書館の方からきいて調査が始まり、最後はわく田君がひとりで総点検してくれました。

 あと第1稿・第2稿を合わせた索引を作成しました。これは阪大の浜田泰彦君の労作。協力してくれた学生は全部で11名でした。

 こんな薄っぺらな冊子ですが、ちゃんと図書館長の序文までいただいております(ありがとうございます)。

 この目録はいずれ大阪大学附属図書館からWEB公開される予定です。

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2009年03月04日

貸本文化研究会

とても面白そうな研究会があります。ちかくなら行きたいけどなあ。

「貸本文化研究会」開催のお知らせ

日時:2009年3月14日(土)p.m.1:30〜

場所:中京大学センタービル6F(06B教室)
    (名古屋市昭和区八事本町101−2)

発表:@「近世貸本文化研究の意義・方法・資料、その再確認」
     鈴木 俊幸氏(中央大学教授)

    A「『貸本書肆大惣江口家内年鑑』について」
     長友 千代治氏(元佛教大学教授)

備考:会場への経路
    名古屋駅から地下鉄・東山線(藤が丘行)で1つ目の「伏見」で地下鉄・鶴舞線(赤池・豊田市行)に乗り換え、「八事」で下車(約25分)。
    5番出口を出てエスカレータ、階段を上がると、中京大学のセンタービルの前に出ます。
    正面から入るとすぐにエレベータがありますので、6階に上がってください。(6階に掲示あり)。
    鶴舞線乗り換えの際、進行方向1両目に乗り、「八事」で下車すると5番出口に近いエスカレータで上がれます。

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2009年03月03日

小篠景子さん

くうざん先生から、教えてもらったのですが、前にここに登場した、国会図書館関西館の小篠景子さん。

私の教え子なのですが、活躍しているようで、図書館のレファレンスの人がどのような相談がきたかを持ち寄るデータベースのことを発表されたようです。(たまたま、くうざん先生もその会で発表されたようです。)

おもしろいスケッチブックを使ってやったのがユニークだったようで。http://d.hatena.ne.jp/arg/20090302/1235996772
ほうほう、あの岡本真さんから絶賛されているではないですか。うれしかったのでここで報告。

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2009年03月02日

時間論とわたし

『思想』(岩波書店 2009年3月号)の「瞬間と偶然をめぐって」の座談会。参加者は木村敏・小林敏明・斎藤慶典・入不二基義、植村恒一郎。こちらで書いた、山口大学時代の友人である入不二さんに送っていただきました。

 入不二さんと七年ぶりぐらいにバッタリあったのが、去年の8月終わりの岩波書店のロビー。まさにこの座談会のために来た入不二さんらが、談笑しておられました。まさにこれを「偶然」と言わずになにを「偶然」というのかというような、「偶然」の出会いでした。私は私で秋成についての座談会で来ていたのですから。

 日本近世文学の話題を提供するこのブログに、入不二さんのことが時々出てくるのは、この出会いがあったればこそです。そしてさらなる「偶然」は、最近NHKBSの朝の番組「私の1冊 日本の100冊」に登場した玄侑宗久氏が、強く影響を受けた本として挙げていた『時間と自己』の作者、木村敏氏が、この座談会に登場しているということでした。「私の1冊、日本の100冊」は、日替わりで、いろいろな人と本が出てくる番組なのですが、この回の印象度は非常に強かった。木村敏氏への引力が、この「思想」3月号を入不二さんとともに連れてきたのではないだろうか、などと運命主義的なことをいいたくなるのです。

 「瞬間と偶然をめぐって」の特集は、上記の五人が、慶応大学で行われたシンポジウムを元に論文を各1本書き、それを読んできて、議論するという徹底度の高いものであり、議論は精緻を極め、こちらの脳の受容力は限界に達するのでして。私のセンチメンタルな「偶然」への思いなどは、吹き飛ばされて、つきつめた議論が行われているのです。とくに時間論は入不二さんの専門であるマクタガートの議論が前提になっているところがあります。

 ただ、内容は理解できていないのですが、感想としては次のような感想を持ちました。
 
 木村氏だけが「哲学」の人ではなく「精神病理学」の研究者。とくに癲癇の症状を示して、「瞬間」について考察してゆきます。過去にこだわるのではなく、未来を気にするのではなく、瞬間を生きる癲癇、そこに「死と再生」が生起するという、ドラマチックな考究。その「瞬間」を的確に表現したものとして、ドストエフスキーを引用してしてくるあたりが、しびれてしまいます。

 『時間と自己』の著者の存在論は、当然ながら、ハイデガーが前提されているようです。『存在と時間』は、別のところ(このブログではなく)で述べたことがあるのですが、私の「青春の書」でもあります。わからないながら、信じ難い時間をかけて友人らと読みとおした哲学書。この時間論がまた、私の中で生起してきます。過去に読んだ本が未来から生起してくるのです。つまり、木村氏の論文は、私の「自己」を揺さぶり続けるのです。勢い座談会も、木村氏の発言とその前後に、揺さぶりが起こります。どうもこれは不思議な感覚ですね。

 私には木村氏の議論が、群を抜いてなまの「人間」から考察された思想のように思え、入不二さんらの哲学者たちの考察は、徹底的に言葉にこだわり、というよりもきわめてレトリカルな世界を競っているように思えました。これは批判ではありません(そんなものできるわけないっす)。哲学の世界が、文学研究以上に、表現の世界であるということ、哲学は表現であり、文学であるということを感じたということです。理解できていないのに、読後の自分が、いつのまにか、「いつもより」緻密な物の考え方ができるようになっていることに驚きました。

 そういうわけで、今回の特集は、私のようなものにも、大きな収穫だったのですが、東京での偶然の再会、本屋での入不二さんの文庫本の発見、玄侑宗久、木村敏と続いていく、偶然の糸はどこまでたどれるのか、揖斐高さんの本が、あえて時間軸に作品を位置づけることを脱したいと宣言していたこともまた、私にはこの糸に絡みついてくる問題のように思えてならないのです。
posted by 忘却散人 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする