2009年12月29日

『書籍文化史』11

恒例のお年玉が年末に届く。鈴木俊幸氏が出している雑誌『書籍文化史』(奥付は2010年1月)が11号を迎える。

分厚い。それもそのはずで、「古活字版悉皆調査目録稿」という凄いタイトルの原稿が110頁超。これで過半を占める。高木浩明氏の壮大な志に基づく調査の第1回である。タイトルがすべてを語っている。図書館別にせめていくみたいだが、今回は龍谷大学・中之島ほか8図書館126点である。しかし悉皆調査というからには、これは気の遠くなるような作業になろう。詳細な書誌データ。特に「備考」に重要な情報。

巻末鈴木さんの増補改訂近世書籍研究文献目録補遺。いつもながら驚くべき目配りだ。同じ文献でもいろんな分類に入れていて、探しやすくなっている。自分の関係したものが出てくるといつもながら嬉しいものである。なにしろ広く取っておられるので、ちょっとでも本のことに関係していたら載る可能性が大きいのである。

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肥田晧三先生の坐談

『芸能懇話』20号(2009年12月)。昭和63年から平成20年まで、毎月行われている大阪芸能懇話会での恒例の肥田晧三先生の坐談を一挙掲載した特集で、肥田先生の傘寿のお祝いでもあるという。江戸時代から昭和まで、肥田先生自身の集められた本や御自身のご体験に基づいた、興味深い話が満載で、どこから読んでも面白いし、とにかく私の知らないことばかりで勉強になる。

大阪ミナミのブロマイド屋
大阪芸者評判記
明治35年の肥田家の年始行事
小山暁杜(秋成の収集家)
などなど、もうたくさんの記事。なにせ20年以上にわたる談話。すこしお休みがありますけれど百数十話あるわけで。

横山重先生の『書物捜索』誕生に肥田先生が関わった話も興味深い。浪速趣味人の「道楽宗」の話など愉快というか痛快というか。それにしても肥田先生のなにわ学、底知れないですね。
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2009年12月23日

高田衛『春雨物語論』

 高田衛『春雨物語論』(岩波書店、2009年12月)が遂に刊行された。ここ2年の間、高田先生は秋成200年を意識されつつ、諸処に春雨物語論を発表されていた。それらを核にしながらも、さらに書き下ろしを多く加えて、一書として刊行されたもの。書き下ろしの部分が圧巻、とくに「『春雨物語』の世界」は、60頁弱の力作である。

 秋成は76歳で没したが、高田先生も76歳になって春雨物語論を書き始めたという。満天の星の中に線を引いて流れる流星に春雨物語を例える「はじめに」。ここから一気に高田ワールドへ引きこまれる仕組みである。

 これまで発表されてきた各論文は拝読していたが、一書になると全く印象が違ってくるのが不思議で、これは高田先生の本をつくる構想力であり、文学力であろう。秋成没後200年の年に、記念すべき大著が刊行されたことに感慨を禁じえない。

 興奮気味に頁をめくったが、内容については、じっくり拝読してから、いずれ書いてみたい。

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2009年12月22日

中世の書物と学問

小川剛生さんの『中世の書物と学問』。山川出版社の日本史リブレット78(2009年12月)。800円。

「古典」意識と学問(序に当たる部分)
@書物をつくる
A書物をよむ
B書物をあつめる
C書物をひく
Dふたたび書物をつくる―注釈書
写本文化に規定された学問

と、この目次を見ただけでも非凡な感じがする。「カノン」という言葉は一切使わないが、カノンの形成を中世の古典学を例に、書物に即して分節的に説いたとも受け取れるものであり、古典文学を研究するすべての人に役立つ重要な指摘が満載、しかも読みやすい。

本歌取りという和歌の作り方が、本文校訂を必要とするとか、学問とは抄出であり、抄出したものを分類して並べ替えたのが類書であるといったり、とにかく肝を押さえている。

つまり、文献学とは何か、何のためにあるのかということまで懇切に説いているので、文献的研究に従うすべての人、文献的研究の意味や価値に疑問を持つ人すべてにお勧めできるのである。奇をてらうようなことは一切言っていないが、ぞくぞくする程面白い本である。

追記:「カノン」という言葉、ルビとしては使われていました。訂正いたします。
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2009年12月21日

雲烟過眼録のご指摘

拙ブログからリンクを張らせていただいている、雲烟過眼録の12月7日と12月19日のエントリーで、上田秋成全集の翻字(校訂・句読)についての「訂正」が載せられているのに気付いた。

前者は第9巻、後者は第12巻。いずれも研究の手薄な作品であり、漢詩文の専門家ならではのご指摘。

訂正することによって新たに見えてくることもあるようだが、多分この記事は次号の『江戸風雅』に掲載されるのではないかと見ている。

秋成の残した遺文は厖大であり、ほとんど検討されていない文章も多数ある。しかし多く晩年に書かれたそれらは、秋成伝の宝庫でもあり、当時の文藝意識を考えるのには看過できない。

そのことを改めて認識させていただいたという意味でも、このご指摘はありがたいことであった。


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2009年12月20日

十九世紀の文学

仕事は遅々として進まないのに容赦なく次から次へと本が出るなあ。そういう感じの一年でした。先日も約ひと月ぶりに学内生協に新刊をひやかしにいったら、そんなに文系の本は置いていない本屋なのに、思わず買いそうになった本が20冊ばかりあった。でも我慢我慢で結局買ってきたのが岩波の『文学』11・12月号である(むかしは講読していたが)。やめてくれえ、この忙しい時にこんな面白そうな特集出すのは!「十九世紀の文学」。こりゃいかん、流し読みしよう。と冒頭の高木元さんの「十九世紀の草双紙―明治期の草双紙を読む―」をダーッと読む。しかし高木さんは文章が達意である。文学研究者と思えないほど無駄がない。その中でときどき突然高木さん一流の「評価」がはいってくるところが面白い。ダーッと読んでも分かりやすくてよく理解できる明治期の草双紙の概要。これは概説として今後必読になってくるだろう。明治に入って新刻される「明治出来の合巻」とは別に、作りの安っぽい〈明治期合巻〉があり、明治時代の事件を描写した〈明治期草双紙〉があるというあたり、読んでいて全く混乱はしないのだが、この用語は、やっぱり紛らわしいと、無知は棚に上げての感想を持ちました。挿絵を中心に叙述する佐々木亨氏の「挿絵小説の展開」、戯作意識を問題とする山本和明氏の「稗官者流の〈明治〉」。この分野は未開の沃野ですな。しかしかなり開かれてきた、この方々によって。ああ、この方々は、かの魯文研究会の人たちではないか。巨人仮名垣魯文の全貌はまもなく明らかになるのであろうか。これまた楽しみである。

 昨日話題にした座談会で、こちらも知的巨人である小峯和明氏が韓流ドラマにずいぶん詳しいなあと思ったが、ある方から熱烈チャングム・ファンと聞いていたので、なるほどと思いつつ読んだ。これ補記です。
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2009年12月18日

源氏物語と九雲夢

『リポート笠間』50号記念座談会。「日本」と「文学」を解体する。ツベタナ・クリステワ、ハルオ・シラネ、染谷智幸、錦仁、小峯和明。たぶんこれは4、5時間やったんじゃないかと思われる長い座談会(40頁ほど)だが、日本文学の現在の研究状況、これからの展望がテンポよく議論されていて一気に読ませる。部分的に、「そうかなあ?」と首をひねるような発言も見受けられるが、全体としては、きわめて刺激的な提案が次々となされ、50号記念に相応しいものとなっている。

 いろいろなキーワードがあるのだが、「近世文学で数少ない東アジアに視野を広げて研究されている」(小峯氏)染谷さんの、日本文学・文化をとらえる際に従来看過されてきた、朝鮮半島の存在をクローズアップさせる議論が、熱く面白かった。たとえば、源氏物語の比較対象として持ち出す『九雲夢』がハングルが出来てつくられた文学であることに注目し、非漢字文学としての脱中華世界という観点で考えてゆく。それぞれ仮名とハングルが出来て約200年後に現れた文学。源氏と九雲夢のあいだはおよそ700年。その時間の差は中国との距離の差でもある。それにしても、なぜ脱中華ととらえうる源氏と九雲夢が、華麗な恋愛絵巻として描かれる物語であったのか。面白い問題だし、国文学の垣根の中に居ても分からない問題である。

 もうひとつ、、近年の潮流となっている「モノとしての文学」がここでも話題になっていることである。理論派である座談会メンバーが、和歌の書としての側面や料紙のことなどに注目するのは、文献派と一見近いようだが、「文学」を解体する立場からなす発言だと思えば、古筆切の料紙や筆跡からテキスト復元を目指すような立場とは実は違う(そういえば久保木秀夫さんの『中古中世散佚歌集研究』(青簡舎)というすばらしい本も出ましたね)。違うけれども着眼するところは同じなのだから、コラボレーションすればマクロとミクロの接点で研究が深化するに違いない。「古典籍の考古学」ともいうべき場で、今度は理論派と文献派の座談会を企画してくださいと、お願いしたい。

 他にも刺激的な話題に満ちているが、今日はここまで。
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2009年12月14日

面接授業

12・13日は放送大学の「面接授業」というのを初体験。面接授業といっても受講者は80数名だ。1日4コマを2日連続講義となかなかハードである。

ふだん放送で授業を視聴している学生さんたち(20代から70代まで年齢層は実に幅広い)が実際に講師と顔を合わせて授業を受けるものである。放送とちがって講師がつまづいたり、わき道にそれたりする。それもまた大事なところです、などと最初に逃げ口上をいう。もちろん質疑応答が出来るなど、文字通り面接授業ならではの利点もある。私の方も日ごろの授業とはちがい、また社会人むけ講座ともちがう感覚である。
 
 大学の授業である。学生たちはこれを聴いて単位を取得する。しかし年齢層が多様で、興味もさまざまであろうし、これまで日本の古典にどれだけ触れておられるかわからない。しかし一方で、かなり詳しい方もおられる。まず、ターゲットが絞れない。この例話が通じるかな?と考えながら試行錯誤である。

 しかし慣れてくると、ある程度要領もわかってくる。2日めあたりから疲れも感じなくなってくる。しかし、用意した資料の後半は飛ばし飛ばしになって申し訳のないことだった。どうしても念のためにと多めに資料を用意してしまうのである。

 質疑応答が楽しかった。非常にレベルの高い、本質的な質問が次々に出て驚かされた。最後に感想文を書いていただくことになっているのだが、その感想文を読むと、受講生の方の人生が垣間見える気がした。関心のあり方もさまざまである。年上の方が40人ほどおられた。それぞれの人生の重みがこの感想文からも伝わってきた。大いに学ばせていただいた2日間であった。

 授業前に私を紹介してくださったセンター長の柏木先生が拙ブログのお話をされたので、秋成展やそのイベントに関わる情報を、拙ブログから発信しているということを申し述べました。受講生の方で覗いてくださる方がいるかもしれません。この場を借りてお礼申し上げます。

 なお、来年はじめあたりに、来年の秋成イベント情報をまとめて告知したいと思います。
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2009年12月09日

読本研究

大高洋司さんを代表者として行われている国文学研究資料館のプロジェクト、「近世後期小説の様式的把握のための基礎研究」が、この12月に最後の研究会を終えた。

6年間に形にした業績として、『読本事典』(笠間書院)、『江戸文学』40号の「〈よみほん〉様式考」、国文研でのよみほん展、そしてまもなく刊行される『人情本事典』があり、実録書解題の報告書もある。まことに豊かな成果である。

 研究会のメンバーは固定しておらず、ときどきメンバー外からゲストを呼んで発表してもらったりした。常時15人から25人が参加し、12回(24日)の研究会が行われた。のべ50人くらいの人が発表し、その8割ほどが論文化されたのではないか。

 代表者の大高さんとともに皆勤だったのが濱田啓介先生だったという。大高さんの真摯さと、濱田先生の存在感がこの研究会に人を集めたといえるだろう。また、メンバーがバランス感覚のある方が多く、多様な意見が生きる会でもあった。みんなが自分の好きなことをやって発表しているのに、研究会としては、大きな流れのようなものが出来ていた。研究会を通じて、従来比較的手薄であった、上方読本への関心が高まったように思う。

 私自身はあまりお役にたてるようなことはしていないが、それでも研究会には7割方は参加し、上方読本に関する論文も1本書いた。
 
 読本にしろ、人情本にしろ、面白いのだが、実際にはなかなか読めない。つまり翻刻や注釈書が少なすぎる。古典という意識にとらわれず、今風に現代語訳してもかまわないから、読本叢書や人情本選集のようなものを企画してほしい。これはこれからの課題であろうが。
 
 このプロジェクトは終了するが、これを承ける形で若手中心の新しい研究会が発足するときいた。また一方では、高木元さんや服部仁さんの読本年表作成のプロジェクトが進んでいるらしい。よみほん研究の勢いはまだまだ続いているのである。
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2009年12月08日

歌と詩のあいだ

今年の角川源義賞の国文学部門は大谷雅夫さんの『歌と詩のあいだ』(岩波書店)。12月7日に授賞式が行われた。

万葉集から明治までの、さまざまなトピックについて、和漢比較文学の視点から、その受容、選択、和習などの問題に触れたもので、間口の広さと論の精緻さに圧倒される。しかしながら、共通教育での授業が元になっているだけあってわかりやすく書かれている。日本文学史上、著名なトピックを論じているし、日本文学の本質にも迫っている。

いま、こういう形でこれだけのレベルの本がかけるのは、大谷さんしかいないのではないだろうか。受賞は当然だろう。

ところで、この中に、雨月物語の青頭巾論があり、私が学界時評していたころに、初出論文をかなりのスペースをさいて、評をしたことがある。驚いたのは、単行本所収にあたって、拙評を、正面から受け止めてくださったばかりでなく、私の批判的な言辞にきちんと反論を書いてくださっていたことである。本には私の名前など出ていないのだが、私にはそれがよくわかった。大谷さんとも、その話をすることができた。

それにしても、K書店の社長があいさつで、書名を『愛と死のあいだ』と言い間違えたのだが、場はそれでちょっと和んだ。
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2009年12月04日

忘却しそうな事ども

数件のプロジェクトに関わっていて、それらがみな佳境にはいってきている。一方で、予期せぬ出来事が次々に発生している。対応するのに、電話をかけたり、かかってきたり。メールは1日何十通もゆきかっている。

その一方で、締め切り迫る原稿、某打ち合わせの準備、某委員会での報告準備、200枚のレポート採点、某連続講義(2日間8コマ)、某論文のチェック、某書類群の審査、某研究会、某パーティ、某会議、某委員会、某出張、某祭事、某もとい忘年会・・・・、これらを12月中にこなしつつ、数百点残っている書誌調査もやんないとね。あ、シラバスもかんがえないと。

心を澄まして、これらに向かいましょう(なにか抜けそうだけど)。

あ、年賀状。


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2009年12月01日

師に習う

買ってはいたが読まずに積んどく状態から次第に埋蔵されてしまう本ってありますよね。ふとした瞬間にその本を手に取って、適当な頁を開いて読んでみると、ほおーっということが書いてあったりする、そういう経験ってありますよね。

家人がだいぶ前に買っていた本だが、長谷川櫂の『俳句的生活』(中公新書)をふと手にとってみた。パラパラと開くと飴山實の名前。私の前任校の教授で、日本農芸化学会功績賞も受けている立派な学者にして俳人。そこらあたりを読んでみると…、

 俳句の場合、初心者は師を選ばなければならない。しかし初心者は師を選ぶ実力がないという絶対的な矛盾がある。

 長谷川櫂は結社をもたない飴山に入門した話を書いていた。結社がないのだから通信添削。あるとき戻ってきた添削に納得がいかなかった。しかし長谷川櫂は師のいうことを全面的に受け入れる。自分を捨てなければならない。なぜなら師とはそういう存在だからだ。師のいいところだけを学ぼうとするのは師につくということではない。自分を全部捨てて師を受け入れなければならない。師に飲み込まれてしまうくらいなら、その程度の自分しかなかったのだとあきらめる。習うとはそういうものだ、と。

当然と言えば当然のことなのだが、なぜかはっとするというか、軽いショックを受けた(ちなみに後年その添削が正しいことに長谷川は気付いたという)。

 教える立場にある自分としては、そんなことはなかなか(いや絶対に)言えない。「私の言うことを鵜呑みにするな」とは口癖のようにいうのだが。それに自分の意見を丸呑みしている学生がいたら、「大丈夫か」と思う。よく考えたら、まったく情けない次第である。本来は、自分自身に「おまえ、大丈夫か?」と問うべきなのだ。

 また私自身が師の言うことを全面的に受け入れて、「習う」ために、自分を完全に捨てていたかと顧みると、やはり「?」である。しかし、知らず知らずのうちに影響を受けているのは当然で、感銘を受けた文体などを真似していることにあとで気づいて恥ずかしい思いをする(誰も気づいてないのに)。

それにしても、我が師の場合は、逆に弟子のいうことを全面的に受け入れる(ふりをする?)という稀有な師ではなかっただろうか。弟子だけではなく、どんな人間でも、受け入れてしまう度量の広さ。好き勝手なことをいう弟子たちを掌の上で遊ばせておくけれども、教えるところはきちんと教える魔術のような教育法。いろいろ考えるとやはりすごい師匠だ。
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