2011年09月28日

予報:ソウルは寒い

明後日から、ソウル高麗大学校で日本近世文学会が開催されますが、明日、明後日と、ソウルでは気温がぐっと下がり、大会初日あたりは、最高気温が20度を切り、最低気温も10度を切る模様。大会開催校から情報をいただきました。たしかに、ネット天気予報を見てもそういう予報になっています。

できれば学会HPでも告知したいのですが、差し迫っているので、できるかどうかちょっとわかりません。ここをご覧の方で、学会参加予定の方は、どうぞそういうつもりでご準備下さい。風邪など引かれないように…。

初日はどうも雨のようですねえ。
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揺れ動く『源氏物語』

加藤昌嘉『揺れ動く『源氏物語』』(勉誠出版、2011年10月)が上梓された。
源氏の何が「揺れ動く」のか?

ひとつは本文が、ひとつは句読の切り方によって文の気脈が、ひとつはどこからどこまでが『源氏物語』なのか、その境界が、揺れ動くのである(はじめに)。
さまざまな意味で揺れ動く「『源氏物語』たちの力動を、丸ごと触知しようと」(はじめに)する、きわめて方法意識の鮮明な気鋭の源氏物語論集である。

ひとことで印象を言えば「華麗」。しかし嘘くさくなく、むしろ眼光紙背に徹する緻密な読みがウリである。こういう印象を与える論文集を書ける人はそうそういない。

〈音楽においては解釈とは演奏であり、文学作品とその解釈(本文校訂・注釈)はそれに似ている〉という西郷信綱の言を引き、「写本を演奏するのは我々である」と題された第U部。こんなタイトルを加藤昌嘉以外の誰が考え出せるだろう。枕草子の冒頭、「春は」の部分を、インデックスと解するなんて、なかなか発想できない。これは、読解力だけではなくセンスが必要。「華麗」さの正体はこれかもしれない。

かつて、「テクストの生成と変容」というプロジェクトをやっていたが、この人を招けばよかったなあと、少し後悔している。なぜなら、その論文から展望される構想が実に魅力的であり、日本古典研究にとどまらぬ普遍性を持っているからだ。

私も近年、諸本のある写本のことを『春雨物語』で考えたことがある。作者がわかっている場合においてさえ、決定的な本文はないという立場である。国語と国文学の春雨物語特集に書きました。それで加藤氏の方法には、関心と共感が非常にある。

ちなみに加藤昌嘉は、私が現勤務校に赴任した時の助手であった。院生発表会などで見せる、その風貌には似合わないカミソリのような切れのある質問・追究に瞠目した。これは噂だが、「今度近世で来る教員とはどんな論文を書いているのか、ひとつふたつ読んでおこう」などと、品定めされていたというから(多分噂だけだろうが)冷や汗が出るう。

奥付によれば加藤も今年40歳になるそうだ。全体に漲るハリのあるリズム、文体。これはやはり三十代のものだなあ。眩しい。そして『揺れ動く『源氏物語』』の著者の矜持は、「揺れ動く」ことはないようである。だが、いい時期にまとめたともいえる。揺るぎない矜持のもとで、しかし、彼の方法や試論はさらに生成しつづけていくだろうから。


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2011年09月25日

韓国の古典小説

韓国ソウル高麗大学校で開催される日本近世文学会が近づいてきている。

韓国の方に日本近世文学とその研究状況を知っていただくのに、とてもいい機会であると同時に、我々が、韓国の文化・文学を知る良い機会でもあるはずだ。

日本から行く研究者のうち、おそらく半数以上が韓国初体験であろう。また2回目、3回目、それ以上であっても、これだけの数の、日本に関心のある韓国の方が集まっている場所に行くことに大きな意味がある。おそらく学生・スタッフを含め数十名の韓国の方(そのほとんどは日本語が自在に操れるレベル)が学会にはいらっしゃるであろう。

その逆を想像すると非常に考えにくいのではないか。つまり、我々は韓国の文化・文学のことを余りに知らないのではないか。

という反省から、2008年にぺりかん社から刊行された『韓国の古典小説』をひもとく。冒頭のメール座談会で、その特徴・面白さが上手く語られている。私にとってはたとえば「野談」が興味ぶかい。日本の「奇談」のジャンルと比べるとどうなのか?

 また「熱狂のリアリズム」という染谷智幸氏の論文は、日韓の文化の違いが、江戸時代―朝鮮時代の文学の違いに極端にあらわれていると説き、韓国文学の特徴として知と礼節、その背後にある熱情を指摘する。たとえば日本では、規格外れの主人公がもてはやされるが、韓国では知的で礼節をわきまえた才子が主人公であるケースがほとんどであるなど、最近の韓流ドラマまで視野に入れた説得力ある展開である。

 もっとも、知と礼節をわきまえた主人公が江戸時代文学に存在しなかったわけではないだろう。はたしてそれらの主人公は、江戸時代においても傍流だったのか。そういう議論は可能なはずである。

ただ韓国古典小説から照射した時に、江戸時代文学の再発見があるにちがいないという気にさせられるし、何より、韓国古典小説そのものが読みたくなる。

そういう気持ちになった時に、では何を、どの本で読めばいいかという入門書になっているところがこの本のいいところである。学会から帰った人たちが買いたくなるのではないだろうか。いやいや、学会に店を出すべきだったですかね。シンポジウムのトップバッターの延広先生の要旨にも、最適の朝鮮文学入門書として紹介されている。
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2011年09月24日

中島広足の研究

ライフワークとはこのような本のことをいうのだろう。
岡中正行氏の『中島広足の研究』(私家版、2011年)。
A4、3冊、横書 約1200頁。
単著としては、近世文学研究の世界でも稀なボリュームだろう。
上巻のあとがき、下巻のあとがき。
その真摯さに打たれました。
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2011年09月10日

西鶴の講演とシンポ

柿衞文庫で行われた西鶴展にちなむ記念講演とシンポジウム。

西鶴研究会の皆さんをはじめとして、遠くからお見えになったかたも多数いらっしゃったようで、大変な盛況でした。

中嶋隆さんが、パワーポイントを駆使して、西鶴の矢数俳諧の意義について講演。得意のメディア論を展開。次いでシンポジウム。司会の篠原進さんを含めて6人のパネリストが西鶴の俳諧をそれぞれの角度から論じ、乱反射のように論が交錯するのもまた楽しく、最後にフロアからの質問を受けることに。

ここで「こういう会に出るのは久しぶりですが」と信多純一先生が立ち上がり、俄然場内は引き締まりました。信多先生の「俳諧と浮世草子はそもそも別物、それを結びつけようとするのはいかがか」という信多先生らしい厳しい質問に対して、中嶋隆さんが堂々と応答。問題のありかがよくわかる質疑応答となりました。

島津忠夫先生・富士昭雄先生・石川真弘先生・西田耕三先生をはじめ錚々たる先生方も聴講していらっしゃいました。

個人的には、深沢眞二さんのご発表がとてもよかったです。付合の解説、「異体」の句の解説がきわめて具体的でわかりやすく勉強になりました。

 なお、柿衞文庫では3月に「神医と秋成」という企画展をやります。このブログでまた情報を流してゆきます。
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2011年09月09日

柿衞文庫で西鶴シンポ

柿衞文庫から、西鶴をテーマとする秋季特別展と、それに伴う記念講演・シンポジウムのお知らせが届きましたので、転載しておきます。記念講演・シンポは、明日行われます。

秋季特別展「西鶴―上方が生んだことばの魔術師」
       記念講演会・シンポジウムのご案内

 今秋、柿衞文庫では『西鶴大矢数』刊行三三〇年を記念して、特別展「西鶴―上方が生んだことばの魔術師」を開催します。
展覧会にあわせて、記念講演会・シンポジウムを行います。西鶴文学を考えるよい機会になるかと存じます。みなさまお誘い合わせの上、ぜひご参加ください。

■記念講演会  9月10日(土) 午後1時30分〜3時
 「矢数俳諧への道―西鶴とメディア」早稲田大学教授 中嶋隆氏

■シンポジウム 9月10日(土) 午後3時30分〜5時30分
 *協力 西鶴研究会
 「ことばの魔術師―西鶴の俳諧と浮世草子」 
コーディネーター 青山学院大学教授  篠原進氏
 構成
T パネリストによる発表
宗因流俳諧と西鶴  和光大学教授  深沢眞二氏
大坂談林と西鶴〜自由にもとづく俳諧の姿を求めて〜 関西学院大学教授  森田雅也氏
『西鶴名残の友』の点者像と西鶴句評 愛知淑徳大学非常勤講師  早川由美氏
西鶴発句の諺における両義性と浮世草子  連句人(レンキスト)・俳人 日本大学ほか非常勤講師  浅沼璞氏
「俳諧的」小説・「小説的」俳諧 中嶋隆氏
西鶴の無意識―矢数俳諧という〈素材倉庫〉が先取りしたもの  篠原進氏
U 質疑応答
*参加をご希望の方は柿衞文庫までお申し込み下さい。
(記念講演会・シンポジウムともに聴講無料)

お申し込み・お問い合せ先… (財)柿衞(かきもり)文庫
〒664-0895 兵庫県伊丹市宮ノ前2-5-20
電話 072-782-0244
FAX 072-781-9090

当日参加でも行けると思います。私も行くつもりです。
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2011年09月08日

サマバケ集中

忘却散人、ブルーマウンテン大学にてサマバケ集中。近年のネタいくつかを組み合わせて4日間で十五コマみっちり。そのなかのひとつに尼子経久を軸に読む菊花の約論を講義。先行説松田修の左門宗右衛門男色説を紹介すれば、さっそくリアクションペーパーで、経久もその輪に入れたらどうでしょうという意見あり。左門や塩冶への嫉妬というところまでは散人も書きしが、そこまで過激には考えず。面白し。そこで夕食をご馳走してくださりしS先生に「こんな意見がありまして…」とご報告すると、「きゃはは。学生が考えそうなことだね〜」と喜ばれる。ううう…、あああ…。そのほかにもいろいろ面白い意見をいただきました。感謝、感謝、感謝。
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2011年09月07日

戦っている相手を理解してしまうということ

 50を過ぎてレスリングを始めた哲学者、入不二基義さんと久しぶりに会って食事とお茶。

 親子であれ、男女(男女でなくても)であれ、愛情を確かめあったり理解しあうのは、言葉ではなく肌を密着させることだとはよくいわれることである。レスリングは、しかし戦う相手と肉体を密着させるスポーツである。柔道着を掴み合って戦う柔道や、たったままでないと組み合わない相撲よりも、その密着度は高い。だから、組み合っているときに相手を理解してしまうということはないのか、ときいてみた。それは戦うことと相反することになる。

 やはりそれはあるという。そして、八百長とか、ショーとか揶揄されるプロレスというスポーツの特異性は、そこに起因するのかもしれないという。戦って相手を倒すのではなく、肌を密着させながら、二人でなにかを作り上げようとしてしまうのかもしれない。

 ちなみに彼のレスリングは健康のためなどではない、健康という観点からいえば完全にそれは過度な運動で、健康にはむしろよくないらしい。それでも、そこに執着し、やらずにはいられないパッションがあるというところに、彼らしさを感じた。

 文学におけるコミュニケーションの問題を議論していたのだが、それと関連して、レスリングでも、二人で戦っている時に、第三項のような存在があらわれて、その存在を意識して「美しく戦おう」というような合意を、無言のうちにしてしまい、そのように意識的に戦うことがあるという。これも大変深い話である。

 入不二さんは、言葉を大切にする哲学者である。とくに、見立てとか比喩力に長けている。いまの一流の哲学者の多くは、語りを彷彿とさせるようなリズムをもちつつ、そのような言葉の操作力で、心地よく読者を思考世界に導く文章をかける人が多い。見習わなければならないと思うばかりである。
 
 
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2011年09月03日

二つのタイプ

来週、秋成をテーマに、集中講義を某大学でやるのだが、その準備をしていていまさらながら思ったことがある。

研究者のタイプは大まかにいって二つある。つまりテクストに興味があるタイプと、作者に興味があるタイプだ。2010年に京都国立博物館で行われた秋成展は、秋成の実像を浮き彫りにするという目的があった。秋成の肖像、筆跡、交友などに焦点を当てたものである。それに関わったこともあるだろうが、作者あっての作品(テクスト)という思いがつよくなったし、テクストだけを読んで文学史を構想するのは無理かなと思うようになった。もともと近世文学研究は、作者について調べればかなりのところまで明らかに出来るのので、テクストだけで(あるいはテクストにより重点をおいて)読んでいく立場の人は多くない(だが、少ないだけに、作品論となると、それらの人々の論はきらびやかな光を放つ)。

だが、秋成研究の場合、作品主義の先頭に立っているはずの高田衛氏が不朽の秋成年譜を出しているし、作者研究の第一人者の長島弘明氏には魅力的な雨月物語論・春雨物語論がある。お二人に限らず、どちらか一方という人がいない感じだ。つまり、これは、秋成の作品がめっぽう面白い一方で、秋成の人物・交友が実に興味深いからだということなのだろう。

では、秋成における、作品世界と人物・交友が融合する形の研究というのは、どうだろう。部分的にはもちろんこれまでもいろいろあるのだが、たとえば秋成の体験や性格や思想が『雨月物語』に反映などというと、えてして胡散臭いトンデモ論文になってしまっているケースが少なくない。

今回の集中講義で、15回のシラバスを書かされたのだが、シラバスを書いている時点では意識していなかったが、ここに作品か人物かという問題が、未整理のまま出てしまっている(とほほ)。これはピンチなのだが、「ピンチはチャンス」という言葉を思い出して、集中講義をしながらこの融合ということを考えることにした。少し前に書いた「交誼と報謝」という論文の主旨を展開したいということである。
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