2012年10月30日

名著復刊

 高田衛先生の『上田秋成研究序説』が国書刊行会から『定本上田秋成研究序説』(2012年10月)として復刊された。解説は木越治さん。そしてこの本の、高田先生のあとがきの末尾に一文は、「わたしの選んだわたしの代表作は、この『上田秋成研究序説』である。」とある。33年前、私は師匠の持っている本をお借りして、コピーし、3分冊に製本し、ずっとそれを使い続けていた。古書価は数万円から十万円程度だった。ほぼ同時期に出た、もう1冊の秋成研究の名著(これも古書価は高い)もまもなく復刊されるというから楽しみである。
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2012年10月20日

東都武家雅文壇考

松野陽一先生が『東都武家歌壇考』(臨川書店、2012年10月)を上梓された。
先生は中世和歌の専門家でいらっしゃるが、近世和歌でも非常に重要なお仕事をなされている。江戸の武家歌人・武家歌壇の先駆的研究である。その意義については、平成7年の「文学」の特集「近世歌文の創造」での、中野三敏先生・上野洋三先生との鼎談を読めばよくわかるだろう。久保田啓一氏の江戸冷泉派の研究は、先生の研究に連なるものといえよう。岩波の新日本古典文学大系『近世歌文集上』の注釈のお仕事も我々には非常にありがたい。
今回の御本は、江戸武家歌壇に関する論考を集成したものであり、近世和歌史研究を大きく前進させるものである。500頁超で4500円とかなり求めやすい価格設定となっている。
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2012年10月18日

立ち読み日記

 生協書籍部が工事のため、一時移転、わが研究室からはるか遠くになってしまっているため、今年度中は、書籍部に行くことが激減しそうだ。いきおい立ち読みする機会が少なくなった。というわけで、近所の本屋に買い物途中で行くくらい。生協とはちょっと本の質が違う。平積みの本を立ち読み。『光圀伝』とか面白そうやの。『カラマーゾフの妹』というのも読んでみたい。江戸川乱歩賞受賞作だが、選考経過と選評も付いている。『カラマーゾフの兄弟』の後日談という設定で絶賛されている。驚いたのは選者の一人の東野圭吾が、選者の中で自分だけが原作を読んでいなかったと書いていたことだ。いや、読んでいなかったことよりも、読んでいなかったと書いていることに驚いた。なかなか書けないでしょう、普通。『約束の日』という安部晋三を褒める本を立ち読み。政治家や経済人の伝記というのはどうして面白いんだろう。著者はどんな人かと見てみると、大阪大学文学部卒業とあって、ちょっと驚いた。文藝評論家らしいが存じ上げなかった。
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2012年10月15日

領域の横断と展開

「日本文学」の10月号はタイトルの通りの特集。近世文学の用語・枠組み再考といったところだ。拙論は古いネタで申し訳ないが、2009年にはじめて公に批判されたので、それに答えるつもりで書いた。私のはさておき、意欲的な論文が並んでいる。いずれも、大きな問題提起をしつつも、具体的なテキストに即した立論である。

福田安典さんの論は、『浄瑠璃御前物語』は「人形操り」と「近世小説」両面からの位置づけができるとし、浄瑠璃と近世小説、芸能と草子というジャンル区分の始原を探ろうとする。草紙系である新出の日本女子大本の本文を検討した上で、浜田啓介先生の「草子屋仮説」を援用して祖本管理者の問題に及ぶ。

木越俊介さんは「西鶴に束になってかかるには」という風変わりなタイトルで、西鶴研究者の研究用語に違和感を表明しつつ、武家義理物語と懐硯の具体的分析をもって、「外から」の作品論を提示している。うーん、どうかなあというのが感想なのだが、よく言ってくれた!という思いの方が強い。でも、今、西鶴研究は、開かれている感じがする。何かアイデアが浮かんだら西鶴を論じましょう。

風間誠史さんの論は、風間節炸裂。「近世文学研究が、そしてその分野ごとの特殊な術語が閉鎖的である最大の要因は、そこに批評性が希薄なためだ」と冒頭から来る。そういう見方、言い方もできるが、研究というのは元来ある程度閉鎖的なもので、その閉鎖的な研究を、批評的な意識で外に開くことが重要なのかもしれない。つまりダブルスタンダードというか、研究意識と批評意識の両方をもつということである。双方が互いを排除してはならない。研究者の「研究」は重要な役割である。ま、それは前提での立論なのだろう。しかし、中には研究者の批評的言説自体を小馬鹿にする上から目線の研究者もいるから、風間さんのような発信はこれからも必要である。

佐藤勝明さんは「俳文」「俳諧の文章」とは何かというアポリアに挑む。『奥の細道』に西鶴の文章が関わる可能性は、それを提示するだけで大きな意義がある。

高野奈未さんの論は、小町の歌の解釈を通して、近世における古典注釈学の流れを考える。従来の説への対置をもう少し明快にしていただいた方がよいだろう。

合山林太郎さんの「性霊論以降の漢詩世界」は、まだ見取り図で線を引いただけだが、これから面となり立体となる近世後期〜明治漢詩史の可能性を感じさせる。

というわけで、さわやかな秋風のような諸論文を読んで、爽快な気分になった。
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2012年10月14日

拙稿の訂正

このたび『日本文学』10月号の、「領域の横断と展開―近世文芸を「仕分け」る―」という特集に「近世文学の一領域としての「奇談」」という拙稿を載せていただきましたが、相変わらずの粗忽で、大きな誤りを犯しております。この場をお借りしておわびし、訂正いたします。
25頁下段に、ツッコミどころ満載の、怪しげな図を掲げていますが、この中で「洒落本(中)」と書いているのは、(小)の誤りです。( )内は本の大きさですが、洒落本の大多数はいうまでもなく小本ですから。
32頁下段の最終行。「方法を用いたものであることは、『雑篇田舎荘子』の、」は、「方法を用いたものである。『雑篇田舎荘子』の、」と訂正。
本稿は、これまで書いた「奇談」に関する論文の切り張りっぽいもので、二番煎じのそしりを免れませんが、現段階でのまとめで、少し新しいことも書いています。ご寛恕たまわりますよう。
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2012年10月12日

快挙、読本コレクション全丁アップ

九州大学附属図書館のサイトにある読本コレクションの全丁画像がPDFで公開されることになった。有明工専の菱岡憲司さんの科研による快挙である。いやあ、読本コレクションといっても、談義本などいわゆる「奇談」書の宝庫で、私のために公開されたのではないかと思うくらい。ありがたやありがたや。なむひしおかさま。
詳細は、菱岡さんのブログで。
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2012年10月07日

阪急文化

大阪大学名誉教授で前国文学研究資料館館長の伊井春樹先生は、現在阪急文化財団の理事(逸翁美術館などの館長も務める)を務め、相変わらず忙しく走り回っておられる。
その先生が創ったのが『阪急文化』という雑誌である。PR誌でもあるが、内容はさすがに濃い。このたびの第3号は、9月から12月にかけて開催される、逸翁美術館と池田文庫における「源氏物語」に関する展示にちなむもの。とくに読み応えがあるのは、ドナルド・キーン氏と伊井先生の対談である。印象に残ったのは、キーン氏がケンブリッジ大学の寮にいたときに、アーサー・ウェイリーが直接部屋を訪ねてきた逸話、ウェイリーの源氏物語の訳の美しさ。その訳の秘訣についての話。「原文をよく読み、意味がよく分かったと満足すると、本文を見ないで、別の紙に翻訳したのです。そうすると自然な英語になる」。正確な訳であれば、サイデンステッカー、タイラーの訳があるが、美しさの点で、ウェイリーに及ばないのだという。
 それにしても、源氏って英語圏で読まれているんですねえ。
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2012年10月06日

未来文献学

10日に行われるアロカイ先生(専門、日本中近世歌論)の特別セミナーのチラシに、国際連携室のスタッフの方が、何かの建物の図版を入れて下さった。たぶんハイデルベルク大学か、そうでなければドイツの建物だろうと、こちらは思っていたら、アロカイ先生ご自身が、そのチラシをご覧になって、「この建物は何ですか?」とおっしゃった。「いや私もよく知らないんですが、ハイデルベルク大学ではないのですか?」。「ちがいますね。これは、東京駅ではないですか?」。「えっ?」そういえば、かなりデフォルメされているが東京駅っぽいなあ。ま、それはそれで面白い趣向だからいいんだけど。

きのう、アロカイ先生と話していたら、近年の新しい学問として ”future Philology”(未来文献学)というものがあるということをうかがった。たしかに、電子データやウェブサイトに掲載される情報という「文献」をどう研究していくかというのは、従来の文献学では対応できないだろうなと思いつつ、よくまあ、そういう学問を思いつくものだと感心したわけだ。

ただ、アロカイ先生自身は、「このごろ、年のせいか(散人注、ホントはまだお若いです)、古典にすべてのことが書いているから、新しいものは読まなくていいように思います(散人注、ホントはたくさん読んでおられます)」と。「おお、そうですねえ。確かに」と(あんまりよんでないくせに)意気投合。そして、歴史的に考えること、歴史から学ぶことの大事さが、教育においても軽視されている現状を嘆かれていたことにも、賛意した。
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2012年10月02日

秋成前後の中国白話小説

本ブログからもリンクを張らせていただいている、徳田武先生のブログの最新エントリーに、見逃せない情報が。
徳田先生は近年研究誌『江戸風雅』を創刊され、自ら多くの論考を掲載、江戸漢文学研究をリードする雑誌に成長させた。とりわけ、秋成の漢文学に関する論考を一気に掲載した号は圧巻であった。いずれ一書になろうと見ていたが、このたび『秋成前後の中国白話小説』(勉誠出版)として、他の論考もあわせて上梓されるという。ちょっとブログから引用させていただこう。

  以下は、十月下旬に勉誠出版から刊行する予定の拙著『秋成前後の中国白話小説』の序章の冒頭部です。

  本書は、第一部「秋成出現の基盤」、第二部「秋成の漢文学」、第三部「江戸後期から明治への漢文小説」という三部構成を採り、合計二十八点の論考を配列した。とは言っても、当初からそのような構成と配列を考えていた訳ではない。当初は、平成二十一年が秋成没後二百年であり、展示や雑誌特集などが行われたので、こちらも刺激され燃え上がるものがあり、折から主宰して発行し出した雑誌『江戸風雅』は漢文学や和漢比較文学を中心に扱うものであったので、秋成の漢文学という主題を思い付き、その主題のもとに浮かび上がった問題に就いて、一気呵成に十点の論考を物したのであった。…


 秋成200年行事が、先生を「燃え上が」らせたというのは、全くもって秋成学の幸運というべきであった。この諸論考には、目を見張るような新見があり、唸らされたものである。秋成の漢文学というのは、全くもって未開拓の分野。『雨月物語』の序文だって、定説があるとは言い難い状況なのである。徳田先生の論考が本になれば、秋成研究者にも大きな刺激となるだろう。楽しみである。

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2012年10月01日

俳画の美

柿衞文庫で「俳画の美 蕪村・月渓」の展示が行われている。岡田利兵衛柿衞翁没後30年を記念するもので、「俳画の美」は、その研究書『俳画の美 蕪村:月渓』に因んだもの。今回の展示は、柿衞翁の俳画研究の世界を可視化したものだと言ってもよい。柿衞翁の豊かな人生は、今回展示に合わせて作成された「岡田柿衞」という小冊子を見れば明らかだが、そこにも示されているように、柿衞翁は一時、池田の逸翁美術館の館長をしていた。そこに多く所蔵される蕪村・月渓の作品を通して、その俳画研究が進められたという。今回は、逸翁美術館からも多数の作品が出展される。また、その他にも蕪村・月渓の俳画を十指に余る機関と、多くの個人所蔵者の協力を仰いで集めており、愛好者はもちろん、俳諧、いや近世文学研究者必見の展示となっている。画家戸田勝久氏の解説中に引用される柿衞翁の俳画の説明をここにも引いておこう。

 俳画とはどんなものか。一口でいうと「画で俳諧する」ことである。句を作るのと同じセンスで画をかくことをいう。(中略)まず省筆の草画であること。密画はこの埒外である。着彩は極めて淡白か、水墨画であること。自然と人間の融和であること。庶民生活につながり、格調高く清新である。たとえユーモラスの表現を行っても必ず詩美を忘れないことなどがあげられる。

 そして、膝を打つような言葉がある。「俳画とは俳諧と絵画の接線の上に咲く花である」。
 
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