2012年12月28日

歌の魅力

 拙著『上田秋成 絆としての文芸』については、お手紙やメール、また口頭で貴重なご意見を沢山承っている。中でも中古文学の御専門の先生からは、和歌の解釈できわめて説得力のある別解を御教示された。「幻の人のゆくへをたづぬればおのが心にかへるなりけり」の歌。秋成が亡き妻瑚l尼を慕って詠んだ歌で、「幻の人」は、「おきふしはひとりとおもふを幻にたすくる人のあるがかなしき」と別の歌にうたわれた亡妻瑚l尼だと疑っていなかった。だが、そうではなく、「まぼろし」は幻術士で「の」は主格、これは長恨歌を踏まえているのではないか。源氏物語などでは幻術士は「まぼろし」というのだという。これは私にとっては衝撃的な解釈であった。「幻の人」という高田衛先生の御論文もある。秋成研究者も「幻の」の「の」が主格と思った人はいなかったのではないか。

 「HUMAN」3号(人間文化研究機構、2012年12月)に入口敦志さんの「ルポルタージュとしての仮名草子」のおわりのあたりに、「私見では、仮名草子までの文学には和歌は必須であったと考えている」と大胆な提案がなされている。こういう思い切った発言は、どんどんしていくと研究も活況となるだろう。

 『ユリイカ』1月臨時増刊号(2012年12月)が、『百人一首』の総特集。馬場あき子と水原紫苑の対談ほか、面白そうな読物が満載。百人一首はカルタになるくらいだから三句切れ。この三句切れの話が面白い。塚本邦雄・岡井隆らの前衛歌人が崩した三句切れ。寺山修司はくずさなかった。なぜかということで、馬場・水原が意見を戦わすところが面白い。

 『牧水研究』第13号(2012年12月)。この雑誌は、宮崎の歌人伊藤一彦氏らによって年2回刊行されているが、レベルの高い、いい雑誌だと思う。今回は「牧水の文体と表現」という特集。講演録である長谷川櫂氏の「なぜ五音七音か」は、歌は三十一文字とか三十一音とかいうけれど、本当は拍だということ、だから「いくやまかわ」とか「蛍(ほうたる)の」でも構わない(「ほうたる」という読みがあるわけではない、「ほうたるの」と五拍で読むということ)、それは船をこぐリズムと同じ、心臓の拍動と同じだという。それから、具体的な和歌・短歌を高校生に朗読してもらって、五・七のリズムがいかにいいかということを訴えている。実は秋成の和歌を授業でやっていて、学生が用例として引く万葉集の長歌なんかを七五調で読むのを、五七調で読むようにとうるさく言っていることもあり、ここはぐっと共感した。

 そういえば、日本歌人コレクションの島内景二『塚本邦雄』(笠間書院)は、その歌のすぐれた解釈に、師弟という特別な関係の中にいた著者ならではのエピソードが織り込まれていて引き込まれる読物だった。
 最後に伊藤一彦先生の最新歌集『待ち時間』(青磁社、2012年12月)から、
 待ち時間長きもよけれ日の出待ち月の出を待ち永遠を待つ
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2012年12月09日

過目抄4

  早稲田の『近世文芸研究と評論』83号(2012年11月)で『焦尾琴』の注釈が始まった。池澤一郎さんの序言は、池澤さんらしい「憤激体」で、従来の其角の放蕩者イメージが、芭蕉の神聖化の対極として、いわばセットで形成され定着したことを憤っておられる(えー、憤激とか憤りとかは私のレトリックなので、失礼であればお許しください)。なかなか面白い。中嶋隆さんの西鶴独吟一日千句の注解も四回目だが、いつも深沢真二さんとのやりとりが付してあって興味深い。今回はその中にこのブログの事が出てきてたまげた。

 八木書店から出た鉄心斎文庫の短冊総覧である『むかしをいまに』(2012年9月)は、「すごい」のひとことだが、いま全学部の有志1年生を相手に展開しているリレー講義「和本への招待」では、この短冊集からちょいと拝借して、兼好の短冊などを臨摸させるという楽しいことをやったりしている。神作研一さんの解説などを参考に短冊の文化的意義など話し、実物の短冊もみせると、結構学生も目を輝かしている(ように見えた)。ここに再録された芦澤新一さんの短冊談義が面白い。さすが実業家で、日本のパテントという考え方をもって短冊を評価する。なるほどお、と思う。外国の方への御土産に、確かに喜ばれます。

 「大垣市奥の細道むすびの地記念館」の最近の企画展の図録『描いた芭蕉・描かれた芭蕉』(2012年9月)には、芭蕉の肖像画が沢山掲載されていて興味深い。今年4月に開館して11月末までの17万人が入場したというからすごい。

 図録といえば、別冊太陽が『与謝蕪村 画俳ふたつの道の達人』(2012年12月)を出した。小生、身の程知らずにも、近年『新花摘』と『夜半楽』を学部の演習でやってみて、やっぱり蕪村はええなあと、ミーハーに憧憬していたから嬉しかった。いま卒論で蕪村に取り組んでいる学生にも早速知らせた次第。よく出来た本で、画俳両道の蕪村の魅力をあますところなく伝えている。
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がこう髷研究

昨日は関西大学で2日にわたって行われてた絵入本ワークショップ(初日)に顔を出し、肥田晧三先生の講演を聴いた。東京をはじめ、遠方からも多くの人が参加していた。

「がこう髷研究」というタイトルで、実に面白いお話が聴けた。寛政時代に大阪で粋名をうたわれた鴻池善右衛門の俳名が「鵞江」または「雅好」で、その鵞江の髷がとんでもなく長い髷で、これが「鵞江髷」と称して大流行。大坂の有名な画家耳鳥斎は鵞江髷の男性像を得意に描いた。それが「がこう絵」としてもてはやされた。平成十七年四月、伊丹市立美術館で開催された耳鳥斎展の図録で肥田先生は「がこう髷」について推論を書いた。しかし、それを主題にしたような絵本はまだ見つかっていなかった。ところが同年九月、「風雅好元髷」「今様後篇紋日鬟」が合綴された本がある古書目録に出た。これを注文してみるとこれがなんとずばり「がこう髷」の絵本だったのだ。さらに今年九月、宮尾與男氏から、後者の正篇にあたる本を教えられた。そのスリリングな報告を縦筋に、当時の大坂の文化圏や風俗の解説を横筋に、楽しい画像満載の資料を読み解く魅力的なご講演に、場内はみな魅了されたごとくであった。

 ところで、この講演でうかがったのではなく、鹿田松雲堂の本をつくっているときにたしかきいた話だが、肥田先生はノーベル賞の山中伸弥教授の父上と中学校以来の親友で、山中教授の結婚式にも主賓で出席されているとの事。ご著書の『上方風雅信』には、昭和二一年に撮影された山中教授の父上とのツーショット写真が掲載されている!(これは確認しました)のである。
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2012年12月07日

『上田秋成 絆としての文芸』刊行

拙著『上田秋成―絆としての文芸』(大阪大学出版会、2012年12月、258頁、定価2000円+税)を刊行いたしました。
本書は、近年の研究の成果をふまえて、文人として様々な人と和歌や和文をもって交わった、人とのつながりの中で生きた秋成像を提示しようとしたものです。構成は以下の通り。

序章 新たな秋成像を求めて
第1章 秋成の人生を読む
第2章 歌文で繋がる―大坂で知り合った人々
第3章 歌文で親しむ―京都で交わった人々
第4章 秋成が感謝する神々
第5章 『雨月物語』『春雨物語』を読み直す

一般向け教養書ということで、古文が苦手という人も通読できるように、秋成の引用文には語釈や現代語訳を施しています。専門家や古文に親しんでいる方には平易すぎるくらいかもしれません。しかし、これまでの反応では、専門家にも「わかりやすい」というご感想がわりと多いのでほっとしてます。

第1章は秋成の評伝ですが、「何かを失う(捨てる)たびに何かを得る」。そのように彼の生涯を見立てて、その波瀾万丈の一生を追ってみました。父母、故郷、友人、妻、視力…、彼の人生は喪失の連続でした。しかしそのたびに、新しい世界が開かれたのではなかったでしょうか。

第2章以下は、文芸が秋成が人(神)とつながる絆の役割を果たしていたという切り口で、彼の文章を読み解いたもので、それなりに前著『秋成考』(翰林書房、2005年)以後の新見をちりばめてはいます。

また『雨月物語』『春雨物語』のような「小説」が彼の文業の中心ではなかったという立場で本書は書かれています。和歌や和文、そして学問的な著述が実は秋成の本領でした。しかも、それらの多くは、特定の人に、あるいは特定の神に向けて作られたのです。そこに「絆としての文芸」という副題をつけたゆえんがあります。そもそも江戸時代の文芸(前近代の文芸)とは、多くがそうなのではないでしょうか。

京都国立博物館での上田秋成展、柿衞文庫での「神医と秋成」展に裏方として関わったことで、「そういうことなんだな」というのが私には実感されたのです。それが本書に色濃く反映していると思います。知られざる秋成の魅力を少しでも知っていただければと思います。

もちろん、『雨月物語』『春雨物語』にもふれています(第5章)。『雨月物語』は、最近の私の論文を元にした「菊花の約」の謎解きですが、作品論に興味のある方は、ここに反応して下さるようですね。これもまた「絆としての文芸」の視点からの読み解きです。

そろそろ、書店にも並んでいると思います。
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2012年12月02日

アナホリッシュ國文學

学燈社の『国文学』、至文堂→ぎょうせいの『解釈と鑑賞』が部数減少で相次いで休刊したニュースは記憶に新しい。学術的に高い水準を保ちながら、一般向けでもある2点の月刊誌。売れていた、かつての誌面の方が、より学術的な色彩が濃かった。

復刊の「うわさ」は浮かんでは消えていたが、ついにかつての『国文学』編集長の牧野十寸穂さんの熱意が実り、北の国の出版社が刊行を引き受けてくださった。「逆境こそチャンス」を是非本物にしていただきたい。
雑誌名は、『アナホリッシュ國文學』で、12月5日創刊だという。「アナホリッシュ」は、詩人シェイマス・ヒーニーの詩にちなみ、「清らかな水の湧くところ」の意味らしい。

今回の「復刊」は、身丈にあう季刊であるということ。これは現実的な選択。企画をじっくり練っていただきたい。そして隣接諸学との連携を重視していることが重要だろう。いまや、国文学もタコつぼ的に作品を論じてよしとする時代ではなくなった。とはいえ「国文学」という名を残すのもまた意味がある。「国文学」という学問を常に検証しつづけるために。

創刊号は、『万葉集』特集だという。『万葉集』の枠組みを超えた、大きな議論を期待している。また小川国夫の未発表原稿が連載されるのも楽しみだ。第2号は、国家がキーワードで、ロバート・キャンベルさんと兵藤裕巳さんの対談が行われるらしい。これも期待十分だ。かつての『国文学』は、この対談が売りで、読むのが楽しみだった。

また学界時評も復活する。創刊号は上代から近代まで全時代が掲載されるが、毎号そうなのであろうか。是非そうしていただきたいものだが。国文学に関わる研究者は、唯一の国文学総合誌(商業誌)である本誌を支え、協力を惜しまないようにすべきだろう。内容についても、どんどん注文を付けていけばいい。

専門領域横断的な方針はいいが、是非「ベーシック」ということを常に意識していただきたいというのが、私の希望である。比喩的にいえば、本誌を定期購読していくと、国文学の最新の研究動向が把握されるとともに、国文学の基礎知識も体系的に養われるというように。それでありながら、やはり、刺激的な論文が、いくつか読める。そういう雑誌になることを期待している。
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2012年12月01日

『鹿田松雲堂 五代のあゆみ』の面白さ

『なにわ古書肆鹿田松雲堂五代のあゆみ』が好評のようである。ブログやツイッターでも結構取り上げられているということ。出版文化史に興味のある方、古本(屋)の好きな方には、アンテナにひっかかる記事がいくつもあるのだろう。私も改めて本書を通読してみた。校正の時に読むのとはやはり違う。

 本の造りがなかなかいい。表紙のカバーと帯は本書の元になった「五代のあゆみ」を執筆した四代目の娘さん四元弥寿さんの好きだった色で組み合わされているという(四元大計視さん談)。見返しには四元弥寿作の船場復元地図。ある読者の感想に「これはスゴイ!」と褒められたもの。ここまで復元できるのかというくらいに精緻である。裏見返しには、明治四一年と昭和三年の古本屋見立番付。これを見るだけでも興味深いが、鹿田はやはり、○○である。ウン。口絵にはまず「大塩平八郎市中施行券引札」のカラー写真。「相渡」印があり、歴史史料としても貴重。他にも歴史の証言となるような図版を多数掲載する。

 ちなみに鹿田のよみは「シカタ」である。二代古丼の『思ゐ出の記』に、「鹿田は、元播州志方村出にて、春陽軒墓にも志方屋清五郎とあり」という。『思ゐ出の記』の中には、おおっという記事があり、たとえば、坪井屋(蒹葭堂三代目)のところには「蒹葭の家小幅(秋成賛)」があったとか。大惣本売却に関する話も。

 三代めの餘霞は、当初鹿田松雲堂で丁稚奉公をしていた。そのころの日記などは今回初公開だが、貴重な歴史の証言でもある。

 もちろん他にも貴重な資料が満載で、どれを読んでも興味をそそられること疑いなし。本好きにはまずこたえられない本なのである。今回は、一般の読書人にも十分に楽しめる内容だが、学術的にもおそらく価値が高い。なかなか得難い本なのである。
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