2013年10月31日

三箇津の文学

えー、ブログなんか書くんだったら、原稿書きなさいよって声が聞こえるのですが、10月も終わることだし、原稿書きの合間(ホントか?)にちょっと。

さきほど日本文学研究室に授業の帰りにちょっとだけ寄って、近刊雑誌をチラ読み。
『日本文学』10月号の特集が、たしか「三箇津の文学を問う」。「三箇津」って何?って言う人もいるかもしれないが、この場合は「三都」のことといってよいかな。江戸、大坂、京。
ところでこの号の編集者がいうには、大坂と京を、「上方」という言葉で安易に括り、近世文芸を「上方と江戸」という視点で見るのが一般化しているが、それでいいのか?京と大坂は、ちがうでしょう?と。どうも、この「三箇津の文学」というのは、上方と江戸という「安易な二分法」を相対化する視座として提起されているようなのだ。
「上方文藝研究」という研究誌発刊を10年前に思い立ち、今も「近世上方文壇における…」という研究課題の科研代表者をやり、ついでにいえば「上方文化芸能運営委員会」の運営委員の一人だったりする私としては、耳がいたいような。
 でも、おっしゃる通りで、大坂生まれで晩年京に移住した上田秋成に即して言っても、私自身の13年ほどの自らの経験から言っても、大坂と京都は、風土も、人柄も、言葉も、文化も、政治意識も、かーなり違う。けれど、大抵の場合は、近世研究も現代のマスコミも「上方と江戸」「関西と東京」という言い方で切っているというのは、確かではないかいな。それに「ちょっと待った」という「三箇津の文学」とは、なかなか考えられたテーマかもしれない。とりわけ、大坂と京の区別が大きな問題だろう。
 で、巻頭の佐伯孝弘さんの論文は、浮世草子に見える京と大坂を、版元、書名、章題、内容などの大量のデータから分析したもので面白い。そして西鶴は、大坂というより京都だという。これには、非常に納得した。『好色一代男』の世之介からして、京生まれ、そして遊郭は明らかに島原を賞賛している。京都から西鶴を読まねばならないと思っていただけに我が意を得たり、の気分。それでどうしても書きたくなった次第。
 西鶴って、やはり面白い。ん?西鶴がらみの締めきりがヤバイ。ここでやめておこう。
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2013年10月15日

近世出版の板木研究

発禁本からの連想で、絶板→板木と。
これも、今年出た本で、紹介となると今更ってことになるが、現在授業で、板本書誌学っぽいことをやっているので、この本、つまり『近世出版の板木研究』のお世話になっているのですね。

これは金子貴昭氏の研究書である。法蔵館から2013年2月に刊行された。板木といえば永井一彰氏のめざましい板木発見とその研究が思い出される。時々新聞をにぎわすが、最近では秋成の板木が出てきた。

金子氏も、永井氏の薫陶を受けておられるようだが、板木で博士論文を書き、一書として刊行したのは天晴れで、これが今後の板木研究の基本図書となる。板面だけでついつい板本書誌学を論じがちだが、板木そのものを研究しなければダメだということが、この本ではよくわかる。

木材の含水率の問題とか、「おーっ!」っと感心することが次々と出てくるのだが、「終章」の「課題と展望」で、「へーっ!」という話が出てくる。

古活字から整板への移行が寛永末年ごろからということに関して、従来、この時期から出版が営利事業として成り立つから、つまり商業出版が成立して大量印刷が可能な整板になったというのが、定説っぽい理由なのだが、金子氏は、そこに京都における木材調達の事情、つまり木材流通の問題を併せ考える必要があるというのだ。これは非常にエキサイティングな話だ。もちろん現段階では見通しにすぎないのだが、説得力があるんじゃないか?こうなってくるとやっぱり、学際的研究って重要ですね。
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2013年10月13日

江戸の発禁本

仕事が速いといえば、そして角川書店とよく仕事をしている(これで5冊めですか)といえば、井上泰至さんである。学会誌の編集委員長もやっておられ、俳句関係のお仕事もたくさん抱えておられるようで、お忙しいはずなのだが…。最近では、いろいろ国文関係の出版社のブレーン役も引き受けておられるようで。

 さて、7月に出た『江戸の発禁本』(角川選書)は、例によって才気溢れる筆致でテンポよく書かれている。発禁本とは、出版・流通が禁じられた本であるが、個人的には読まれ、所蔵されたもの。この角度から江戸の思想・文化・文芸を読み取ろうという、井上さん一流の叙法である。一般向けの本であるとはいえ、井上さんは、先行研究・関連文献への目配りを欠かさない。中には、日本文学研究者が普通読みそうもない本を引用することもある。自在な筆致といおうか。

 それにしても、人情本の恋の駆け引きについて触れるところ、乗りまくっているというか、文章が際立って生き生きしています。書いていて相当楽しいのでしょうねえ。
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2013年10月09日

一茶句集の文庫本

角川ソフィア文庫といえば、これも8月に出た『一茶句集』。詳細な注と現代語訳、充実した解説つき。玉城司さんのお仕事。え、玉城さん、少し前に同じ文庫から蕪村出してましたね。「怠け者の私が」とか、付記で言っているけど、おそろしい早さです。1000句選ぶだけでも大変なのに。でもこれも積み重ねがあってこそに違いない。感服。解説は、一茶の句は「万物に宿る魂魄(精霊)に呼びかける夷ぶりの俳諧であった」と締められている。
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2013年10月08日

和漢朗詠集の文庫本

西鶴をはじめ、近世の読み物で、漢詩句っぽいのが出てきたら、かなりの確率でそれは『和漢朗詠集』が出典ってこと、なんとなく感じる。手元に一冊置いておきたいが、手軽に参照できるテキストがこれまで講談社学術文庫本しかなかった。学術文庫よりもちょっと薄く、中味の充実度はそれに劣らない文庫本が出現。三木雅博訳注『和漢朗詠集』(角川ソフィア文庫、2013年9月)。近世文学研究者にも必携じゃない?明星大学のコレクションも思い出されることよ。
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2013年10月07日

近世はなしの作り方読み方研究

研究書としてはかなり変わった書名である。
副題に「はなしの指南書」とあるのも「おや」と思わせる。
この本が「はなしの指南書」なのか、それとも「はなしの指南書」についての本なのか?

しかし、著者が島田大助さんとなると、これがなぜか納得されてしまう。
変わり者の多い近世文学研究者のなかでも、強烈なキャラが際だつ島田さんだが、いたって常識人であり、努力家であり、人情家である。そして、周囲をパッと明るくし、気を配り、礼をつくす。

おまえがなぜそんなことを言えるのか?そんなに親しいのか?と問われれば、いや、そういうわけではないのですが、と答えざるをえない。
ただ、島田さんとは、山口県のある場所で、何年か調査を共にしたことのある間柄である。それも二人だけでというのを、3年くらいやったか。公の機関であるその場所で、いつも昼寝している職員に対して、「なんですか、あの男は!」と、昼飯を食べながら意気投合(?)していたことが思い出される。そういうわけでお人柄については、大体わかっているつもりなのである。

その島田さんが、大著と呼ぶにふさわしい咄本研究書を出された。序章はエッセイのような論文のような咄のような書きぶりで、これも異色。ただ島田さんの口調がそのまま文章になったように感じる。だから私には面白い。地震を落ちに絡めたいくつかの咄(類話)を講演で紹介したら、被災地ではいつから笑い咄をしてもいいのかと質問されたという。島田さんの紹介された咄も前年の地震と関わりがありそうだ。つまり咄は、具体的な場所、時間がわかって、はじめて理解できるもの、それは文献だけではわからないという風にもってゆくのだが、この展開が、論文というより咄的なのである。これこそ「はなしの指南書」である。

驚くべきなのは、第五章の『西鶴諸国はなし』の各論である。『諸国はなし』を咄として読む。これが全て書き下ろしである。いずれも、人間に不思議を感じた咄として読んでいく。これが「読み方」指南である。こういう読み方はいいんじゃないかと思う。

この本が出てから2ヶ月になろうとしている。紹介が遅くなったが、必ず紹介したいと思い続けていた。川柳関係の本を出す新葉館出版から。これも珍しい。

 島田さんは、自分を笑いの種にすることの出来る人だ。あとがきを読んでそう思う。すごい大人だと思うのである。




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