2014年02月14日

文学部の逆襲

名古屋大学文学研究科が、面白そうなシンポジウムを開く。
題して「文学部の逆襲」。
ストレートである。仕掛けたのは塩村耕さん。
「逆襲」と謳うところが、現在の文学部の苦境・逆境をよく示している。
文学部は、「文学」だけを研究しているのではない。
そういう人は実はごく一部で、哲学・思想・歴史・社会・心理・言語・美術・演劇・音楽…、
ありとあらゆる言語・表現・文化事象を扱っている。
文学部、そして理学部という基礎的学問を行う学部が存在することは、大学としては強いはずである。
文学部で学ぶことの中で重要なことは、人間・言語・社会・歴史・文化の分析の方法であり、どのような状況下でも応用できる考え方、調べ方である。
「文学部の逆襲」で何か議論されるのか。HPを覗くと、下記のような案内が…、

名古屋大学文学研究科 公開シンポジウム
「文学部の逆襲」のご案内
日程: 2014年3月8日(土) 13:00〜16:15
会場: 名古屋大学文学部 237講義室(2F)
 予約不要・入場無料(どなたでも参加できます)
趣意: 日本と諸外国の大学における文学部の歴史的役割について検証し、実学重視の世の潮流とグローバル化という状況の中で、文学部に今後どのような社会的意義があるのか(あるいはないのか)について考えます。
話題提供者
多田一臣(東京大学名誉教授・埼玉学園大学特任教授/日本文学)
「人文学の活性化のために考えておくべきこと 日本の文学部より」
和田壽弘(名古屋大学文学研究科教授/インド文化学)
「サンスクリット古典学からの提案 インドの文学部より」
木俣元一(名古屋大学文学研究科教授/西洋美術史)
「『廃墟』としての人文学 ヨーロッパの文学部より」
* 進行調整人
塩村耕(名古屋大学文学研究科/日本文学)

文学部不要論の方にも是非来ていただいて論戦してほしいですね。どんなシンポになるのでしょう?
posted by 忘却散人 | Comment(5) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月13日

かくして『源氏物語』が誕生する

ついに出ますね。
目次を見てワクワクしています。
荒木浩著『かくして『源氏物語』が誕生する 物語が流動する現場にどう立ち会うか』
笠間書院から、3月刊行予定。
面白いこと、間違いなし。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月11日

長澤伴雄自筆日記

こちらでもちょっと紹介しましたが、亀井森主編『国立台湾大学図書館典蔵 長澤伴雄自筆日記』の第1巻が刊行されました。城戸千楯に初めて会ったなどの記述が見えます。今昔物語や宇治拾遺物語の読書日記があります。今回は文政13年から天保6年。全部で5巻になり、総索引もつくらしいです。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月09日

曽根崎艶話

 昨日、逸翁美術館で、柏木隆雄先生の講演会が行われた。『「小説家」小林一三の位置 』と題し、阪急の産みの親、小林逸翁の小説について、解説された。博士論文を読んでいる最中とはいえ、どうも気になって仕方がないので、自宅からそう遠くない池田の会場に出かけたのである。

 これが、非常に面白いだけでなく、驚くべき内容であった。大げさではなく、日本文学史の一頁を塗り替えるような話である。

 そもそも小林一三は、稀代の企業人であるが、また絵画・陶器をはじめとする文化財のコレクターとしても名高い。明治の文豪たちと近い距離にいた彼が小説を書こうと思ったとしても不思議ではない。慶応義塾時代には、文学を志す青年だったという。山梨日日新聞に連載された小説は、殺人事件をモデルにした際物小説だが、美辞麗句を連ねた、古風な文体を駆使している。

 そして、すでにバリバリの企業人となっていた43歳の時に書いたのが、『曽根崎艶話』である。大阪花柳界に出入りする財界人・役者らが、それとすぐわかる名前で登場し、大阪弁で男女のやりとりが描写される。なかなか読ませる感じである。あまりにそれが露わだったからか、発禁になったらしい。この小説の紹介だけでも相当面白かったのだが、実は、発禁になったそのちょっとあとに出たのが、永井荷風の『腕くらべ』だった。

 柏木先生は、『曽根崎艶話』と『腕くらべ』の版元が同じということに着目、その話の内容の近さを指摘し、さらに決定的ともいえる資料を提示して、両者を赤い糸で結びつけたのである。この資料が提示されたとき、フロアはどよめいた。もし、これがそうであれば日本近代文学史を書き換える「事件」である。

 ちなみにご存じの方も多かろうが、柏木先生のご専門はフランス文学である。

 ともあれ、どう考えても衝撃の新説を問う学会発表同然のご講演であった。「是非活字化を!」とお願いしておきました。
 
posted by 忘却散人 | Comment(3) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月05日

西鶴戯作者説再考

 こちらで書いたことについて、中野先生自身が最新のご論考、『文学』1・2月号の「西鶴戯作者説再考」で触れておられる。昨年6月の九州大学国語国文学会におけるご講演の活字化。このご講演についても、本ブログで触れたことがある。
 『好色一代男』巻一の一や、9月のワークショップでも話題となった『武家義理物語』「死ば同じ波枕とや」の話も出てくる。
 さて、「江戸を研究するには江戸人になって云々」の議論についての中野先生のコメントは、  

私は、ここで何も私だけが江戸人になれる、或いは研究者たるもの凡て江戸人にならなければならない等と主張しているのでは毛頭ない。少なくとも江戸文化の解明を志す研究者ならば、「現代的観点」「今日性」を検証する方向性を近代に生きるものとして当然もち、また持とうと務めながらも、その一方で、それとは正反対に江戸に即する方向性を持つ視線の獲得にも真剣に努め、一歩でも江戸人の存在のあり方そのものに近づくべく(こゝでも、決してその賛美を意図するのみではないことも記しておかねばなるまい。気骨の折れることではある)、覚悟すべきではなかろうかと述べているに過ぎない。…

もちろん引用した部分のみでは不十分である。是非本文につかれたい。
 また、中村幸彦先生とは異なる中野先生の考える「戯作」の内容とその範囲について、おそらくこれまで書かれたものの中では最も詳しく述べられている(ちなみにこれまでの中野説への批判の多くは、中村先生の「戯作」の定義を前提としていた)。中野先生の述べる、「戯作」の本質の一番目は、「思想的には現実の全肯定をその核とし、現実批判・権力批判・政治批判は全く含まない」ということである。これに対して、きっと「いや、西鶴は批判はしているでしょ、これこれ、あれあれ」と反論する人がいるだろう。西鶴が厳しい現実や、不条理な政策などを描くこと、それは咄の名手の西鶴なら当たり前である。善人ばっかり登場するような話が面白いわけはない。悪人もいるし、ずるいことをやって儲ける者もいるし、尊大にふるまう武士もいるし、真面目に働いているのに報われない人もいて、西鶴はたくさんそんな人たちを描いている。では政治を変革し、社会を転覆すれば、万人が生きやすい世の中になるのか?そんな世の中がありえないことは歴史が証明しているだろう。西鶴がそういうことを考えているはずはないと思う。理想的な武士たちが、理念通りに政治を動かしてくれれば、全く問題ないからだ。けれど、悪人がいて、不条理な出来事があり、善人がだまされる。それが世の中(江戸時代に限らないことだが)ってもので、中野先生の言葉を借りれば、大人の西鶴は、その現実、その社会を認めた上で、ではどう生きるのか、人々のけなげな振る舞いを描くことで、それを教えているのではないか。
 何か不幸や矛盾があれば、政治や社会のせいだと考えるような、そういう発想はないと思う。もちろん、そう考える登場人物も出てくるのだが、そういう人物を肯定的に描いている…とは私にも思えない。

 かみ合うのかどうかちょっと心配だが、3月27日には、中野先生が西鶴研究会で発表する。多分この論文を中心に議論が展開されることだろう。私は行けない可能性が高いのだが、参加される方は是非レポートをお願いしたい。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする