2014年04月25日

図説江戸の「表現」

山下則子さんを代表者とする「近世的表現様式と知の越境―文学・芸能・絵画による総合研究」プロジェクト(国文学研究資料館)の研究成果が八木書店から、堂々たるB5判クロス装338頁の大冊となって刊行された。
昨年度後期に「近世文学の様式」という授業をやったので、「これは参考にしたかった!」という具体例が続々出てくるという感じである。そういえば、大高洋司さんのプロジェクトでも「よみほん様式考」という成果論文集を『江戸文学』という雑誌で出した時に、上方の絵本読本の序を様式として考えたこともあり、「表現様式」という言葉は、私にとって近世文芸を考える時のキーワードのひとつとなっている。どんな表現様式があるのかといえば、

「本書で扱う表現様式には、先に述べた「地口」のほかに、「尽し」「揃え」「評判」「句兄弟」「縮景」、そして「見立て」「やつし」などがあります」

 あつて「見立て」と「やつし」については、このプロジェクトの前身のプロジェクトでやはり八木書店から研究成果書が出ている。今回は、さらに広げて、句兄弟や縮景など、一般にはなじみのない様式も取り上げている。句兄弟は、先人の著名な句を「兄」とし、それへの敬意として新しい趣向の「弟」句をつくるもので、本歌取りに似ているが、これなど、まさに江戸文芸の縮景というべき表現様式である。授業で触れたかったなーと思ったことである。「縮景」は、盆栽が典型。「縮み志向の日本人」なんて本もありましたね。

 さて、本書は「図説」をうたった一種の図録であるが、この中に、わが阪大の忍頂寺文庫が2点も登場しているのはうれしい。ひとつは、人気役者の女房・母親の評判記である「女意亭有噺(めいちょうばなし)」で武井協三先生のご執筆。「現存最古の芸能界ゴシップ誌」と紹介される。これ、NHKの爆問学問に出演した中野三敏先生が、テレビで紹介されたものでもある。もうひとつは、見立て絵本の「道化生花」。これも中野先生が何度も紹介しているもの。

 論文編では、山本和明さんの「近世的表現としての「序」・覚書」。拙論に触れてくださりありがとうございます。和本を実際に見ている近世文学研究者なら、序が表現様式であることは誰しも思うところであろう。私はそれを上方絵本読本で書いたのだが、山本さんは版本全般に考察を及ぼす、いわば「序文」研究序説である。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月20日

物語論の視点からみた西鶴

慶応大学文学部で開催される。

西鶴研究会の染谷さんからの情報提供だが、染谷さんによると、中野先生の西鶴戯作者説の議論を踏まえ、『武家義理物語』「死なば諸共の波枕とや」についても、触れるところがあるという。3月27日の、あの西鶴研究会に出席されていたのであろうか?そういえば、それらしき方がいらっしゃったように思う。
明日のことで、私はいけないけれども、西鶴戯作者説が国際的に開かれているかどうかいうことが、論点のひとつだっただけに、注目に値する講演である。できればどなたかレポートをお願いしたいのですが。KO大学文学部のHPによれば、

ダニエル・ストリューブ先生の講演会

藝文學会・フランス文学専攻 共催、パリ第7大学東洋言語学部准教授、
Daniel Struve(ダニエル・ストリューブ)先生の講演会を行います。

題目:「物語論の視点からみた西鶴」(日本語)
日時: 2014 年 4 月21 日(月)16 時30 分から18 時
場所: 慶應義塾大学三田キャンパス 東館8 階 ホール (入場無料)

どなたでも自由にご参加いただけます。是非いらしてください。
連絡先:仏文共同研究室

ということです。

追記:染谷さんに具体的な講演内容の情報を伝えたのは畑中千晶さんのようです。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

杏雨書屋

 きのうはいろんな会が重なっていた。鈴屋学会では延広真治先生がご講演。これも聞きたかったが。どんなご講演だったのでしょうか。
 で、私は、中之島で開かれた杏雨書雨移転記念研究講演会に参加申し込みをしていたので、そちらへ。行ってみると、100人を遥かに超える大盛況。なんと移転記念の立派な典籍の図録と、記念品の風呂敷、それにペットボトルの水まで配られた。このイベントを私が知ったのが、申込み期限ぎりぎりだったので、ここで告知ができませんでしたが。
 杏雨書屋は、このたび十三から道修町の武田薬品旧本社ビルに移転した。国宝3点、重要文化財13点を含む4万点15万冊を所蔵するという。「杏雨書屋」の成り立ちや、その文庫の特色などが4人の講師によって語られた。たいへん勉強になった。
 そのうち3人の講師の話を伺ったあと、京阪を使って中之島から出町柳へ出て、同志社女子大の京都近世小説研究会へ。定説をひっくり返す発表、新事実がたくさんわかる新資料の紹介と、こちらも充実しており、そして偶然にもここでも、風呂敷のご披露があった。「H先生ひとくぎりおつかれさま会」で記念品として渡された源氏物語絵巻の風呂敷。ネーム入り。山本読書室資料についての情報も提供されたし、なかなかいい日であった。科研報告書CD版も持って行った分がほぼさばけたし。
 
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月17日

上方浮世絵展

「特別展 上方の浮世絵 ―大坂・京都の粋と技」という展覧会が、大阪歴史博物館で開催される。
上方浮世絵の大規模な展示は40年ぶりということで、おおいに期待しているところである。
4月29日(火・祝日)には、北川博子氏の講演会が、行われる、午後1時30分から3時まで。「上方浮世絵の世界」。定員250名。先着順。観覧券か半券を持っていれば無料。
詳細は、大阪歴史博物館のHPで。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月16日

刊行200年記念『里見八犬伝』の展示

大阪大学ではゴールデンウィークに「いちょう祭」が開催される。(ちなみにいちょうは大阪大学のシンボルマークである、いちおう)。今年は5月2日と3日。この間、文学研究科では、例年、日本史研究室と日本文学研究室合同で展示を行う。今年日本文学研究室は、『里見八犬伝』肇輯刊行から二百年ということもあるので、阪大図書館蔵の『里見八犬伝』全106冊を展示することになった。なかなか壮観であるはず。『八犬伝』と『朝夷巡嶋記』の批評と答評をまとめた『犬夷評判記』2種も展示する。

実は、このうちのひとつは、刊本『犬夷評判記』の写しだが、来歴がすごい。饗庭篁村の元にあった写本を、坪内逍遙が写し、それを市島春城が書生に写させ、それをさらに千葉掬香が書生に写させたものである。識語を展示するので、ご覧下さい。個人蔵です。
 場所は文学研究科本館の中庭会議室である。図書館ではないので、ご注意ください。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月15日

日仏文学・美術の交流―「トロンコワ・コレクション」とその周辺―

以前こちらで紹介したシンポジウムが早くも本になっています。
『日仏 文学・美術の交流:―「トロンコワ・コレクション」とその周辺 』(大手前大学比較文化研究叢書)
石毛弓・柏木隆雄・小林宣之編(2014年3月、思文閣出版)

「17世紀に設立された歴史あるパリ国立高等美術学校と大手前大学との提携記念として開催された「日仏文化交流シンポジウム」の成果。明治27年から明治43年にかけて日本に滞在、多くの和本や美術品を蒐集、研究したE・トロンコワのパリ国立高等美術学校所蔵コレクションを柱に、日仏美術の交感を論じた7篇を日仏両言語で収録。カラーを含む図版を多数掲載」

ってことですが、7名の論文のうち日本近世文学と関わりの強い論考は、盛田帝子「トロンコワ・コレクションの花扇使者図について」と、クリストフ・マルケ「エマニュエル・トロンコワの和本コレクション」の2編。
 とりわけマルケ氏は、トロンコワの和本コレクションが、民俗学的でもなく、地理学的でもなく、美術的観点でもなく、「江戸時代の文学と出版文化、そして美術史を紹介研究するために蒐集されたという点で特筆に値する」と述べておられます。「江戸文学」35号ですでに紹介されていますが、山東京伝の『近世奇跡考』の草稿本をも入手していたのですから、脱帽です。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

菅原伝授手習鑑

 学部の演習は、前年に続いて浄瑠璃本を読む。今年度は、DVDが完備している菅原伝授手習鑑を選んだ。シラバスを書いている時点では、私は知らなかったのだが、ちょうどまさにこの手習鑑が、通し狂言で春に上演されている。しかも住大夫さんの引退興行である。住大夫さんが語る「桜丸切腹の段」は夜の部で、そちらの席はほぼ売り切れているようだ。学生を2等席で見学させようというプランも、4月に入ってからは無理であった。
 昨日、夜の部に行く。知り合いの方もちらほら。住大夫さんの語り、やはりじーんと来た。箕助さんが桜丸を、文雀さんが女房の八重を遣い、人間国宝が3人揃ったのは圧巻だった。
 手習鑑には二段・三段・四段にそれぞれ親子の別れが組み込まれているが、この段は古稀の祝いの日に、子の切腹を見届けねばならない白太夫の心情の表現が大きなポイントとなる。住大夫さんがこれを見事に語りきった。万雷の拍手である。
 その余韻があったからか、寺子屋で初めて目が潤んだ。寺子屋の極限的な設定は、これぞ劇とあらためて思わされた。そして、観客の共感を引き出す芸の力に、あらためて敬服した。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月13日

歴史的怪異学の方法

 拙ブログを見て懐徳忌に来てくださったのは、木場貴俊さんという日本史の研究者の方である。十七世紀の怪異認識を研究されていて、ご論文をいただいた。例によって、専門分野のカベってやつで、日本文学研究者では、怪談研究者以外、木場さんをあんまりフォローしていないかもしれない。しかし、非常に有益だと思うし、私自身刺激を受けたのでご紹介申し上げる。

 ひとつは文字通り「十七世紀の怪異認識」(『人文論究』62(2)、2012)という論文で、「怪(恠)異」という言葉を歴史的に検証し、その属性として、「希少であること」を引きだし、さらに儒学者がその怪異を合理化していく論理として、経験的怪異認識(つまり、その現象は希少ではないと導く)を以てしたことを説いてる。

 もうひとつは、「林羅山によるかみ(かみに傍点あり)の名物―『多識篇』をもとに―」(『日本研究』47、2013)で、羅山に即して、その怪異観を検証している。

 たしかに、近世文学研究においては、このような歴史的視点での研究が少ない。作品とかジャンルとかいうものに関心が深く、また「系譜」という形で、断片をつなげるのは得意なのだが、歴史的に検討するという方法のためのスキルが不足しているのは否めない。文書と著作と作品とをどのように史料(テキスト)批判して用いるかという問題もある。木場さんの手法は、近世文学研究者には大いに参考になるだろう。
 
posted by 忘却散人 | Comment(1) | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

懐徳忌

4月12日、おだやかな日和の中、大阪の誓願寺で懐徳忌が行われた。
参拝者が例年より多く、また若い方が多かったのが印象的であった。
恒例のご講話は、日本近世漢詩文研究者の福島理子さんが、近世中期の大坂の詩社、混沌社で活躍し、その才能を惜しまれながら25歳で夭折した、小山伯鳳のことを、歯切れよく、わかりやすくお話しくださった。
「妖怪生」と呼ばれ、怪談好きの伯鳳も、漢学があくまで本分だったということ。そして、その詩才を、具体的な漢詩を通して、説明されたので、彼がいかに詩人としてすぐれていたかがよくわかった。質疑応答も活発に行われた。
さて、会場には、小山伯鳳のご子孫に嫁がれた小山良さんも姿を見せられた。また、江間細香の研究者として著名な門玲子さんもいらっしゃった。さらに、拙ブログを読んできてくださった日本史研究者の方もいらっしゃっていた。嬉しいことである。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月08日

書物学創刊号

時宜を得た創刊。文句なしに面白い。愛書家、古本屋、研究者…、購買層は広いと思う。一本一本が適度の長さだし、電車なんかで読むのに最適。勉誠出版。2014年3月創刊。96ページ。1500円。電子書籍版もあり、論文の分売もあるらしい。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

おめあての古今集に出会えなかった橋本経亮

 上田秋成とも本居宣長とも親しい橋本経亮。京都梅宮神社の神官で、朝廷に出入りする非蔵人である。有職故実に通じ、古典本文の校訂にも関わる。宣長の著書が天覧されることになるには、この人の役割は重要であった。とはいえ、文学史にその名が刻まれているとは言い難い。著名な著作があるわけでもない。
 
 その橋本経亮を追っかけて、次々と新しい事実を掘り起こしているのが一戸渉さんである。『上田秋成の時代』(ぺりかん社)という著書がある。学会デビューの時、直後に飲みながら語り合ったことがあり、それ以来のおつき合いであるが、あれから何年たつのだろう。今や近世学芸史研究を牽引する若手の一人である。
 
 『斯道文庫論集』48(2014年2月)に発表された「橋本経亮と真福寺文庫」は、またまた経亮の従来しられなかったリサーチャーとしての一面を明らかにしてくれたもの。真福寺の4日間にわたる調査で、おめあての古今集に出会えずにガッカリした心境を歌に託したりしているところが、なかなか共感できる、かわいい経亮である。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月07日

木越治さんのコメントに対して

木越治さんが、私の「西鶴研究会に参加して」に対してご自身のブログで反応されました。あえて、挑発的に書いたところなので、感謝いたします。そもそも、中野先生の西鶴戯作者説に対する鈍い反応に業を煮やして木越さんがやや挑発的に文章を書いてくださったことに関して、私は敬意を抱いております。私の挑発的な書き方は、それに応えたものです。失礼いたしました。

木越さんは、「忘却散人さんのブロクで、私の発言に関して批判がなされています。この件で論争をする気はありませんが、降りかかる火の粉を払うため、当方の真意を説明しておきます」(一部差しさわりのない範囲で改変・省略)と述べ、私が、「中野先生のいう「近代主義」は50年前のものだとか、今はだれも近代主義的な読みはしていない、というような私に言わせれば「揚げ足取り」のようなことを言って何になるのだろうか? そういうことが中野説の要諦なのではない。」と書いたことに対して、

「私は「揚げ足」を取るつもりで書いたのではありません。今回の中野論文は、私にはちっともおもしろくなかったし、参考になるとも思えなかったので、その原因はどこにあるのかと考えたとき、そういう古い研究モデルを仮想敵にして西鶴研究の現状をあげつらおうとしたところにあるのではないか、と思ったので書いたのです。 
 とおっしゃっています。
もちろんわかっています。揚げ足を取るおつもりはなかったと思います。ただ、私が読んだ時に、この批判は、論文の本質をつかんだ批評ではないと感じたのです。だから「私に言わせれば」と言い添えて「」をつけたうえで「揚げ足取り」と言っているのです。確かに中野先生はここ何十年かの文学理論について知悉しているわけではないでしょう(それは研究会の場でもお認めになっています。しかし常識的なレベルでのご理解があることは言うまでもありません)。しかし、「近代主義的な読み方はしていない」とおっしゃる方々が、中野先生からみれば、やっぱり近代主義を抜け切っていないのです。西鶴論がその典型で、「ぬけ」に権力批判を読み、西鶴が本当に言いたいことをカムフラージュしていたというのは、方法的には近代主義的な読み方ではないけれども、根本には近代主義が根強くわだかまっているということなのです。

 たとえば、木越さんは、中野先生に「作品」への視点が欠けているとおっしゃるのですが、「文学研究というのは作品論が重要だ」という見解自体が近代主義的だと、中野先生はおっしゃるのではないでしょうかね。江戸の文芸を研究するのに、「文学」という用語を用いること自体問題があるといわれているのですから。浜田啓介先生は、西鶴作品を読むにはまず「外濠を埋めてかかれ」とおっしゃいましたが、この外濠というのは、同時代コンテクストはもちろん、江戸文化の理解というところにいきつきます。江戸文芸研究は、いまはまだ外濠を埋める段階だというのが中野先生のお立場ではないかと推察しています。たぶん、作品を解説させたら、実に面白く深く西鶴作品を解説されるでしょう。中野先生の西鶴の演習を受けたものとしての実感ですが。それは「作品論の方法」とかいう次元ではありません(ただ私などはその境地にとても達しないので、いわゆる作品論をやってきましたが。)
 中野先生の批判する「近代主義」は、テクスト論によってとっくに乗り越えられたものではなく、いまでもくすぶっているものなのです。みなさんおっしゃいます。「そんな読み方はもう誰もしていない」と。しかし中野先生に言わせれば、「どこが違うの?」となるわけです。
 だからこそ、中野先生は何度も同じことを繰り返し説かなければならなかったのです。「戯作」の定義にしろ、今回初めてわかったという声がいくつかありました。しかし、実は前から同じことをずっと言われていたのです。私も学界時評や木越さんとの対談で、それをずっと前に申し上げています。中野先生の西鶴戯作者説を批判する人たちは、旧来の「戯作」の定義が西鶴に当てはまらないと批判しているが、中野先生の「戯作」の定義は違うのであると(たとえば『秋成文学の生成』20頁)。

 今回、中野先生が戯作の定義を箇条書き的に示すことで、ようやくわかっていただいたようです。議論はスタート地点についたのです。
 では、そういう中野先生の議論は、近世文学会向けにしか行われていないのでしょうか。
 これからが次のご批判と関わります。

「また、「文学」に投稿したから開かれている、という言い方もヘンです。開かれていないと感じたのは、今回の論文の内容に関してであり、媒体の問題ではありません。(同じ号の他の論文がコラムに取り上げられていた、というのは、あくまでもひとつの例にすぎません)
それから、我々が、開かれた論文を書いているかどうかは、とりあえず、別の問題です。」
 

 私は媒体は重要であると考えますし、中野先生も常々、新書などのような一般の方が読むような形で書きなさいと私どもにおっしゃっています(出来の悪い弟子で実現できてませんが)。中野先生のご推薦で、これまでだと新書を書きそうにもなかった方々が新書を書いていらっしゃいます。ただし、一般向けということでレベルを落とす必要はない、専門的に書いていいのだともおっしゃいます。今回の「文学」へのご投稿論文は、木越さんのおっしゃるように、その内容は一見近世文学会向けの議論であります。しかし、これまでの投稿媒体とは違って、一般の方も多く読まれます。私は一般の方が読んで、さっぱりワカラナイと思うかどうか、それは読んだ方に聞いてみなければわからないと思います。ただ、近世文学会以外の方が読んでいるということが、中野先生の頭になかったかといわれると、そういうことはないでしょう。中野先生の専門家向け論文は非専門の方にも読ませる力を持っているのです。もちろん、木越さんの感じ方もわからないわけではありません。ただ、専門的な議論をあえて一般的な媒体でやっている、それは一般読者にも関心を喚起できるからだという感触を中野先生がもっていてのことだと言いたいのです。

 木越さんが中野先生の論文に何の新しさも感じず、得るところもなかったとおっしゃるのは、ひとつの批評でありますから、結構だと思いますし、あの文章は書くべきであったと思います。ただ、あの中野論文の真意をご理解されないまま、そのようにおっしゃっているとしたら、それはちょっと悲しいことです。中野先生は、近代主義を乗り越えたというテクスト論にも、根強く近代主義は残存していることを指摘しているのでありますから、「作品」という視点がないというご批判は、まあすれ違いの議論です。そのご批判こそが近代主義的だということでしょう。
 細かくあげつらえば、中野先生の論文に突っ込みどころはまだまだあるでしょう。その指摘はきちんと受け止められるのが中野先生です。今回の木越さんのご指摘も貴重なご指摘であることにはかわりありません。深謝申し上げます。

 なお、私は中野先生のいう近世の散文俗文芸を「戯作」と呼ぶ説に可能性を認めていますが、この説を継承していくという立場ではいまのところありません。私自身の中で、この説ですべてを説明できる自信がなく、なお自分なりの検証を有すると思うからです。一生かかってもできないかもしれません。むしろ、中野先生が『江戸戯作史』というようなご本をお書きになることを心より願うものです。もちろん一般書として、です。

 なお西鶴研究会の掲示板で、染谷智幸さんの私への反論がありますが、これについては、おっしゃる通りだと思います。江戸の散文の俗文学を「小説」と呼んで国際性をになわせるというご主張はよく理解できるものです。そのことと「戯作」を国際的に通じる用語に、ということは相反することではないと思っています。染谷さんにも深謝いたします。

posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月06日

雨月物語の序文訓読

『揺れ動く源氏物語』(勉誠出版)で紫式部学術賞を受賞した加藤昌嘉さん。
私もこの本については、少し興奮してこのブログで書いたことがある。私としては結構力のはいった文章である。
さて、加藤さんとは、わずかの間だったが同僚であった。最近はしばらくお会いしていないが、ご活躍は聞こえてきている。
 
 その加藤さんから去年のいつごろだったか、メールをいただいた。古文漢文の入門的な授業で、上田秋成の『雨月物語』の漢文序をテキストにして、読もうとしたけれど、どうも従来の注釈書を見ても、その訓読に納得がいかないのだが…というのである。そこに加藤さんの訓読案も書いてあったと思うが、「なるほど」と思ったものだから、それは何かに書いてくださいとお願いしていたところ、嬉しいことに、『日本文学誌要』89号(2014年3月)に研究ノートとして書いてくださった。

 秋成の漢文はあまり上手ではないとか、変わっているというのが漠然と常識化していて、秋成の漢文がきちんと読まれてこなかったことについて、徳田武先生はこれを厳しく批判され、秋成の漢文をまとまって論じられた。それもここで触れた通り。『雨月物語』の序文についても、多少の揺れはあるものの、長らく古典大系の中村幸彦先生の訓みを踏襲している感じで、その訓みの根拠について、詳細に検討されたことはなかったといえよう。

 このたび、源氏研究者の加藤さんが、そこに不審を感じ、最初の部分だけではあるが、新たな訓読案を提示してくれたことを、秋成研究者は襟を正して感謝しなければならないだろう。試案について、直観的には、賛成のところと反対のところがある、とだけ申しておきます。ご本人には具体的に伝えてある。
 
 ただ、この研究ノートで考えさせられたことは、翻刻論にもつながる問題だが、もともと訓読のついていない漢文に、訓読をつけようとするとき、近世的な訓読法や秋成的訓読法(それがあるとすればの話だが)を駆使してやるのか、それともオーソドックスな訓読法でやるのかという立場の違いがあるだろうということである。秋成的、近世的訓読法で詠むのが学問的なように見えるが、一般向けの注釈書として刊行される本の場合、それは序文が何を言いたいかを伝えるということに主眼を置くべきであろうから、オーソドックスな訓読法で訓むのがいいのではないか。加藤さんの訓読を批判するとしても、どういう立場から批判するのかを明らかにしなければならないだろう。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月03日

雑食系書架記

井上泰至さんの新著。学芸みらい社刊。2014年3月。

いや、「新著」っていうけど、研究者の出す本で、「新著」っていうのは普通あんまりないのであり、私の所属する学会でも、1,2年間隔で「新著」を出している方というのは、知る限り数名である。ただ、学会からは遠ざかりがちってのがよくあるパターンなのだが、私の所属する学会で、次々新著を出す方は、きちんと学会に来られるばかりか、重い役目につかれている方がほとんどである。

井上泰至さんなどは、編集委員会の委員長だし、常任委員だし、広報企画委員で、学会でも大忙しなのに、西鶴研究会でもお会いしたし、国文研の共同研究でもご一緒していた。博士論文も最近提出され、本にまとめるとうかがっている。一方で俳句の実作者でもあり、子規に関わる著作があるほか、俳句関係の理事もされている。いやはや、八面六臂、東奔西走のご活躍である。料理がお得意で、映画通であることでも知られる。

 井上さんの文章は、鋭い観察力に基づくちょっぴり辛口の文体だと思っていたが、最近では軽妙さが出てきて、いい感じである。読みやすく面白い。

 で、今回の本は、書評エッセイというものだろうか。書評そのものよりも、その本にまつわるエピソードが満載で、結構井上さんが自分自身を晒している、自分語りの本である。授業のこと、奥様のこと、友人のこと、研究者(私の知っている人がたくさん出てくる)評などなど。
 軽く書かれているようだけれど、なかなか示唆的なことが多く、ちょっとヒントをいただいた。ありがとうございます。


posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする