2014年08月16日

怪談の倫理

 木越治氏「怪談の倫理―鏡像としての『伽婢子』・『雨月物語』―」(『文学』2014年7・8月号)を読む。

 『伽婢子』の「怪談」は、咎のない者に対する「救済」として機能しているが、『雨月物語』はどの篇を読んでも「怪談」は不安定なものとして現前する。それが『雨月物語』の近代性ともかかわると。

 木越氏は、『伽婢子』においては「怪談」が倫理と一体になっている、したがって説話的にはきわめて安定している、という言い方で説明している。『雨月物語』はそうでないから不安定であると。その倫理性がなくなっていく過程が、「怪談」の文学としての近代化である、とまとめてしまうのはやや乱暴かもしれないが、たぶん、そういうことであろう。

 「怪談」が倫理と一体化しているかどうかは、その作品が書かれた時代の精神を反映しているというので、「鏡像としての」となるのであろう。しかし『雨月物語』の不安定さが、その時代の怪談の論理(ろんり)を反映しているかといわれれば、どうなのだろう。

 『伽婢子』と『雨月物語』の比較論としてなら木越氏の切り口は非常によくわかるのであるが、それを、文学史の線路に載せようとすると、やはりその線路は、「近代」という到着駅をめざすものになってしまう。そこに違和感を感じる。

 ただ、木越氏の今回の論は、そうでありながらも、「近代」がよりレベルが高い文学性を有するという見方からは脱却しているように思う。
 
 
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする