2014年09月29日

ロバート・キャンベルさんの特別講演

キャンベルさんが関西に講演にいらっしゃる。
家人の企画でもあり、ここで紹介させていただく。

大手前大学大学院20周年(大手前学園70周年・大手前大学50周年)記念、「第17回大手前大学比較文学会」特別講演の講師として。日時、演題などは下記の通りである。

講師 ロバート・キャンベル氏(東京大学大学院総合文化研究科教授)
演題 復興の先にあるもの 都市災害と日本文学の関連をめぐって
日時 平成26年11月21日(金) 15:30〜17:00 (開場15:00)
会場 大手前大学 さくら夙川キャンパス A棟4階 A44教室
参加費 無料 定員300名
申し込みが必要である。webの場合、http://www:otemae.ac.jp/
くわしくは、こちらをご覧いただきたい。
告示後1週間程度で100人以上が申し込んでいる由、定員になり次第受付終了となるそうである。したがってちょっと早い案内ではあるが、このタイミングであげました。
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2014年09月27日

それはSMART-GSというソフトです。

 ひとつ前のエントリーに反響が続々である。
 手書きで書かれた文献の画像のある文字をマークして、それを画像上で検索するシステムは、SMART-GSというもので、これについては今月出た「人文情報学月報」37号に、名古屋大学の久木田水生先生と、京都大学文学研究科博士後期課程の橋本雄太さんが、紹介・解説を書いている。私が古地震研究会で出会ったのは、この橋本さんである。すでに海外でのポスター発表もされ、反響を呼んでいるということであるが、日本文学関係者にはあまり知られていないだろう。
しかし、知っている人は知っていた。すでに研究仲間二人から、そういうメールが来ている。名古屋大学では久木田先生による使い方講習会も行われているという。
 こういう情報はどんどん拡散しましょうということで、早速ここに書いている次第。今日は取り急ぎここまでである。
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2014年09月26日

古地震研究会の方々、くずし字を読む

 昨日の夜、京大理学研究科の中西一郎先生が主宰する古地震研究会の「夏合宿」初日に、講師として参加し、「写本と板本」の演題で、江戸時代の本の見方についてしゃべってきた。もともと中野三敏先生が依頼されていたのが、九州からはちょっと遠い、飯倉が近くにいるからということで、私が出動することになった。この研究会では、歴史的地震を研究するために、安政地震のルポのひとつ『安政見聞録』(板本)や善光寺地震の「被害御届」などの写本を読んでいる。初日も13時から20時ちかくまで、7時間ぶっ通しでの研究会。私が到着した時には、みんなで版本を読んでいて、私が入ってきたのにも気づかないほどの熱心さである。中野先生の『和本のすすめ』も、読んでいらっしゃる。私も18時から予定を10分ほどオーバーして70分ほどしゃべったが、みなさん非常に熱心に聞いてくださり、質問も次々に出て、30分くらい質疑応答の時間があった。
 
 善光寺地震のテキストは、たまたま京大にある本を使っているんだろうな〜、と思っていたのだが、どうしてどうして、古書店でいくつか資料を入手して、複数の資料を参考にしながらよんでいるところなど、なかなか本格的である。崩し字も板本程度なら読めるようだ。
 
 地震学の先生、防災学の先生、気象研究所の先生、ガリレオの専門家である科学史の先生、人文情報学の院生など、まさに異領域融合の研究会で、そのあとの懇親会でも、興味津々の話が続出。最近、少し考えている「くずし字解読学習支援ソフト」などが、結構実現可能であるという感触を得たし、たとえば版本で「地震」などという言葉をマークすると、同じ字体を検索して、その行を切り出し、ずらっと並べてくれるようなフリーウェアを、参加者のひとりが作っている!ことがわかり、驚嘆した次第である。デモしてもらったが、このソフトはすごい。まだ僕らが扱うにはちょっと難しいかもしれないが、いつか国文研とか学会とかでプレゼンをしてもらうといいのではないかと思った次第である。
 
 久しぶりに、異分野の方ばかりとの懇談で、血のめぐりがぐーんとよくなったような気がする。これで終わらせたくないな、と心から思った。
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2014年09月23日

西鶴の授業をやるので、中嶋隆さんの概説を読んでみたら、これが

 後期に西鶴のテキストを読む授業を行うということで、西鶴研究の最新の入門書はなんだっけ、と改めて書棚を見ると、『21世紀日本文学ガイドブックC 井原西鶴』(中嶋隆編、2012年)が目に入る。このなかの執筆者のおひとりである森田雅也さんに送っていただいたものである。一通り目を通したつもりだったが、総論や研究史概説などは、この時の関心からして、読んでいなかったようだ。それを執筆しているのは編者の中嶋隆さんである。

 で、「西鶴研究案内(浮世草子)」と、そっけないタイトルで書かれている研究案内のなかの「西鶴浮世草子の研究動向」なる文章が、唸るくらいにユニークなのである。「私の意図しているのは、研究事象の羅列ではない」「客観的な研究史があるわけでなく、ここで叙述するのは私自身の通時軸に基づいた研究史である」と言い放つ。この中で私がユニークだというのは、野間光辰の小説観を「「私小説」に偏向しているのではないか」と指摘したり、中村幸彦の学問を「フォルマリズムさながらに文芸史の動因を新旧様式の相克として把握している」点に現代的意義を認めたり、谷脇理史の学問を、対暉峻との対比で分析し、そのエピゴーネンの輩出と限界につき、正確にその問題点を指摘していることである。中でも「作家論」には研究者の人間観が反映するという指摘は思わず膝を打ってしまう。

 それに「総論」がまた大胆である。ほとんど俳諧と好色物だけで総論としてしまう。そこが本質だとみているからで、全体を論じるのではなく本質を論じればいいという考え方だ。中嶋さん得意のメディア論を視座として、俳諧から「好色物」浮世草子へ至る道のりを解説するが、概説の域を超えたハイレベルな論である。そして、その中に数々のキラリと光る文学史の見立てがある。たとえば、「図式的にいうと「仮名草子」の作者・読者は上・下の関係にあり、『好色一代男』の場合には、作者・読者が水平関係にある」とか。こういうのがあちこちにみられる。なんとなく中嶋西鶴というのが(私の中で)見えてきたように思う。やっぱり西鶴は早稲田のお家芸なんだなあ。

そういえばこのシリーズ、芭蕉は佐藤勝明さんの編で、佐藤さんの総説がまた、すごい力作だったことを思い出す。もしかすると「野心的な総説・概説を」などという編集方針があるのか?
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2014年09月22日

政財界人と文学

HSNネット(阪神奈大学・研究機関生涯学習ネット)という、生涯学習提供の組織があり、今年で17回目の「公開講座フェスタ」が始まる。そのパンフレットを見ていると、大阪大学・適塾記念会からは、合山林太郎さんが出講するらしい。
 で、どんなことを、と見てみると「政治家・企業人の自伝から近代日本の文学を考える」というタイトルであるが、内容紹介によれば、日経新聞『私の履歴書』などの自伝・伝記資料を網羅的に調査し、近代日本の政治家。企業人と文学との関係―彼らがどのような古典作品や近代小説を読み、そこから何を得たのか―について考察するということ。これはなかなか面白そうである。
 よく、思いつくなあ。いろんな政財界人のことなどが思い浮んでくるのだが、どういう人のどういうデータが出てくるか興味津々である。これは是非活字でも報告してほしい。
 なお、講演は、11月10日(月)10:30〜12:00。場所は大阪府新別館南館8階研修室(地下鉄谷町4丁目1ーA出口すぐ)である。申し込み方法は、インターネットの場合、こちらへ。全部で20ある講座内容もここでわかる。1講座につき500円の受講料が必要。
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2014年09月19日

コレモ日本語アルカ?

 ずっと前から気になっていた。長嶋茂雄監督や星野仙一監督、野村克也監督の談話が、新聞のスポーツ欄に短くまとめられてたりすると、長嶋監督のは「いわゆるひとつのチョーさん語」になっちゃうし、星野監督のは、「と憤然としていた」なんてなるし、野村監督はいつもボヤイている。ちょっとヤリスギじゃないかって。
 こういう私の疑問を、スカッと解いてくれたのが金水敏先生の「役割語」という概念だった。この「役割語」という概念は、この十年ちょっとで、またたく間に拡がり、メディアでも取り上げられ、役割語の辞典まで作られるというありさま。すばらしい。
 役割語研究の聖典ともいえるのが『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店)であるが、このたび、「そうだったんだ!日本語」シリーズの1冊としてでた『コレモ日本語アルカ?』(岩波書店、2014年9月)は、そこで少しだけ出てくる、いわゆる「アルヨ」言葉に絞って解説された本である。この調子なら、すぐに十冊くらいは、役割語の本が出来そうですね。
 ニセ中国語である「アルヨ言葉」の使い手として、藤村有弘・ゼンジー北京の名前が出ていたのには懐かしかったアルヨ。今の若い人は知らないだろうねえ。金水先生ノ本ネ、トテモ面白イカラ、買ウ、ヨロシイ。
 
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2014年09月18日

新しい日本漢詩史へ

 9月初めの5日間、A国のH州H美術館でR.L文庫目録作成のための調査をさる科研チームで行った。L文庫は、膨大な数の絵画・絵本のコレクションであるが、実はそこに、一定の量の「絵なし漢籍」がある。「絵なし漢籍」などというジャンルはもちろんないが、L文庫の中では、その分類が不自然さを感じさせない。今回宮崎修多氏をリーダーとする日本漢学研究者3名が、その山を整理した。流石の手腕と目を見張った次第だが、その時、宮崎氏が韓国で行われた古文辞に関するシンポジウムの話を熱く語ってくれた。その時彼が話したものが韓国で出版されたということで、抜刷も頂戴した。「日本近世中期にける古文辞の受容と流布に関する検討―徂徠研究を俯瞰して―」(『漢文學報』30、2014年6月)である。
 
 近年の徂徠研究が、丸山真男の『日本政治思想研究』における徂徠評価を批判する流れになっている現状を指摘するとともに、それらの丸山批判も結局は、徂徠に「近代」を見出せるかどうかという問題意識を持つという点で、丸山の呪縛を免れていないと指弾する。
 
 その呪縛から離れて、なぜ擬古があれほど流行したのかということを改めて考察した時に、「個性」とか「近代性」とかとは違う物差しが必要であることが示唆され、また、文学史的に、「清新論的文学観lが主流とされているはずの近世後期に、古文辞で作詩する有力詩人がかくも多く、それは明治期の漱石にも連なることが多くの事例をもって証される。これは合山林太郎氏の近著でも同様のことが指摘されていたと記憶する。
 
 「擬古」という意識で説明するのではなく、古文辞でもってどんな心も表現できるという考えで、藤原定家の『詠歌大概』の「情、新を以て先とし、詞、旧を以て用ふべし」に基づいているのではないかという可能性を述べる。なぜなら徂徠が、古文辞の総帥である李・王に先んじて定家は既に李王の奥義を会得していたと述べているからである。

 結局、模倣から個性へという日本近世漢詩史の図式は、近代化というモデルにあてはめたもので、実際は、格調主義と清新主義の双方に傾斜する模索を繰り返しながら、それらが並行して詩史を作っているというのが実態ではないかと提言している。
 
 丸山批判から、丸山を軸にした議論そのものの相対化へという新しい流れが来ているようである。宮崎氏も引用する高山大毅氏や合山林太郎氏の最近の論も、その流れのひとつなのだろう。
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2014年09月17日

田中康二『本居宣長』

田中康二さんの『本居宣長』(中公新書、2014年7月)。2か月前に出た本であるが、ここ2日の移動読書で読了できた。本居宣長を論じた著書といえば、いい意味でも、悪い意味でも、アクの強い、つまり著者の個性が強く出たものが多い。小林秀雄『本居宣長』しかり、吉川幸次郎『本居宣長』しかり、相良亨、子安宣邦…。私などは学生時代に相良亨氏のものに影響を受けたものだ。しかし、国文学者で本居宣長の全体像を論じた本というのは、案外少ないのである。山下久夫さんの『本居宣長と「自然」』はそういう意味で貴重であるが、私が初めて公に書評をさせていただいたご著書でもあり、想い出深い。また百川敬仁さんの『内なる宣長』もまた異色の宣長論である。田中さんも触れている岩田隆先生の業績は素晴らしいものがある。近年では杉田昌彦さんの『宣長の源氏学』がいい本だった。たしか賞を受けられたと思う。

 そこで田中さんの本である。まえがきに、宣長はこれまで思想史研究側と文学研究側の両方からアプローチがあったが、いずれもどちらかに偏ってより、総合的な宣長像が描かれていないので、その両方をふまえた宣長の本を書こうとしたということが書かれている。とはいえ、平板な伝記的紹介になるのを避けるために、論語の、十五にして学に志、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして命を知る…、にならって、20代、30代、40代、と10年ごとに宣長の人生を区切って、それぞれにテーマをたて、それを以て章立てにするという、ユニークな方法を取ることにしたという。20代は、契沖を通じて日本古典研究を知り二条家和歌を学んだこと、30代は真淵と出会い、そして「物のあわれを知る」の説をたてたこと、40代は古道を学ぶ者としてのアイデンティティの確立、50代は論争の季節、60代は学問の大成と、おおむねこのような見取り図である。

 引用文には必ず現代語訳を付す丁寧さで、一般の人にもわかりやすく宣長の学問形成を説いてゆく。やはり、文学研究者としての宣長の側面の方に比重が大きいとみる向きもあるかもおしれないが、私はバランスよく叙述されていると思う。もともと、思想と文学とか、研究と創作というふうに分けることができないのが当時の学芸のあり方であるからだ。個々の説明では、「物のあはれを知る」の説の解説がわかりやすい。いままでの宣長の本に比べれば、ちょっとおとなしいかもしれないが、宣長入門として位置付けるならば、好適な本であると評価できるだろう。
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2014年09月14日

近世刊行軍書論

井上泰至さんの博士論文である『近世刊行軍書論―教養・娯楽・考証』(笠間書院、2014年9月)が刊行された。多くの著書を刊行してきた井上さんだが、彼の本来の領分は軍書研究である。それも、すべての軍書を網羅的に調査・通覧するという基本的な作業の上に論を構築する手堅いものであり、そういう点において他の追随を許さないところがある。

本書はそういうわけで、「日本近世文学史」「日本近世小説史」からも「日本近世思想史」からも、圏外扱いされてきた、「刊行軍書」のリストを挙げ、これを通覧し、史的展望をした、前人未到の画期的な研究書である。しかも、その史的展望は、鋭く文学史へ切り込んでいる。

本書の基になった各論文は、その都度氏に送っていただいたもので、既読のものだが、それらにも相当修訂増補が施されているし、何よりこうして一書になることで、氏の、軍書を視点とする文学史の構想が大きく姿を現すのである。17世紀の軍書論から西鶴武家もの論への展開、18世紀の軍書論から、初期読本(庭鐘・秋成)論への提言は、異論を差し挟む余地もあろうが、傾聴すべきものである。

本書は軍書に関する専著であるにとどまらず、ひとつの「日本近世文学史」たりえているのだが、それを可能にしたのは著者の間口の広さ、周到な目配りである。とりわけ、研究史への行き届いた目配りにはいつも感心させられる。文学研究だけではなく、歴史研究、思想史研究など広く見渡している。

なによりいいのは、面白いということである。堅実な調査・考証を柱としながら、スリリングに展開する筆力は、ここ10年の一般書を含む多くの著書刊行によって培われたものかもしれない。

私事ではあるが、「奇談」研究と通底する面があり、何度も共感を覚えつつ頁をめくったことであった。大急ぎで通読した印象を記したが、今後何度も読み返すことになる一書である。
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2014年09月12日

索引のない文献目録

長いこと更新していない間に、いくつも本が出た。
短い紹介になってしまうが、最近のものから遡る感じで、少しずつ触れていきたい。
まずは、手にしたばかりの、鈴木俊幸さんの『近世・近代書籍研究文献目録』(勉誠出版)。
1997年に、ぺりかん社から『近世書籍研究文献目録』を、2007年にその増補改訂版を出されたが、わずか7年にして、「その後の7年の増補分」を単行本化したら、これが600頁超。
鈴木さんの収集力には言葉も出ないくらい。
本文献目録の特徴は、なんといっても索引がないこと。あるのは目次だけ。電子版もない。つまり検索を拒否している目録ということである。「読む」「探す」楽しみを再認識させてくれる、アナログ系目録なのである。
とにかく何度でも脱帽。
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