2014年10月29日

近代文学研究者も「くずし字」は読めなければなりませんね

天理図書館で、開館84周年記念展の「手紙」が開催されている。
ありがたいことに観覧する前に図録を入手できた。
京博の秋成展で天理図書館に出品をお願いしたご縁などがありまして。
藤原定家、後花園天皇、伊達政宗、西鶴、芭蕉、蕪村、宣長、秋成、馬琴と、ほかにもまだまだ有名な人物の自筆の手紙が並ぶ。
近代も壮観で、鴎外、漱石、子規、一応、啄木、谷崎 熊楠、蘆花…。
これは見に行きたい。
見逃したら、来年の春に東京で多分やってくれるだろうけど。天理ギャラリーで。

で、この近代の人たちの手紙であるが、くずし字解読能力のある人でないと、ちょっと読みにくいだろう。
本物の研究をしたい近代文学研究者の方には、是非「くずし字」ぐらいは読めてほしい。

活字にすると抜け落ちてしまうニュアンスってのもある。筆勢とか字の大きさとか、書きぶりの丁寧さとか。
だから「くずし字」、読めなければなりませんね。
手紙に限らず、多分ある作家の自筆稿本やノートや日記がごそっと出てきた場合、昭和前期以前であれば、くずし字解読能力の有無によって、その資料の扱いが全然かわってくるでしょう。それを扱わない作家研究というのはありえないですよね。

今、有志で進めようとしていることのひとつに、外国の日本研究者や日本文学領域以外の方々が学びやすい、くずし字学習プログラムの開発というのがある。そういう方々を対象とするのは、彼らがくずし字解読に関心を持っているからである。まだまだアイデア段階ではあるが。
 近代文学研究の方にも、是非ご関心を持っていただきたいものである。
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2014年10月28日

注釈といえば、いまの学生の演習発表は。

古典研究は注釈にはじまり、注釈に終わる。鈴木健一氏の著書でもこの言葉が引かれていた。
大学での古典文学の学びの中で、最も重要なことのひとつは、注釈の方法・意義を学ぶことであろう。しかし、その内実は、この十数年で劇的に変わった。

我々の学生のころは、
日本国語大辞典を研究室の机の上に20冊ならべて、調べる語彙をシコシコとノートに写す。これで数日かかる。
次に用例探し。ネットはもちろんないし、国歌大観も旧版しかない。用例探索の工具書といえば、古事類苑、広文庫、日本随筆索引、古典大系の索引などなどで、洒落本の演習となれば、洒落本大系(当時大成は未刊)をとにかく読む、西鶴の演習となれば、定本西鶴全集をとにかく読む、和歌の演習となれば、国歌大観を引いたあとは、とにかく私家集大成を読む。この用例探しで何日も何日も費やしたのである。そして出てきた時の喜び。

今はどうであろうか。ジャパンナレッジで一瞬にして出てきたものを、つつーっとコピペ。角川古語のCDROMも一応確認。論文は国文研の論文データベースで探す。
韻文の用例は、国歌大観・私家集大成ついでに俳文学大系まで、まとめてWEB検索。
用例は、とりあえず小学館の新編古典文学全集なら、検索をかけられる。
原本で確認したければ、早稲田の古典籍のデータベースで。
参考の図像資料は、画像検索で。

3日もあれば、我々が2ヶ月かかって作った発表資料以上の、本格的で豊富で適切な資料を作ることができるのではないか?それなりにレベルの高い発表をすることができるかも。
WEBでひっかからなければ「ありませんでした」と断言するような学生は論外にしても、検索を上手に使って、器用に発表をこなす学生はいるものである。

日進月歩のWEB上でのデータ提供は、学生の方が詳しかったりして、もはや我々は習ってきたこととは違うやり方での演習に対応しなければならない。「○○は検索してみた?」「それを調べるには、これこれのデータベースがあるよ」などと、それが「ある」以上は教えないわけにはいかない。でもなあ。
 
 もちろん、検索というのは単なるスキルではない。頭のいい検索方法というのはある。ある意味、いっそうそこで差がつくことになるのかもしれない。しかし、注釈のスキルの大部分が「検索」になってしまう日が来るような気がしないでもない。その時に、注釈を旨とする演習とは、どれだけの「力」をつけることになるのだろう。それは全くの未知である。

 器用にまとめられた学生の発表を聞きながら、そんなことを思いました・・・。
 
 といいつつ、「授業資料の作成にあなたも同じやり方をしていませんか?」と自問の声が・・・。
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2014年10月26日

古典注釈入門

 鈴木健一さんの『古典注釈入門―歴史と技法』(岩波書店、2014年10月)は、日本文学を学ぶ全ての人にお勧めしたい好著である。想像以上に、わかりやすく、読みやすい。「古典注釈」の概説をこのように平易に書くのは、簡単なことではないと思う。学部や大学院の注釈を旨とする演習の入門編として、是非学生に読ませたい文献である。
 中でも、私は第一部「注釈とは何か」が優れていると思う。
 古典を読むときに、我々はどこかで違和感を覚える。その違和感を共感へと導くのが注釈の機能だと説く。鈴木さん自身が、『徒然草』の一文に共感することによって自分の進路を決めたという話も織り込まれる。
 全体を通して具体的な事例が適切で、しかも日本古典のスタンダードというべきものを挙げるので、古典注釈の入門であるとともに、日本古典への案内ともなっている。
 鈴木さんの著作でいつも思うのは、先行研究への目配りが行き届いていることである。50代になってくると、最新の論文をカバーするのが億劫になってくる(自分のことだ、反省!)ものだが、阪大の院生の論文まで引いてくれているのには、「ありがとうございます!」と思わず言いたくなる。多忙の中、常に研究者としてアンテナを張っていることが窺える。
 第二部の注釈史では、注釈のフォーマットに注目したところが、いい。季吟の注釈を、その観点から評価する。季吟の注釈は近世文学研究では漠然と「よく読まれていたので」という理由で引かれるわけであるが、なぜよく読まれていたのかということを考えると、このフォーマットが大きいことは確かである。近現代の注釈史も、これまでこのようなまとめはなかったので興味深く読めた。
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2014年10月23日

芭蕉展・後期

柿衞文庫の芭蕉展。俳文学会の2日目は、バス1台で研究者の方々が大挙して観覧に訪れたということで、こんなに柿衞に研究者が集ったのは見たことがありません!とは、学芸員Nさんのお言葉でした。

すでに展示は後期に入っています。前期とは全て入れ替えというのは本当でした。前期は最初に目に飛び込んできたのが「枯れ枝に」の芭蕉画くところの烏でしたが、今回は、「とうせいはせを」の仮名署名。ほかに、Nさんが俳文学会で発表した新出書簡群などなど、あ、芭蕉が写した「薗太暦」も展示されていました。2階には、芭蕉自筆でたどる奥の細道の特集、支考と芭蕉の関係を示す資料(芭蕉の遺言なども)、芭蕉の指導のうかがえる資料など、テーマごとに展示されていました。

そして岡田柿衞翁が収書のたびに記録していたノートや、その年度買い集めたものを番付仕立てにした一枚物なども実に面白かったです。

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2014年10月22日

芭蕉本人が語る奥の細道

佐藤勝明さんの『松尾芭蕉と奥の細道』の第二部では、芭蕉本人が旅の感興を語り、創作の意図を明かすというスタイルで書かれている。奇を衒ったわけではなく、限られた紙数で概略を記すのに熟慮して選ばれた方法だという。

当然、同時進行形ではなく、旅から数年経って振り返って語るスタイルになる。しかし、感興を記す部分は、現前の風景を前にした述懐っぽくなりがちだから、結構これは難しい方法だと思う。「我ながら効果的な配列」などと芭蕉が照れながら自慢っぽく語るあたりは、かなり苦労されているのではないか。

藤田真一さんの『風呂で読む蕪村』も蕪村が語るのだが、発句自解のスタイルがうまく機能していた。しかし、これらは一般書だが、かつて上野洋三先生は、堂々と論文でこのスタイルをとったことがある。「百年の交誼」という論文。選ばれて必然の語りの形式だったと記憶するが、学界時評でも取り上げられた。

また、木越治さんは、対話式のスタイルで春雨物語論を書かれたことがあり、これも斬新であった。西田耕三先生は書評でこのスタイルをとった。他にもいろいろ事例があるのだろうが、記憶しているところだけである。でも、もし査読付学会誌に、なりきりスタイルや、対話スタイルが投稿されたら面白いだろうな。そのスタイルがどれだけ必然的かが問われるのだろう。

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2014年10月20日

松尾芭蕉と奥の細道

週末の関西学院大学での俳文学会は、土曜日だけ顔を出した。日曜日には柿衞文庫の芭蕉展に、学会員が大挙して訪れたよしである。学会では柿衞文庫学芸員の根来さんの新出芭蕉書簡についての発表もあったから、より親しく芭蕉真蹟に触れられたのではないかと思う。

ところで学会で、大垣の奥の細道結びの地記念館の大木さんにご挨拶された。次の学会は大垣だそうで、それもあっておみえだったのかしらん。12月のことをよろしく、などと念を押されてしまった。身の程もわきまえず、芭蕉がらみで話をすることになっているのだが、もちろん、秋成の芭蕉観くらいしか話せないので、そのネタでいくことにしてはいるのだが。まさかここでお会いするとは。

それでというわけではないが、少し前に拝受した佐藤勝明さんの『松尾芭蕉と奥の細道』(吉川弘文館、9月)をまた披いている。時々この本を披いては気持ちを引き締めるのである。このごろ『芭蕉翁絵詞伝』を演習で読んでいるせいか、伝記の部分がしっくりと入ってくる。同時代人の伝記と現代の研究者の概説を並行して読むのはなかなか効果的である。この本は「人をあるく」というシリーズの1冊で、カラー写真が満載、
 内容は芭蕉の伝記、奥の細道の解説、奥の細道の文学散歩ガイドの3部構成である。文学散歩の案内も兼ねている。佐藤さんは結びの地記念館の総合監修者のお一人であるだけに、大垣の解説もなかなか親切に書かれている。とりあえず少なくとも12月の仕事が終わるまでは、この本は文字通り私の座右の書、いつもかばんに入れているのである。
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2014年10月17日

日本人のこころの言葉 蕪村

『日本人のこころの言葉 蕪村』(創元社、2014年8月)。
こちらは、蕪村研究の第一人者である藤田真一さんのご著書である。
このシリーズは、宗教者や芸術家の人々の名言を、その人物ごとに集めて解説する趣旨の本のごとくであるが、既刊では田中善信先生の『芭蕉』がある。江戸時代は今のところはそれだけ。
名句集のようなものは、これまでもあったと思うが(同じ著者による『風呂で読む蕪村』もそうであろう。ちなみのこの本は蕪村の架空の自句自注という形式が面白い)、書簡などからの抜粋がかなりのウェイトを占める今回のような本は、あまり類書がないかもしれない。句はないことはないが、きわめて少ない。「菜の花や」も「牡丹散りて」もありません。あ、本文中で言及はありますね。
しかし、蕪村の言葉はやはり面白いものが多い。池大雅を「平安之一奇物」と呼び、芭蕉について「三日翁の句を唱えざれば、口むばらを生ずべし」という。後者についてはこれが付句を集めたものであることから、翁の句とは付句のことを意味するという。付句を毎日のように唱えているというのも、一種の言葉の綾だとしてもすごいなあと、なる。「はいかいは、はいかい文と申物有之候」もうなる。「芭蕉去てそののちいまだ年くれず」を藤田さんが引かれるのは当然のこと。岩波から出された本の副題に採られている。
『奥の細道画巻』について「ケ様之巻物は、随分洒落に無之候ては、いやしく候て、見られぬ物に候」という心構え。
弟子の几菫については、「どうみても、我家之几菫ほどの才子はなきものにて候」。
と、引いていけばきりがないのだが、こういった蕪村の言葉の切り取り方の的確さというか、鮮やかさというか、それがさすがであるし、解説も平易な文章ながら、蕪村の特質を説いて余すところがない。
蕪村を好きな人には座右の一冊であろう。
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蕪村の四季

昨夜、ラジオを付けると、蕪村の講座をやっていた。
玉城司さんの、『蕪村の四季』である。
NHKカルチャーラジオのテキストを送っていただいていたのだが、このところの書類書きもあって、実はまだ拝読していなかった。木曜夜8:30から30分。昨日は第3回だったようである。

牡丹散りてうちかさなりぬ二三片

これは写実的な静止画では表現できない、時間の経緯を読み込んだ句である。
ビデオ映像的イメージ。けれど鮮烈で、この句を詠んだ誰もがそれイメージを脳裏で再生するだろう。
しかし玉城さんは、これを立句にして弟子の几菫と巻いた歌仙を紹介し、この句に恋の気分が隠されていると解説する。その脇は、

卯月廿日の有明の月  几菫

有明の月は、「後朝の別れ」を象徴する。この脇によって、蕪村の発句に隠された恋の気分が呼び起こされると。どういうこと? 
牡丹を「白だとみれば、重なり合ったうすぎぬの白い夜着、赤だとすればあでやかな緋色のうすぎぬの布団がイメージされます」。なるほどきれいで艶っぽいイメージですね。
このようにして、十一年前の作を立句にして遊ぶ師弟の「交響する魂」を描いてみせるのである。なかなか聞き応えがあった。
 
 明日は関西学院大学で俳文学会が開催される。久しぶりに顔を出そうかと思っている(午前は天王寺で「蛇性の婬」についてしゃべる勉強会があるが、そこから直行しよう)。学会2日めには柿衞文庫の芭蕉展見学も組み込まれている。2日めはちょっと行くのがむずかしそうだが。
 
 そういえば最近、連歌俳諧研究者の方から、立て続けにご本や論文をいただいている。
 そういうわけでこのあとも、俳諧関連の話題やいただいたご本の話題を続けましょう。
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2014年10月05日

枯れ枝に止まった烏は一羽なのか

芭蕉展に行き、最初に目に入るのが、かの有名な、「枯れえだにからすのとまりけり秋の暮」の句自画賛。ちょっとふっくらした可愛い烏である。
同行した、ドイツの最古の大学のA先生が、
「発句の翻訳でいつも悩むのは、単数か複数かの問題です」
とおっしゃる。
「これは一羽ですから、はっきりしてますね〜」
と言っていると、学芸員のNさん曰く、
「でも、芭蕉自筆といわれている別の自画賛では、烏がたくさん止まっているんですよ〜」
と。え?
「おい、芭蕉、どっちなんや!」
と突っ込みたくなるが、もし芭蕉が単数と複数と両方描いていたとしたら、これはとても面白いことになるのではないか?いろんな意味で。どう面白くなるのか?コメント欄に解答しなさい(って問題にしてみたりして)

補足。烏がたくさん止まっている絵の方は上手すぎるので芭蕉の絵じゃないというのが通説らしい。しかし賛をしているのは芭蕉だから、それでもいいと思っていたのだろうということ。ちょっと不正確な書き方をして申し訳ありませんでした。

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2014年10月04日

図録芭蕉

柿衞文庫の芭蕉展。  

 図録もぜひ入手しておきたいところである。
 今回は、圧倒的に個人蔵の作品が多い。ほとんどが軸装されている。
 ほぼ全ての作品で、その軸を掛けた姿、その全体像が載せられた。
これは図録には珍しいこと。
 所蔵者の芭蕉に対する想いも、この図録から読み取ることができるのである。

 他の所蔵機関から借りてきた場合は、なかなかそうはいかないのである。その所蔵機関のお持ちの写真を借りることになるので、本紙だけの写真になることが多い。
今回は、柿衞翁との交遊のあった所蔵者の方のご好意による出品が多い。だからそれが可能になった。
しかし、所蔵者は変わってゆく。次の機会には出品してもらえないかもしれない。表装が変わる可能性もある。したがって「記録」の意味も込めて、今回の図録は作られている。たとえ柿衞文庫であっても、全く同じ展示は二度とできないのである。

 今回の図録は俳諧研究者、芭蕉愛好家には、必携の図録なのである。行けない方は図録だけでもお求めになるべきである。研究室・公共図書館にも入れよう。
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2014年10月03日

聞きしにまさる芭蕉展

 今日、柿衞文庫の芭蕉展を観覧した。想像以上に素晴らしかった。
私の教え子である学芸員のNさんにギャラリー・トークをお願いして、たっぷり1時間あまり、堪能した。
まず、私の情報が不正確だったことをお詫びする。

 前半・後半で展示入れ替えが大幅に行われるということを申し上げたが、実は、全面入れ替え、つまり、すべて入れ替えだそうだ。全体を見るためには、明日か明後日ぜひいっていただき、来週火曜以後にもう一度お出かけいただきたい。それだけの価値がある展示である。
 
 なぜ、それだけの価値があるのか。今回、ここ30年で新発見、あるいは再発見された芭蕉自筆の資料がたくさん出ていることは言ったが、それには理由がある。故柿衞翁岡田利兵衛先生との特別な関係のある所蔵者の出品(つまり個人蔵)が多く出品されているのである。つまり、柿衞文庫だから出品を承諾した、岡田先生にお世話になったから出品するというものが多いというのである。ということは、この展示で見なければ、もう二度とみられないものが多くあるということである。Nさんも、「この作品は、もう二度とみられないでしょう」と解説を挟む場面がしばしばである。

 正直、こんなにすごい展示なのに、入場者が少ないのは本当に残念である。これは芭蕉あるいは俳諧に興味のある人なら、多少遠方からでも観覧に来る価値が十分にあるものである。しかも、展示にも工夫が凝らされていて、コーナーごとにテーマがある。今回の新資料で目玉のひとつである許六宛書簡に関わるいくつかのまとまった資料の展示は見ごたえがある。あるいは謡曲を前書にして、聴覚視覚の両方に訴えかける句世界をまとめたコーナーなど。後半も、別のテーマを立てての展示となるようだ。

 さて、展示とは無関係だたもうひとつ瞠目すべきことがあった。ちょうど岡田柿衞翁の御令嬢で、俳諧研究者でもある岡田彰子さんがお見えであった。私はハイデルベルク大学から阪大にお仕事でお見えの、アロカイ先生をお連れしたのだが、岡田先生は大喜びで、がんがん英語で話しかけるのである。「あのー、日本語でも十分通じますよー」と心の中で叫んだのであるが、その英語の堪能さにびっくりした次第。"Please come here often""I like to talk in English"など。ものすごく生き生きと話されていた。アメリカにしばらく住んでおられたそうである。後半の展示もまた楽しみである。
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