2015年05月17日

江戸文化辻談義

16日(土)、九州大学中央図書館で「江戸文化辻談義―中野コレクションから見えるもの」というテーマの講演会が行われ、中野三敏先生が「私の江戸学」(1時間)、私が「読本コレクションと談義本研究」(40分)、岩坪充雄氏が「近世拓本の世界」(50分)と題して、それぞれ講演を行った。
「雅俗繚乱」という秀逸な命名のテーマの下、中野先生が寄贈された雅俗にわたる珍書の展覧会が行なわれる中、充実した展示図録を手にした200名ほどの聴衆を前に、まずは中野先生が、みずからの雅俗観や、収書体験、和本リテラシーなど日頃からお話になっていることを、今回の展示にも触れながら自在に語られた。これぞ辻談義である。ついで私は、九大の読本コレクションの特徴と、中野先生の談義本研究の意義を中心に、今後の九大での談義本研究の継承を願いつつおしゃべりをした。トリの岩坪氏は、豊富なスライド資料を用意され、法帖の版木や、同一人物同一筆跡の書の正面摺と左版を比較して見せるなど、興味深い事例を次々に紹介し、文字通り「近世法帖の世界」を堪能させてくださった。岩坪氏とは今回初対面だったが、同じ新幹線で福岡入りし、同じタイミングでトイレに行き、同じタイミングで到着したが、互いに挨拶したのは図書館到着後であった。
 聴衆はやはり中野先生のご講演の時がマキシマムだったかと思うが、とにかく遠方から多数の方が来聴されていたのには驚いた。
 各講演後にはトークセッションが行われ、「中野先生にききたいことは?」という進行役川平敏文さんの振りがあったので、先生が「江戸に即して江戸を学ぶ」ということから学んだ現代を生きるために指針というのはなにかとお尋ねしたのだが、答えは意外といえば意外、「倫理観」だった。

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2015年05月15日

『春雨物語』私論

秋成研究の話題が続く。
矢野公和氏が、『『春雨物語』私論』(2015年5月)を上梓された。
『雨月物語私論』の時と同様に、私家版として岩波ブックセンターから出されている。
『春雨物語』論の研究蓄積はたいへんなものだが、『春雨物語』論の単著は、以外に少なかったのだが、高田衛氏、風間誠史と最近になって、続けざまに出ている。
矢野氏は、『春雨物語』を秋成の文学的苦悩の結果とみて、たとえば諸本の多様性を、作者の狂おしい有り様を映すものと見ておられるように、きわめて真摯に作品に向き合っておられる。
「私論」というように、矢野氏自身がこの春雨論に濃厚に映し出される。それはご本人もよくわかっておられるようである。このような『春雨物語』の精読体験が、いくつも書かれるようになって、ようやく『春雨物語』は『雨月物語』と並ぶ古典となるのだろう。
だが一方で、諸本の多様性の意味を、文学性云々を離れて考えてみることもまた近年の春雨研究の課題となっている。ここにも多くの人が参集して議論に加わっていただきたいものである。
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2015年05月13日

『秋成 小説史の研究』書評

『日本文学』2015年5月号に、高田衛著『秋成 小説史の研究』の書評を載せていただいた。
この研究書は、高田衛先生の秋成研究の集大成、ではない。「本音の秋成論」というほうが正確だろう。
「見えない世界」を希求する高田の研究方法は、「見える世界」のみから「実証」できることをのみ明らかにしてゆく「実証主義」と違って、想像力が必須なのである。
 前著『春雨物語論』においても、その方法がとられていたが、今回の本はそれがあからさまな主張となっている。いわば異形の文学史研究である。
 なぜ、秋成を論じることが小説史の研究なのか?私の書評はこの問いを立て、それを解くことで終わっている。
 この書評は、今思えば高田先生に宛てて素直に書いたものだ。書名は中村幸彦の『近世小説史の研究』を意識したものではないかと私は書いたが、それはひとつの見立てである。今の近世文学研究主流への異議申し立てであり、苛立ちであり、そういう「憤り」が表出したものが、この本なのである。断っておくが決して中村批判だと言っているのではない。中村の方法を権威として盾に取り、無反省に「実証」論文を書き続ける研究者たちへの「憤り」である。
 きょう、著者自身から、本書評へのコメントを葉書でいただいた。そこには吃驚するようなことが書いてあった。私は高田衛先生の本の書評をさせていただくことの幸せをかみしめた。葉書に書かれているきわめて文学的な言葉は、当たり前だが、私だけに向けられた言葉であり、一般性はない。私だけが受け止めればよい言葉である。秋成たちの時代に文芸が個人と個人をつなぐ絆のようなものであったことを私は思い出していた。
 秋成研究の前線にいる研究者は、それぞれ相容れない方法で研究しているが、互いにそれを理解しあい、リスペクトしあっているというところがいい。それが秋成研究をやってきて本当によかったと思う最大の理由である。
 
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2015年05月06日

『雨月物語』は「不安定な怪談」か?

 『上智大学国文学科紀要』32号(2015年3月)は、木越治氏と三田村雅子氏の送別記念号ともなっている。
同号に掲載される木越治氏の「『雨月物語』論―不安定な怪談―」は同氏の「怪談の倫理―鏡像としての『伽婢子』・『雨月物語』―」(『文学』2014年7・8月号)の続編にあたるもので、『雨月物語』を「不安定な怪談」として読む木越氏の、「浅茅が宿」論に続く第2弾、「菊花の約」論である。

 物語の中心人物が、物語の結末にいたって居場所がない。木越氏はとくに末尾の一文についての違和感を、現代のさまざまな「菊花の約」現代語訳を通して、多くの現代の読者がこれを共有していることを述べ、「はげまされた気分になった」という。
 
 私がこの論文を読んで、さすが木越氏だと思ったのは、その囚われない発想がいまなお健在だからである。そして、もうひとつは、専門家を相手にしているのではなく、『雨月物語』の読者に向けて書こうとしているからである。さすがに、現役の大学院生がこのようなスタイルで論文を書いて学会誌に投稿することはなかなかむずかしいとは思うが、今後の日本文学の論文のあり方に一石を投じる書き方であることは確かだ。

 もちろん、「菊花の約」論を一応書いている私としては、「菊花の約」は現代人が読めば不安定であり、末尾の一文にも戸惑いを感じるだろうことは同意するが、江戸時代の読者の立場からすれば、この作品は不安定な作品ではなく、末尾の一文もきちんと機能していると読める(私の説は、『上田秋成―絆としての文芸』に一番簡潔にまとめているので、よかったらご参照ください)ので、本論の具体的な読みには賛成しない。

 しかし木越氏の提起している問題は、そういう一作品論に収まることではないことはよくわかっているつもりである。その提起の仕方の大胆さに、敬意を表するものである。

 秋に出版予定の『上田秋成研究事典』(仮題)における、木越氏担当の「菊花の約」研究史が楽しみである。もし木越氏が拙論を批判してくださるのであれば、非常に嬉しい。無視されるのであれば、まだまだ認められていないんだなと知らされて、もう一度奮起すると思う。いずれにせよ早く読みたい。

 

 


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2015年05月05日

名書旧蹟

 国文学研究者にとって本についてのエッセー集を出版するというのは、ささやかな夢ではないか?
 読んだ本であれ、蒐集した本であれ、調査した本であれ、それについてのエッセイを一書にまとめる、というのは、やはり研究者として、立派な仕事をした人だけの特権であろう。
 そういうエッセイ集は、書名や装丁にもひと工夫がなされているのが普通であろう。
 井上宗雄先生の『書架解体』、松野陽一先生の『書影手帖』、横山重先生の『書物捜索』、中野三敏先生の『本道楽』。やはり、著者らしいネーミングなのだ。
 私の先輩であり、源氏物語研究者として知られる田坂憲二さんが、このたび日本古書通信社から、本についてのエッセイ集を刊行した。2015年3月。名づけて『名書旧蹟』。巧い。ずいぶん前から温めていた書名だそうである。
 その中身は、中古文学関係のものが多いだろうと思われるかもしれないが、知る人ぞ知る。いやもう有名か。田坂さんは、近代文学にも造詣が深く、今回の本は、むしろ近代文学の全集、文庫本などの話題が多い。
 川端康成や村上春樹、フィッツジェラルドの本の話題なども。『ノルウェイの森』の冒頭のパロディもある。かつて研究室で何年も一緒にいた先輩が、こういう読書歴・蒐書癖があったのか、と頁をめくるのが楽しくなる。
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若冲「乗興舟」のよみとき

日本の絵画には、漢詩や和歌が着賛されているものが多い。

4月からはじまった大阪市立美術館の肉筆浮世絵展でも、著名な文人が賛をしているものが少なくなかった。図録の解説を見ると、全てではないが、結構、賛についても言及しているものが多い。近年の展覧会では、賛についても解説をしてくれているケースが多くなったのはありがたいことである。できれば図録だけではなく、キャプションにせめて着賛者の名前くらい出しておいていただければと思う。

我々は、江戸時代の、文芸や書画やその他の芸術に関わる人々の繋がり方という視点から作品を捉えることが多いので、なぜこの人のこの画にこの人がこの詩を賛として書き付けたのか、それが全て説明されることを、欲張りだが願っている。しかし、賛の説明はあっても、そこまでの説明がなされることはなかなかないのは、仕方ない面もある。美術史研究と文学研究の越境的な研究の場が、ますます必要なのだろう。

 『芸術新潮』4月号(新潮社)、池澤一郎さんの「《乗興舟》における詩と画の交響」は、若冲の《乗興舟》の「全よみとき折込」を謳っているが、如上の意味において、十分に楽しめる解説であった。中野三敏先生が、『江戸狂者傳』のカバーに使った『乗興舟』を、ここまで丁寧に読み解いたものは、これまでなかったのではないか。伏見から天満橋までの船旅を画と詩で描いた本作品の魅力を、とくに大典の詩がなぜ必要なのかを説きつつ、教えてくれる。
 
 これを読むと、やはり漢詩文が読めないと、ダメだなと、あたりまえの事をあらためて認識させられるのである。


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薩摩藩士の編んだ先賢漢詩文集

鹿児島県史料集(54)『通昭録』(3) 鹿児島県立図書館編。2015年3月。
得能通昭という、江戸時代中期の薩摩藩士が、文章や法規をまとめた『通昭録』という史料を、鹿児島県立図書館が刊行しているが、その巻19から28(藻彙編1〜5)は、先人の漢詩文を集めたもの。漢文284編、漢詩141首を含む。
室鳩巣・河口静斎・雨森芳洲・太宰春台・南浦文之が20編以上収録された作者。多くは版本に収録されたものだが、そうでないものもあるらしい。
薩摩藩で学ぶべき漢詩文の手本ととして読むことができるようで、江戸時代の漢詩文観のひとつの事例としてきわめて有用であろう。B5判2段組200頁超。鹿児島大学の丹羽謙治さんのご労作。
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2015年05月04日

わがせしがごとうるはしみせよ

井口洋先生の「案内しつてむかしの寝所―『懐硯』解析」(『かがみ』45号、大東急記念文庫、2015年3月)は、『伊勢物語』24段を典拠とする『懐硯』巻1の4の作品論である。
 この論が異色なのは、論文の過半を『伊勢物語』24段そのものの解釈、それも「あづさ弓まゆみつきゆみ年をへてわがせしがごとうるはしみせよ」の和歌解釈、そのなかの「うるはしみす」の解釈に費やしているということなのである。
そのしつこいくらいの考証は、しかし西鶴も井口先生と同様の『伊勢物語』解釈をしたのか、という当然の疑問をうむ。その一番の隘路を通り抜け、『懐硯』論に戻ってくる展開は、大技といおうか、手練といおうか、ちょっと真似のできない芸当であろう。
 かくして導かれるのは、『懐硯』が『伊勢物語』の「こよひこそにゐまくらすれ」の未遂を既遂に翻し、その時の女の心の機微に触れたという読みである。その読みが劇的にたち現れる手続きが、この論文のキモではないか。久しぶりに「読み」の面白さを堪能した論文。
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雅俗繚乱―中野三敏江戸学コレクションの世界―

 九州大学在学時代、どういうジャンルの演習であれ、調べていくうちに、この本が原本で見たいというのがあり、そんなとき中野三敏先生にお伺いすると、「それは僕のところにある」というお答えがかえって来るのが常であった(原本のみならず、研究書でもそうであった)。
 先生のご蔵書の多くが、九州大学に寄贈され、「雅俗文庫」と銘打たれて、整理が進み、このたび本格的な展示が九州大学図書館で行われることとなった。川平敏文さんをはじめとする関係者のご尽力に敬意を表する。
 展示期間は短いので、お近くの方、お見逃しなく。
 
 さて、展示にちなんで、講演会が開催される。恐れ多いことに、お招きいただき、中野先生のご講演に引き続いて拙い話をさせていただくことになった。まことにありがたいことで、川平さんに厚く感謝申し上げる次第である。

 情報はこちらにあるが、ここにも貼り付けさせていただく。

平成27年度九州大学開学記念行事・第56回附属図書館貴重文物展示
「雅俗繚乱 ―中野三敏 江戸学コレクションの世界―」

 九州大学は、江戸文学研究の第一人者で、本学名誉教授の中野三敏氏の手により蒐集された 明治期以前の書籍を受け入れ、 「雅俗文庫」と名付けられました。「雅」とは伝統文化で、和歌・漢詩・擬古文の類、「俗」とは新興 文化で、俳諧・川柳・小説の類を指します。「雅俗文庫」は、この双方の融和こそが江戸文化の神 髄という氏の文化観が反映された、約6,000点にのぼるコレクションです。今回の展示では、雅俗文庫を中心に約70点を展示します。



【会 期】平成27年5月11日(月)〜5月18日(月)
【開場時間】10:00〜17:00 ※16日(土)のみ18:00まで開場
【場 所】九州大学中央図書館 2階特設会場(箱崎キャンパス)
                          (福岡市東区箱崎6-10-11)
※入場無料。一般の方も観覧できます。
【主 催】九州大学附属図書館


■ 関連講演会 ■

「江戸文化辻談義――中野コレクションから見えるもの」  

【日    時】平成27年5月16日(土)13:00〜17:00
【場    所】九州大学中央図書館 4階視聴覚ホール(箱崎キャンパス)
                        (福岡市東区箱崎6-10-11)
  ※入場無料・申込不要。一般の方も参加できます。
【プログラム】
 13:00〜14:00 中野三敏氏(九州大学名誉教授、2010年文化功労者)
             「私の江戸学」
 14:20〜15:00 飯倉洋一氏(大阪大学文学研究科教授・日本近世文学)
             「読本コレクションと談義本研究」
 15:10〜15:50 岩坪充雄氏(文京学院大学・日本近世書道史)
             「近世法帖の世界」
 16:10〜17:00 トークセッション 司会:川平敏文(九州大学人文科学研究院准教授)

以上である。
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劉菲菲さん

劉菲菲さんは都賀庭鐘の典拠研究の新たな地平を開きつつある。
学会でもいい発表をされたが、その後も次々と典拠研究の成果を発表している。
たとえば、『国語と国文学』2015年3月号の「都賀庭鐘『通俗医王耆婆伝』典拠考」。
この人の研究の根幹には、庭鐘へのリスペクトがあり、それがいい研究につながっているのだろう。
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