2015年06月29日

秋成忌

6月28日(日)に、6回目の秋成忌が行われた。
今回は、朗読・講演・講談・筑前琵琶演奏と、バラエティに富んだ構成で、3時間という時間を感じさせなかった。
近衞典子さんの講演「秋成と河内」は、まるで一緒に文学散歩をしているかのような感覚になれるくらい、多くのスライドを使用、秋成の河内滞在をリアルに体験できるように仕組まれていた。
旭道南海さんの講談は、秋成と妻のやりとりを軸に、「見てきたような」物語を紡いで見せた。講釈で秋成を語るのは珍しいが、それはむずかしいからでもある。しかし、流石に面白く料理していた。有難いことに、拙著『上田秋成』を種本に使って下さっていた。これでわが拙著、以て瞑すべしである。ありがたや〜。
いつもの常連に加えて、近衞さんのスライド操作の「助手」として福田安典さん、そして京都に戻ってこられた山下久夫さんの姿も。私は3年ぶりに参加したが、秋成忌、すっかり定着していた。89歳のご住職はますますお元気で、だんだん秋成陶像に似てこられたというのが、皆の一致した感想である。
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2015年06月26日

日本語学会で「うた」のシンポジウムがありまして、その報告が面白い。

笠間書院の『リポート笠間』が学界時評を終える代わりに、学会シンポジウムレポートを始めるという。
その第1弾のひとつとして、日本語学会のシンポジウムリポートを、浅田徹さんが書いている。
大阪大学の矢田勉さんの発案で、日本文学研究者と美学研究者を呼んで、「うた」についての議論をやったという。これを聴き損ねたのは、まことに残念だった。レポートを読むだけで、面白さが伝わってくる。
こちら
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国際的「くずし字教育」の展開へ向けて

 国文学研究資料館の歴史的典籍に関する大型プロジェクトのサイト。ページが更新された
 各種共同研究が紹介されているが、この中の、「拠点主導研究」のひとつをやっている。題して、「日本の歴史的典籍の画像データベースを利用した国際的教育プログラムの開発」。

 この共同研究は、私が代表を務める科研挑戦的萌芽研究とも連動するもので、さらには大阪大学文学研究科の「日本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築クラスター」とも関わっている。
 
 共同研究には3つの柱がある。ひとつは、海外におけるくずし字をはじめとする和本リテラシー教育の現状の情報を収集すること。ふたつめには、彼らのニーズをききながら、くずし字学習アプリを開発すること、三つめは、国文研の画像データベースを利用して、どういう和本リテラシー教育が可能かを議論すること、である。今後の日本学の国際的展開を念頭に置きながらの議論となり、海外の日本研究の方のご協力が欠かせない。
 7月31日・8月1日には、大型プロジェクトに関わる国際研究集会が国文研で行われるが、我々のチームに所属する方が発表し、私もディスカサントとして出ることになっている。

 また来年2月17日に大阪大学で国際シンポジウムを開催するが、そこでの議論を実りあるものにするために、目下、チームで議論を重ね続けているところである。この話題は、逐次本ブログで報告していくつもりだが、いずれこの共同研究のWEBサイトを発足させることになるだろう。
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2015年06月23日

いま、大学で何が起こっているのか

 『いま、大学で何が起こっているのか』は、名古屋大学大学院文学研究科の日比嘉高氏が、ご自身のブログに書かれた記事を基に、1冊のブックレットとして刊行されたもの。ひつじ書房から5月29日に初版が刊行された。
 名古屋大学文学研究科といえば、塩村耕さんがコーディネートしたシンポジウムの記録として『文学部の逆襲』という本が刊行されたのも記憶に新しい。
 今回の日比氏の本は、文学部擁護論とはちょっと違って、も少し広い範囲で大学の役割や意味を論じたものである。ブログの記事がネット上で大きな反響を呼び、それがきっかけで出版にいたった経緯が「あとがき」にかかれている。私もいくつかの記事をブログで拝読した。
 日比氏のスタンスはどちらかといえばリベラルに見えるが、文科省や保守系メディアを、ヒステリックに批判するような、ありがちな言説・議論ではなく、バランス感覚に優れている。大学関係者はもちろん、一般の方にも読んでいただきたいところが多い。

 ところで、たとえば6月8日付の文科省の国立大学への通知の中で、
「特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする。」
という文言があって、これを、文学部あるいは文系学部廃止論と見る観方も多いが、そうなのだろうか?
そもそも「社会的要請の高い分野」とはどういうものなのか?何をもって「社会的要請」というのかがわからない。国民に「大学に必要な学部とはどんな学部ですか?」というアンケートでもとったというのであろうか?「社会的要請の高い分野」とは、職業訓練的な実学の分野だという前提で議論がなされているようなのだが、教員養成系や人文社会系だって職業訓練的なことをいろいろやっている。それらは国立大学に必要であるという意見が結構多かったりしたら、どうなのだろうか。声の大きな人にそういう人は少ないのかもしれないが。地方の国立大学では、そのような社会の声を一度調査してみるといいのかもしれない。「社会的要請の高い分野」を単なる先入観で思い描くのは早計だろう。
 もちろん調査の結果がどうあれ、「社会的要請の低い分野」を「社会的要請の高い分野」に転換すべきであるという前提も、そもそも「大学」って何?という議論が欠けているのはまずかろう。
 と、私などもいろいろと考えさせられる、そういう切っ掛けになるブックレットである。
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2015年06月21日

秋成忌(第6回上田秋成を語る)

第六回 秋成忌〜上田秋成を語る〜
下記の要領で開催される。今年は盛りだくさんですね。

日時:6月28日 午後1時開演(午後12時30分開場)
会場:源智山 西福寺 本堂
料金:一般前売¥2,500(当日¥3,000)
   学生前売¥1,500(当日¥2,000)
演目:法要『秋成二百七回忌』高木正隆住職
   朗読『浅茅が宿』及川幸子(女優)
   講演『秋成と河内』近衞典子(駒澤大学教授)
   講談『我が道をゆく秋成先生
      〜本居宣長なんぞクソ喰らえ〜』
               旭堂南海(講談師)
   琵琶演奏『仏法僧』片山旭星(筑前琵琶奏者)

お問い合わせ・お申込は
ヘイ・オン・ワイ
TEL.06-6358-7857 FAX.06-6358-7860
メール akinari@g-how.net 
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2015年06月19日

大阪大学・チュラーロンコーン大学(タイ)日本文学国際研究交流集会

第6回大阪大学・チュラ―ロンコーン大学日本文学国際研究交流集会が開かれる。
タイのチュラーロンコーン大学文学部東洋言語学日本語講座と大阪大学文学研究科日本文学研究室が、このところ毎年開いている研究集会で、6回目になる。その成果も毎年冊子化されている。
今回は、タイ側が3名、日本側が8名発表する。
ちなみに私は開会のあいさつをはじめてすることになった。
詳細な内容はこちら
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2015年06月09日

書籍の宇宙

平凡社の「本の文化史」シリーズ、第2弾。『書籍の宇宙 広がりと体系』(鈴木俊幸編)。いいタイトル。そしてこの本、今すぐ読むべき本のひとつなだって思わせる、緊迫感と、ワクワク感と、必読書っぽさと、いろいろ味付けされていますね。序論「たまたま」の鈴木節。いいです。堀川貴司さんの漢籍概論、高木浩明さんの古活字論、この間講演でご一緒した岩坪充雄さんの法帖論、佐藤貴裕さん独擅場の節用集論、ホノルルでご一緒した記憶の蘇る柏崎順子さんの近世初期江戸版論、山本英二氏の領内出版物論、高橋明彦さんの藩版論、そして鈴木さんが再び草双紙論、磯部敦氏の東京稗史出版社論(知っている方が「さん」づけです)。このラインナップ。充足というより、やっぱりゾクゾクです。
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2015年06月07日

江戸文化辻談義がyoutubeにアップ

九州大学中央図書館で行われた「江戸文化辻談義」の講演会。
中野先生、私、岩坪充雄さん、三者のトークセッションの模様、九大のyoutubeにアップされました

いつも思うのですが、自分ではこんなにかん高い声だとは思っていないのですね。
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2015年06月06日

仏像修理技師 西村公朝

 私の住んでいる豊中市のお隣の吹田市には、山手の方に公園があって、その中の一角に市立博物館がある。初代博物館長であった西村公朝氏の生誕百年記念の特別展が開催されている。明日までである。
 入場料200円という展示であるが、ものすごくいい展示であった。
 大阪出身で東京美術学校で学んだ西村公朝氏は、美術教師を経て、仏像の修俚の専門家となり、妙法院三十三間堂の千手観音をはじめとして、日本全国の多くの仏像・神像の修復を行った。自身も得度して天台宗の僧侶となった。また仏像制作も行い、画も書いた。戦争に従軍していたとき、行軍中にあまりの疲労で眠ってしまい、その時多くの壊れた仏像の夢を見た。その夢の絵も展示されていたが、どこか飄味があるのがかえってよくて、見入ってしまった。その夢が一種の啓示となって、仏像修理に専念するようになったということ。
 今回の展示では、西村氏の学生時代のノート、修俚のための記録、彼が修理した仏像、多くの写真・レプリカ、制作された仏像、仏の絵などが出品されている。釈迦とその弟子とのやりとりを描いた絵がよかった。
 西村氏が初代館長になったのは77歳の時で、88歳でなくなるまで、第一線で活躍、著書も多数のこし、多くの啓蒙を行った。
 仏像を修復する仕事がどういうものであるか、というこの展示に、私は自分でも想像できないくらいに感銘を受けた。研究者であり芸術家であり宗教家でもある西村公朝という人の、人の心を動かす力を否応なく感じたのである。その力はやはり毀れた仏像を修復することに専心した者の力である。、
 学生時代に、友人と京都奈良の仏像を見て回る旅をしたことがあった。その後、幾度となく仏像をみたし、仏像の展覧会もみたが、今回の展示は、仏像修理をコンセプトにしている点で、仏像の展示とはまったく違う人間の仏への思いを感じた。ともあれ期待以上のものがあった。もう少し早く紹介できればよかったのだが。
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2015年06月05日

小津久足紀行集

馬琴研究者といえば、九州大学の後輩で、現在有明高専に勤めている菱岡憲司さんがいる。
好青年(といっても、もうアラフォーか!)で、大変な読書家である。
かつては、読書ブログを盛んに行っていたが、驚嘆すべきペースだった。
彼のブログからは、時々、大いに学ぶことがある。
学部の時の師匠は、板坂燿子先生で、その雑食ぶりは、師匠譲りであろうか。

さて、菱岡さんは馬琴研究者ではあるが、近年は馬琴のよき読者である小津桂窓(久足)の文事を明らかにすることに力を注いでいる。久足の著述ぶりも馬琴に負けないくらいに旺盛である。歌稿40点、8万首の和歌を残しているという。紀行文も46点あるそうだが、菱岡さんはその全貌を明らかにした。
今回、皇學館大学研究開発推進センター神道研究所から『小津久足紀行集(二)』が出て、その中の3点の翻字がなされた。
その中の「ぬさぶくろ日記」に、久足が秋成の墓を訪ねた記事がある。久足が秋成を慕い、その文章をこよなく愛していたことがよくわかる文章で、すこし胸が熱くなる。
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2015年06月04日

中尾和昇『馬琴読本の様式』

 読本といえば、京伝・馬琴。
 とくに「馬琴の研究は、『馬琴中編読本集成』(汲古書院)の出版や、各種画像データベースの充実で、テキストを容易に読むことのできる環境が整ってきたのに従い、近年若い人を中心に盛んである。
 とりわけ、関西には馬琴研究の若手が結構多い。
 中尾和昇さんも、その一人で、馬琴で博士論文を書き、それを基に、『馬琴読本の様式』(清文堂、2015年6月)という本を出した。推薦文は濱田啓介先生。中尾さんは、馬琴研究で悩んでいる時に、濱田先生の、「読本における恋愛譚(ロマンス)の構造―読本文学様式論にために」に出会って、大きなヒントを受け、馬琴読本の様式的特徴を、複数の作品に共有される「脚色」から捉えるという視座を得た。
 これは、大高洋司氏の「読本的枠組」が「経」とするならば、「緯」の方法であると。かくして「身替り」「血合わせ」など、馬琴読本に頻出する趣向を、大量の馬琴作品を読み込んで抽出し、分析した。
非常な労作である。
 この方法は、さらに馬琴における別の趣向の検討へと向かわせると同時に、他の作家の趣向の検討へとも展開するだろう。ここを起点として、普遍的な物語論が生まれることも期待できそうである。
 京都近世小説研究会から、次々と若い研究者が育っていることは、参加者として嬉しい限りである。これも、長年この研究会の中心におられた濱田啓介先生と、運営を引き受けてくださっている廣瀬千紗子さんのご尽力によるところ大である。
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2015年06月03日

18世紀・近世・近代―読本研究新集7

 学会にあわせて刊行された『読本研究新集』第7集(読本研究の会)は、18世紀読本の諸問題の小特集である。近世前期・中期・後期という言い方が、17世紀・18世紀・19世紀という言い方に変わりつつある流れに棹さすものか。かなり前に高木元氏がその著作で「十九世紀小説様式」という言い方をし、中野三敏先生も、「十八世紀」を使った。これらはもう20年も前のことで、岩波講座日本文学史も、「世紀」主義だった。近世文学研究が領域横断的・国際的になっていくには当然の流れということになるだろうか。一方でかつて延広眞治先生が、この風潮に疑問を表明したことがあった(『国文学』での長島弘明氏との対談)。日本の近世に即してという考え方からいえば、18世紀という時代区分に違和感があるというのであった。今はどういうお考えだろうか。うかがってみたい気がする。延広先生は近世文学研究を通じて、韓国との交流に尽力された先生でいらっしゃるので、「国際的」な研究者としては先駆者であられるのだ。
 それはともかく、今回は巻頭の井上泰至氏と論文編トリの木越治氏が、『雨月物語』に即して、「近世的読み」「近代的読み」について、それぞれの視角から論じている。戦後の近世文学研究史の流れの大枠は、「近代的読み」から「近世的読み」(それが具体的にどういう読みであるかはちょっとおいておく)に移り、今この「近世的読み」についてそろそろ検証すべき時期に来ているという把握でさして誤らないだろう。現在の状況は、先ほど述べたインターディシプリナリーとインターナショナル(の時代)ということと関わる。あるいは、著名な作品については「近世的読み」がかなり蓄積されてきたという事情もあるかもしれない。もっとも、それはきわめて限定されるのであり、注釈的読みがまだまだ必要なのは言うまでもない。
 もともと井上氏も木越氏も、注釈がきちんとできながら、その上で現代的視点からの読みも積極的に行ってきた方である。そのお二人が今回「近代」「現代」の方をむしろ重視する読み方を提案してくるのは、高田衛先生の「結局は我々は現代人なのだから近世的な読み方なんてできないのだ」(これは飯倉の要約であり引用ではない)という『秋成 小説史の研究』の主張とも連繋する。折しも編集中とうかがう『上田秋成研究事典』(今秋刊行予定)はこのお二人が中心になって進めておられるとのことで、否応なく流れが加速するかもしれない。とはいえ、注釈的に押さえるところは押さえてというのが研究者の倫理であり、そこを踏み外すことはまあない。今後の秋成研究に注目である。私もこの流れでどう足掻くか、である。 お二人の論の評については具体的には差し控える。いずれ書くときが来そうである。
 同誌の近藤瑞木氏の「前期読本研究の現在」は、前期読本を志す者は必読である。ありがたいことに私の一連の奇談論も、大きく取り上げてくださっている。感謝感謝。
 丸井貴史氏の「方法としての二人称」。着眼がユニークである。大きな問題に発展しそう。
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2015年06月01日

学会記(東京芸大)

 週末は東京芸術大学で日本近世文学会。久々の上野公園。例の鳥獣戯画展もあって、人出が多い。5月とは思えない暑さで、地下鉄の駅から約15分歩くと、汗びっしょりになってしまう。
 初日は、広報企画委員会が10時30分から行なわれるため、前日には東京入り。去年見ることのできなかった手紙展を天理ギャラリーまで見に行く。呉春宛秋成書簡など、私にとってはまことにありがたい展示。夕刻からは、美味しい蕎麦屋にて某打ち合わせを行い、テンションが早くも上がる。
 土曜日は5本の研究発表。北海道大学の院生工藤さんが、好色一代男の中の一話で知られる吉野太夫を身請けした紹益を勘当したのは、従来の理解のように養父ではなく実父の本阿弥光益だったという論を展開。説得力があった。「それで読みがどう変わるのか?」という質問があったが、学会として当然出るべくして出る質問である。しかし、25分という枠の発表としては、そこまで論じなくても、十分であると個人的には思う。この新説を受けて、皆でまた考えればいいのである。阪大の中古ゼミの宮川さんは、天理図書館所蔵の『源氏物語打聞』について、湖月抄以前の成立であるという従来の説を明快に否定。書写者も孫の季任であることを明らかにし、季吟の古典学の捉え方に再考を促した。手続きがしっかりして破綻のない展開は、院生発表会などで鍛えられた成果であろう。
 日曜午前。九大大学院の吉田さんは、西村遠里という市井の天文学者の著述に熊沢蕃山の言説引用が多く見られることに注目、その思想について丁寧に分析してみせた。今でいう文理融合的な人物、彼の本業である天文学の方も無視すべきではないとロバート・キャンベルさんがアドバイスしていた。近世中期における陽明学の流行の再確認か、西村遠里という人物の言説研究か。私としては後者の展開を望むが、その際には、やはり言説を拾うだけではなく、本の性格、書肆の意向なども考慮していただきたいとご本人にお願いしてきた。もちろんそのことも視野に入れている様子で安心した。
 他にも、若い方のいい発表が多かったし、鋭い質問も印象に残ったが割愛する。
 なお、ご自身でお持ちの資料を新出資料として紹介する発表が、近世文学会の場合よくあるわけだが、その際は、その資料の書誌的な説明をした上で、すくなくとも一部は影印を出し、その翻字を添えるべきであろう。それでもってはじめて信頼が得られるというものである。また資料の翻字をあげるさいにも、途中をところどころ省略されると、そこは読めないか、内容的に都合が悪いのではないかと、思われかねない。不要だと思っても全文の翻字をあげておくべきではないだろうか。あるいはなぜ省略するかを明らかにすべきだろう。ちょっと気になったのであえて書いておく次第である。
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