自分の研究が、社会にどう還元されているのか、社会とどう関わるのか、ということは「文学(研究)無用論」が、いよいよ「文(系)学部不要論」の議論に「展開」している最近、意識せざるを得ないことである。
そういう意味で今年は、4月・5月・11月・12月に、一般の方を相手に講演をする機会に恵まれて、その手応えを感じることが出来てよかったと自分では思っている。とりわけ4月の「懐徳堂と町人文化」の講演に対しては、富士精版印刷株式会社の『富士』という雑誌にまで取り上げていただき、非常に嬉しく思ったこと、本ブログにも書いたところである。
そして、本日拝受した最新号の『富士』169号には、会社が「上方文化芸能運営委員会」の法人会員となったという記事があった。そのきっかけになったのが、私の講演を含む同委員会主催の「町人文化を味わう」ツアーのレポート記事だったというのである。私のブログのことも書いていただいているのだが、なんとスマホで私のブログにアクセスできるQRコードまで載せていただいているのである。これには恐縮、感激。この場を借りて御礼申し上げます。
5月は中野三敏先生旧蔵の和本の展示にちなむ講演会で九州大学の図書館でしゃべり、11月は、立命館大と阪大のコラボである京都大阪文化講座で、新町遊郭のことを話し、12月は宝塚の図書館で、やはり蓮月尼の展示にちなむ話をさせていただいた。いずれもびっくりするほどみなさん熱心であり、また質問のレベルも非常に高い。我々の研究の社会還元のありかたのひとつには間違いなくこういうことがあると、確信した次第である。
私の所属する日本近世文学会では、和本リテラシー(くずし字の読解能力や和古書の知識)を啓蒙する出前授業もやっているが、最近、結構大がかりな依頼がある高校から来て、広報企画委員が対応している(出前授業についてはこちらをご参照ください)。江戸の文化や古典に興味を持っていただければ、本当に嬉しいことである。
2015年12月22日
2015年12月21日
京都近世小説研究会の西鶴まつり
12月20日(日)、キャンパスプラザ京都を会場に行なわれた京都近世小説研究会12月例会は、50名弱の参加者(文字通り北は北海道から南は九州まで)を得て、盛会の裡に終了した。この会の模様は別途まとめられているので、詳細はそちらを参照されたい(といっても、断片的実況なのでわかりにくいが)が、井上泰至さんと木越治さんを迎えて、西鶴特集の趣きとなった。
まず、井上さんは、『武家義理物語』を面白く読む/読めなくする視点―巻二の四、巻六の一を中心に―」と題して、従来とくに評価されてはいない2話を取り上げた。井上さんの読みは納得のいくもので、「面白く読む」ことに成功していた。質疑では、さらに面白く読める可能性や、読みを固める方向での意見がほとんどであった。西鶴の武家物と軍書との関係がポイントのひとつとなる。西鶴あるいは西鶴の読者は軍書に親しんでいたのか。「そんなはずはない、なぐさみ草の浮世草子と軍書の読者は違う」というのが、井上さんと対立している西鶴研究者の意見のようであるが、井上さんは、軍書は今日では硬いイメージがあるが、娯楽的な読まれ方もしており、浮世草子の読者が軍書を読んでいても全く違和感はないという。一方、西鶴の読者は町人であるというのも根拠のないイメージで、実際に大名蔵書の中に西鶴の武家物はよくある。西鶴の読者層と軍書の読者層が重ならないというのであれば、井上さんが言うようにその根拠を示すべきであろうが、現在のところ根拠は示されていないようである。
木越さんは、「よくわかる西鶴―『好色五人女』巻三の文体分析の試み」と題して、おさん茂右衛門の文章を、「叙述」「語り」「修辞」という三つのレベルで腑分けして、「語り」「修辞」のところに、西鶴の面白さを説く鍵があるとした。印象深いのは、文体分析というのは、分析者がその作品を読みこんでいなければできない、ということを明言されていたということ。これは確かにその通りであろう。そして分析の方法も、どの作品にも適当であるというわけではないという認識もおありである。これに対して、「はなし」とか「俳諧的文章」とかいうことを考えなくていいのかなど、さまざまな質疑応答があった。西鶴を剽窃しつつわかりやすくなっている其磧の文体を間にいれて考えてみたらという廣瀬千紗子さんの意見も面白い。なお「て」の続く文脈についても話題となり、これは中村幸彦先生の「好色一代男の文体」という論文で触れているような記憶があったので指摘しておいたが、確認したらやはり言及があった(『著作集』第6巻)。
今回は質疑応答が非常に面白かったが、それは発表が大きな問題提起を内包しているからに他ならない。年末スペシャルにふさわしい例会、懇親会も2次会も盛り上がった。
まず、井上さんは、『武家義理物語』を面白く読む/読めなくする視点―巻二の四、巻六の一を中心に―」と題して、従来とくに評価されてはいない2話を取り上げた。井上さんの読みは納得のいくもので、「面白く読む」ことに成功していた。質疑では、さらに面白く読める可能性や、読みを固める方向での意見がほとんどであった。西鶴の武家物と軍書との関係がポイントのひとつとなる。西鶴あるいは西鶴の読者は軍書に親しんでいたのか。「そんなはずはない、なぐさみ草の浮世草子と軍書の読者は違う」というのが、井上さんと対立している西鶴研究者の意見のようであるが、井上さんは、軍書は今日では硬いイメージがあるが、娯楽的な読まれ方もしており、浮世草子の読者が軍書を読んでいても全く違和感はないという。一方、西鶴の読者は町人であるというのも根拠のないイメージで、実際に大名蔵書の中に西鶴の武家物はよくある。西鶴の読者層と軍書の読者層が重ならないというのであれば、井上さんが言うようにその根拠を示すべきであろうが、現在のところ根拠は示されていないようである。
木越さんは、「よくわかる西鶴―『好色五人女』巻三の文体分析の試み」と題して、おさん茂右衛門の文章を、「叙述」「語り」「修辞」という三つのレベルで腑分けして、「語り」「修辞」のところに、西鶴の面白さを説く鍵があるとした。印象深いのは、文体分析というのは、分析者がその作品を読みこんでいなければできない、ということを明言されていたということ。これは確かにその通りであろう。そして分析の方法も、どの作品にも適当であるというわけではないという認識もおありである。これに対して、「はなし」とか「俳諧的文章」とかいうことを考えなくていいのかなど、さまざまな質疑応答があった。西鶴を剽窃しつつわかりやすくなっている其磧の文体を間にいれて考えてみたらという廣瀬千紗子さんの意見も面白い。なお「て」の続く文脈についても話題となり、これは中村幸彦先生の「好色一代男の文体」という論文で触れているような記憶があったので指摘しておいたが、確認したらやはり言及があった(『著作集』第6巻)。
今回は質疑応答が非常に面白かったが、それは発表が大きな問題提起を内包しているからに他ならない。年末スペシャルにふさわしい例会、懇親会も2次会も盛り上がった。
2015年12月19日
本居宣長の国文学
今年の流行語にもなった「ルーティーン」。すぐれた研究者は、たいてい「ルーティーン」を持っているなと思う。多分田中康二さんも、それがある。
『本居宣長の国文学』(ぺりかん社、2015年12月)のあとがきを読んで確信した。本をつくるために、授業を構成し、紀要に書き、本にする。今回の初出は、本務先と非常勤先の紀要がほとんどである。完璧に計画通りにつくられている。
さて、『本居宣長の国文学』。あまりにも自明なようで、検証されていなかった、宣長学と国文学との関係を、実に科学的に分析しているところに本書の値打ちがある。
その具体的な方法として宣長の著作の受容と、研究法の継承という二つの視点から、考察されている。正攻法であり、的確。とくに第2部の章立ては興味深い。現在の国文学の問題の立て方、研究の方法は、宣長から出てきているのか、と思わされる。
ぺりかん社から宣長関係が3冊になり「宣長三部作」を謳う。加えて、中公新書と、新典社選書もある。この筆力は、たぶん「ルーティーン」から来ているのだと、私は確信する。
『本居宣長の国文学』(ぺりかん社、2015年12月)のあとがきを読んで確信した。本をつくるために、授業を構成し、紀要に書き、本にする。今回の初出は、本務先と非常勤先の紀要がほとんどである。完璧に計画通りにつくられている。
さて、『本居宣長の国文学』。あまりにも自明なようで、検証されていなかった、宣長学と国文学との関係を、実に科学的に分析しているところに本書の値打ちがある。
その具体的な方法として宣長の著作の受容と、研究法の継承という二つの視点から、考察されている。正攻法であり、的確。とくに第2部の章立ては興味深い。現在の国文学の問題の立て方、研究の方法は、宣長から出てきているのか、と思わされる。
ぺりかん社から宣長関係が3冊になり「宣長三部作」を謳う。加えて、中公新書と、新典社選書もある。この筆力は、たぶん「ルーティーン」から来ているのだと、私は確信する。
2015年12月15日
王昭君詩と大石良雄
大阪大学国語国文学会の刊行する『語文』第105輯に、拙稿「王昭君詩と大石良雄―『新斎夜語』第一話に「名利」説をめぐって―」を書きました。『新斎夜語』はあまり知られていない前期読本ですが、談義本的な色彩の濃いこと、すでに徳田武先生のご指摘があります。一応その中の冒頭話について少し考えるところを述べてみたものです。
2015年12月13日
「江戸庶民文化の諸相」シンポ報告
ハイデルベルク大学で開催された、ハイデルベルク大学・大阪大学のジョイントシンポジウム「江戸庶民文化の諸相」に参加した。少し報告。
初日。ドイツ文学がご専門の三谷研爾先生が、基調報告。「近世と初期近代のあいだ」。これはあとで触れる。シンポ初日。フランクフルト大学のキンスキー先生の、江戸時代の子供のイメージを従来の視角ではない視角で、たとえば女性の日記から求めてみようという構想は、なかなか面白かった。中尾薫先生の「小謡」=庶民の教養という話は、小謡を集めた和本を回覧しての発表で、非常に興味深かった。「小謡」は本文研究も、書誌的研究もほとんど立ち遅れている。是非「小謡」集成を作ってほしいとお願いした。電子データだと可能性がぐっと広がる。近世俗文芸の典拠の宝庫かもしれない。自分の発表「寺子屋と往来物」も、双六で遊んでもらうというアクティブラーニング(?)を最後にやって終了。ハイデルベルク大学のアロカイ先生は、女性の旅日記をさまざまな視点から分析されたが、旅日記に基づくデジタル文学地図の構想を進めているらしく、楽しみである。ノラ・バルテルスさん(ハイデルベルク大院生、元阪大の特別聴講学生)の「井上ひさしと江戸戯作」は、『表裏源内蛙合戦』の間テクスト性。源内戯作のほぼ丸どりの引用や、発表当時流行ったレナウンの「イエイエ」のCMの引用を実例に挙げた。とくにレナウンの引用については、実際の上演動画とレナウンのCMの動画を流して大いに受けた。レナウンの引用の方が江戸戯作的というのはその通り!アルプレット先生(ハイデルベルク大学)の初期説経節は、「さんせう大夫」というテキストを例に、説経の語りの意味について考察。
2日め。宇野田尚哉先生は、近世前期の上層庶民の読書生活を分析して、彼らの思想構造を分析。参考資料として配布した写本往来物、とくに単に表紙に「手本」と書かれた、挨拶の冒頭文を大書した(半丁に一行2,3文字)習字手本が面白く、写真撮影を許していただいた。
マーレン・エーラス先生(ノースカロライナ大)は越前大野藩の城下町大野の飢饉救済のありようを、文書から実証的に分析。身分社会とは何か、ということを考えさせてくれる素晴らしい発表だった。クレーマ先生(ハイデルベルク大)は江戸時代における人間と牛馬の関係を、農業書から丹念に拾い、報告。おもわず談義本『三獣演談』を思い出してしmいました。
日本近世文学研究という枠組は、こういう場に出ると、あまりにも狭い。もちろんその専門的な知識や所見は大いに他の分野にも参考になると思うが、議論になった時に、日本近世文学研究のタームが通用しない。またヨーロッパの日本学の近世観あるいは近世観史というものが、どういうもので、それは日本のそれとどう関わり切り結ぶのかという問題意識を持たざるを得ない。いったんそうなると、日本近世文学研究という枠組みにその意識を捨てては戻れない。これは今回国際的というだけでなく歴史学・社会史・芸能史などの専門家とご一緒する学際的なものでもあったということで痛感した。
専門はドイツ文学ではあるが、三谷先生の基調報告は今回のシンポで何が問題になるかを予告するようなものであり、最終討論もそこに戻った。キーワードは「アーリー・モダン」で、近代を用意した時代という意味ではなく、むしろ「こうあったかもしれない近代」の可能性を秘めた時代ととり、アーリーモダンに相当する日本の「近世」をどう評価するかという議論である。それは「明るい近世」という近年の江戸時代評価をどうするかという問題意識とつながる。私が自分の研究視野の狭さを感じるのは、世界的な意味での歴史・文学史研究の潮流に無関心であったということで、それを反省したところにきわめて個人的な意義を見出した次第なのである。
初日。ドイツ文学がご専門の三谷研爾先生が、基調報告。「近世と初期近代のあいだ」。これはあとで触れる。シンポ初日。フランクフルト大学のキンスキー先生の、江戸時代の子供のイメージを従来の視角ではない視角で、たとえば女性の日記から求めてみようという構想は、なかなか面白かった。中尾薫先生の「小謡」=庶民の教養という話は、小謡を集めた和本を回覧しての発表で、非常に興味深かった。「小謡」は本文研究も、書誌的研究もほとんど立ち遅れている。是非「小謡」集成を作ってほしいとお願いした。電子データだと可能性がぐっと広がる。近世俗文芸の典拠の宝庫かもしれない。自分の発表「寺子屋と往来物」も、双六で遊んでもらうというアクティブラーニング(?)を最後にやって終了。ハイデルベルク大学のアロカイ先生は、女性の旅日記をさまざまな視点から分析されたが、旅日記に基づくデジタル文学地図の構想を進めているらしく、楽しみである。ノラ・バルテルスさん(ハイデルベルク大院生、元阪大の特別聴講学生)の「井上ひさしと江戸戯作」は、『表裏源内蛙合戦』の間テクスト性。源内戯作のほぼ丸どりの引用や、発表当時流行ったレナウンの「イエイエ」のCMの引用を実例に挙げた。とくにレナウンの引用については、実際の上演動画とレナウンのCMの動画を流して大いに受けた。レナウンの引用の方が江戸戯作的というのはその通り!アルプレット先生(ハイデルベルク大学)の初期説経節は、「さんせう大夫」というテキストを例に、説経の語りの意味について考察。
2日め。宇野田尚哉先生は、近世前期の上層庶民の読書生活を分析して、彼らの思想構造を分析。参考資料として配布した写本往来物、とくに単に表紙に「手本」と書かれた、挨拶の冒頭文を大書した(半丁に一行2,3文字)習字手本が面白く、写真撮影を許していただいた。
マーレン・エーラス先生(ノースカロライナ大)は越前大野藩の城下町大野の飢饉救済のありようを、文書から実証的に分析。身分社会とは何か、ということを考えさせてくれる素晴らしい発表だった。クレーマ先生(ハイデルベルク大)は江戸時代における人間と牛馬の関係を、農業書から丹念に拾い、報告。おもわず談義本『三獣演談』を思い出してしmいました。
日本近世文学研究という枠組は、こういう場に出ると、あまりにも狭い。もちろんその専門的な知識や所見は大いに他の分野にも参考になると思うが、議論になった時に、日本近世文学研究のタームが通用しない。またヨーロッパの日本学の近世観あるいは近世観史というものが、どういうもので、それは日本のそれとどう関わり切り結ぶのかという問題意識を持たざるを得ない。いったんそうなると、日本近世文学研究という枠組みにその意識を捨てては戻れない。これは今回国際的というだけでなく歴史学・社会史・芸能史などの専門家とご一緒する学際的なものでもあったということで痛感した。
専門はドイツ文学ではあるが、三谷先生の基調報告は今回のシンポで何が問題になるかを予告するようなものであり、最終討論もそこに戻った。キーワードは「アーリー・モダン」で、近代を用意した時代という意味ではなく、むしろ「こうあったかもしれない近代」の可能性を秘めた時代ととり、アーリーモダンに相当する日本の「近世」をどう評価するかという議論である。それは「明るい近世」という近年の江戸時代評価をどうするかという問題意識とつながる。私が自分の研究視野の狭さを感じるのは、世界的な意味での歴史・文学史研究の潮流に無関心であったということで、それを反省したところにきわめて個人的な意義を見出した次第なのである。
2015年12月07日
ジョイントシンポ・江戸庶民文化の諸相
12月10日から12月12日までの3日間、ハイデルベルク大学において、ハイデルベルク大学と大阪大学のジョイントシンポジウム、「人文学における日本研究 江戸庶民文化の諸相」が開催されます(使用言語日本語)。初日がプレシンポジウムで翻訳ワークショップ。2日目、3日目がシンポで、日本(阪大)とドイツから合計10名が、江戸庶民文化について、さまざまな視点から考察し、発表いたします。私も往来物の絵双六を題材に発表予定です。詳細はこちらをご覧下さい。
11月にも、古典籍のデジタル化や、くずし字教育についてのシンポジウムでハイデルベルク大学に行ったわけで、そこでも発表させていただきましたので、わずか3週間ぶりでの再訪となります。街はクリスマス一色だという情報が入っています。
11月のシンポジウムも非常に有意義でした。いずれご報告をと思っております。参加者はそんなに多くはないのですが、質疑応答時間を発表時間と同じくらいとるということがいいみたいで、参加者の一体感のようなものがあり、副産物も多いと実感しました。今回は江戸文化がテーマですが、そのとらえ方自体、おそらく十人十色で、これまた面白くなりそうです。質疑応答時間を長くとるというのも11月と同様のようです。新しい出会いもありそうで、楽しみです。前回は出発の日に航空会社がストライキで急遽他社便に変更し香港経由でドイツ入りしたため、行きが非常な長旅でしたが、今回は予定通り運航していただきたいと願っております。
11月にも、古典籍のデジタル化や、くずし字教育についてのシンポジウムでハイデルベルク大学に行ったわけで、そこでも発表させていただきましたので、わずか3週間ぶりでの再訪となります。街はクリスマス一色だという情報が入っています。
11月のシンポジウムも非常に有意義でした。いずれご報告をと思っております。参加者はそんなに多くはないのですが、質疑応答時間を発表時間と同じくらいとるということがいいみたいで、参加者の一体感のようなものがあり、副産物も多いと実感しました。今回は江戸文化がテーマですが、そのとらえ方自体、おそらく十人十色で、これまた面白くなりそうです。質疑応答時間を長くとるというのも11月と同様のようです。新しい出会いもありそうで、楽しみです。前回は出発の日に航空会社がストライキで急遽他社便に変更し香港経由でドイツ入りしたため、行きが非常な長旅でしたが、今回は予定通り運航していただきたいと願っております。