2016年03月27日

発表終了。感謝。

 26日の京都近世小説研究会。有澤さん・神谷さんの、資料を駆使した、新地平を拓く発表に感心したあと、「木越治氏の批判に答える」というタイトルで、秋成事典「菊花の約」研究史をめぐる木越氏の記述について「反論」という内容。口頭発表は必要ないのではともご本人から言われていたが、いやいや、きいていただいてよかった。あぶないところだった。文字通り、貴重なご批正をいただいたのでありました。あらあら出来ていた原稿をかなり書き直すことにいたします。
 「批判」(じゃないとも言われましたが)の要点は2つ。1〈近世的な読み〉を標榜しつつ単に飯倉の読みが展開しているだけ。2尼子経久をさも重要な人物として引っ張り出してくる読みは作品論といえない。このうち1のポイントが何かというところにつき、貴重なご指摘をいただいたほか、たくさんのご意見をいただき、作品論を考える愉しさを味わった。 ありがとうございました。
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2016年03月25日

ラッシュ

例年、2月、3月は、科研の出版助成などをふくめ、学術書の出版が相次ぐ季節である。
その情報をお届けしたいところだが、いろいろあって、伸び伸びになっている。こういうことは時々あって、絶対に紹介しなければならない本を紹介しそこなったことも少なからず・・・。
とりわけ高山大毅さん、宮本祐規子さん、高野奈未さんの著書、田中則雄さんらの科研報告書、一戸渉さんの論文などは、是非コメントしなければならないところであるが・・・、今少しお待ちください。
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2016年03月12日

挑発にまんまと乗せられて?

またおめえやるのかよ!という声がきこえてきそうでやんすが。京都近世小説研究会。
ほかの2つがきっと面白いですから、まあどうぞいらしておくんなさいまし。
神谷さんのは、新聞にデカデカ載ったやつですし。

しかし、なんですかね。木越さんの挑発にマンマとあっし乗せられているんですかね〜。
ただ、『上田秋成研究事典』というスタンダードにああ書かれちゃ黙っちゃいらっれねえってんで。
ついつい・・・。
え、なんて書かれたかって。
そりゃね。こうですよ。「…脇役ですらない尼子経久を、さも重要な人物であるかのように引っ張り出してくるような読み方は、「菊花の約」の作品論として成立しない、と私は考える」
やっぱ、これ、一応反論しとかないとさ。なにせ『事典』だからさ。『事典』なみに読まれる媒体で反論しないとね。で、とりあえず口頭で反論しておこうかって。
ワナかな〜?ワナなんかな〜?


■日時 3月26日(土) 午後1時30分〜
■場所 キャンパスプラザ京都 2階会議室
参照(http://www.consortium.or.jp/about-cp-kyoto/access)
■発表
有澤知世氏 「京伝考証学の協力者―菅原洞斎を中心に―」
神谷勝広氏 「勝川春章伝記小考」
飯倉洋一氏 木越治氏の批判に答える―「菊花の約」の尼子経久は論ずるに足らぬ作中人物か―

参加のご連絡は、久岡明穂さんへkyotokinsei★gmail.com
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2016年03月10日

くずし字学習支援アプリKuLA開発がメディアに紹介されています

 私が代表者をつとめている科研挑戦的萌芽研究の成果として開発されたくずし字学習支援アプリKuLAは、その後も順調にダウンロード数をのばし、3月6日現在で、5300件を記録しております。
 この反響に我々も驚いておりますが、これほど反響があるのならと、周囲からのお勧めもあり、3月2日に阪大本部の広報からオフィシャルにプレスリリースを行い、(大胆にも)記者説明会を行うと告知いたしました。昨日(3月9日)その説明会が行われ、3社の報道関係者(テレビ・新聞)が来てくださいました。
この記者発表の模様(写真10枚)は、くずし字教育プロジェクトのブログに掲載しております。

記者説明会では、私がプロジェクトの概略を説明したあと、アプリの設計・開発を担当した阪大特任研究員(京大大学院生)の橋本雄太氏が、アプリのデモンストレーションをパワーポイントで行いました。これがまた上手なんですよ。記者さんたちは食い入るように視聴されていました。

さて、メディアの反応ですが、昨日朝日新聞朝刊社会面のコラム「青鉛筆」(大阪本社版では「ののちゃん」の下)で紹介されました。
また昨日夜、共同通信から記事が配信されました。共同通信を通じて、西日本新聞・中日新聞・四国新聞・ニコニコ動画・産経フォトからも配信されているということです。
メディアに紹介されることで、さらにダウンロード者が増え、日本の歴史的典籍への関心が高まることを私たちは願っております。今後、来てくださった社のテレビ、新聞が、また紹介してくださるようですから、ここでアナウンスしたいと思います。みなさまの応援に心から感謝しております。

なおアプリはiOS版とアンドロイド版があります。ショップ(ストア)から、「くずし字」「KuLA」と組み合せて検索してください。ダウンロードは無料です。そして、ちょっと活発になってきた、「つながる機能」に参加し、「読めないくずし字」の質問をしたり、それに答えてあげてください!よろしくお願いします。
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2016年03月04日

長島弘明『上田秋成の文学』

長島弘明さんの『上田秋成の文学』(放送大学教育振興会刊、2016年3月)が刊行された。長島さんといえば、主著『秋成研究』(東大出版会)が不朽の業績とて名高く、また『上田秋成全集』の編集に大きな役割を果たしてきた。さらに、NHKラジオテキストを基にした『雨月物語の世界』(ちま学芸文庫)、ロングセラーである新潮古典文学アルバム『上田秋成』は大学で秋成を講義するときに、ほとんどの教員が座右に置いたであろう著述を残している。つまり、長島さんは、ここ二、三十年ほどの秋成研究のスタンダードを作ってきた方である。その中には、秋成実母の発見や、『春雨物語』諸本の根本的な枠組み再考を促す衝撃的な説もあった。
そして、ずっと秋成研究のトップとして君臨してきたわけであるが、なぜ長島さんが秋成研究の権威であると断言できるのかといえば、まちがいなく秋成の著述の原本を一番見ている人だからである。そこに大きな信頼がある。自分自身が経験すればわかることだが、やはり沢山見れば見るほど、対象に対するゆるぎない確信のようなものが生まれる。近世文学研究の場合、これが必須なのである。
たくさん見ていれば奇を衒う必要もない。資料をして語らせればよいのである。長島さんの論説はいずれも手堅く、オーソドックスで、容易なことでは崩れない。しかし、秋成研究は、長島さんより前に、森山重雄・高田衛・中村博保・松田修というような華麗な論を繰り広げる人たちがいた。したがって長島さんの中にも、彼らの血が流れ込んでいると見えることがある。そこがまた、長島さんの学問の幅を広げているのかもしれない。
そして、長島さんの秋成啓蒙三部作のひとつになろうかというのがこの『上田秋成の文学』である。放送大学のテキストとして書かれているため、15単元をおおよそ同じ量で綴るという縛りの中、やはり秋成文学入門の定番と呼ぶに相応しい信頼感がこの本にはある。研究史もきちんと踏まえられている。私としては『春雨物語』序文などの解釈で、私の考えをかなり採用していただいているのではと勝手に思っているのだが、「そんなことはないよ」と叱られるかもしれない。ともあれ、これから秋成を学ぼうという人は、まずスタンダードな入門書としてこの本を読むといいのではないか。
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2016年03月02日

今度は西鶴『万の文反古』論争が東京で

第42回西鶴研究会の案内が来た。

 昨年末の京都近世小説研究会での西鶴特集の記憶も新しいところだが、こちらも熱い。『万の文反古』巻1の4をめぐる南・石塚論争の再燃である。論争は終わっていなかったんですね。京都近世の発表とも呼応して、西鶴を読むということはどういうことか、南さんの思惑通り、そこへ議論が展開するのか、展開したとすれば、どういう応酬があるのか。期待してよさそうだ。
 もうひとつの畑中さんの発表も看過できない。『花実御伽硯』は伝本も少なく、研究もほとんどないが、篠原進氏(「浮世草子の汽水域」)がいうように、浮世草子論にとって重要な作品。これも聞きたい。
 ちょうど、東京出張の日程と重なっているので、なんとか時間調整して参加したいところである。

 私のところに来た案内を下記に転載する。

日時    3月24日(木) 午後2時より6時まで
場所    青山学院大学 総合研究ビル9階、第16会議室
内容    研究発表、並びに質疑応答、討議

発表題目および要旨
◆ 西鶴を「読む」ということ 
― 再考『万の文反古』巻一の四「来る十九日の栄耀献立」―
 南 陽子
 『万の文反古』巻一の四「来る十九日の栄耀献立」は、主に料理文化史研究の観点から論じられてきた。その代表的なものは、テキスト上に書かれた品目を十九日に出される饗応の一部と考え、本膳料理に倣って膳数と品目を補いながら読むという、鈴木晋一氏の提示した方法である(鈴木晋一『たべもの史話』平凡社、一九八九、初出一九八七)。
 この鈴木説に対し、西鶴研究者はおおむね賛意を示した。広嶋進氏は鈴木説の献立に修正を加えて、これを西鶴の「暗示の方法」の一つに数え(『西鶴探求』第六章「『文反古』の暗示」ぺりかん社、二〇〇四、初出一九九〇)、また『新編日本古典文学全集』(小学館、一九九六)の注釈では、旧版『完訳 日本の古典』(小学館、一九八四)注釈を改め、鈴木説を採用している。
 先般、発表者は「『文反古』巻一の四における書簡と話―「無用に候」の意味するもの―」(『近世文藝』97、二〇一三年一月)において、巻一の四の献立はテキストが記述するとおりの「一汁三菜」のまま理解することが可能であり、テキストに省略された品目はないという旨を、茶懐石の理念を援用しながら提示した。さらに書簡中で旦那側が「無用に候」と、献立を含む呉服屋の提案を次々に却下していく理由を、当時の商売の常識を考慮して検証し、従来とは異なる解釈を加えた。
 この拙論に対し、石塚修氏は「『文反古』巻一の四再考―献立のどこが「栄耀」なのか―」(『近世文藝』100、二〇一四年七月)において、拙論の考証が茶事の細則に合致しないとして「一汁三菜」説を否定し、自身は鈴木説に準じたうえで、当時の読者は真夏の船上では様々な点で実現困難である「栄耀」な献立を、驚嘆と笑いをもって読んだのだと結論した。
 拙論の注においても明記したが、茶事のルールがようやく定型化するのは、茶の湯の大衆化が極まった幕末の頃とされている。その一因には、茶事が規範化されると作法を表面的になぞるだけの形式主義に陥り、本来の目的である「もてなしの心」が失われるという、利休初期の理念が尊重されていたことが挙げられる。不定形のルールをめぐって反証に反証、さらにまた反証を重ねるのは、研究として有意義な行為ではない。
 本発表では、巻一の四を読むとき「何が」最も大きな問題であったのかを確認し、石塚説と拙論を対比して石塚説の妥当性を検討したのち、献立の考証とは異なる観点から巻一の四をさらに詳細に考察していくことを目標とする。西鶴作品を「読む」とはどのような行為なのか、考証のための考証ではなく、作品を「読む」ための考証を目指して、建設的な議論の場にしたいと考えている。
 
◆ 原素材の加工方法
― 『花実御伽硯』と『諸州奇事談』の差異 ―
敬愛大学 畑中千晶
 かつて「「西鶴らしさ」を問う」という拙文(拙著序文)で次のような考えを提出しことがある。素材として「多様な言説」(=つまり他者の記した文章)が取り込まれていたとしても、最終的に仕上がった作品に「西鶴らしさ」が感じられるとするなら、そうした加工技術にこそ「西鶴らしさ」を求めるべきではないかというものである。今、「西鶴らしさ」の議論は、しばし措く。本発表では、西鶴を論ずるための「補助線」を目指し、原素材の加工方法について、他の浮世草子の例を参照したい。
 中心的に扱う題材は、浮世草子『花実御伽硯』(明和五年刊)である。このたび、本作の粉本を新たに発見したことに伴い、作品化の過程を詳細に把握することが可能になった。その粉本とは、写本の怪談集『続向燈吐話』(国文学研究資料館三井文庫旧蔵資料)である。この『続向燈吐話』は、『向燈賭話』とともに、静観房好阿『諸州奇事談』(寛延三年刊)の粉本となっている。
 『花実御伽硯』は単純素朴な奇談集とも言うべきもので、行文は変化に乏しく、時に冗長である。対する『諸州奇事談』は、改題出版の繰り返された人気作となっている。全くの同一素材を加工した話を含みながら、一方が退屈極まりない作となり、他方が読者を魅了してやまないとするなら、その差異は極めて重要である。
 無駄のない筆運びが生み出すリズム、巧みな演出、素材の入れ替えなど、静観房が駆使したテクニックの数々は、『花実御伽硯』と対比させることで一層際立つ。本発表では、原素材の加工方法の差が、作品の仕上がりにいかなる差異をもたらすのか、その過程を追いかけていく。
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