ボストン大学のWiebke Denecke氏の講演会が、6月2日にハイデルベルク大学で開催される。
デーネーケ氏は『日本「文」学史』(勉誠出版、2015年9月)の編者のおひとりである。
この本は昨年出版されたが、気になりながら、読んでいなかった。
こちらにきて、氏の講演があるということで、私の受け入れ教員であるアロカイさんが、本を貸してくださった。早速デーネーケ氏の「「文」の概念を通して日本「文」学史を開く」を拝読。
ヨーロッパ(とくにドイツ)において、歴史のある「概念史」という研究方法を、東アジアの研究に本格的に導入すること提唱するもので、日本における「文」の概念を多角的に検討することで、従来の日本「文学」史を相対化し、新しい「文」学史を開こうとするもの。大変な理論家で、おっしゃること、うなずくところが多い。
「文」や「文学」の概念のとらえなおしは、近年の潮流であろう。思想史・美術史との連携企画も目にすることが少なくない。ただ、ここまで徹底的に「文」概念を洗いなおしたものは、なかったということだろう。、
「文学」がliteratureの訳語として明治以降に定着した漢語であって、近世以前とのズレがあることについては、従前問題視されていたところである。『日本「文」学史』の第1巻では、古代・中世の「文」概念の検討となっているが、今後近世はどう扱われるのであろうか。
近世においても「文」についての概念論は漢文・和文ともに盛んである。近代への接続と断絶を考える際に、近世の「文」概念は外せないはずである。徂徠の『訳文筌蹄』、真淵の『文意考』や蒿蹊の『訳文童喩』『国文世々跡』といった「ど真ん中」の著述もある。「史」を謳うのであれば、当然近世は外せないだろう。ぜひ『「文」学史』の中には近世期の「文」概念を取り入れていただきたくお願いしたい。
追記:編集担当の方によると、続冊には近世がたっぷりと盛り込まれるということ。よかった。楽しみである!
2016年05月23日
2016年05月21日
江戸の医学書は「文学」だった
福田安典さんの『医学書のなかの「文学」』(笠間書院、2016年5月)を拝受した。
医学的な立場から文学作品を分析したり、病気の面からある文学者の本質に迫ろうとしたり、そういった研究やエッセイはこれまでもあった。しかし。文学研究の立場から、医学書の中に「文学性」を見るとか、文学書が医学書の擬態をとるとかいう視点で、1冊にまとめられた本というのは、本書がはじめてであろう。一般向けにも十分面白い。そういう装丁と価格設定でもある。文章は軽快なあの福田節である。
国文学研究資料館の、歴史的典籍30万点画像データベース公開という大型プロジェクトでも、医書が注目され、医学史研究と文学研究のコラボも試みられているようであるので、時宜を得た企画である、と思うのは早計で、福田さんは、もう30年ちかく前から、文学研究者として、江戸時代の医学書を漁っていたのである。つまり、時代をずっと先取りしていた。時代が追いついて、福田さんの研究の意味がわかるようになってきたと言った方が、正しい捉え方であろう。実際、本書所収論文の初出は、みな平成ひとケタ代である。
前のエントリーで書いたように、ここドイツで新刊を読むことは諦めていたのだが、たまたま寄稿したリポート笠間の刊行と、福田さんの本の出版に時期が重なり、笠間書院のご好意により、まとめて送っていただくこと
ができたわけである。あの『白い巨塔』にも出てくるように、ハイデルベルク大学は医学の伝統もあるので、なにか縁を感じたりもする。
私など、福田さんの、医学書絡みの論文について、その重要性がわからないままであったが、秋成が医者であったこととか、談義本の中に、医学書風のものがあるとか、どうやら自分の中にいつのまにか受け皿も自然に出来ていたようで、本書を面白く読む事ができた。秋成といえば、その眼科医である谷川家には、医学関係の秘伝っぽい資料があったが、その文章は、「文学」といってもいいレトリックに満ちていたと記憶する。そもそも江戸時代の本というのは、実用書であれ、指南書であれ、文学的意匠を纏っている。医学書がそうでないわけがない。
福田さんは、最初に『医者談義』という本を論じる。従来文学研究側からは談義本として、医学史研究側からは医書として読まれてきた本。見立絵本的な挿絵の戯作性や、西鶴の『武道伝来記』への言及の意味などを読み解きくことで、読み物としての医学書、医学書のなかの「文学」が立ち上がってくる。他にも医書の知識を前提とする初期洒落本の方法や、医学(史)の背景なしには語ることのできない『竹斎』関係の諸論など。
あるいは『武道伝来記』を、他人が読む事を意識した江戸の医案(カルテ)の意味という視点から読み解いた論は、やはり西鶴は「戯作者」だなあという感想を私にもたらした。こういう論を積み重ねて(浜田啓介先生のいう「外濠」を埋めて)、西鶴論は有効な議論がはじめて出来るのだと改めて思う。
末尾のコラムも興味深く読んだ。福田さんの論文を生んだ方法とツールの公開である。こういうものを研究者が公開するのは、すこし勇気が要るものである。しかし、研究成果だけでなく、研究方法やツールも共有することで、今後の研究が豊かになることは間違いない。参考資料や索引やツール類が、単体で紹介されても、利用者はそれをどう利用すればいいのかということはなかなか理解できないものである。日本文学の学生はそういうものを、演習という授業で学んでいくわけだが、それを読者は本書とコラムを合わせ読む事で学ぶことが出来る。これを研究書でここまで丁寧にやるというのは珍しい。非常に貴重だと思った。
医学的な立場から文学作品を分析したり、病気の面からある文学者の本質に迫ろうとしたり、そういった研究やエッセイはこれまでもあった。しかし。文学研究の立場から、医学書の中に「文学性」を見るとか、文学書が医学書の擬態をとるとかいう視点で、1冊にまとめられた本というのは、本書がはじめてであろう。一般向けにも十分面白い。そういう装丁と価格設定でもある。文章は軽快なあの福田節である。
国文学研究資料館の、歴史的典籍30万点画像データベース公開という大型プロジェクトでも、医書が注目され、医学史研究と文学研究のコラボも試みられているようであるので、時宜を得た企画である、と思うのは早計で、福田さんは、もう30年ちかく前から、文学研究者として、江戸時代の医学書を漁っていたのである。つまり、時代をずっと先取りしていた。時代が追いついて、福田さんの研究の意味がわかるようになってきたと言った方が、正しい捉え方であろう。実際、本書所収論文の初出は、みな平成ひとケタ代である。
前のエントリーで書いたように、ここドイツで新刊を読むことは諦めていたのだが、たまたま寄稿したリポート笠間の刊行と、福田さんの本の出版に時期が重なり、笠間書院のご好意により、まとめて送っていただくこと
ができたわけである。あの『白い巨塔』にも出てくるように、ハイデルベルク大学は医学の伝統もあるので、なにか縁を感じたりもする。
私など、福田さんの、医学書絡みの論文について、その重要性がわからないままであったが、秋成が医者であったこととか、談義本の中に、医学書風のものがあるとか、どうやら自分の中にいつのまにか受け皿も自然に出来ていたようで、本書を面白く読む事ができた。秋成といえば、その眼科医である谷川家には、医学関係の秘伝っぽい資料があったが、その文章は、「文学」といってもいいレトリックに満ちていたと記憶する。そもそも江戸時代の本というのは、実用書であれ、指南書であれ、文学的意匠を纏っている。医学書がそうでないわけがない。
福田さんは、最初に『医者談義』という本を論じる。従来文学研究側からは談義本として、医学史研究側からは医書として読まれてきた本。見立絵本的な挿絵の戯作性や、西鶴の『武道伝来記』への言及の意味などを読み解きくことで、読み物としての医学書、医学書のなかの「文学」が立ち上がってくる。他にも医書の知識を前提とする初期洒落本の方法や、医学(史)の背景なしには語ることのできない『竹斎』関係の諸論など。
あるいは『武道伝来記』を、他人が読む事を意識した江戸の医案(カルテ)の意味という視点から読み解いた論は、やはり西鶴は「戯作者」だなあという感想を私にもたらした。こういう論を積み重ねて(浜田啓介先生のいう「外濠」を埋めて)、西鶴論は有効な議論がはじめて出来るのだと改めて思う。
末尾のコラムも興味深く読んだ。福田さんの論文を生んだ方法とツールの公開である。こういうものを研究者が公開するのは、すこし勇気が要るものである。しかし、研究成果だけでなく、研究方法やツールも共有することで、今後の研究が豊かになることは間違いない。参考資料や索引やツール類が、単体で紹介されても、利用者はそれをどう利用すればいいのかということはなかなか理解できないものである。日本文学の学生はそういうものを、演習という授業で学んでいくわけだが、それを読者は本書とコラムを合わせ読む事で学ぶことが出来る。これを研究書でここまで丁寧にやるというのは珍しい。非常に貴重だと思った。
2016年05月20日
ドイツで『リポート笠間』60号を読む
ドイツのハイデルベルク大学で、上田秋成の諸作品を読むゼミと、江戸の本を読むスキルをつけるゼミとを担当し、はやくも5週を終えた。3分の1終了である。どちらの授業も、当方の予想とは違う所で立ち止まり、議論になり、あるいは解説を補足する。授業には、ハイデルベルク大学のアロカイ先生も参加し、こちらの進め方を一たんストップさせたり、軌道修正してくださることもあって、大変助かっている。
秋成の授業では、ドイツ語での議論になることもあり、もちろん学生たちはその方が深い議論ができるに決まっているのだが、私にはその機微はわからない。アロカイ先生が議論のポイントを通訳してくれる。面白いことに、どちらの授業にも日本人の受講生がいて、彼らは日本語の方が得意なわけである。しかし、彼らもドイツ語の議論には参加する。アロカイ先生が、最も全体の流れを把握している。私と学生の十全なコミュニケーションが出来ないなかで、さまざまな意志疎通の方法が試されている。
秋成の作品を読む授業では、「菊花の約」とシラーの「人質」との比較が議論になった。「走れメロス」の典拠でもある。日本の演習ではまず出てこない議論である。こちらも非常に勉強になる。
もうひとつの、江戸の本を読むスキルをつけるゼミでは、くずし字を読み、その意味を理解し、ドイツ語訳をするというところまでを一連のワークとする。これもアロカイ先生の支援なしには考えられない授業である。KuLAでの予習と、3回にわたる宿題で、彼らはかなりスキルを身につけてきた。日本の古典籍を真剣に読みたいという学生もいて、その熱意は大変なものである。
こういう、いつもの年と全く違う試行錯誤をしている私の手元に、笠間書院から、福田安典さんの『「医学書のなかの「文学」』と、『リポート笠間』60号が届いた。今回拙文が載ったことと、福田さんの本の出版のタイミングが重なったので、わざわざドイツまで送ってくださったのは、まことにありがたい。
福田さんの新著については、別に書くことにする。『リポート笠間』は近年面白い特集をやってくれるが、今回は「論争」で、ここに私自身も書かせていただいた。拙文はすでに笠間書院のサイトに掲載されているが、今のところ特段の反響はない。私は「菊花の約」の拙論を批判した木越治氏の『上田秋成研究事典』の「菊花の約」研究史の中での拙論への言及に反論を書いて載せてもらった。頁数の制約で、かなり削ったため、意を尽くせたかどうか不安だったが、一番反応が欲しかった木越氏自身からは、既に「読んだよ」という連絡があった。んー、何て言われるかしら、と覚悟を決めたが、反論はきちんとした活字媒体でやってくださるとの事、こんなに嬉しいことはない。
ところで、今号の笠間リポートでありがたいのは、前述したKuLAについてのレビューが二つ掲載されていたこと。一つは岡田一祐氏の、変体仮名あぷり・MOJIZOとならんでのKuLA批評。たしかこの元になった文章はネットでみていた。たしかに練習問題の際に、前後の字が映り込むという指摘はおっしゃる通りである。しかし、そのマイナス面も計算に入れた上で、あえて残したということもある。そちらの方が実践的であると思うからだが、実際に、検証していないから何とも言えないところ。とまれレビューをいただいたことには深く感謝する。
また、「面白かった、この三つ」でも、植田麦氏が、KuLAを取り上げてくださった。ありがとうございます。こちらハイデルベルク大学でも、アプリを自習教材として使っているが、学生たちは着実にテストの「全問正解」のスタンプを増やしていっている。いま日本(文)学を学ぶ学生の、隠れたベストセラー(無料だが)なのかもしれない。すくなくととも、『くずし字解読辞典』を探すのも大変な海外の日本研究者には、活用していただきたいと願うものである。
このほかに、古田尚行氏の国語教育の現場からのご提言、日置貴之氏の演劇研究者としての視座が随所に光る安藤宏著の書評、入口敦志氏の「面白かった、この三つ」に垣間見える大きな問題意識、そして勝又基氏の「目録」国際シンポ報告が面白かった。勝又氏がアメリカで一年研修をして実感したことは、おそらくこれから私も実感として理解してゆくことでなければならないが、僭越ながら大いに共感を持って読ませていただいた。海外からのアクセスを前提に、あらゆるデータベース構築は考えられる必要がある。折角データベースを作っても、それをどうやったら見てもらえるかというところの配慮がどうなんだろうというケースが確かに多いのである。望まれるのはプラットホームの構築。少なくとも英語版は必要。それができるのは今のところ国文研。だがそれには人的資源と経済的資源が必要であろう。ここが問題。
データベースや現物の情報が得やすくなれば、今やくずし字学習を必須と考える海外の日本研究者と日本の研究者が議論を共有できる可能性は飛躍的に広がるだろう。
秋成の授業では、ドイツ語での議論になることもあり、もちろん学生たちはその方が深い議論ができるに決まっているのだが、私にはその機微はわからない。アロカイ先生が議論のポイントを通訳してくれる。面白いことに、どちらの授業にも日本人の受講生がいて、彼らは日本語の方が得意なわけである。しかし、彼らもドイツ語の議論には参加する。アロカイ先生が、最も全体の流れを把握している。私と学生の十全なコミュニケーションが出来ないなかで、さまざまな意志疎通の方法が試されている。
秋成の作品を読む授業では、「菊花の約」とシラーの「人質」との比較が議論になった。「走れメロス」の典拠でもある。日本の演習ではまず出てこない議論である。こちらも非常に勉強になる。
もうひとつの、江戸の本を読むスキルをつけるゼミでは、くずし字を読み、その意味を理解し、ドイツ語訳をするというところまでを一連のワークとする。これもアロカイ先生の支援なしには考えられない授業である。KuLAでの予習と、3回にわたる宿題で、彼らはかなりスキルを身につけてきた。日本の古典籍を真剣に読みたいという学生もいて、その熱意は大変なものである。
こういう、いつもの年と全く違う試行錯誤をしている私の手元に、笠間書院から、福田安典さんの『「医学書のなかの「文学」』と、『リポート笠間』60号が届いた。今回拙文が載ったことと、福田さんの本の出版のタイミングが重なったので、わざわざドイツまで送ってくださったのは、まことにありがたい。
福田さんの新著については、別に書くことにする。『リポート笠間』は近年面白い特集をやってくれるが、今回は「論争」で、ここに私自身も書かせていただいた。拙文はすでに笠間書院のサイトに掲載されているが、今のところ特段の反響はない。私は「菊花の約」の拙論を批判した木越治氏の『上田秋成研究事典』の「菊花の約」研究史の中での拙論への言及に反論を書いて載せてもらった。頁数の制約で、かなり削ったため、意を尽くせたかどうか不安だったが、一番反応が欲しかった木越氏自身からは、既に「読んだよ」という連絡があった。んー、何て言われるかしら、と覚悟を決めたが、反論はきちんとした活字媒体でやってくださるとの事、こんなに嬉しいことはない。
ところで、今号の笠間リポートでありがたいのは、前述したKuLAについてのレビューが二つ掲載されていたこと。一つは岡田一祐氏の、変体仮名あぷり・MOJIZOとならんでのKuLA批評。たしかこの元になった文章はネットでみていた。たしかに練習問題の際に、前後の字が映り込むという指摘はおっしゃる通りである。しかし、そのマイナス面も計算に入れた上で、あえて残したということもある。そちらの方が実践的であると思うからだが、実際に、検証していないから何とも言えないところ。とまれレビューをいただいたことには深く感謝する。
また、「面白かった、この三つ」でも、植田麦氏が、KuLAを取り上げてくださった。ありがとうございます。こちらハイデルベルク大学でも、アプリを自習教材として使っているが、学生たちは着実にテストの「全問正解」のスタンプを増やしていっている。いま日本(文)学を学ぶ学生の、隠れたベストセラー(無料だが)なのかもしれない。すくなくととも、『くずし字解読辞典』を探すのも大変な海外の日本研究者には、活用していただきたいと願うものである。
このほかに、古田尚行氏の国語教育の現場からのご提言、日置貴之氏の演劇研究者としての視座が随所に光る安藤宏著の書評、入口敦志氏の「面白かった、この三つ」に垣間見える大きな問題意識、そして勝又基氏の「目録」国際シンポ報告が面白かった。勝又氏がアメリカで一年研修をして実感したことは、おそらくこれから私も実感として理解してゆくことでなければならないが、僭越ながら大いに共感を持って読ませていただいた。海外からのアクセスを前提に、あらゆるデータベース構築は考えられる必要がある。折角データベースを作っても、それをどうやったら見てもらえるかというところの配慮がどうなんだろうというケースが確かに多いのである。望まれるのはプラットホームの構築。少なくとも英語版は必要。それができるのは今のところ国文研。だがそれには人的資源と経済的資源が必要であろう。ここが問題。
データベースや現物の情報が得やすくなれば、今やくずし字学習を必須と考える海外の日本研究者と日本の研究者が議論を共有できる可能性は飛躍的に広がるだろう。
2016年05月07日
島津忠夫先生を悼む
島津忠夫先生が亡くなられた。
その訃報に接した時、にわかには信じられなかった。
一人暮らしをされていた川西のご自宅から、ご家族のいらっしゃる関東(所沢)に移ることを決心されたのは、確かに先生のご体調が理由だとうかがっていたが、先生はお元気でいらっしゃると、幾人かの方に伺っていたからである。
しかし、その時は来てしまった。
先生ご自身は、それを覚悟されていた。
この6月ごろ出る予定の『上方文藝研究』へのご投稿は、ご自身にもしものことがあっては、と去年の夏には入稿されていた。先生のご意向を汲み、校正も早く出してもらい、秋には校了していたのである。
また、ご蔵書なども、生前から着々と整理しておられた。
それでありながら、著作集完結のあとも、次々と論文・著書を公にされていた。最後までバリバリの現役研究者として第一線を走っておられたことを心から尊敬する。これは決して誇張ではない。このブログでもしばしば書いているように、学会での質疑応答、そしてとりわけ『上方文藝研究』合評会での、鋭いご指摘は、常にだれよりも深い示唆に富んでいた。先生が、『上方文藝研究』の合評会に、よくいらしてくださって、教えてくださった数々のことは、院生諸氏にとって、そして私たちにとっても、本当に貴重な財産となっている。私たちは、次号を、先生の追悼号とする。
島津先生を知るすべての人が、言うだろう。島津先生のように、学問的にも人間的にも本当にすばらしい方は、めったにいない。島津先生から人の悪口はきいたことがないし、島津先生を悪く言う人もきいたことがない。そして、本当に気さくでいらっしゃった。先生は、どんな人に対しても気さくに接し、惜しみなく知識を授けてくださった。先生は現代歌人でもあり、先生を囲む短歌の会も行われていたときくし、連歌関係の研究会があったり、杭全神社での連歌興行などでも指導的立場におられ、源氏物語を読む読書会も長く続けられていたと聞いている。
私がかかわった学術誌、「江戸時代文学誌」「雅俗」「上方文藝研究」の創刊号の巻頭論文はいずれも島津先生が書いてくださっている。
そして私が大阪に来てどれだけ先生に教えられ、励まされ、助けられたか。私が、そして私の妻が大阪で曲がりなりにもやってこれたのは、島津先生のお力が本当に大きい。
先生は、佐賀大学におられたことがあり、九州大学関係の先生とのご縁も深い。そこで私が阪大に赴任した時の歓迎会には、先生もいらっしゃってくださったが、それまでに、そんなに先生と深い御付き合いがあったわけではない。先生は、慣れない関西に来て戸惑っているであろう私たちを気遣ってくださり、居場所を作ってくださったのだと思う。大阪に来たころは、島津先生のお宅に押し掛けて、いろいろなお話を伺って、あまりの愉しさに時を忘れたこともしばしばあったことが思い出される。柿衛文庫で仕事をさせていただいるのも先生のお陰である。
いまはこの喪失感を何とも言い表すことができない。
心から哀悼の意を表する。
先生、ありがとうございました。
その訃報に接した時、にわかには信じられなかった。
一人暮らしをされていた川西のご自宅から、ご家族のいらっしゃる関東(所沢)に移ることを決心されたのは、確かに先生のご体調が理由だとうかがっていたが、先生はお元気でいらっしゃると、幾人かの方に伺っていたからである。
しかし、その時は来てしまった。
先生ご自身は、それを覚悟されていた。
この6月ごろ出る予定の『上方文藝研究』へのご投稿は、ご自身にもしものことがあっては、と去年の夏には入稿されていた。先生のご意向を汲み、校正も早く出してもらい、秋には校了していたのである。
また、ご蔵書なども、生前から着々と整理しておられた。
それでありながら、著作集完結のあとも、次々と論文・著書を公にされていた。最後までバリバリの現役研究者として第一線を走っておられたことを心から尊敬する。これは決して誇張ではない。このブログでもしばしば書いているように、学会での質疑応答、そしてとりわけ『上方文藝研究』合評会での、鋭いご指摘は、常にだれよりも深い示唆に富んでいた。先生が、『上方文藝研究』の合評会に、よくいらしてくださって、教えてくださった数々のことは、院生諸氏にとって、そして私たちにとっても、本当に貴重な財産となっている。私たちは、次号を、先生の追悼号とする。
島津先生を知るすべての人が、言うだろう。島津先生のように、学問的にも人間的にも本当にすばらしい方は、めったにいない。島津先生から人の悪口はきいたことがないし、島津先生を悪く言う人もきいたことがない。そして、本当に気さくでいらっしゃった。先生は、どんな人に対しても気さくに接し、惜しみなく知識を授けてくださった。先生は現代歌人でもあり、先生を囲む短歌の会も行われていたときくし、連歌関係の研究会があったり、杭全神社での連歌興行などでも指導的立場におられ、源氏物語を読む読書会も長く続けられていたと聞いている。
私がかかわった学術誌、「江戸時代文学誌」「雅俗」「上方文藝研究」の創刊号の巻頭論文はいずれも島津先生が書いてくださっている。
そして私が大阪に来てどれだけ先生に教えられ、励まされ、助けられたか。私が、そして私の妻が大阪で曲がりなりにもやってこれたのは、島津先生のお力が本当に大きい。
先生は、佐賀大学におられたことがあり、九州大学関係の先生とのご縁も深い。そこで私が阪大に赴任した時の歓迎会には、先生もいらっしゃってくださったが、それまでに、そんなに先生と深い御付き合いがあったわけではない。先生は、慣れない関西に来て戸惑っているであろう私たちを気遣ってくださり、居場所を作ってくださったのだと思う。大阪に来たころは、島津先生のお宅に押し掛けて、いろいろなお話を伺って、あまりの愉しさに時を忘れたこともしばしばあったことが思い出される。柿衛文庫で仕事をさせていただいるのも先生のお陰である。
いまはこの喪失感を何とも言い表すことができない。
心から哀悼の意を表する。
先生、ありがとうございました。
2016年05月05日
ヤパノロギーへの通学路
ある日の出勤。午前8時。ゲストハウスを出ました。外観はこんな感じです。ふりかえって撮りました。自転車で行くこともあり、歩くこともあり。今日は徒歩です。
すぐにネッカー河に出ます。
こんな道を歩きます。
朝はまだ寒いんですよね。温度ひとケタです。
橋の下。ここはスケボーの練習場ですな。
サカツラガンの家族がいます。
このあたりお昼間は日光浴の人で一杯になります。
二つめの橋の上に出ました。こんな景色が橋の上からは見えます。
旧市街。トラムが見えます。
ハウプト通りにはいってきた。もうすぐです。
ヤパノロギーがみえてきました。
到着。ここが日本学研究所。所要時間40分。
おまけ。帰りの橋から。光の関係でお城がよく見えます。
これで夜の8時ですから。
すぐにネッカー河に出ます。
こんな道を歩きます。
朝はまだ寒いんですよね。温度ひとケタです。
橋の下。ここはスケボーの練習場ですな。
サカツラガンの家族がいます。
このあたりお昼間は日光浴の人で一杯になります。
二つめの橋の上に出ました。こんな景色が橋の上からは見えます。
旧市街。トラムが見えます。
ハウプト通りにはいってきた。もうすぐです。
ヤパノロギーがみえてきました。
到着。ここが日本学研究所。所要時間40分。
おまけ。帰りの橋から。光の関係でお城がよく見えます。
これで夜の8時ですから。