日本近世文学会春季大会が、6月10・11日の日程で、東京女子大学で行われた。
その前週に、中古文学会も開催されていて、運営の点では、まことにそつがなく、行き届いているという印象。たとえば、研究会開催前に委員会が開催されるが、委員は総合受付を経由せずとも、委員会会場で受け付けと発表資料を受け取れる仕組みなど、細部に心配りが。事務局と大会校にはいつもながら感謝感謝。
発表者は9名で、やや少なめだが、ゆったりした日程で、早めに終わるのも悪くない。ちょっと帰りにバーにでもよって発表の感想を述べ合うような会もできるというものである(←それをした人)。
さて、発表は全部を聞いたわけではないので、例によって、恣意的に取り上げる。
まず土曜日のトップバッターは、私のゼミの学生。ボコボコにされるのは本人十分覚悟の上の、西鶴でのいわば異説の発表。私のアドバイスは「堂々と発表してきなさい」ということ(←精神論か!)。
従来、ほぼ読みの定まっている作品に対して、別の鑑賞法もありうるという問題提起だった。大家のお二人の質問を引き出したのはOK。前者の方の質問はさすがに鋭く、しばしの沈黙があったが、「貴重なご指摘ありがとうございます。今後の課題とさせていただきます」と逃げるのではなく、ちゃんと自分なりに答えたのは、いいのではないかと思った。私の聞いた範囲、あるいはSNSなどでも、面白く聴いたという意見は多かった。「10人が10人そう読む」という読み方に敢えて異を唱えるのは「岩盤ドリル」だが、それをやろうとしたことにエールが送られていたと思うし、「論じ方次第では、もっと説得力を持ったよ」と教えてくださる西鶴研究者の方もいたのはありがたい。発表したからこそ見えてくることがあるのだ。
2日目の合巻の表現規制を戯画化した合巻についての佐藤至子さんの発表は、聴いてて惚れ惚れするような明快な論旨と展開であった。それに対する質疑応答も非常に高度で面白かった。ずっと聴いていたいような至福感。学会発表を聴きに来る醍醐味がここにあるといってよい。
徳田武先生の、前年の発表「洒落本『列仙伝』は上田秋成作ならん」の続考となる「『雅仏小夜嵐』も上田秋成作ならん」。前考を認めない方には当然今回も受け入れられない。実は、前年の議論を(在外のため)私は聞いていない。秋成研究者が批判したとは聞いていたが、今回、秋成研究の大家からの質問意見が出なかったのは、前年の発表を認めないという立場からの当然の対応なのだろうと思った。
ただ、この推定を根拠薄弱、実証手続き不十分と批判することはもちろん可能だが、絶対にありえないとは少なくとも私には言えない。だから多少秋成研究者との議論を期待していたのだが残念であった。作者「蘇生法師」をめぐる井口先生との議論はあったが。
もっとも若い人がこういう発表を真似すべきではない。徳田先生には、秋成研究史の上で、従来手薄であった秋成の漢学についての有意義な研究があり、読本における数々の典拠の指摘の実績は言うまでもない。それらを総合的に判断すれば、かかる発表もありだろうと思う。現にいろいろな意味で勉強になったし、質疑を含めて有意義だったと思う。異論があるだろうが、それを承知で敢えて私感を述べる次第である。
それにしても、今回は学会発表における質疑について考えされられた。
発表者が少なくなってきているのを逆手にとって、質疑時間をもう少し長くとってもいいかもしれない。せめて10分とっていただければ、今回挙手しながらも質問できなかった方も質問できていただろう。
とはいえ、現状は5分というルールである。であるならば、質問する方もそれを意識しないといけないだろう。他にも質問者がいるかもしれないから、手短に、整理して質問することを意識しなければならないだろう。質問の内容も、できるだけ発表の可能性を引き出してあげるような、問題意識を深めるようなものであることが望ましい。長い質問・やりとりがよくないというのではない。現に佐藤至子さんと佐藤悟さんのやりとりは、今大会の白眉というべきもので、時間は気にならなかった。研究会のようにゆったりとした時間があることを前提とするかのような質問は勘弁してほしいのである。
さて、個人的には、今学会会場渡しを約束していた、とある編著の念校が無事渡せたことが何よりであった。