国立国語研究所で、11月25日、シンポジウム「変体仮名のこれまでとこれから」が開催されます。
人間文化研究機構 広領域連携基幹研究プロジェクト 「異分野融合による総合書物学の構築」の国立国語研究所ユニット 「表記情報と書誌形態情報を加えた日本語歴史コーパスの精緻化」主催で、共催は情報処理推進機構国際標準推進センター
と国文学研究資料館古典籍共同研究事業センター。私も、くずし字学習支援アプリのことを話します。参加は事前申し込みが必要、参加費は不要です。
それにしても、KuLAのことを国立国語研究所のシンポで取り上げてくれるとは、まことにありがたい。これも応援してくださったKuLAユーザーの皆様のおかげで〜す。
開催期日
平成29年11月25日 (土) 10:30〜18:00
開催場所
国立国語研究所 講堂 (東京都立川市緑町10-2)
プログラム
10:30〜12:00
セッション1 「変体仮名のこれまで」
司会 : 小助川 貞次 (富山大学)
平仮名の成り立ちと変体仮名
矢田 勉 (東京大学)
いろは仮名といまの平仮名 ―近代における仮名の体系化―
岡田 一祐 (国文学研究資料館)
『秋萩帖』と近代活字
銭谷 真人 (国立国語研究所)
13:00〜14:30
セッション2 「変体仮名の文字コード標準化」
司会 : 田代 秀一 (情報処理推進機構)
ISO/IEC 10646の変体仮名セット
高田 智和 (国立国語研究所)
IPA変体仮名のデザインが確立するまで
増田 浩之 (株式会社モリサワ)
変体仮名はどのようにして国際標準になったか ―戦略と戦術―
小林 龍生 (情報処理推進機構)
14:45〜16:15
セッション3 「変体仮名・くずし字学習」
司会 : 矢田 勉 (東京大学)
くずし字学習支援アプリの可能性
飯倉 洋一 (大阪大学)
変体仮名文字情報基盤を利用した学習システム開発
橋本 雄太 (国立歴史民俗博物館)
大学における古典解読基礎知識としての変体仮名教育
斎藤 達哉 (専修大学)
16:30〜18:00
セッション4 「字形データベースとOCR」
司会 : 小木曽 智信 (国立国語研究所)
歴史的典籍NW事業と字形データセット ―なぜ国文研が字形データなのか―
山本 和明 (国文学研究資料館)
くずし字OCR技術の現在と課題
大澤 留次郎 (凸版印刷株式会社)
表記情報研究のこれからとOCR
當山 日出夫 (花園大学)
2017年10月31日
2017年10月30日
江戸の出版統制
佐藤至子さんの『江戸の出版統制』(吉川弘文館、2017年11月)が刊行された。歴史文化ライブラリーの1冊。
江戸之出版統制の諸相を、主として戯作の統制の面から解説する。
同時に、洒落本・黄表紙・人情本・合巻などの戯作の様式についての入門書でもありうる。
非常に読みやすい。隅々まで一般読者に配慮されているのがよくわかる。
このように、わかりやすく書くためには、文書をはじめとして、資料をきちんと読みこまなければならないはずだが、それをさらりとやっている感じがする。
また、いつもながら先行研究をきちんと踏まえており、後学の者にとっても重宝である。
個人的には、読本『絵本太閤記』周辺の話が面白かった。
江戸之出版統制の諸相を、主として戯作の統制の面から解説する。
同時に、洒落本・黄表紙・人情本・合巻などの戯作の様式についての入門書でもありうる。
非常に読みやすい。隅々まで一般読者に配慮されているのがよくわかる。
このように、わかりやすく書くためには、文書をはじめとして、資料をきちんと読みこまなければならないはずだが、それをさらりとやっている感じがする。
また、いつもながら先行研究をきちんと踏まえており、後学の者にとっても重宝である。
個人的には、読本『絵本太閤記』周辺の話が面白かった。
2017年10月29日
出版文化のなかの浮世絵
前エントリーの『浮世絵細見』で、浅野氏自身が「長い間疑問であった」のが、「絵草紙屋の店頭で買った浮世絵は、どうやって渡されたのだろうか」ということ。浅野氏はこれについて、鈴木俊幸氏が、「くるくると筒状に丸めて掛紙に包み、その上に細長い紙片を廻して合せ目を捻って留めて客に渡される」としていたことに驚いたと、終章で書かれている。本文の160ページあたりに、鈴木氏の説が紹介されている。
その鈴木俊幸氏編の、『出版文化のなかの浮世絵』(勉誠出版、2017年10月)が刊行された。英国ノリッチのセインズベリー日本藝術研究所でおこなわれたワークショップを基にした本である。中国絵入本の翻案についての研究、都名所図会の書誌的研究、錦絵の成立についての再検討、春信の座鋪八景の考察、巨匠浮世絵師を江戸時代に即して評価しなおす試み、浮世絵の流通に関する考察と資料紹介などであり、いずれも実に興味深い。以上、浮世絵繋がりで3連続投稿しました。
その鈴木俊幸氏編の、『出版文化のなかの浮世絵』(勉誠出版、2017年10月)が刊行された。英国ノリッチのセインズベリー日本藝術研究所でおこなわれたワークショップを基にした本である。中国絵入本の翻案についての研究、都名所図会の書誌的研究、錦絵の成立についての再検討、春信の座鋪八景の考察、巨匠浮世絵師を江戸時代に即して評価しなおす試み、浮世絵の流通に関する考察と資料紹介などであり、いずれも実に興味深い。以上、浮世絵繋がりで3連続投稿しました。
浮世絵細見
前エントリーの北斎展を企画したのは、大英博物館のティモシー・クラーク氏と、あべのハルカス美術館の浅野秀剛氏。クラーク氏とは、20数年前、中野三敏先生をはじめとする10人ほどのグループで訪英したさいにお世話になり、同窓のロバート・キャンベル氏と、大学時代にツーショットで写ったMENSCLUBだったかの男性ファッション雑誌を見せていただいたこともある(二人とも超イケメンで。クラークさんは最近ぐっと貫禄が)。山口県立美術館で催された大英博物館展の際にもお会いした。クラーク氏の研究方法が、きわめて緻密な実証的方法だったのに驚かされた。そのクラーク氏と、浮世絵研究のエースともいえる浅野氏がタッグを組んでの北斎展だったから、これほどのインパクトをもたらしたのだろう。
さて、その浅野秀剛氏の『浮世絵細見』(講談社選書メチエ、2017年8月)は、浮世絵研究の面白さを伝えようとする、これまでになかった一般書である。浮世絵の料紙や大きさ、浮世絵版画の包紙、異版の先後、絵半切・絵入折手本など、興味深いトピックが満載で、「浮世絵を研究したくなる」(終章は「浮世絵研究をしたくなった方へ」と題される)。と、同時に、近世小説と呼ばれる分野の研究は、絵を無視しては成り立たないな、と改めて反省させられる。それは同時に、浮世絵の対象である演劇も合わせ考えねばならないことも胸に刻まされる。
そういう反省は自分の胸にしまうとして、本書はマニアックでレベルの高い内容ながら、スリリングで楽しく読める本でありました。
さて、その浅野秀剛氏の『浮世絵細見』(講談社選書メチエ、2017年8月)は、浮世絵研究の面白さを伝えようとする、これまでになかった一般書である。浮世絵の料紙や大きさ、浮世絵版画の包紙、異版の先後、絵半切・絵入折手本など、興味深いトピックが満載で、「浮世絵を研究したくなる」(終章は「浮世絵研究をしたくなった方へ」と題される)。と、同時に、近世小説と呼ばれる分野の研究は、絵を無視しては成り立たないな、と改めて反省させられる。それは同時に、浮世絵の対象である演劇も合わせ考えねばならないことも胸に刻まされる。
そういう反省は自分の胸にしまうとして、本書はマニアックでレベルの高い内容ながら、スリリングで楽しく読める本でありました。
晩年の北斎
少し前に北斎展を見に行った。約40分待ちだった。今頃はもっと長くなっているだろう。
これは何時間まっても見る価値がありますね。
肉筆が多く、これまで見たことのないものがいくつもあって、実によかった。
特に最晩年の、神がかった絵は、不思議な感覚が襲ってくるようだ。
「流水に鴨図」は特に感服。自身の中の未知の感覚が呼び覚まされるような、画との交信が可能。
あべのハルカスのみに出ているという「胡蝶の夢図」の構図と表情の玄妙。
圧倒的な滝の質感が迫る「李白観瀑図」。
そして、これまで感じたことのない、安楽な死のような超絶不可思議な世界を体現する「雪中虎図」。
見れば見るほど、「宇宙の奥」に吸い込まれるような、板絵の「濤図」。
まさに心技一体の芸術である。とてもいいものを見せていただいた。いまだに昂揚が冷めないくらいの。
世界で評価されているのも宜なるかな。
これは何時間まっても見る価値がありますね。
肉筆が多く、これまで見たことのないものがいくつもあって、実によかった。
特に最晩年の、神がかった絵は、不思議な感覚が襲ってくるようだ。
「流水に鴨図」は特に感服。自身の中の未知の感覚が呼び覚まされるような、画との交信が可能。
あべのハルカスのみに出ているという「胡蝶の夢図」の構図と表情の玄妙。
圧倒的な滝の質感が迫る「李白観瀑図」。
そして、これまで感じたことのない、安楽な死のような超絶不可思議な世界を体現する「雪中虎図」。
見れば見るほど、「宇宙の奥」に吸い込まれるような、板絵の「濤図」。
まさに心技一体の芸術である。とてもいいものを見せていただいた。いまだに昂揚が冷めないくらいの。
世界で評価されているのも宜なるかな。
2017年10月27日
庭鐘読本の男と女
『国語と国文学』2017年11月号、「近世文人の文学」には丸井貴史「庭鐘読本の男と女−白話小説との比較を通して−」も掲載されている。
丸井氏は学生時代に1年間中国に留学、その後も研鑽を積まれ、いい仕事を次々にされている。特に、白話小説をきちんと読み込んだ上での、文献的・作品論的研究に成果を上げている。
本論文もそのひとつである。都賀庭鐘の読本が白話小説の影響を受けているのは周知のことであるが、これまでの研究は、典拠論が中心だった。しかし、この論文は庭鐘の白話小説体験を総合的に検討した上で、「男と女」の問題に迫っている。中村幸彦先生以来、都賀庭鐘は「女性に厳しい書き方をする」というイメージが出来上がっている感があるが、庭鐘が読んだに違いない複数の白話小説を丁寧に分析し、その問題をジェンダー論なども意識しつつ、考察している。
結果として、中村幸彦説を相対化することに成功している。庭鐘研究史の上でも重要な位置を占める論文になるだろう。庭鐘研究が盛り上がるのは非常に嬉しい。なにしろ庭鐘は「奇談」作者なので(笑)
丸井氏は学生時代に1年間中国に留学、その後も研鑽を積まれ、いい仕事を次々にされている。特に、白話小説をきちんと読み込んだ上での、文献的・作品論的研究に成果を上げている。
本論文もそのひとつである。都賀庭鐘の読本が白話小説の影響を受けているのは周知のことであるが、これまでの研究は、典拠論が中心だった。しかし、この論文は庭鐘の白話小説体験を総合的に検討した上で、「男と女」の問題に迫っている。中村幸彦先生以来、都賀庭鐘は「女性に厳しい書き方をする」というイメージが出来上がっている感があるが、庭鐘が読んだに違いない複数の白話小説を丁寧に分析し、その問題をジェンダー論なども意識しつつ、考察している。
結果として、中村幸彦説を相対化することに成功している。庭鐘研究史の上でも重要な位置を占める論文になるだろう。庭鐘研究が盛り上がるのは非常に嬉しい。なにしろ庭鐘は「奇談」作者なので(笑)
2017年10月25日
春雨物語について触れた秋成の書翰
『国語と国文学』11月号特集号は、「近世文人の文学」を特集。若手ベテラン中堅のバランス絶妙に9本の論考を載せる。いずれも必読と思うが、まず私にとっては長島弘明「『春雨物語』の書写と出版」である。待ちに待った新資料紹介である。
誰宛かはわからないながら、紛れもない秋成自筆書状。これが現れたのは、何年前の東京古典会だったか。大阪から見に行きました。何しろ、春雨物語について秋成自身が書いた書状が初めて出てきたのである。ちょうど会場に新進のTさんが居合わせ、興奮気味に自分も入札したと話していた。その時の金額も覚えているが・・・。しかし、モノは長島弘明さんの手に落ちた。予想通りである。なんとなく、そのことは知っていたので、長島さんにお会いする度に、「是非、紹介してください。学界で共有を」と訴えていたのだが、もとより長島さんもそのおつもりであったので、今回周到きわまる解題と論考を付して、解き放ったのである。喜ばしからずや。
長島さんの考証の結果、次のことが明らかにされた。
この秋成書状は、文化五年六月二十二日に書かれたもの。
宛先は、「本来なら会って話すべきなのだがと行っているようなので」近隣の人物。松本柳斎が第一候補だが確証はない。
内容からわかることは、
伊勢人が春雨物語をほしがっている。
今回いったん大阪の人に書写させた。(その書写した人物は斉収か、巻子本の形である可能性が高い)。
それをあなた(宛先の人物)の方でいったん見てほしい。
その上で私(秋成)が筆写する。
それを差し上げ、所望の人が満足するような書家に清書させてはどうか。松阪には韓天寿のような書家の流れを汲む人がいるのではないか。
ある本屋が春雨物語を出版したいと言ってきている。(これも不明だが京都の吉田四郎右衛門がもっともふさわしい。)
長島さんの考察では、この伊勢人の元に結果的に送られたのは、秋成自筆の巻子本で、現在の桜山本の底本になったものである。
「いせ人」は誰か。伊勢松阪の長谷川氏一族(が蓋然性が高い)をはじめとする好学の町人の誰かである。
さてこのあとの長島さんの論の展開では、富岡本と文化五年本の文章の違いは、伊勢人への配慮によるものではなく、秋成の内発的な欲求によって生じたものであるとする。長島さんは富岡本がほんの少し先に成ったという説である。これを長島さんが強調するのは、たぶんというか、明記されているように、このごろ私や高松亮太氏が、本文の違いは想定する読者の違いによるものとする考え方(この考え方には鈴木淳氏や稲田篤信氏も立っている、あるいは否定していないと思う)があり、それを否定するためであろう。かなり強い調子で否定している(これは結構批判される側としては嬉しいのですが)。この点に関しては、いくつか弁論があるが、拙速にこの場ですることではない。
もう1点、長島さんは、この手紙で、春雨物語の出版を秋成は拒否していなかったことが明らかになったことを受けて、『春雨物語』はその内在的論理から版本になることを拒否したと考えるのはロマンチックな俗説であったろう、と切り捨てている(こちらは佐藤深雪さんの説を意識か)。この点に私も異論はない。むしろ、秋成自身が最初から出版を想定して春雨物語を書いたわけではないということがわかったという側面を重視したい。
ともあれ、今後の春雨物語論は本論文そして本論文で紹介された書翰抜きには語れない。この論文で拙論を批判していただいたのは幾重にもありがたく、御礼申しあげたい。
私としては、「伊勢人の所望があった」ことが明らかにされたことは、むしろ拙論にとってはありがたいことだった。
もちろん、私が「想像」しているような「一方で富岡本が羽倉家のために書かれた」という根拠は依然としてなにもない。
しかし、「学問廃棄後に物語に自由を見出した」とか「誰かに贈るために、あるいは誰かに依頼されて、物語の文章を初めて書くなどということはあり得ない」と言い切られると、そこはもう少し待ってほしいと言いたくなる。
「和文や随筆の場合はあり得る」ともおっしゃっているが、「春雨物語」を読本の物語性と同一上に置くのはちょっとためらわれる。和文や随筆とは違うが、「物語」とは、春雨「物語」の場合、序文もふくめて「漫語」「独語」に近いのではないか。和文や随筆に近い物語ではないか。
いずれにせよ、久々に目の覚めるような春雨の論文に接し、まことにありがたかった。
誰宛かはわからないながら、紛れもない秋成自筆書状。これが現れたのは、何年前の東京古典会だったか。大阪から見に行きました。何しろ、春雨物語について秋成自身が書いた書状が初めて出てきたのである。ちょうど会場に新進のTさんが居合わせ、興奮気味に自分も入札したと話していた。その時の金額も覚えているが・・・。しかし、モノは長島弘明さんの手に落ちた。予想通りである。なんとなく、そのことは知っていたので、長島さんにお会いする度に、「是非、紹介してください。学界で共有を」と訴えていたのだが、もとより長島さんもそのおつもりであったので、今回周到きわまる解題と論考を付して、解き放ったのである。喜ばしからずや。
長島さんの考証の結果、次のことが明らかにされた。
この秋成書状は、文化五年六月二十二日に書かれたもの。
宛先は、「本来なら会って話すべきなのだがと行っているようなので」近隣の人物。松本柳斎が第一候補だが確証はない。
内容からわかることは、
伊勢人が春雨物語をほしがっている。
今回いったん大阪の人に書写させた。(その書写した人物は斉収か、巻子本の形である可能性が高い)。
それをあなた(宛先の人物)の方でいったん見てほしい。
その上で私(秋成)が筆写する。
それを差し上げ、所望の人が満足するような書家に清書させてはどうか。松阪には韓天寿のような書家の流れを汲む人がいるのではないか。
ある本屋が春雨物語を出版したいと言ってきている。(これも不明だが京都の吉田四郎右衛門がもっともふさわしい。)
長島さんの考察では、この伊勢人の元に結果的に送られたのは、秋成自筆の巻子本で、現在の桜山本の底本になったものである。
「いせ人」は誰か。伊勢松阪の長谷川氏一族(が蓋然性が高い)をはじめとする好学の町人の誰かである。
さてこのあとの長島さんの論の展開では、富岡本と文化五年本の文章の違いは、伊勢人への配慮によるものではなく、秋成の内発的な欲求によって生じたものであるとする。長島さんは富岡本がほんの少し先に成ったという説である。これを長島さんが強調するのは、たぶんというか、明記されているように、このごろ私や高松亮太氏が、本文の違いは想定する読者の違いによるものとする考え方(この考え方には鈴木淳氏や稲田篤信氏も立っている、あるいは否定していないと思う)があり、それを否定するためであろう。かなり強い調子で否定している(これは結構批判される側としては嬉しいのですが)。この点に関しては、いくつか弁論があるが、拙速にこの場ですることではない。
もう1点、長島さんは、この手紙で、春雨物語の出版を秋成は拒否していなかったことが明らかになったことを受けて、『春雨物語』はその内在的論理から版本になることを拒否したと考えるのはロマンチックな俗説であったろう、と切り捨てている(こちらは佐藤深雪さんの説を意識か)。この点に私も異論はない。むしろ、秋成自身が最初から出版を想定して春雨物語を書いたわけではないということがわかったという側面を重視したい。
ともあれ、今後の春雨物語論は本論文そして本論文で紹介された書翰抜きには語れない。この論文で拙論を批判していただいたのは幾重にもありがたく、御礼申しあげたい。
私としては、「伊勢人の所望があった」ことが明らかにされたことは、むしろ拙論にとってはありがたいことだった。
もちろん、私が「想像」しているような「一方で富岡本が羽倉家のために書かれた」という根拠は依然としてなにもない。
しかし、「学問廃棄後に物語に自由を見出した」とか「誰かに贈るために、あるいは誰かに依頼されて、物語の文章を初めて書くなどということはあり得ない」と言い切られると、そこはもう少し待ってほしいと言いたくなる。
「和文や随筆の場合はあり得る」ともおっしゃっているが、「春雨物語」を読本の物語性と同一上に置くのはちょっとためらわれる。和文や随筆とは違うが、「物語」とは、春雨「物語」の場合、序文もふくめて「漫語」「独語」に近いのではないか。和文や随筆に近い物語ではないか。
いずれにせよ、久々に目の覚めるような春雨の論文に接し、まことにありがたかった。
2017年10月11日
浮世草子大事典
『浮世草子大事典』(笠間書院、2017年10月)が刊行された。快挙と言わずしてなんと言おう。
江戸時代の他のジャンルでは、このような作品網羅的な事典は出ていない。棚橋正博氏の『黄表紙総覧』がそれに近いか。『読本事典』『人情本事典』は網羅的ではない。仮名草子・談義本・洒落本・・・・、なかなか簡単にできるものではないだろう。
本書は「事項編」「人名編」「作品編」「資料編」「索引編」から成る。
「事項編」は19のトッピクについて、それを得意とする執筆者が、最新の成果を踏まえて書いている。概説はもちろん長谷川強先生。浮世草子を専門とする人以外でも、好色本関係を石上阿希さん、役者評判記や演劇との関係を河合真澄さん、貸本を長友千代治先生、そして国語学者も文法・表記・語彙・文体などの解説で参加している。私も「奇談」との関係を書かせていただいた。たったそれだけで執筆者の一人に入れていただいたのは申し訳ない次第である。
「人名編」には絵師も取り上げられているのが嬉しい。
もちろん圧巻は「作品編」で、「梗概」「特色」「諸本」「翻刻・影印」「参考文献」と、各項目至れり尽くせりである。ここが執筆者の皆さん本当に苦労されたところだろう。多くの作品において、その挿絵も紹介されている。
「資料編」は挿絵画像補遺と浮世草子年表。事項・関連作品・戯曲も載せているので、時代の中の浮世草子が見えてくる。
「索引編」は、五十音順とカテゴリー別の両方で引ける挿絵索引。これが当時の風俗を知るのに貴重である。
それにしても、浮世草子研究者軍団は、かつて『八文字屋本全集』を出し、『西鶴と浮世草子研究』を5号刊行し、今またこの大事典を出す。その団結力は敬服に値する。これはやはり、長谷川強先生の牽引力・求心力が大きいのだろう。
その長谷川先生の序には、「八文字屋本は才覚の模倣・剽窃に過ぎぬというような愚蒙の説が長く通用していたのである」と従来の評価を斬り、浮世草子の文学史上における真の意義を説いておられる。
従来のこの種の事典になかった「挿絵の重視」も大きな特徴になっている。これがあるので、社会史・風俗史の研究にとっても必備の事典となっている。何より、引く事典というよりは、読む事典としての魅力がある。
事典の編集に携わった方々には特に御礼を申し上げたい。
江戸時代の他のジャンルでは、このような作品網羅的な事典は出ていない。棚橋正博氏の『黄表紙総覧』がそれに近いか。『読本事典』『人情本事典』は網羅的ではない。仮名草子・談義本・洒落本・・・・、なかなか簡単にできるものではないだろう。
本書は「事項編」「人名編」「作品編」「資料編」「索引編」から成る。
「事項編」は19のトッピクについて、それを得意とする執筆者が、最新の成果を踏まえて書いている。概説はもちろん長谷川強先生。浮世草子を専門とする人以外でも、好色本関係を石上阿希さん、役者評判記や演劇との関係を河合真澄さん、貸本を長友千代治先生、そして国語学者も文法・表記・語彙・文体などの解説で参加している。私も「奇談」との関係を書かせていただいた。たったそれだけで執筆者の一人に入れていただいたのは申し訳ない次第である。
「人名編」には絵師も取り上げられているのが嬉しい。
もちろん圧巻は「作品編」で、「梗概」「特色」「諸本」「翻刻・影印」「参考文献」と、各項目至れり尽くせりである。ここが執筆者の皆さん本当に苦労されたところだろう。多くの作品において、その挿絵も紹介されている。
「資料編」は挿絵画像補遺と浮世草子年表。事項・関連作品・戯曲も載せているので、時代の中の浮世草子が見えてくる。
「索引編」は、五十音順とカテゴリー別の両方で引ける挿絵索引。これが当時の風俗を知るのに貴重である。
それにしても、浮世草子研究者軍団は、かつて『八文字屋本全集』を出し、『西鶴と浮世草子研究』を5号刊行し、今またこの大事典を出す。その団結力は敬服に値する。これはやはり、長谷川強先生の牽引力・求心力が大きいのだろう。
その長谷川先生の序には、「八文字屋本は才覚の模倣・剽窃に過ぎぬというような愚蒙の説が長く通用していたのである」と従来の評価を斬り、浮世草子の文学史上における真の意義を説いておられる。
従来のこの種の事典になかった「挿絵の重視」も大きな特徴になっている。これがあるので、社会史・風俗史の研究にとっても必備の事典となっている。何より、引く事典というよりは、読む事典としての魅力がある。
事典の編集に携わった方々には特に御礼を申し上げたい。