2018年03月05日

木越治さんのこと

 木越治さんの突然の訃報に接して1週間経つ。私だけではないと思うが「木越ファミリー」という言葉を使うことがある。木越さん自身が大家族の中で育ったこと、木越さんも双子の息子さん(そのうちのお一人が近世文学研究者の俊介さん)をはじめとするにぎやかなご家庭をつくったこと(愛妻の秀子さんも日本近世文学の研究者)、金沢大学出身の教え子たち、そして北陸古典研究の会や和太鼓のグループ、東京に移られてからつくられた秋成研究会。おそらくそれらすべては、木越ファミリーと呼ぶべきものだっただろう。他にも源氏物語を読む会などをずっと続けられていたとうかがっている。木越さんは、そのように中心にいていただくとほっとする、希有な存在である。
 何を、何から語ればいいのか。あまりにも語るべきことがありすぎる。ただ、私は、自分自身の秋成研究との関わりで、木越治という存在の意味をここでは語るべきだと思う。そのつきあいは私がはじめて論文を書いた38年前にさかのぼる。
 私は修士課程1年の時に初めて論文を書いた。そして数名の方に論文を送った。お会いしたこともないような方ばかりだったが、皆さん本当に丁寧にご返事を下さったのに驚いた。その当時木越治さんは32歳だったか。富山大学におられたころだった。返書は便箋6枚に及ぶものだった。九大本『玉すだれ』の書誌を教えてほしいという依頼を含んではいたが、正味5枚は拙論への批評だった。このお手紙にどれだけ励ましを受けただろう。
 次の論文の時も便箋4枚に及ぶものだった。褒めて下さりつつ、足りないところを、きっちりと指摘されるのは前回と同じだった。
 第3論文では、秋成の学芸研究をいくらやっても作品論には繋がらないという批判を受けた。私はこの批判を受けたことが、現在の私の研究を形成するのに大きな意味を持ったと思う。私は、ここで作品を意識するようになった。
 第4論文も相変わらず学問的著作を扱ったが、私のやり方を「独自の世界を構築しつつある」とお認めくださった。「以前の妄言」は気にしないようにと。
 しかし、第6論文にあたる「春雨物語序文考」は、第三論文の返書にあった「いつか貴君の春雨論を読みたい」という木越さんの言葉にお答えしたつもりの論文だった。これを木越さんは評価して下さった。私はやっと秋成研究者の中に入れたような気がした。
 木越さんの研究は、真正面から、作品と対峙する作品論(秋成だけではなく西鶴も)がある一方で、春雨物語の諸本論や字母論のような文献的・統計的研究があり、怪談系浮世草子の翻刻・研究もある。落語や講談にも詳しく、その方面のお仕事もあり、本朝水滸伝の注釈もある。近年は藤岡作太郎の仕事を手がかりとして、「文学史」の再検討を行っていた。つまり、木越さんは方法的にもマルチな人であり、どんな研究であってもその意味を認めることのできる間口の広さを持っていた。パソコンにも強く、研究上のツールを自分で作るほどの力もあった。近年は、秋成忌の運営に積極的に関わっておられた。
 木越さんは、裏がなく、真っ直ぐな方で、言うべきことをはっきり言うから、厚い信頼があった。私も学会発表で、『秋成考』の書評で、中野先生の西鶴戯作者説をめぐって、「菊花の約」論で、私の説の批判を受けたが、それらは私にとって、自説に向き合う機会を与えていただくありがたいものであった。「菊花の約」論争は「リポート笠間」誌上で交わしたのだが、私の反論に対する木越さんの再反論「飯倉洋一氏へ」で一応終わった形になった。私はこの文章を、木越さんの私への遺誡と受けとめている。これらについては、また機会があれば改めて書いてみたいと思う。
 木越さんとご一緒した仕事もいろいろある。頼まれたこと、お願いしたこと。同じメンバーとしてやったこと、などなど。お願いしたことは、まず阪大で私が広域文化表現論という講座を担当していた時に、「テクストの生成と変容」という研究プロジェクトの一環として、「秋成文学の生成と変容」というシンポジウムを開催した。その時の基調報告を木越さんにお願いした。このシンポジウムを基にして、『秋成文学の生成』という本を作ったが、共編者として参加していただき、冒頭に木越さんとのメール対談を配した。このメール対談をしたころは本当に楽しかった。この本の出版は、秋成没後200年記念行事の先陣を切るものだったが、その後本格的に学会の援助を受けて上田秋成200年展を京都国立博物館で開催することになり、実行委員となった稲田篤信さん、長島弘明さん、木越さんとで、一生懸命準備をしたことも忘れられない(高田衛先生・中野三敏先生も実行委員だったが実働部隊はこの4人だった)。京都での打ち合わせの時、待ち合わせの駅前で帽子を被った木越さんが、なにかの本を読んでいらっしゃった姿がなぜか脳裏に焼き付いている。その流れもあって、『文学』誌上で実行委員4名が座談会をした。座談会は暑い夏に行われたが、ネクタイを持参してきた木越さんが、「あれ、みんな(ネクタイ)しないの?」とおっしゃったのが可愛かった。それでその座談会では木越さんだけがネクタイを締めている。また、これは私が依頼したわけではないのだが、『国語と国文学』には拙著の書評を書いて下さった。学会で長島さんと木越さんに酷評された「血かたびら」論を、訂正もせずに載せているのは「天晴れ」だと妙な褒め方?をされている。
木越さんは、大阪大学で行われている上方読本を読む会にも1度参加して下さったことがある。確かあの時は「木越ファミリー」が勢揃いしたはずである。また、京都近世小説研究会で、2回目の西鶴特集をやったときに井上泰至さんと木越さんを呼んで西鶴を論じてもらった。
 木越さんからも、『上田秋成研究事典』の一項目や『前期読本怪談集』の校訂(のための人集め)を頼まれている。後者はなんとか木越さんのお目にかけることができてよかった。前者は、私の「菊花の約」論を強く批判されたこともあり、笠間書院(当時)の岡田さんに、煽られて、反論を書いたところ、それにもきっちりと再反論していただいたのは、有り難かった。講義でもこの論争を取り上げると受講生の反応がいいのである。中野三敏先生の西鶴戯作説をめぐってもお互いのブログを舞台に論争、こちらも笠間書院のウェブサイトに転載された。
 こうしてみると、私の研究生活の中に、木越治という存在がいかに大きいかをあらためて思う。まだまだ書き残したことがあると思う。
 秀子さんや俊介さんの悲しみ、そしていろんな意味での木越ファミリーのみなさんの「木越治ロス」の大きさが思い遣られる。
 木越さんの古稀を記念して、論文集が編集されているという。どうやらそれは刊行されるようだ。木越さんも楽しみにしておられるだろう。
 本当に、まだ実感が湧かないのであるが、木越さん、これまで本当にありがとうございます。これからも、何度も何度もあなたの論文を読み返すことでしょう。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする