2018年03月20日

伊勢における『春雨物語』の流通

 このところ、伊勢における秋成著作の流通が次々に明らかになっている。本ブログでも紹介してきたが、長島弘明さんが、新出の秋成書簡(宛名不明)に『春雨物語』の書写とその出版(これは結局実現しなかったようだが)の可能性について触れていることを紹介(「『春雨物語』の書写と出版」『国語と国文学』2017年11月)し、菱岡憲司さんが、小津桂窓から川喜田遠里に『春雨物語』の一本が渡ったことを、小津の手紙によって明らかにし(『鈴屋学会報』2017年12月)たのに続き、青山英正さんが、石水博物館蔵の川喜田遠里宛竹内弥左衛門書簡に、春雨物語ほか秋成の著作を返却するという記事が見えていることを紹介した(『明星大学研究紀要』2018年3月)。そこでは、その書簡の年月日も天保14年12月23日と確定された。竹内弥左衛門は現在知られる文化五年本『春雨物語』の三つの転写本のひとつ漆山本の書写者として知られる。その書写終了日は奥書によって天保14年12月17日とわかる。書写終了の6日後に返却したのである。
 では川喜田遠里が持っていた『春雨物語』とは?それは漆山本の底本と目される正住弘美が写したという桜山本であろう。ということは小津桂窓から川喜田遠里に渡った『春雨物語』もまた桜山本だったのであろう。西荘文庫本は、その桜山本の写しである(という説が有力だが、私の授業(演習)での学生たちの調査によれば、そう言い切れない部分もある)。文化五年に秋成が自ら書いた自筆本『春雨物語』は巻子本と思われ、現在もまだ出現していない。しかし、それを写したと思われる桜山本の伊勢における流通の様相はかなり生々しくわかってきている。新資料というのは出てくるときには不思議と次々に出てくるものである(実はもうひとつ超重要なブツが最近現れたのだが、アレは今どこに?)。かつて『春雨物語』文化五年本が出現したときもそうだった。今春雨物語研究の新たな潮流として、その流通の新事実が次々に明らかになっているが、それは、書物研究・人的交流研究という近年盛んになってきた研究状況と無縁ではない。
 青山さんの研究内容は、これも報告したが、我々の科研研究会(近世中後期上方文壇における人的交流と〈場〉)で発表していただいたものなのである。
 それにしても竹内は、『春雨物語』の中でも「捨石丸」「樊噲」を写さなかった。「放埒」「にくさげ」「みるにうるさく」と否定的に評し去った。一方で、『春雨物語』よりも先に『癇癖談』『諸道聴耳世間狙』のようなモデル小説に興味を示していたようである(別の書簡からそれが明らかにされる)。このようなモデル小説の書いた作品だからという流れで『春雨物語』なども読んでみたくなったようなのである。こういった秋成著作をめぐる伊勢の人々の関心のあり方や本の貸借から、当時の文化が見えてくる。それを解き明かす資料の宝庫が川喜田家ゆかりの石水博物館であることは間違いない。今後の展開に注目である。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする