2018年06月23日

『文化史のなかの光格天皇』各論文概観

飯倉洋一・盛田帝子編『文化史のなかの光格天皇 朝儀再興を支えた文芸ネットワーク』(勉誠出版、2018年6月)を刊行した。
和歌・漢詩文・思想史・近世文学史など、各分野の専門家に、それぞれの立場、切り口から、光格天皇を中心とする近世天皇文化に迫っていただいたもので、非常に問題提起にとむ論集となったと自負している。全体は3部構成。今回、私なりに、論文の概要をメモしたものを元に、各論文を紹介してみよう。
 まず緒論を藤田覚氏にお願いした。題して「光格天皇をどうとらえるか」。言うまでもなく、藤田氏は光格天皇研究の第一人者。今回は特に文化史的側面に光を当てて書いていただいた。『禁中并公家中諸法度』第一条とその元となった『禁秘抄』を踏まえて天皇の芸能・政務が行われていたことを前提に光格天皇を見る必要があるとし、光格天皇の学問・和歌・音楽・朝廷政務について概要を示した。

第一部は近世歌壇史における天皇そして堂上歌壇を検討した。大谷俊太氏の後水尾院から青山英正氏の孝明天皇まで、近世前期から幕末に至る近世和歌史の中心線が引かれたのではないか。
 大谷俊太氏の「後水尾院と趣向」は、花を愛でるあまり花と雲を見紛うという古今集和歌序以来の詠み方に対して、それをさらに一捻りした和歌の趣向を様々に論じる後水尾院の言説を検討したもので、和歌の趣向を模索しつつ宮廷歌壇をリードしていく後水尾院の歌論の一隅を照らし出した。大谷さんらしい論文である。
海野圭介氏の「霊元院の古今和歌集講釈とその聞書」は、正徳四(一七一四)年における霊元院の武者小路実陰への古今伝授に関わる諸資料を検討し、堂上の学問としての講釈活動が、個人的営みであるとともに、歌壇的な営みでもあったことを示した。海野氏らしい文献実証主義的考察。
久保田啓一氏の「冷泉為村と桜町院」は、後桜町院の死後に冷泉為村によって編まれた『桜町院御集』に付された奥書を、『冷泉家展』図録に一部掲載された自筆本も含めて細かく読み込み、近臣から見る天皇歌壇の実態を浮かび上がらせた。人間関係を描くのが得意の久保田氏手練れの文章。 
青山英正氏の「孝明天皇と古今伝受」は、江戸時代最後の天皇である孝明天皇が、歌道の未熟の自覚のため古今伝受相伝を遠慮しているうちに、伝受が断絶し、遂に途絶える過程をつぶさに追い、当時の政治情勢と宮廷歌壇の状況を織り込みながら、古今伝受がなお思い意味を持っていたことを明らかにした。これまでほとんど和歌史で扱われなかった孝明天皇を、ここまで緻密にしかもドラマチックに描き出した力量はすごい。本論集の目玉と言ってよい。
浅田徹氏の「武者小路実陰家集の二系統について ― 堂上〈内部〉の集と〈外部〉の集」は、堂上歌人の私家集形成には、家の内部資料による編纂と、外部流出資料による編纂の二つのあり方があり、特に後者は堂上歌壇の影響の具体相を知る重要資料だとし、武者小路実陰家集を例に分析する。浅田は地下歌人らの堂上歌壇重視の低下が、一八世紀中頃からの堂上歌人私家集類伝存量の減少に現れていることも指摘している。浅田氏の着眼は相変わらず冴えている。
神作研一氏の「香川黄中の位置」は、二条家流の和歌をよくし、堂上にも出入りした近世中後期の地下歌人香川黄中の歌業を、詳細な年譜作成を通して辿り、とくに堂上歌壇での活動や二条家流の歌学に基づく歌論などを中心に明らかにした。本格的な黄中論の始発といえよう。

第二部は、朝廷をめぐる学問・出版をテーマとした。
加藤弓枝氏の「『二十一代集』の開板― 書肆吉田四郎右衛門による歌書刊行事業の背景」は、院雑色の地下官人吉田四郎右衛門が、正保四(一六四七)年に出版し、後水尾院にも献上された『二十一代集』について、吉田四郎右衛門の家系的・財政的背景を探り、その家系が角倉家周辺にあり、財政的・技術的な面もそこから得た可能性を追求している。吉田四郎衛門の後裔は蘆庵の門人であることもあり、この書肆は加藤さんがずっと追いかけている。
勢田道生氏の「『大日本史』論賛における歴史の展開と天皇」は、安積澹泊の『大日本史』論纂の歴史区分が四期に分かれていることを指摘し、その叙述において天皇がどのように関連づけられているかを明らかにし、とくに武家政権との関わりについて注目している。勢田氏の「歴史叙述」研究の一つの成果として読める。
山本嘉孝氏の「中村蘭林と和歌−学問吟味の提言と平安朝の讃仰」は、近世中期の奥懦者者で室生鳩巣門の朱子学者蘭林が、幕臣の学問吟味をを提案したが、その際平安朝の公家の師弟の教育を参照し、古人の和歌を教戒に活用しながら儒学の地位向上をもくろんだことを明らかにした。儒学・漢詩文と朝廷・公家の関係は今後の課題であろう。
鍛冶宏介氏の「江戸手習所における七夕祭の広がりと書物文化」は、江戸の手習所では七夕の短冊に歌を書いて歌の上達を願うことが七夕祭として行われており、それらの歌が、天皇や公家の和歌アンソロジーの歌を出拠とし、直接的には日用教養書に掲載している和歌が選ばれていたことを明らかにした。歴史研究者の鍛冶氏だが、往来物や節用集を用いてこんな文化研究ができるんだということを次々に発表しておられ、文学研究者の学ぶべき方法論として、彼の研究は見逃せない。
一戸渉氏の「書道大師流と近世朝廷」は、十八世紀末から十九世紀前半ころにかけて、近世朝廷で書道大師流入木道が重用されるようになる契機が、近衛家煕の大師流尊重に見出し、その後岡本保考が妙法院宮真仁法親王に寵用された影響で大いに盛んになり、光格天皇も熱心に学んだことを指摘した。別論、一戸渉 「大師流と入木道書―架蔵岡本保考宛妙法院宮真仁法親王書状小考―」(斯道文庫論集52)の姉妹編。力作。
合山林太郎氏の「梅辻春樵−妙法院宮に仕えた漢詩人」は、日吉社神官をつとめた家の出身である漢詩人梅辻春樵の生涯を追い、妙法院宮での諸活動を通して、近世後期の公家門跡の世界の漢詩文化の詳細の情報を明らかにした。これ、コラムだったっけ。論文でよかったね。

第三部は光格天皇と妙法院宮真仁法親王にスポットを当てる。
編者のひとり盛田帝子の「寛政新造内裏における南殿の桜−光格天皇と皇后欣子内親王」は、天明大火後に新造された内裏が、天徳大火後の村上朝の内裏再建に倣ったもので南殿の桜は復興の象徴であるとし、その桜とともに天皇在位を寿いだ皇后欣子が、宮中歌会で優遇されたことに注目し、その意味を問うたもの。皇后のみならず、この時代になると女性が宮廷歌会に進出してくるという。ちなみにいまの皇室では、美智子妃が図抜けてお上手のようで。
菊池庸介氏の「実録「中山大納言物」の諸特徴−諸本系統・人物造型を中心に」は、光格天皇在位中に、実父閑院宮に太上天皇位を授けるべく幕府と交渉を試みたが実現できなかったいわゆる尊号事件をストーリー化した実録と言われる写本群について、その諸本系統を整理し、人物造型について考察したもの。最初お願いしたときは、「えーっ?」と一瞬言われたという記憶があるが、その後写本をテーマとするシンポジウムでもこのトピックで登壇するなど、今や持ちネタのひとつですね。というかこのごろは歌麿まで持ちネタにしているし。
岸本香織氏の「冷泉家における光格天皇拝領品」は、光格天皇から冷泉家へ下賜された九点について概説し、七点が和歌および和歌に関わる宸翰で、その中でも上皇時代に冷泉為則が拝領したものが六点を占めることを指摘したもの。
拙論「妙法院宮真仁法親王の文芸交流−『妙法院宮日次記』を手がかりに、和歌を中心に」は、『妙法院宮日次記』を主資料として、真仁の宮廷御会への態度、自邸での詩歌会の催しについてのべ、従来小沢蘆庵とされてきた和歌の師について、正式の師は父典仁・兄美仁であったことを指摘した。蘆庵のことは確かにリスペクトしていたが、宮廷歌会に生きる真仁にとって、正式な師はやはり古今伝受を受けた人でなければならない。
鈴木淳氏の「小沢蘆庵と妙法院宮真仁法親王」は、蘆庵の家集『六帖詠草』に見られる真仁の歌三十七首を通じて、蘆庵と真仁の歌を通した交遊を浮かびあがらせたもの。太秦の蘆庵隠居を枉駕した時のこと、蘆庵が遅桜を賜った時のこと、岡崎庵居時の贈答などが取り上げられた。今後は、自筆『六帖詠藻』を通しての文芸交流を見ていく必要があろう。
山本和明氏の「千蔭と妙法院宮」は、真仁が江戸の歌人加藤千蔭について、非常に高く評価し、詠進を乞い、書家としても一目置いていたことを諸資料から明らかにし、堂上人の千蔭評価にも影響を与えていたことを指摘する。千蔭の活躍は、堂上と地下の不動の上下関係を揺さぶるひとつの要素であったわけである。
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2018年06月22日

地震記

6月18日、午前8時前、これから朝食をとろうかという時、突如として、轟音とともに激しい揺れ。「何が起こった?」という感じ。わが家は築50年弱の宿舎の4階。狭いスペースのほとんどの部屋に、併せて17の本棚を立てている。その多くはスチール製である。私の居た場所は奇しくも本棚全体が見渡せる位置。次の瞬間、家人がこちらに向かって走ってくるのと同時に、ほぼ一斉に本棚が倒れてきた。私の後ろではガシャーンという音とともに、食器が散乱したもよう。すぐに逃げる態勢をとったが、揺れはわりと早く収まった。一瞬にして部屋はめちゃくちゃである。こんな感じ。
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しかし、幸いにして、大きな怪我はなし。家人は少しすりむいたが別条なし。しかし心配だったのはPCとそれに突き刺していたUSBメモリ。倒れた本棚と山積した本で、デスクまでたどり着けない。結局、確認したのは翌日。開いたままのノートPCは、ひっくり返って下を向いていたが、USBメモリともども無事だった。また、水道・ガス・電気も確保。ガスは一時自動停止していたが復旧。しかし、流通が危ないのではないかと、いったん外出したらスーパーは軒並み閉店、コンビニは長蛇の列で、水や電池は早くも品不足の様相であった。幸い水だけは自宅にたくさんあったので、あまり心配はなかった。
 ちなみに、固定電話は電源が外れていたが、それを復旧するのに手間がかかり、ご心配をかけた向きもあったようである。申し訳ない次第である。あらためて、無事であったことをご報告する。我々が住んでいるところは、震度5強だったようであるが、記したように、古い鉄筋の宿舎であり、震度6なみに感じたし、被害もそれなみだったかと思う。大学の研究室の方は、数十冊の本が散乱した程度で、「いつもとあまり変わらない」感じだったのだ。
 このところ、片付けに追われているが、なにしろスチールの本棚は、根元が曲がり、使えない物が多い。取り急ぎ散乱のものをまとめて部屋のすみにダンボ-ルとかにいれたり、紐でくくって置いておくという状況。この際処分した書類・プリント・雑誌も多い。必要な本を探す時に大変だとはわかっているが、とりあえずの作業をしないといつまでも片付かないのである。
 阪神大震災を体験した友人が、地震で人生観が変わったと言っていたが、実感する。
 とりあえずは、元気である(本棚倒壊の時のことが、動画のように繰り返しフラッシュバックするが)。どうぞ、ご心配なく。
 そして、私たちよりももっともっと大変な被害を受けた方がたくさんいる。心より、お見舞い申し上げ、一日もはやい回復をお祈り申し上げます。
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2018年06月17日

武家義理物語

三弥井書店の「古典文庫」シリーズで、新しく『武家義理物語』が刊行された。2018年6月。
井上泰至・木越俊介・浜田泰彦の三氏の編。
企画は井上さん。西鶴研究会などを舞台とする『武家義理物語』論争が動機でしょう。
西鶴は軍書を読んでいたのか、どうなのか?
ところでなぜ、木越俊介氏と浜田泰彦氏なのか?
2012年10月号の『日本文学』。福田安典氏が仕掛けた特集「領域の横断と展開」で、木越俊介氏は「西鶴に束になってかかるには」を発表。
そこで話題になった、西鶴研究のキーワードは「カムフラージュ」と「ぬけ」である。
これが、社会批判・権力批判の主題を読もうとする西鶴研究の主流(と、傍からは見えていた)が使う言葉であった。
木越氏の論は、そのような流れに対して、別の方法を模索するものに見えた。篠原進氏がネット上で反論。
一方、軍書研究の立場から、井上氏は『武家義理物語』の読みを一新するような論を発表。これまた西鶴研究の主流からすれば異色の論であった。
2013年9月、木越氏と浜田氏、南陽子氏、廣瀬千紗子氏を発表者として、「西鶴をどう読むか」というワークショップを京都近世小説研究会が開催。ものすごい関心を集めて、60名もの参加者が集結。会場は熱気に溢れたが、その時に浜田氏が取り上げたのが、『武家義理物語』「死なば同じ波枕とや」。この話に、若殿への批判の眼差しはありやなきや。
浜田啓介先生の「講評」と称するご発表はのちに「外濠を埋めてかかれ」の論文となった。
そして、あらためて2015年12月に京都の研究会で西鶴特集が行われた。井上泰至氏と木越治氏をお招きして。井上氏が取り上げたのは『武家義理物語』。
このように、京都での研究会が弾みになった出版企画であったと思う。私も京都の研究会の企画に関わったので、この出版は感慨深いものがある。内容には触れず、思い出ばなしばかりで申し訳ないが、これが私の正直な今の感想である。





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2018年06月16日

芭蕉の正統を継ぎしもの(完) 

中森康之さんの『芭蕉の正統を継ぎしもの 支考と美濃派の研究』(ぺりかん社、2018年2月)が上梓された。
中森さんと、この本については少し書きたいことがあるのだが、いま余裕がないので、後日書き足したい。
昨年私の編集で出した『近世文学史研究 十八世紀の文学』(ぺりかん社)にお願いした原稿も収められた。
ともあれ、めでたし。(この項つづく)
と、書いてから3ヶ月。6月の学会ではご本人にお会いしてしまい、平身低頭の体。
さて、本書、「支考と美濃派の研究」と副題にある通り、支考という、俳諧史上の難物に取り組んだものである。「人間性と俳論は信用できない」と言われ続けた俳人の言説を、俳諧の論理ではなく、哲学的に読み解くのが、中森さんのスタイルである。
私じしんも、秋成の思想的言説から研究に入ったこともあり、また常盤潭北という「社会と繋がる俳諧師」のことを調べたこともあって、中森さんの論文を親しみを持って読んでいた。竹田青嗣氏らと編んだ一般向けの哲学入門書をいただいたこともある。
一般的な俳諧研究とどこが違うのかといえば、やはり着眼点、つまり問いの質がちがうというべきであろう。そういう研究を学界の中で続けていくのは、特に若いうちは非常に孤独で厳しい営為となる。
その思いは、『近世文藝』100号の「思い出の論文」特集で、中森さんが寄せた「フーリッシュでハングリーだったころ」というエッセイに尽くされている。実証中心の近世文学会に、あえて理論で臨む発表を行い、投稿が採用されたこと、「採用されなければ、日本近世文学会を退会しようと考えていた」ことが書かれている。
私はその発表をよく覚えている。非常に問題提起に満ちているところがいいと思ったが、もちろん支考のことも俳諧のこともわかっていない若造だったので、U先生に感想を聞いてみた。U先生の評価は高かったので、自分のことのように安心した。そいて、この論文が『近世文藝』に掲載されたことで、『近世文藝』は健全だと、私も思えたのである。
中森さんはそのエッセイでこういっている。
 「仮説」が「近世文藝」に掲載されたら、多くの学会員によって、「近世文藝」誌上で公に検証されてほしい。
つまり、中森さんはいまも戦っている。その軌跡が本書だとも言えるのだ。
 


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2018年06月13日

映画「北斎」

 あべのハルカスでの衝撃的な北斎展。最晩年の数作だけでも、十分すぎる見応えで記憶に新しい。
大英博物館プレゼンツ「北斎」という映画、チャンスがあれば見たいと思っていたが、幸運にも、塚口で上映されていると知り、見に行った。
塚口さんさん劇場。初めて行ったが、シネマコンプレックスではあるのだが、ちょっと昭和の香りがして好ましい。やはり昭和っぽい、モータープール塚口に車を止めると、映画を見た人は3時間無料。こりゃ、ありがたい。
 映画館には、「あれ!まあ」という方も来ていて、「北斎ですか?」と互いに挨拶。それしかないですよね。

 私としては期待以上の内容で、北斎の凄さ、北斎研究、北斎マニアの凄さが胸に迫った。もちろん北斎展を見てないと、ここまでは迫らない。北斎展を観る前に、この映画を観ておけば、また違っただろう。
 大英図書館のクラークさんをはじめ、美術史家、アーチストらが、北斎を語る語る。松葉涼子さんもちょっと出ていましたね。老北斎研究家の「赤富士の初刷りはピンク富士だった」というエピソードは、真の北斎評価とは何かという問題を突きつける。

 もう20数年前、キャンベルさんをツアーガイドとして、10人くらいで大英博物館詣でをしたことがある(これは純粋な企画で、中野三敏先生の還暦をお祝いするものだった)。日本研究室で数日資料を見せていただくという、いま考えると夢のような経験をさせていただいた。初日に迎えてくれたティム・クラークさんは、我々をご自宅に招いてくれたのであった。
 それから何年かして、なんと山口で大英博物館展が行われたことがあり、雪の積もる湯田温泉で、ゆっくりお話ししたこともあった。その後、クラークさんは世界的な日本美術史研究者として知られていくようになるのだが・・・。
 そういう思い出も脳裏を過ぎり、私としては感慨もより深い映画だった。塚口でもう少し上映されるようである。
 
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2018年06月04日

学会記(白百合女子大学)

 日本近世文学会の春季大会が6月2日・3日、東京の白百合女子大学で開催された。
学会会場史上、屈指の上品で洗練された印象の会場、なんともすがすがしい二日間を過ごさせていただいた。
目玉のサービスとして、二つの茶道サークルによる呈茶が行われたが、こちらはギリギリでいつも動いていたため、それにあずかることができずに、残念であった。
 発表は10本。異例なことに、閉会の挨拶で、かなり具体的な講評があったが、ほぼ同感で、若手から大家まで、それぞれ新しいことを拓くという意味で、意欲的な発表が相次ぎ、また質疑応答もシビアに行われていたように思う。
日曜午前の神谷勝広さんの発表。多田南嶺が漢学者とのつながりを持っていたこと、具体的にはおそらく伊藤東涯の門人であり、新たな入門者を紹介もしていた可能性が大きいことを指摘した上で、浮世草子に彼らの周辺をモデルとして描いた事例をいくつか上げておられた。これについて、いくつかの質疑があったわけだが、私も一つ質問したいことがあって、「南嶺浮世草子の読者として、漢学者周辺も想定できるのではないか」という神谷さんの見通し、なのだが、もちろん漢学者が浮世草子を読まないとは思わないのだが、むしろ漢学者というのは、歌舞伎役者ほどでなくとも、「評判記」が出るくらいの連中で、とくに京都あたりでは、結構今の学者タレント並みに関心を持たれていたという見方もできるかな、と思った次第である。上方の奇談でもそういうのがよくありますしね。それをちょっと伺うのを忘れていたが。
 秋里籬島研究の第一人者である藤川さんの、図会ものについての総合的研究ともいうべき発表は、さまざまな問題系を提示するもので興味深かった。我々のゼミでも現在『摂津名所図会』に取り組んでいるが、どこを取り上げても実に面白い問題が出てきている。籬島は堂上にも関わっており、有職学との関係も無視できないかもしれない。これも近世中期の上方文芸を考えるときに避けて通れない人物である。
 とりあえず、ふたつだけではあるが、感想をば。
 それにしても、会場を引き受けられた日置さんの采配、お若いのに見事でしたね。大体、会場校の世話人はいつも走り回って、「わー大変そう」と思うことが多いけれど、あのポーカーフェイス、落ち着き、これはもう賞賛に値する。それも印象に残った大会でありました。
 また、今回は東京ということで、長老クラスの先生方のお姿を結構拝見できたことも嬉しかった。今回はこれくらいで。
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