2018年10月31日

水鳥荘文庫目録(第二版)の御上梓に快哉を叫ぶ

『水鳥荘文庫目録』(第二版)(弘学社、2018)は水鳥荘主人こと柏木隆雄先生蔵する所の洋書の目録なり。十六年前に第一版刊行せし以来購ひし一千五百余冊を加へ、第二版とす。併せて一万余冊といふ。A5判にして目録は四百頁を超え、解説また七十頁を費やす。吾は仏語を解せざるも、解説は和語なるを喜びこれを摘読すれば、稀覯本・初版本・美装本を述べて学術的価値に及び、学ぶこと少なからず。
先生の目録再版を思ひ立ちしは2011年の冬、南仏ニースにての事なり。古きよりの知人にして古書店主のヒルラム氏に逢ひ、「古書語り」に花咲き遂に目録再版を約するに及びしと。吾ら夫婦、その旅(同地美術館に所蔵せる北斎漫画の調査なり)に同行を許され、その晩餐の現場にも同席せしことは、忘れがたき思ひ出なり。第二版序に我らが名を以て紙面を汚せしはかかる理由なり。恐れ入り奉りしことなり。また五百四頁に載る写真は吾が撮りし写真ならん。
言ふまでもなし。「水鳥」は、酒(氵に酉)を意味する語にして、仮名草子にも『水鳥記』なる酒豪の物語あり。柏木先生の酒を愛すること、先生を知るものは誰か知らざる。
いざ、本書の開版に祝杯挙げん。目出度し、目出度し。
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2018年10月28日

東京百年物語

文学地理学がらみの本、岩波文庫からも出ています。
『東京百年物語』。2018年10月。東京を描いた文芸アンソロジー。第1冊は、1868〜1909。
解説は、ロバート・キャンベルさん。
いまは亡き雑誌『文学』に「銀座文芸の100年」を連載していたが、それがベースになっているのでしょう。
巻頭の『東京銀街小誌』にはなんと現代語訳!東大での演習の成果が反映されていると。
この作品、『江戸繁昌記』に連なる「繁盛記物」だということ。まことに生き生きと明治初期の銀座が甦ります。
勝手ながら、この本、文学地理学を考える一助にさせていただきます。


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祈りと救いの中世

私は学部生のころ、親鸞の『教行信証』を唸りながら読んでいた。
その論理の構築に興奮しながら、日本思想大系の頁をめくっていた。
私は西洋史学に進学予定だったが、その本によって、日本の仏教文学を研究しようと転向することになり、日本文学に進学、中世文学の研究書をあれこれ読んだりもしていた。中世の、死を見つめながらの思索的な世界に憧れていた。
どういうわけか、というよりも、日本文学に進んで見ると、中世文学の先生はいなかったので、結局またまた小さな転向をして、近世文学を研究することになった。なにか、ずっと違和感を感じつつ、今日に至るわけである。しかし、近世を選んだことはもちろん後悔していない。
なぜなら、違和感を感じたつづけてきたことが、自分にとっては幸いだったと思っているからである。
しかし、学部のころの仏教に対する探求心のようなものは、いつのまにかどっかに行ってしまい、中世文学研究にも、ごく一部をのぞいて、目配りをしていなかった。
しかし、今、開催されている東京立川の国文学研究資料館の特別展示、「祈りと救いの中世」(10月15日から12月15日の期間、開催されている。日曜、祝日と11月14日が休館)の図録を拝見して、40年ぶりくらいに、それが蘇っているのは何故なのだろう。いや、正確にいうと、少しは近世文学を研究したことで、新たなアンテナが立ち、反応しているのだろうか。図録の巻頭言ともいえる「祈りと救いの遺産ーテクストに託された唱導のはたらき」という阿部泰郎氏の文章にのめり込んだ。そうか、唱導とテクストか。もちろん近世でも堤邦彦氏がこのテーマをずっと追っている。私はそれを唱導とテクストの関係という問題意識であまり見てこなかったのだ。唱導行為をテクストや絵に移植する時に、文字あるいは料紙のもつ様々な制約と制度から、衝突がおこり、その負荷とも呼ぶべきものに、思想や文芸の可能性がある。
 とくに絵の問題は、これまで私があまり顧みなかったことだが、このごろ絵入本ワークショップに参加しているせいか、絵の意味を考えるようになってきているので、今回の展示でも、唱導というパフォーマンスとテクストそして絵の三者の、さまざまなベクトルを想像していると、脳内がいったん混乱するなかから、ある思念が立ち上り、錆びた部分に注油されるという感覚を覚えるのである。
 実は、この期間、東京に行くことがかなり難しいと感じているが、これは無理してでもいくべきなのではないかと、学部生のころの自分が今の自分に呼びかけている。
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2018年10月27日

不忍池ものがたり

またまた鈴木健一さん。このブログ10月に3回、新著で登場、しかもこれは単著である。
『不忍池ものがたり 江戸から東京へ』(岩波書店、2018年10月)。
最近の、このブログの話題として「文学地理学」があるが、まさしく、この本、文学地理学の成果といってよい。
もともと、名所図会や名所和歌集の研究をしてきた鈴木さんの著書としては、必然の帰結であろう。
不忍池の語源、地理的考察から、文化的意味、文学的意味、歌枕としての成立、漢詩人の見る不忍池など、軽快に筆が走る。
中でも、歌枕としての考察は、デジタル文学地図プロジェクトと大いにかかわるので、興味を引く。
そして今回の本は、「江戸から東京へ」という副題にあるように、明治期における不忍池に紙幅が割かれている。
戊辰戦争の激震地、上野という文化的な場所の中での位置、そして鴎外の「雁」、さらには江戸川乱歩、吉本隆明まで出てくる。
まさに不忍池の文学史だが、そういうタイトルではなく、「ものがたり」である。
これは池そのものの歴史と、池を見てきた人々の歴史、それを称する言葉なのであろう。
池というのが、文化的な存在であることが最初に述べられている。湖・沼・池と並べると、確かに池だけが庭園という人工的な空間に
存在しうるものである。着眼がやはり非凡なのである。

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輪切りの江戸文化史

鈴木健一さんの編んだ『輪切りの江戸文化史』(勉誠出版、2018年10月)が、刊行された。
かつて學燈社の『国文学』の臨時増刊号かで、『編年体日本文学史』というような企画があり、10年おきぐらいに時期を区切って、分担執筆するというものがあったように記憶する(正確ではないかもしれない)。それもひとりが50年分くらいを担当したのではなかったか。
また、岩波講座日本文学史も、世紀別の編集(それぞれの分担は専門の人に依頼したもの)で話題を呼んだが、それも早昔話。
しかし、今回の企画は、任意に選ばれた江戸時代(といっても明治20年もはいっているが)のある1年を15選んで、それぞれを一人の研究者に書かせている。
その1年はどのように選ばれたのかの説明はないが、鈴木さんが重要な年として選んだのだろう。もちろん、違う選択もありうる。私には嬉しいことだが、近世中期、つまり十八世紀にバイアスがかかっている。近年の研究傾向を反映しているのだろうか、十八世紀を推している私としては、「おお、いいじゃん」と思うわけだ。そして、その1年を誰に書いてもらうのか、これも鈴木さんのセンスである。漢詩・和歌・俳諧・演劇・小説と、それぞれの専門にどうしてもかたよってしまうところもある。たまたま出来上がった輪切り文化史は、作りようによっては、まったく違うものになる、そういう可能性に思いを寄せながら読むのもまた一興だろう。
 それぞれの原稿は、この特異な形式の依頼でしかありえない内容であるが、みなさん自分の関心外のところにも触れないわけにはいかず、なかなか苦労しているのがよくわかる。そしてこわいのは、その1年の総括をそれぞれの担当者がするため、その担当者の文化史観がモロに出ているところだろう。他の人が書いたら、全然違う物になるだろうな、と思わせるわけだし、文化史観の豊かさ、深さというものの個人差が結構はっきり出たりするので、案外執筆者にとってはシビアだったのではないだろうか。
 しかし、どの年にしろ、なんらかの意味で「転換期」と捉えているものが多かったように思う。鈴木さんがそういう年を選んでいるのか、輪切りにすると、伝統と新興の両方が見えるので、そうなるのか。
 この輪切り文学史、違う編者が違う年を選び、違う執筆者に頼んで、別バージョンを作ると面白いだろうな、と無責任なことを考えた次第である。
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2018年10月24日

芭蕉の手紙展を観る

前に案内をこのブログでしていましたが、実際に見てまいりました。
今日はゼミのメンバーで「芭蕉の手紙」展見学。この展示を担当した辻村さんにギャラリートークをお願いし、みっちり90分解説していただいた。

手紙というのは懐紙などのハレの文字とは違い、”素”がうかがえる文字であるので、筆跡鑑定にも重要な資料であること。
その中でも、人によって、中身によって、芭蕉は書き方を変えている。
たとえば、女性への手紙と男性への手紙、明らかに書きぶりが違う。
また、スケジュール調整をするような手紙、俳諧について論じるような手紙、これまた違う。
とくに、「風雅」を述べる手紙は、特別の思い入れがこもるような書きぶりとなる。
だから、芭蕉の手紙を活字で読んでも、それは、十分に読んだことにはならない、のである。
非常に共感する解説である。秋成の書簡にもそれと同じことが言えるのである。

今回、初めて展示される新資料もあり、俳諧研究者も必見であるし、芭蕉の愛読者にもぜひ観ていただきたい。

さて、図録の表紙、いろいろ仕掛けがあったんですね。いろんな方向からこの表紙をながめると、ああっ!という仕掛けが。そしてそこに籠められた意味、説明されてなるほどと唸りました。ぜひ、図録を手にされた方は、トライしてください。

さらに、芭蕉の文字でつくった変体仮名表「芭蕉のくずし字」クリアファイル!これはくずし時の勉強にもなるし、お土産にも最適ではないだろうか。
いい展示ですので、お勧めです。
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2018年10月22日

古典籍を開くために

国文学研究資料館の広報誌『国文研ニューズ』53号(2018年10月)に、「古典籍を開くために」というエッセイを載せていただきました。
いずれ、WEBにも載せられるはずですが、現在はまだのようです。紙媒体をどこかで見かけられたらご笑覧ください。
著作権は国文研に渡しておりますので、再掲はできませんが、ないじぇる芸術共創ラボとクラウド・ソーシング翻刻の可能性について述べました。
「みんなで翻刻」をヒントにして、古典籍をみんなで翻刻・現代語訳・翻訳しようという夢想について書きました。
「勝手なことをまた」とおっしゃる向きもございますし、その方のお気持ちも実によくわかっておりますが、そこは夢想ということでお許しを。
ところで、ないじぇる芸術共創ラボというのは、一体なにをやっているのだろうと思いますよね。
 学会で当事者(古典インタプリタ)に聞いたところ、いまは仕込みの段階で、徐々にアウトプットをしてゆくということです。
 古典を素材に、演劇をつくったりしているようですが、確かに、そんなに簡単に公開!ってわけにはゆきませんよね。期待しましょう。
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学会記(愛媛大学)

日本近世文学会秋季大会は愛媛大学で行われた。38年ぶり。長島弘明さんの閉会の挨拶で、そのことに触れられたが、実は私にとってはじめて学会に出たのがその38年前の学会だったのだ。小倉から夜行のフェリーで園田豊くんと行った。雑魚寝だったが、隣のグループがたまたま、私の同級生の結婚式に向かう人たちだったので吃驚した。朝早く着いたのですることがなく、道後温泉に向かい朝風呂。お風呂にいたのが長島さんだった(その時はそれと知らなかったのだが、学会で、「あ、あの人は・・・」となったわけである。白石良夫さんから紹介され、抜き刷りをいただいた)。
おっと昔話はこれくらいにして、今回の学会。神楽岡幼子さんのお世話だったが、まことに行き届いた運営で、素晴らしいの一言。とくに懇親会のお料理・お酒の美味しかったこと。
初日は、鈴鹿文庫と愛媛の芸能をテーマにしたシンポジウム。前半は方丈記・徒然草の話題で、中世文学とクロスする内容。中世文学の専門家の質問もあり、スリリングに展開した。後半は、川名津神楽というアクロバティックな「柱松登り」の神事が、動画で紹介され、これまた息をのんだ。
二日めは研究発表が九本。こちらは質疑応答が非常に勉強になった。たとえば演劇ネタを草双紙化する場合の傾向がデータで示されたが、なぜそうなるのかというのが、ベテランの研究者の方々の質疑で明確になった。私が司会をした都賀庭鐘の作品について中世文学専門の方が、三国志享受という枠組で南北朝期の学問の影響を指摘されたが、質疑は庭鐘の『英草紙』や近世の同時代の文芸・歴史観からのもので、応答は残念ながら絡んでいたとはいえないが、庭鐘をそういう枠組で扱うという発想は近世文学研究側にはなかなかない。あえてアウェーの日本近世文学会で発表されたのは、開催大学の方だったということもあろうが勇気の要ることで、有り難かった。
会員が漸減しているこの学会で、もはや近世文学研究という枠組だけでの議論は、縮小再生産になってしまう恐れがある。意識的にディシプリンを越えた企画や、発表勧誘があらまほしく、そういう意味で、今回の愛媛大学の試みは、そのひとつのモデルであった。昨年の鹿児島大学でも中世文学の専門家をお招きした。講演やシンポで、他分野の人をどんどん呼び、学会発表もしていただく、これがダウンサイズは避けられなくとも、活発に学会を運営する一つの道だろう。
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2018年10月19日

漢文のルール

『和歌のルール』『俳句のルール』に続く第3弾。笠間書院。出たのは2018年5月。いまごろの紹介で申し訳ありません。
たしか、和歌も俳句も、ここで紹介していたと思うので、漢文も。
鈴木健一さんの編。漢文だけど、日本文学研究者が分担執筆者の多くを占める。
それは妥当だろう。おそらく中国文学研究者は、漢文ではなく、「中文」で読むのが普通で、返り点、訓点を付けて読む漢文というのは、いわば日本の中国文学(文学に限りませんが)受容の一形態であり、日本文学研究者こそ、漢文のルールは必須だからである。
 ご心配なく。日本文学の中でも若手を中心に優秀な日本漢文学研究者を鈴木健一さんはちゃんと選んでますから。
 そして学校教育における「漢文」を教える人、「漢文を学ぶ人」にも有用なことは言うまでもない。
 レベルは高いが、ですます調で読みやすく、ハンディである。
 
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2018年10月15日

「芭蕉の手紙」展

芭蕉の手紙24通を中心にした特別展が、柿衞文庫で開かれている。ゼミで見に行く予定だが、図録を先に手にすることが出来た。
これは、かなり期待できる。解説が丁寧・親切そして学術的にも深い。学芸員辻村尚子さん(私の教え子)の渾身の展示である。

新理事長の坪内稔典さんが冒頭の挨拶文を書いている。
図録のデザインもこれまでにない斬新さ。
貞享から元禄にかけて、時系列で並べていて、芭蕉の生の声で人生と交友を辿れるような仕組みである。
取り急ぎ、ご紹介。あとでまた、補足するかも。



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2018年10月14日

文学地理学入門


 10月11日、私の授業の時間を使って、ユーディット・アロカイハイデルベルク大学教授の講義「文学地理学入門」が行われた。
現在、ハイデルベルク大学・国文研・大阪大学が共同で進めている「デジタル文学地図」の理論的な土台である「文学地理学」。なんとなく、わかったような気でいたけれど、講義を聴くことで、その理論・意義・歴史などが、私の中でかなり整理された。学生にとっても、とても刺激的であったようで、みずからの研究に照らして、色々な質問も出た。
 その理論のベースは、チューリッヒ大学のピアッティ・バーバラ氏の『文学の地理学−場面・ストーリーの空間・想像された空間』という著書である。原題はPiatti, Barbara: ”Die Geographie der Literatur, Göttingen” 2008。残念ながら邦訳はないようなので、是非これは出版していただきたい。
 ヨーロッパの文学地図というプロジェクトのウェブサイトもある。
  もう1冊、フランコ・モレッティの”Distant Reading”こちらは、邦訳あり。邦題は『遠読』。何百冊もの英国小説を地図に載せていると。どの場所が、文学でよく描かれるのか?をはじめとする遠読ならではの分析が可能。この本は私も知っていた。
 日本にも前田愛氏による『都市空間のなかの文学』という、文学空間に注目した名著がある。前田愛の分析は、作品によって方法が違うようにも思ったが、文学地理学は、多くの作品の場所を地図に載せるというところが、今の時代ふうである。ピアッティ・バーバラ氏は、スイスの山中、プラハ、北ドイツの海辺という場所をとくに選んで分析しているという。
 歌枕を日本地図に載せ、その歴史的奥行きと空間的分布を分析する「デジタル文学地図」も、複数の古典和歌・古典作品からピックアップして、その地名・場所の意味を考えるものである。
 文学地理学の射程は大きく、場所・地域の描かれた方、ひとつの作品の中での場所をベースにした分析、虚構空間と世界感覚など、いろいろな研究方法が浮上する。無意識に使っている方法もあるな、と伺いながら考えたところである。
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2018年10月06日

「世界文学」の時代−文学研究の内と外

10月4日、大阪大学豊中キャンパスで「文学研究における内と外−日本とドイツの視点から」と題するトークセッションが行われた。ハンガリー出身、ドイツ在住で日本文学を研究しているハイデルベルク大学のユーディット・アロカイさんと、プラハのドイツ文学を研究している大阪大学の三谷研爾さんのトークに、東欧音楽を研究している伊東信宏さんがコメントで絡む。司会はハーバード大出身で、漢詩文を研究している大阪大学の山本嘉孝さん、山本さんは最近もハイデルベルク大学で英語授業をやってきたばかりである。彼らが、常に内と外を往来しており、また研究対象も、対象のど真ん中ではなく、外からみるような所がそれぞれにある。
このトークセッションの翌日早朝から東京に出かけたのだが、聴講メモを忘れてきてしまった。日曜日まで東京にいるため、間をおかないうちに、記憶で書いておく。不正確なところがあったら、後日メモを見て訂正したい。
聴衆は予想を遙かに超える約40名。当然のことだが、留学生も多い。彼らはまさにこの問題の当事者である。もちろん外国文学や比較文学を研究している日本人学生、外国で発表を考えている日本人学生も参加している。みなさん「面白かった〜」と口々に言っておられた。
アロカイさん、三谷さん、伊東さんともに、それぞれの研究体験を語る中で、問題点が浮かび上がってくる。
 たとえばアロカイさんが経験した日本文学の翻訳の問題。一語一語訳していく中で、日本人が意識しないことが翻訳上問題になる。単数と複数の問題。どちらかに決めないといけないが、それを日本の注釈書で触れることはない。外からだから見えることがあるわけだ。
 三谷さんは、プラハのカレル大学の日本文学科の創設メンバーであった先生が、芭蕉の句をプラハ言語学で解釈したという話に感銘を受けたという。しかし日本文学の研究者にそのことを話したら「外国の研究者が考えそうなことだ」と一笑に付されたという。たしかに日本文学は日本人にしかわからないという、根拠のない考えに今でもとらわれている人がいる。
 伊東さんは80年代にハンガリーに留学した時、当時「東京カルテット」という楽団がバルトークを演奏した音源を当地で披露すると「なんだ、これは?」と言われたらしい。三谷さんの話を逆転したようなエピソードである。
 これに関していえば、私にも思い出すことがある。内と外は国境で線を引かれているわけではなく、たとえば、関西(上方)とそれ以外、とか大阪とそれ以外というような引き方もある。上田秋成は大阪生まれ。秋成の文学は大阪の者ではないとわからないという言説がある。実は、秋成研究者には、大阪・関西出身以外の者が多い。私じしん九州ものだし、第一線で活躍してきた(いる)秋成研究者といえば、関東・北陸・四国などの出身者が多い。大阪出身の研究者から、「秋成は読めばわかるから研究する気にならない」という意味のことを言われたこともあるが、実際、大阪出身の秋成研究者は少ないのである。ただ、私自身、大阪に住んでみて、地理感覚などはじめてわかったことが多いのもまた事実である。
 内と外の議論は、このように国境だけの問題にはとどまらないし、地域性の問題におさまるものではない。文学研究・歴史研究・思想史研究の間にも、内と外がある。
 ただし、そのボーダーをどうやってなくすのだろう。伊東さんから「世界文学」概念をどう思うか、という質問が出た。ダムロッシュの「世界文学とは何か」で提唱された概念である。三谷さんが、「かつての世界文学はオリンピックみたいなものだった、イギリスからシェークスピア、フランスからバルザック、ロシアからドスとエスフスキーが出てきて、競うイメージ。今いう世界文学は、もっと種々雑多なものを扱う」と。アロカイさんだったかと思うが、「しかし英語翻訳のあるテキストしか使えないところに問題がある」と。
 この英語バイアスの問題は、「世界文学」だけではなく、文学研究全体の問題でもある。世界共通言語=英語という側面があることは否定できないから、今後、研究の国際化といえば、文学研究に限らず、英語での読み書きや、会話能力は、必須である。自分のことを棚に上げて、学生にはそのように言っている。しかし、英訳だけで論じている文学研究世界というのは、ある意味貧しいことも事実である。
 山本さんは、外にいるとしても、原本にあたることは重要で必要なスキルではないかと言う。ハイデルベルクの学生にも、くずし字を教えながら、そう説いてきたそうだ。
 フロアからの質疑も非常に活発であった。みな自分自身の抱えている問題なので切実なのである。100分はあっという間にたち、まだまだ質疑は多く積み残された感じがある。このトークセッション、シリーズ化して、続編をやったらいいかもね、と、あとの小さな懇親会でも話題となった。
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2018年10月02日

『日本文学研究ジャーナル』第7号

『日本文学研究ジャーナル』第7号(古典ライブラリー、2018年9月)が刊行されました。
私と田中則雄さんの編集で、「近世後期小説の作者・読者・出版」という特集。
近世〜近代の4つの作品を自在に往来する延広真治先生の巻頭エッセイと、久保木秀夫さんの本に関する連載「日々是探索」6のほか、8本の論考です。

延広真治  梗概に学ぶ――『旬殿実実記』『三人吉三廓初買』『怪談牡丹燈籠』『虞美人草』―― 

飯倉洋一  『作者評判千石篩』考
野澤真樹  寛政期「河太郎物」の原点−『諸道聴耳世間狙』に描かれた河太郎――
天野聡一  〈和文小説〉の展開
木越俊介  寛政・享和期における知と奇の位相−諸国奇談と戯作の虚実
有澤知世  戯作者の象徴―京伝と三馬に注目して―
田中則雄  文化期大坂の作者五島清道の読本
菱岡憲司  馬琴評答集の再検討
三宅宏幸  曲亭馬琴と木村黙老の交流

久保木秀夫 伝顕昭筆『万葉集』注記断簡と元暦校本の「裏書」

巻頭エッセイ以外は、若い方に原稿をお願いしました。この雑誌、東の方の編集が多かったので、今号は、編集も論者も西で
ということで、西日本在住、または西日本の大学出身の方中心です。
意欲的な論考が集まりました。ご一読を。


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