またまた鈴木健一さん。このブログ10月に3回、新著で登場、しかもこれは単著である。
『不忍池ものがたり 江戸から東京へ』(岩波書店、2018年10月)。
最近の、このブログの話題として「文学地理学」があるが、まさしく、この本、文学地理学の成果といってよい。
もともと、名所図会や名所和歌集の研究をしてきた鈴木さんの著書としては、必然の帰結であろう。
不忍池の語源、地理的考察から、文化的意味、文学的意味、歌枕としての成立、漢詩人の見る不忍池など、軽快に筆が走る。
中でも、歌枕としての考察は、デジタル文学地図プロジェクトと大いにかかわるので、興味を引く。
そして今回の本は、「江戸から東京へ」という副題にあるように、明治期における不忍池に紙幅が割かれている。
戊辰戦争の激震地、上野という文化的な場所の中での位置、そして鴎外の「雁」、さらには江戸川乱歩、吉本隆明まで出てくる。
まさに不忍池の文学史だが、そういうタイトルではなく、「ものがたり」である。
これは池そのものの歴史と、池を見てきた人々の歴史、それを称する言葉なのであろう。
池というのが、文化的な存在であることが最初に述べられている。湖・沼・池と並べると、確かに池だけが庭園という人工的な空間に
存在しうるものである。着眼がやはり非凡なのである。
2018年10月27日
輪切りの江戸文化史
鈴木健一さんの編んだ『輪切りの江戸文化史』(勉誠出版、2018年10月)が、刊行された。
かつて學燈社の『国文学』の臨時増刊号かで、『編年体日本文学史』というような企画があり、10年おきぐらいに時期を区切って、分担執筆するというものがあったように記憶する(正確ではないかもしれない)。それもひとりが50年分くらいを担当したのではなかったか。
また、岩波講座日本文学史も、世紀別の編集(それぞれの分担は専門の人に依頼したもの)で話題を呼んだが、それも早昔話。
しかし、今回の企画は、任意に選ばれた江戸時代(といっても明治20年もはいっているが)のある1年を15選んで、それぞれを一人の研究者に書かせている。
その1年はどのように選ばれたのかの説明はないが、鈴木さんが重要な年として選んだのだろう。もちろん、違う選択もありうる。私には嬉しいことだが、近世中期、つまり十八世紀にバイアスがかかっている。近年の研究傾向を反映しているのだろうか、十八世紀を推している私としては、「おお、いいじゃん」と思うわけだ。そして、その1年を誰に書いてもらうのか、これも鈴木さんのセンスである。漢詩・和歌・俳諧・演劇・小説と、それぞれの専門にどうしてもかたよってしまうところもある。たまたま出来上がった輪切り文化史は、作りようによっては、まったく違うものになる、そういう可能性に思いを寄せながら読むのもまた一興だろう。
それぞれの原稿は、この特異な形式の依頼でしかありえない内容であるが、みなさん自分の関心外のところにも触れないわけにはいかず、なかなか苦労しているのがよくわかる。そしてこわいのは、その1年の総括をそれぞれの担当者がするため、その担当者の文化史観がモロに出ているところだろう。他の人が書いたら、全然違う物になるだろうな、と思わせるわけだし、文化史観の豊かさ、深さというものの個人差が結構はっきり出たりするので、案外執筆者にとってはシビアだったのではないだろうか。
しかし、どの年にしろ、なんらかの意味で「転換期」と捉えているものが多かったように思う。鈴木さんがそういう年を選んでいるのか、輪切りにすると、伝統と新興の両方が見えるので、そうなるのか。
この輪切り文学史、違う編者が違う年を選び、違う執筆者に頼んで、別バージョンを作ると面白いだろうな、と無責任なことを考えた次第である。
かつて學燈社の『国文学』の臨時増刊号かで、『編年体日本文学史』というような企画があり、10年おきぐらいに時期を区切って、分担執筆するというものがあったように記憶する(正確ではないかもしれない)。それもひとりが50年分くらいを担当したのではなかったか。
また、岩波講座日本文学史も、世紀別の編集(それぞれの分担は専門の人に依頼したもの)で話題を呼んだが、それも早昔話。
しかし、今回の企画は、任意に選ばれた江戸時代(といっても明治20年もはいっているが)のある1年を15選んで、それぞれを一人の研究者に書かせている。
その1年はどのように選ばれたのかの説明はないが、鈴木さんが重要な年として選んだのだろう。もちろん、違う選択もありうる。私には嬉しいことだが、近世中期、つまり十八世紀にバイアスがかかっている。近年の研究傾向を反映しているのだろうか、十八世紀を推している私としては、「おお、いいじゃん」と思うわけだ。そして、その1年を誰に書いてもらうのか、これも鈴木さんのセンスである。漢詩・和歌・俳諧・演劇・小説と、それぞれの専門にどうしてもかたよってしまうところもある。たまたま出来上がった輪切り文化史は、作りようによっては、まったく違うものになる、そういう可能性に思いを寄せながら読むのもまた一興だろう。
それぞれの原稿は、この特異な形式の依頼でしかありえない内容であるが、みなさん自分の関心外のところにも触れないわけにはいかず、なかなか苦労しているのがよくわかる。そしてこわいのは、その1年の総括をそれぞれの担当者がするため、その担当者の文化史観がモロに出ているところだろう。他の人が書いたら、全然違う物になるだろうな、と思わせるわけだし、文化史観の豊かさ、深さというものの個人差が結構はっきり出たりするので、案外執筆者にとってはシビアだったのではないだろうか。
しかし、どの年にしろ、なんらかの意味で「転換期」と捉えているものが多かったように思う。鈴木さんがそういう年を選んでいるのか、輪切りにすると、伝統と新興の両方が見えるので、そうなるのか。
この輪切り文学史、違う編者が違う年を選び、違う執筆者に頼んで、別バージョンを作ると面白いだろうな、と無責任なことを考えた次第である。