11月22日、午後3時から、龍谷大学で講演をします。
光格天皇の兄である妙法院宮真仁法親王の文化圏について、特に小沢蘆庵との交流を軸にお話いたします。
龍谷大学で蘆庵の研究会をやってらっしゃるということで、それと関わりのあるお話をというご要請でしたが、その研究会の中に、私より詳しい方がたくさんいらっしゃるのですけどねえ。
授業の1コマでもあるらしく、学生さんたちと、そういう専門家の方々が混じって講演を聴かれるらしいのですが、正直申し上げて、これはやりにくいですよね。もちろん、学生を優先してしゃべりますからね。物足りないなどという苦情は受け付けませんよ。
すこし前に、東山七条の妙法院は特別拝観で一般公開しておりました。すぐ近くには、刀の展示をしている京博。妙法院は江戸時代以来、豊臣秀吉の遺宝を管理しているわけですが、たまたま秀吉関係資料の特別展示が行われていました。非常に興味深かったです。そういうわけで、秀吉関係ネタも少しだけやるつもりです。
下記
2018年11月19日
2018年11月18日
歴史研究者に通史はかけるのか(続太平記コロキアム報告)
太平記コロキアムin日文研2日目。満を持して?日文ハウスに宿泊したのは、ちと大げさだったかなと思っていたが、そうしてよかった。往復の時間分お仕事ができました。さて『観応の擾乱』の著者、亀田俊和さんは『太平記』全体に中国故事がどのように分布しているかに着目して分析した。たしかに『太平記』を読んで戸惑うのは、この中国故事の横溢で、なぜこんなにあるのか、という典拠論とは違う問題意識が新鮮である。質疑も有益で、中国故事の太平記への流入に幼学書の影響を考える黒田彰氏の業績などを荒木さんが紹介。
次いで小秋元段さんが、各発表についてのコメント。『太平記』なしで南北朝史が書けるのかと、歴史研究側に問いかけた。これは、今回のシンポジウムの根本的な問題意識を具体的に顕在化したものだったように思う。
その後、各発表者からまとめのコメントとフロアからの質疑があった。印象に残ったのは、谷口さんの「実態と認識」。これは呉座さんの『応仁の乱』の記述が認識というレベルを重視していたこととリンクする。井上さんの「通史というものは大衆的」。裏返すと学問的に通史を書くことは至難。たしかに非専門家が通史を書いているのは今も同じである。司馬遼太郎の小説を歴史書として読んでいる向きもあるだろうが、これも『太平記』の流れというわけである。
南北朝史の叙述は『太平記』から逃れられないのは宿命的なものだろう。仮に『太平記』を全く使わない通史を書けたとしても、『太平記』を意識せずに書くことはあり得ないと谷口さんが言うとおりである。
どうも物語>歴史(研究)のようである。だからこそ、歴史学のアイデンティティのひとつは、物語の否定にある、ということになる。我々の前提としてある〈物語〉、江戸時代でいえば、「江戸時代は鎖国だった」という物語を否定するのが歴史学、という印象がある。しかし、それは、大衆の歴史認識においては物語が優先しているということであり、歴史学のインパクトとは物語の否定だということになり、それはいわば破壊であって創造ではない。もし、実証的な歴史学が新しい物語を作るとすれば、それはなかなか面白いことなのだが、小秋元さんによれば、それは「方法としての『応仁の乱』」ということになるのだろう。小秋元さんのいう方法としての『応仁の乱』とは呉座さんの方法で、「応仁記」など既存通史の枠を借りない、京都ではなく奈良の視点で描く、ということである。しかし、どなたがいうように、応仁の乱の時代には『太平記』のようなカノン的な通史がないのである。はたして南北朝でそれが可能なのか。
井上さんの提案する『太平記の虚像と実像』という本は、秀吉の虚像と実像よりもかなり厳しそうだが、人物を10人くらい取り上げてやると面白そうである。
近世演劇の作法「世界」と「趣向」ということを考えると、『太平記』は『平家物語』や『曽我物語』と同様、「世界」を構成する作品である。その「世界」を検討すると近世的太平記観が浮かび上がるだろう。その意味で、コ治主義を謳う儒教的な『太平記』の序は重要なのだろう。序をどう考えるかは質疑で出た論点のひとつである。
近世後期文学は、このような軍記を図会という形で解釈したりする。読本の図会物というのはきわめて思想史的な問題をはらんでいる。ここでも井上氏の仕事が関係してくる。今回頂戴した「幕末絵本読本の思想的側面」(日本学研究 28)もそのひとつである。
次いで小秋元段さんが、各発表についてのコメント。『太平記』なしで南北朝史が書けるのかと、歴史研究側に問いかけた。これは、今回のシンポジウムの根本的な問題意識を具体的に顕在化したものだったように思う。
その後、各発表者からまとめのコメントとフロアからの質疑があった。印象に残ったのは、谷口さんの「実態と認識」。これは呉座さんの『応仁の乱』の記述が認識というレベルを重視していたこととリンクする。井上さんの「通史というものは大衆的」。裏返すと学問的に通史を書くことは至難。たしかに非専門家が通史を書いているのは今も同じである。司馬遼太郎の小説を歴史書として読んでいる向きもあるだろうが、これも『太平記』の流れというわけである。
南北朝史の叙述は『太平記』から逃れられないのは宿命的なものだろう。仮に『太平記』を全く使わない通史を書けたとしても、『太平記』を意識せずに書くことはあり得ないと谷口さんが言うとおりである。
どうも物語>歴史(研究)のようである。だからこそ、歴史学のアイデンティティのひとつは、物語の否定にある、ということになる。我々の前提としてある〈物語〉、江戸時代でいえば、「江戸時代は鎖国だった」という物語を否定するのが歴史学、という印象がある。しかし、それは、大衆の歴史認識においては物語が優先しているということであり、歴史学のインパクトとは物語の否定だということになり、それはいわば破壊であって創造ではない。もし、実証的な歴史学が新しい物語を作るとすれば、それはなかなか面白いことなのだが、小秋元さんによれば、それは「方法としての『応仁の乱』」ということになるのだろう。小秋元さんのいう方法としての『応仁の乱』とは呉座さんの方法で、「応仁記」など既存通史の枠を借りない、京都ではなく奈良の視点で描く、ということである。しかし、どなたがいうように、応仁の乱の時代には『太平記』のようなカノン的な通史がないのである。はたして南北朝でそれが可能なのか。
井上さんの提案する『太平記の虚像と実像』という本は、秀吉の虚像と実像よりもかなり厳しそうだが、人物を10人くらい取り上げてやると面白そうである。
近世演劇の作法「世界」と「趣向」ということを考えると、『太平記』は『平家物語』や『曽我物語』と同様、「世界」を構成する作品である。その「世界」を検討すると近世的太平記観が浮かび上がるだろう。その意味で、コ治主義を謳う儒教的な『太平記』の序は重要なのだろう。序をどう考えるかは質疑で出た論点のひとつである。
近世後期文学は、このような軍記を図会という形で解釈したりする。読本の図会物というのはきわめて思想史的な問題をはらんでいる。ここでも井上氏の仕事が関係してくる。今回頂戴した「幕末絵本読本の思想的側面」(日本学研究 28)もそのひとつである。
2018年11月17日
太平記コロキアム in 日文研
日文研の荒木浩さんの主宰する共同研究「投企する古典性−視覚/大衆/現代」の特別版、太平記コロキアム初日。たぶん数十人が集まりましたが、歴史学と文学の垣根を越え、近世と中世の境を越えて、すごいメンバーが集まっていたので、表には出さねど「うわーすごい!」と、心中ではミーハー的にはしゃいでおりました。まず、コーディネーターが呉座勇一さん、本日の発表者は、和田琢磨さん、谷口雄太さん、井上泰至さん、伊藤慎吾さん。全部面白かった。和田琢磨さんは太平記諸本研究史を整理するとともに、異文発生は武家の関わり以外にも考えられるのではないかということを提起した。谷口雄太さんは歴史家が現在でも「太平記史観」にとらわれているとして、足利・新田のとらえ方を切り口に挑発的な問題提起をした。フロアも黙ってはいない。論われる側の兵藤裕巳さんや市沢哲さんがその場にいて発言されたり、松尾葦江さんが「太平記史観」という問題意識そのものへの疑義を出されたり。井上泰至氏の近世における太平記享受の展開は、国学・皇国思想との結びつきに焦点を当てたもの。井上軍記学の集大成的な発表ともいえ、このところの私の関心(名所図会や絵本読本)ともリンクして面白かった。渡辺泰明さんのお顔も見たが、挨拶する間もなく、角川賞のお祝いも言えなかったのは残念であった。伊藤慎吾さんの太平記に登場する妖怪の展開、現代のRPGやライトノベルまで広く、射程長く見渡していて、共同研究テーマの三要素をすべて備えた発表だった。明日は、太平記と中国説話、そして小秋元段さんの総合コメント、ラウンドテーブルとまたまた楽しみである。懇親会のあと、敷地内のゲストハウスに泊まって時間の節約。
2018年11月09日
動物怪談集
ニャンコやワンコに限らず、動物番組って人気がありますよね、むかしから。
そのまたむかしの、江戸時代ならどうでしょう。
狐・狸・蛇・猫・・・と、人間に化けたり、悪さをしたりする動物が、本の世界、演劇の世界で大活躍・・・。
というわけで、『動物怪談集』なるアンソロジーが編まれた。
国書刊行会の「江戸怪談文芸名作選」の第四巻、近衞典子さんが校訂代表。2018年10月。
編集者の書く帯が相変わらず華麗で、今回は「動物たちが縦横無尽に活躍するファンタスティックでユニークな怪談集」と謳う。
収められた怪談は五編。帯では意匠絶巧・痛快洒脱・珠玉の浄瑠璃調・弁惑物の怪作と、繰り出す作品を形容する。
この中の『風流狐夜咄』をかつてすこし取り上げたことがある。夢の中で、狐が順繰りに扇を回しながら咄をする(夢の中でのことという設定だが)、当時の夜咄のあり方をどこか反映していると思われて興味深い。また「順咄」という語が注目される。
丁寧なあらすじを含め、解説も丁寧である。
そのまたむかしの、江戸時代ならどうでしょう。
狐・狸・蛇・猫・・・と、人間に化けたり、悪さをしたりする動物が、本の世界、演劇の世界で大活躍・・・。
というわけで、『動物怪談集』なるアンソロジーが編まれた。
国書刊行会の「江戸怪談文芸名作選」の第四巻、近衞典子さんが校訂代表。2018年10月。
編集者の書く帯が相変わらず華麗で、今回は「動物たちが縦横無尽に活躍するファンタスティックでユニークな怪談集」と謳う。
収められた怪談は五編。帯では意匠絶巧・痛快洒脱・珠玉の浄瑠璃調・弁惑物の怪作と、繰り出す作品を形容する。
この中の『風流狐夜咄』をかつてすこし取り上げたことがある。夢の中で、狐が順繰りに扇を回しながら咄をする(夢の中でのことという設定だが)、当時の夜咄のあり方をどこか反映していると思われて興味深い。また「順咄」という語が注目される。
丁寧なあらすじを含め、解説も丁寧である。
2018年11月08日
信多純一先生
信多純一先生が逝去された。
その学問的・教育的業績は、ここであらためて言うまでもない。
近松をはじめとする近世演劇研究に加え、絵画と文学の関係についての論も多く、どれもが魅惑的な論である。
八犬伝や好色一代男にも一家言があり、議論を巻き起こされた。
先生に対しては、「恐れ多い」「申し訳ありません」という言葉が私の中から湧き上がってくる。
実際、先生からは、何度か、流麗な文字で書かれたお手紙をいただくことがあったが、そこに書かれていたのは、いつもご教示とご叱責であった。
先生は、阪大の国文学(今は日本文学)の研究室を本当に愛しておられ、心配しておられた。
私などが、近世文学の教員を務めていることに、危うさを感じられておられたと思うと、まことに恐れ多く、申し訳ない次第なのである。
もともと私は大胆で一見奇抜な論文を読むのが大好きだったので、大学院生時代から自分勝手に信多先生ファンだった。もちろん、先生の本領は厳密な学問である。しかし、あっというような仮説を述べられることがあるのだ。
教え子の方たちと比べると、私の思いなど、芥子粒のようなものだが、私なりにいろいろな思い出がある。
それを全てここに記すことはもちろんできない。少しだけ記す。
私の後輩の時松孝文君が浄瑠璃研究を志し、中野三敏先生のお勧めもあって、信多先生の門下になった。
その時松君が、ある私のことば(信多先生に関することではない)を、信多先生に告げたところ、「けしからん!」とおっしゃったということ。「言うなよ〜、時松」とその時思ったが、何十年もたってみると、なにか私の中ではいい思い出である。時松君は若くして急逝したが、葬儀の時の信多先生のご弔辞は、胸を打つものであった。
先生が叙勲を受けられた時、先生の功績調書を作成したことがある。教え子に協力してもらい、過去の「国文学」と「解釈と鑑賞」の学界時評を全部確認したことがあった。先生ご自身も、多くの書評や新聞記事をストックされておられたが、時評までは確認されていなかったようで、感謝されたことがある。先生とメールや電話にやりとりを頻繁にしたのは、この時だけだったが、これも貴重な経験であった。
叙勲ご受章のお祝いの会では、かたじけなくも先生ご夫妻と同じテーブルにすわらせていただき、大変緊張したが、有り難かったことを思い出す。
また、先生と親しい柏木隆雄先生が、阪大の日本文学の教員との会食で、先生をお招きくださったことがあり、会食のあとに、信多先生行きつけのすごく格調の高いカラオケ店(?といっていいのか?知らない方もいるなかで一人ずつステージのようなところで歌う形式。元歌手の方がたくさん常連でいらっしゃる。リクエストは紙に書いて渡す)に連れて行ってくださったことがあり、そのプロ並みの歌に驚いたこともあった。
そして先生は、本ブログのコメント欄にコメントをお寄せくださったことがあった。「志水」の号で。これは本当に嬉しかったのである。
その学問的・教育的業績は、ここであらためて言うまでもない。
近松をはじめとする近世演劇研究に加え、絵画と文学の関係についての論も多く、どれもが魅惑的な論である。
八犬伝や好色一代男にも一家言があり、議論を巻き起こされた。
先生に対しては、「恐れ多い」「申し訳ありません」という言葉が私の中から湧き上がってくる。
実際、先生からは、何度か、流麗な文字で書かれたお手紙をいただくことがあったが、そこに書かれていたのは、いつもご教示とご叱責であった。
先生は、阪大の国文学(今は日本文学)の研究室を本当に愛しておられ、心配しておられた。
私などが、近世文学の教員を務めていることに、危うさを感じられておられたと思うと、まことに恐れ多く、申し訳ない次第なのである。
もともと私は大胆で一見奇抜な論文を読むのが大好きだったので、大学院生時代から自分勝手に信多先生ファンだった。もちろん、先生の本領は厳密な学問である。しかし、あっというような仮説を述べられることがあるのだ。
教え子の方たちと比べると、私の思いなど、芥子粒のようなものだが、私なりにいろいろな思い出がある。
それを全てここに記すことはもちろんできない。少しだけ記す。
私の後輩の時松孝文君が浄瑠璃研究を志し、中野三敏先生のお勧めもあって、信多先生の門下になった。
その時松君が、ある私のことば(信多先生に関することではない)を、信多先生に告げたところ、「けしからん!」とおっしゃったということ。「言うなよ〜、時松」とその時思ったが、何十年もたってみると、なにか私の中ではいい思い出である。時松君は若くして急逝したが、葬儀の時の信多先生のご弔辞は、胸を打つものであった。
先生が叙勲を受けられた時、先生の功績調書を作成したことがある。教え子に協力してもらい、過去の「国文学」と「解釈と鑑賞」の学界時評を全部確認したことがあった。先生ご自身も、多くの書評や新聞記事をストックされておられたが、時評までは確認されていなかったようで、感謝されたことがある。先生とメールや電話にやりとりを頻繁にしたのは、この時だけだったが、これも貴重な経験であった。
叙勲ご受章のお祝いの会では、かたじけなくも先生ご夫妻と同じテーブルにすわらせていただき、大変緊張したが、有り難かったことを思い出す。
また、先生と親しい柏木隆雄先生が、阪大の日本文学の教員との会食で、先生をお招きくださったことがあり、会食のあとに、信多先生行きつけのすごく格調の高いカラオケ店(?といっていいのか?知らない方もいるなかで一人ずつステージのようなところで歌う形式。元歌手の方がたくさん常連でいらっしゃる。リクエストは紙に書いて渡す)に連れて行ってくださったことがあり、そのプロ並みの歌に驚いたこともあった。
そして先生は、本ブログのコメント欄にコメントをお寄せくださったことがあった。「志水」の号で。これは本当に嬉しかったのである。