2019年01月22日
「上田秋成の人と文学」という題目で講演します。
一応告知しておきます。1月26日土曜日14:00から大手前大学で講演いたします。題目は「上田秋成の人と文学」。申し込み要、無料です。『雨月物語』のことはほとんどお話いたしません。秋成の人生をざっくり説明し、いくつか、「人と繋がる文芸」として、秋成の歌文を紹介するという感じです。怪談作家ではなく、歌人、国学者というのが、当時の評価です。そこのところを説明する感じです。ご案内はこちら
2019年01月21日
「古典は本当に必要なのか」シンポの司会として
1月14日に明星大学で行われた標記シンポの模様は、Youtubeで公開されています。司会をしました。いろいろと考えるところがあり、総括をしたいと思っていましたが、いろいろなことが重なってなかなか書けないでいました。しかし、これ以上遅延するのも問題かなと思い、やや雑ですが、まとめてみたいと思います。
既に、ブログ等で貴重な「まとめ」やご意見がいくつも出ておりますが、主催者の方でまとめられるであろう報告書にフィードバックされることと思います。シンポ開催前から、非常に関心を集めておりましたが、シンポ後もアーカイブ動画が公開されていたことと、ツイッターでハッシュタグ(#古典は本当に必要なのか)が一時上位ランキングに出たこともあり、シンポ参加者・視聴者以外までも、古典についていろいろ発言されるという、まったく意想外の展開となりました。これにセンター試験での古文出題(玉水物語)がこれまた話題となり、相乗効果もあったようです。
今回、とくに否定側で登壇していただいた、両先生にはまず深く御礼申し上げます。お二人が所属を名乗らなかったのは、所属先の見解と誤解されないため、ということだとうかがっています。主催者側の趣向ではありません。肯定派側で登壇いただいた両先生にも感謝申し上げます。そして、なにより、遠方からも含め、120名ほどの参加者の皆様に、心より御礼申し上げます。発言を希望されていた方はとても多かったのですが、司会の不手際で、取り上げることができなかった意見が多くありました。まことに申し訳ございません。
このシンポジウムの模様にご興味のある方は、全体をまとめてくださったこちらのサイトを御覧下さい。また、討論の優れた分析としては、こちらがあります。他にも多くの方がブログで触れています。
噛み合った議論を期待しましたが、論点設定の問題もあり、私の司会スキルの問題もあって、否定派と肯定派の議論は噛み合わなかったといえます。もっと言えば、否定派の論理の枠組で議論するのは、肯定派にはちょっと厳しかったのだと思われます。
否定派の枠組は、教育全体の中での「古典」の「優先度」を再考せよということ。高校で必修から外し、芸術の一科目として選択にせよと。否定派が提示した問題提起のキイワードでした。もし否定派がこれをひとつに絞って(たとえば行列)きて、行列か古典か、それぞれがプレゼンして、どちらを選ぶかフロアに問う、という議論の方向がありえたかもしれません。この「優先度」は、教育の基本・基準は何かと言う問題と関わりますから、教育は何のために行われるか、という議論へ展開することになりますね。否定派は、経済成長・国際競争のための効率のよい教育という考え方ですね。肯定派はこの枠組ではちょっときびしかったわけでしょう。それと関わるのが「幸福」というキーワードでしょう。フロアから、両方の主張の中に、共通して指摘できるキーワードだという発言がありました。「幸福」ですから個人に即して言うわけですが、収入がUPすることか、精神的な幸福感か?、という選択です。しかし、この議論も、建設的に行う論点としては難しそうです。
ではそうでない論点はなかったのか。私は「国語力」ではないかと思います。これが大事だということは両派に共通しています。英語でのコミュニケーション力やプレゼン力も「国語力」が大事であることは否定派もおっしゃていました。それなのに「古典」が「国語力」にどう関わるかが、議論されませんでした。この問題は、「古典」を「芸術」科目にしようと提言する否定派の考え方とも関わります。
私は「古典」必修の主張として、「国語力」の水準の維持、あるいは向上のためには古典教育が必要だからだ、ということを申し上げたく思います。つまり、現代文理解のためにこそ、古典そして古典(文語)文法が必要だということです。
現代文と古文は切り離されているわけではなく、接続しています。「走る」「防ぐ」「立つ」「見る」などの動詞や、「多い(多し)」「古い(古し)」などの形容詞、「顔」「足」「水」などの名詞など、現在使っている言葉と変わらない言葉(基礎語)が沢山あることはご存じでしょう。現代語は、新語もたくさんありますが、古語から続いているものの方が基本用語には多い。古語は死語ではないのです(ラテン語とは少し意味が違う)。古文の構造は現代文と全く同じ、その点はなにも難しいことはありません。文語文法は、現代語文法よりも法則性が強い。むしろ現代語文法よりも本当は学びやすい。しかし、むずかしく感じるのはなぜか、それは必修レベルで、やや多くの語彙や文法を教えすぎているからではないか、と思います。助動詞などはもっと減らしてもいい。源氏物語などの中古作品と、中古文に連なる徒然草や擬古文を中心に置いたために、敬語をはじめとして、ややこしいことをたくさん教えなければならなかったわけです。高校における古典必修を私は主張しますが、あくまで現代文を理解するための基礎として考えるということから、柱になるのは、漢文訓読文のスタイルではないかと思います。現代の論理的な文章にもよく出てくる「いわんや」とか「なきにしもあらず」とか、そのような言い回しは、現代語訳ではなく、そのまま使えるようでありたい、そのためには、現代文にも使われるような語句がたくさん出てくる読みやすい古文を必修で学ぶことでしょう。源氏などの中古文はむしろ選択で学ぶようにすればどうだろうかと思います。古典は情緒的だという先入観も、これまでの教科書のテキストの編成に原因があるのではないでしょうか。漢文訓読的文章を中心に、より広い分野のテキストを配列すればよい。
「古典」が芸術科目にできない、というのは、そういう意味で「古典」とは文学作品に限定されないからです。宗教思想・歴史学・本草(薬草)学・天文学など、文理を越えた古典が沢山あります(福田氏のプレゼンでも)。それを読むのです。すでにこれもどなたかが指摘していましたが、古典とは古いと同時に、現代にも通じる普遍的なテキストです。「典」がその意味を持ちます。逆に現代にインパクトをもたないもの、読む価値のない文は、単なる歴史的文章であって、古典ではない。古典とは読み続けられる価値のあるもので、しかも時代時代によって、その価値を発見されつづけるものです。百年読み継がれれば、つまり漱石あたりから、もう古典といってよいでしょう。淘汰されてきてなお新たな価値を見いだされ続けているものが古典です。それは現代語訳で学ぶだけでは無意味です。現代語訳とともに学んでこそ意味があります。
古典は、文章自体が、重層的に出来ているものが多い。文章の背後に和歌や、それより古い古典が隠れているという時間的重層もあるし、掛詞や連想ということばレベルの重層もあります(前田雅之氏の「記憶と連想」発言参照)。これは現代語訳では消えてしまう。だから原文で読むことが必要。その粹(すい)は、和歌でしょう。『和歌のルール』という本がありますが、かなり売れています。和歌は情緒的だと思われがちですが、そうではない。きわめて知的で論理的。和歌のルールのマスターは国語力の基礎たりえます。また漢文は、もともと漢籍をよむために工夫された日本語の文体。それを読み下したのが漢文訓読です。この漢文を学んだおかげで、日本人が明治以後西洋の抽象概念を漢語で次々に造語した。この造語力、いまでも必要ではないか。「共創」などという漢語も結構新しいですよね。それだけではなく、「しかるに」とか「けだし」とか、今でも普通に使われることばは漢文訓読から。またちょっと前の法律を読んだり、文書を読むためには、漢文力が絶対に必要となります。ビジネスでもそれは必要ではないか。
しかも、それらの漢文・古文は、何百年も価値を認められ続けて生き残ってきたものでありますから、内容的にも今読んでも必ず学びがあります。ここでは詳しく触れませんが。
でもポリコレがあるでしょう?と反論されるかもしれない。古典にはもちろん古い価値観や道徳観があります。ないと言ってはいない。しかし、それは古文だけではない、昭和、いや平成でも、そういう作品・映画・ドラマ・漫画はいくらでもあります。それらを教室で読むときには、当然それらを注意して読む。これは教師の役目です。古典で、男尊女卑や年功序列をすり込まれるというのは、かなり無理のある主張と言わねばなりません。むしろ、逆に気づきを与えるチャンスだとも言える。ここはだから論点にはならないと思います。
このように書いてくると、否定派のご主張は自体あまり有効ではないように思われるのですが、いかがでしょうか。にもかかわらず、私自身の古典教科書観は、否定派と案外近いようにも思います。もし高校必修が攻防線でなかったら、同じ陣営だったかもしれません。それは、私が否定派になったというよりも、否定派のおふたりが肯定派になっていたのでは、という意味ですが。
なお、フロアから出た意見で、すでに古典は高校によっては、ほとんどやられていない。現代語訳で教えられているところもある。そういう現実を見ないで議論するのはエリートの議論であるという批判、また教科そのものの枠組を考え直すべき時に来ていると思うがいかがか、という意見がありました。この意見は、SNSのご当人の書き込みを読み、それをふまえて動画を見直すと、「すべての先生に」、つまり私自身にも向けられていたようなのです。それをネグレクトした形になったことで、私への人格批判もありました。私へも回答を求めていたとはちょっと気づきませんでしたし、気づいたとしても、他の質問者との間で私が答える場面はなかったので、答えなかったとは思いますが、この場を借りて、お答えしておくと、エリートの議論というのはその通りで、現状すでにこうなっているというご教示はありがたいです。もっともこの討論は、直前になって論点が定められたので、司会の私を含め、現在の高等学校の国語の現場についての情報が不足していました(どちらかといえば、古典の意義とは何か、という議論を当初は想定していたので。しかし否定派の論理を傾聴するという趣旨で、高校必修の論点となりました)。また教科の枠組については、私はさきほどの理由で、古典は「国語」だと思っているので、その枠組を変える必要はないという考えです。この問題を論点にすることも出来ましたね。
なお主催者は報告書(書籍になるかどうかわかりませんが)を作成すると思いますので、そこでまとめをされることと思います。やや拙速ですが、以上です。
既に、ブログ等で貴重な「まとめ」やご意見がいくつも出ておりますが、主催者の方でまとめられるであろう報告書にフィードバックされることと思います。シンポ開催前から、非常に関心を集めておりましたが、シンポ後もアーカイブ動画が公開されていたことと、ツイッターでハッシュタグ(#古典は本当に必要なのか)が一時上位ランキングに出たこともあり、シンポ参加者・視聴者以外までも、古典についていろいろ発言されるという、まったく意想外の展開となりました。これにセンター試験での古文出題(玉水物語)がこれまた話題となり、相乗効果もあったようです。
今回、とくに否定側で登壇していただいた、両先生にはまず深く御礼申し上げます。お二人が所属を名乗らなかったのは、所属先の見解と誤解されないため、ということだとうかがっています。主催者側の趣向ではありません。肯定派側で登壇いただいた両先生にも感謝申し上げます。そして、なにより、遠方からも含め、120名ほどの参加者の皆様に、心より御礼申し上げます。発言を希望されていた方はとても多かったのですが、司会の不手際で、取り上げることができなかった意見が多くありました。まことに申し訳ございません。
このシンポジウムの模様にご興味のある方は、全体をまとめてくださったこちらのサイトを御覧下さい。また、討論の優れた分析としては、こちらがあります。他にも多くの方がブログで触れています。
噛み合った議論を期待しましたが、論点設定の問題もあり、私の司会スキルの問題もあって、否定派と肯定派の議論は噛み合わなかったといえます。もっと言えば、否定派の論理の枠組で議論するのは、肯定派にはちょっと厳しかったのだと思われます。
否定派の枠組は、教育全体の中での「古典」の「優先度」を再考せよということ。高校で必修から外し、芸術の一科目として選択にせよと。否定派が提示した問題提起のキイワードでした。もし否定派がこれをひとつに絞って(たとえば行列)きて、行列か古典か、それぞれがプレゼンして、どちらを選ぶかフロアに問う、という議論の方向がありえたかもしれません。この「優先度」は、教育の基本・基準は何かと言う問題と関わりますから、教育は何のために行われるか、という議論へ展開することになりますね。否定派は、経済成長・国際競争のための効率のよい教育という考え方ですね。肯定派はこの枠組ではちょっときびしかったわけでしょう。それと関わるのが「幸福」というキーワードでしょう。フロアから、両方の主張の中に、共通して指摘できるキーワードだという発言がありました。「幸福」ですから個人に即して言うわけですが、収入がUPすることか、精神的な幸福感か?、という選択です。しかし、この議論も、建設的に行う論点としては難しそうです。
ではそうでない論点はなかったのか。私は「国語力」ではないかと思います。これが大事だということは両派に共通しています。英語でのコミュニケーション力やプレゼン力も「国語力」が大事であることは否定派もおっしゃていました。それなのに「古典」が「国語力」にどう関わるかが、議論されませんでした。この問題は、「古典」を「芸術」科目にしようと提言する否定派の考え方とも関わります。
私は「古典」必修の主張として、「国語力」の水準の維持、あるいは向上のためには古典教育が必要だからだ、ということを申し上げたく思います。つまり、現代文理解のためにこそ、古典そして古典(文語)文法が必要だということです。
現代文と古文は切り離されているわけではなく、接続しています。「走る」「防ぐ」「立つ」「見る」などの動詞や、「多い(多し)」「古い(古し)」などの形容詞、「顔」「足」「水」などの名詞など、現在使っている言葉と変わらない言葉(基礎語)が沢山あることはご存じでしょう。現代語は、新語もたくさんありますが、古語から続いているものの方が基本用語には多い。古語は死語ではないのです(ラテン語とは少し意味が違う)。古文の構造は現代文と全く同じ、その点はなにも難しいことはありません。文語文法は、現代語文法よりも法則性が強い。むしろ現代語文法よりも本当は学びやすい。しかし、むずかしく感じるのはなぜか、それは必修レベルで、やや多くの語彙や文法を教えすぎているからではないか、と思います。助動詞などはもっと減らしてもいい。源氏物語などの中古作品と、中古文に連なる徒然草や擬古文を中心に置いたために、敬語をはじめとして、ややこしいことをたくさん教えなければならなかったわけです。高校における古典必修を私は主張しますが、あくまで現代文を理解するための基礎として考えるということから、柱になるのは、漢文訓読文のスタイルではないかと思います。現代の論理的な文章にもよく出てくる「いわんや」とか「なきにしもあらず」とか、そのような言い回しは、現代語訳ではなく、そのまま使えるようでありたい、そのためには、現代文にも使われるような語句がたくさん出てくる読みやすい古文を必修で学ぶことでしょう。源氏などの中古文はむしろ選択で学ぶようにすればどうだろうかと思います。古典は情緒的だという先入観も、これまでの教科書のテキストの編成に原因があるのではないでしょうか。漢文訓読的文章を中心に、より広い分野のテキストを配列すればよい。
「古典」が芸術科目にできない、というのは、そういう意味で「古典」とは文学作品に限定されないからです。宗教思想・歴史学・本草(薬草)学・天文学など、文理を越えた古典が沢山あります(福田氏のプレゼンでも)。それを読むのです。すでにこれもどなたかが指摘していましたが、古典とは古いと同時に、現代にも通じる普遍的なテキストです。「典」がその意味を持ちます。逆に現代にインパクトをもたないもの、読む価値のない文は、単なる歴史的文章であって、古典ではない。古典とは読み続けられる価値のあるもので、しかも時代時代によって、その価値を発見されつづけるものです。百年読み継がれれば、つまり漱石あたりから、もう古典といってよいでしょう。淘汰されてきてなお新たな価値を見いだされ続けているものが古典です。それは現代語訳で学ぶだけでは無意味です。現代語訳とともに学んでこそ意味があります。
古典は、文章自体が、重層的に出来ているものが多い。文章の背後に和歌や、それより古い古典が隠れているという時間的重層もあるし、掛詞や連想ということばレベルの重層もあります(前田雅之氏の「記憶と連想」発言参照)。これは現代語訳では消えてしまう。だから原文で読むことが必要。その粹(すい)は、和歌でしょう。『和歌のルール』という本がありますが、かなり売れています。和歌は情緒的だと思われがちですが、そうではない。きわめて知的で論理的。和歌のルールのマスターは国語力の基礎たりえます。また漢文は、もともと漢籍をよむために工夫された日本語の文体。それを読み下したのが漢文訓読です。この漢文を学んだおかげで、日本人が明治以後西洋の抽象概念を漢語で次々に造語した。この造語力、いまでも必要ではないか。「共創」などという漢語も結構新しいですよね。それだけではなく、「しかるに」とか「けだし」とか、今でも普通に使われることばは漢文訓読から。またちょっと前の法律を読んだり、文書を読むためには、漢文力が絶対に必要となります。ビジネスでもそれは必要ではないか。
しかも、それらの漢文・古文は、何百年も価値を認められ続けて生き残ってきたものでありますから、内容的にも今読んでも必ず学びがあります。ここでは詳しく触れませんが。
でもポリコレがあるでしょう?と反論されるかもしれない。古典にはもちろん古い価値観や道徳観があります。ないと言ってはいない。しかし、それは古文だけではない、昭和、いや平成でも、そういう作品・映画・ドラマ・漫画はいくらでもあります。それらを教室で読むときには、当然それらを注意して読む。これは教師の役目です。古典で、男尊女卑や年功序列をすり込まれるというのは、かなり無理のある主張と言わねばなりません。むしろ、逆に気づきを与えるチャンスだとも言える。ここはだから論点にはならないと思います。
このように書いてくると、否定派のご主張は自体あまり有効ではないように思われるのですが、いかがでしょうか。にもかかわらず、私自身の古典教科書観は、否定派と案外近いようにも思います。もし高校必修が攻防線でなかったら、同じ陣営だったかもしれません。それは、私が否定派になったというよりも、否定派のおふたりが肯定派になっていたのでは、という意味ですが。
なお、フロアから出た意見で、すでに古典は高校によっては、ほとんどやられていない。現代語訳で教えられているところもある。そういう現実を見ないで議論するのはエリートの議論であるという批判、また教科そのものの枠組を考え直すべき時に来ていると思うがいかがか、という意見がありました。この意見は、SNSのご当人の書き込みを読み、それをふまえて動画を見直すと、「すべての先生に」、つまり私自身にも向けられていたようなのです。それをネグレクトした形になったことで、私への人格批判もありました。私へも回答を求めていたとはちょっと気づきませんでしたし、気づいたとしても、他の質問者との間で私が答える場面はなかったので、答えなかったとは思いますが、この場を借りて、お答えしておくと、エリートの議論というのはその通りで、現状すでにこうなっているというご教示はありがたいです。もっともこの討論は、直前になって論点が定められたので、司会の私を含め、現在の高等学校の国語の現場についての情報が不足していました(どちらかといえば、古典の意義とは何か、という議論を当初は想定していたので。しかし否定派の論理を傾聴するという趣旨で、高校必修の論点となりました)。また教科の枠組については、私はさきほどの理由で、古典は「国語」だと思っているので、その枠組を変える必要はないという考えです。この問題を論点にすることも出来ましたね。
なお主催者は報告書(書籍になるかどうかわかりませんが)を作成すると思いますので、そこでまとめをされることと思います。やや拙速ですが、以上です。
2019年01月06日
古典は本当に必要なのか
1月14日(月)14:00から17:30まで、明星大学で、古典は本当に必要なのかを、古典否定(不要)派、古典肯定(必要)派が火花を散らしてガチ議論する公開シンポジウム「古典は本当に必要なのか」が開催される。主催は明星大学日本文化学科、コーディネーターは直前のエントリーで紹介した『怪異を読む・書く』の編者、勝又基さんである。詳細な内容は、明星大学のこちらのウェブサイトでご確認いただきたい。入場無料・予約不要・使用言語は日本語である。関心のある方々のご来場を、お待ちしている。
人文学の危機、文学部不要・縮小論が言われはじめて、すでに10年以上たつだろうか。流れは加速しているように見える。これに抗するかのように各大学の文学部では、文学部の意義を再確認したり、逆襲の論理を模索するシンポジウムが開かれるようになった。
今回は文学部の存在意義を議論するのではなく、古典の存在意義を議論するものだが、重要なのは、人文学や文学部の存在意義に疑問を抱いている識者が登壇し、古典不要論を説くのに対し、実際に古典教育・研究を行っている側が、これに反論するという基本的構図があるということである。
不要派の一人猿倉氏は「現代を生きるのに必要度の低い教養である古典を高校生に教えるのは即刻やめるべき」という挑発的な、しかし論点の明確な題目を出されている。もうひとりのパネリスト前田氏は、某大手電機メーカーOBであるが、理系目線から「古文・漢文より国語リテラシー」と題する発表を行う。迎え撃つ形の肯定派パネリストは、和歌文学研究者で昨年角川源義賞を受賞した渡部泰明氏と、「医学書のなかの文学」という著書もあり、江戸の「理系」書も博捜している近世文学研究者の福田安典氏である。二人ともオーソドックスな日本文学研究者ではなく、結構とんがっているところがあると私は思う。
否定派は厳しい論理で、「古典」不要を説くだろう。今回のパネリストはガチの否定派であって、まったく容赦はないはずである。日本文学の研究者はこのような古典否定派の批判にほとんどさらされたことがないのが実情である。文学部の中だけで、その支持者だけで、文学部の意義とか、力とか、逆襲といっているのは、やっぱり温室の議論ではないのか。コーディネーターの勝又さんの問題意識はそこである。相談を受けて私も共感した。当初、本当に壇上に立ってくれる否定派がいなさそうだったが、本物の否定派、日本文学研究者に全く知り合いのいない、つまり遠慮する必要のない立場の方とコンタクトが取れた。もしかすると、最強の古典否定論者かもしれないという方々である。
私が司会をすることになった。勝又さんも私も、古典を教育・研究しているが、現在の古典教育研究のあり方に問題があることを感じている。我々はまず、シビアな不要論を受け止めるところから始めなければならない。古典擁護派がこれまで説いてきた議論が、本当に否定派に通じるのかどうかを確かめなければならない。
どっちが勝つか、というイベント性を装っているし、事実、添付したチラシの図案は映画「仁義なき戦い」をもじったものである。しかし、このイベントから、古典教育研究のめざす方向が見えてくるのではないか、あるいは全く意外な副産物があるのでは、という期待がある。本気の批判を受け止めてからではないと、本気の改革は始まらないのではないか。議論の時間は90分が予定されている。フロアからの質問や意見も交えて進めてゆきたいと考えている。是非是非、シンポジウムにご参加いただきたい。
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人文学の危機、文学部不要・縮小論が言われはじめて、すでに10年以上たつだろうか。流れは加速しているように見える。これに抗するかのように各大学の文学部では、文学部の意義を再確認したり、逆襲の論理を模索するシンポジウムが開かれるようになった。
今回は文学部の存在意義を議論するのではなく、古典の存在意義を議論するものだが、重要なのは、人文学や文学部の存在意義に疑問を抱いている識者が登壇し、古典不要論を説くのに対し、実際に古典教育・研究を行っている側が、これに反論するという基本的構図があるということである。
不要派の一人猿倉氏は「現代を生きるのに必要度の低い教養である古典を高校生に教えるのは即刻やめるべき」という挑発的な、しかし論点の明確な題目を出されている。もうひとりのパネリスト前田氏は、某大手電機メーカーOBであるが、理系目線から「古文・漢文より国語リテラシー」と題する発表を行う。迎え撃つ形の肯定派パネリストは、和歌文学研究者で昨年角川源義賞を受賞した渡部泰明氏と、「医学書のなかの文学」という著書もあり、江戸の「理系」書も博捜している近世文学研究者の福田安典氏である。二人ともオーソドックスな日本文学研究者ではなく、結構とんがっているところがあると私は思う。
否定派は厳しい論理で、「古典」不要を説くだろう。今回のパネリストはガチの否定派であって、まったく容赦はないはずである。日本文学の研究者はこのような古典否定派の批判にほとんどさらされたことがないのが実情である。文学部の中だけで、その支持者だけで、文学部の意義とか、力とか、逆襲といっているのは、やっぱり温室の議論ではないのか。コーディネーターの勝又さんの問題意識はそこである。相談を受けて私も共感した。当初、本当に壇上に立ってくれる否定派がいなさそうだったが、本物の否定派、日本文学研究者に全く知り合いのいない、つまり遠慮する必要のない立場の方とコンタクトが取れた。もしかすると、最強の古典否定論者かもしれないという方々である。
私が司会をすることになった。勝又さんも私も、古典を教育・研究しているが、現在の古典教育研究のあり方に問題があることを感じている。我々はまず、シビアな不要論を受け止めるところから始めなければならない。古典擁護派がこれまで説いてきた議論が、本当に否定派に通じるのかどうかを確かめなければならない。
どっちが勝つか、というイベント性を装っているし、事実、添付したチラシの図案は映画「仁義なき戦い」をもじったものである。しかし、このイベントから、古典教育研究のめざす方向が見えてくるのではないか、あるいは全く意外な副産物があるのでは、という期待がある。本気の批判を受け止めてからではないと、本気の改革は始まらないのではないか。議論の時間は90分が予定されている。フロアからの質問や意見も交えて進めてゆきたいと考えている。是非是非、シンポジウムにご参加いただきたい。
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2019年01月05日
『怪異を読む・書く』
怪異といえば、昨年出た本でこの本を逸することはできない。
国書刊行会から出版された『怪異を読む・書く』(2018年11月)である。
木越治・勝又基編となっている。
もともと、木越さんの古稀記念論文集として企画されたものだった。しかし、本が出来上がるのを待たずして、木越さんは逝去されたのだった。
しかし、論集は、予定通り、古稀の誕生日に出版され、霊前に捧げられた。結果的には追悼論文集となった。
本書は、「怪異」を読む・書く、つまり読者と作者という観点から、様々なアプローチで「怪異」を論じた、本格的な論文集である。
「読む」に関わるもの13編、「書く」に関わるもの13編ときっちり同数の二部構成である。
論者は、木越ファミリーの皆さんがほとんど、あとは木越さんが特に寄稿をお願いした方である。
木越ファミリーとは、木越さんの金沢大学時代の教え子、北陸古典研究会メンバー、私淑された高田衛先生の門下生で木越さんと親しい方、上田秋成研究会メンバー、上智大学時代の教え子、そして文字通りのファミリーである奥様の木越秀子さんと、ご子息の木越俊介さんである。お二人も近世文学の研究者。内容をみると、近世を中心に、中世から近代、そして中国の怪談も俎上に載せられている。しかも、斬新な視点をもつ、かなりレベルの高い論文が集まっている。いくつか触れておこう。
高橋明彦さんは怪異における実在論と観念論の問題を論じる。大きな問いがそこにある。
木越俊介さんは、『四方義草』という、前期読本の系譜の最語尾に位置する作品を取り上げるが、これは、父の治さんが論じたものをを引き継いだもの。対象作品だけでなく、論のテーマそのものが「引き継ぐ」ことを問題にしているところが面白い。
木越治さんは、勝又さんが選んだLong Distant Call という「吉備津の釜」論。かなり前の論文だが、全く古びていない一級の作品論である。
勝又基さんの「都市文化としての写本怪談」は、近世中期の写本怪談と江戸の前期戯作に発想の繋がりを見出したもの。
井上泰至さんは、秋成を「音の作家」と位置づけて分析。眼疾のあった秋成の聴覚が研ぎ澄まされていたのは疑いなく、私もかつて「血かたびら」の聴覚表象を分析したことがある(引いてくださっている)。
もちろん、この他の論文も読みどころがたくさんある。帯の裏には木越治責任編集の、現在5巻中4巻が刊行された『江戸怪談文芸名作選』のラインナップが載る。このシリーズの姉妹編が本書だと位置づけていいだろう。そしてこれから出る最終巻の校訂代表は、勝又さんと木越俊介さん。これもまた感慨深い。私はこのシリーズの方に参加させていただいたが、声をかけていただきありがたかった。
私が背中を追いかけた研究者のお一人が木越治さんだった。末尾の木越さんの著作目録が載る。これも編者渾身の仕事である。「その他」の終わりから4番目に「飯倉洋一氏へ」というタイトルがある。「菊花の約」をめぐる作品論のあり方についての論争をした。本当に正面から拙論を批判していただき、それへの私の反論に、さらに答えたのがこの文章だった。背中を追いかけてきた研究者が振り向いて、「勝負」してくれた。これは研究者冥利につきることなのである。
国書刊行会から出版された『怪異を読む・書く』(2018年11月)である。
木越治・勝又基編となっている。
もともと、木越さんの古稀記念論文集として企画されたものだった。しかし、本が出来上がるのを待たずして、木越さんは逝去されたのだった。
しかし、論集は、予定通り、古稀の誕生日に出版され、霊前に捧げられた。結果的には追悼論文集となった。
本書は、「怪異」を読む・書く、つまり読者と作者という観点から、様々なアプローチで「怪異」を論じた、本格的な論文集である。
「読む」に関わるもの13編、「書く」に関わるもの13編ときっちり同数の二部構成である。
論者は、木越ファミリーの皆さんがほとんど、あとは木越さんが特に寄稿をお願いした方である。
木越ファミリーとは、木越さんの金沢大学時代の教え子、北陸古典研究会メンバー、私淑された高田衛先生の門下生で木越さんと親しい方、上田秋成研究会メンバー、上智大学時代の教え子、そして文字通りのファミリーである奥様の木越秀子さんと、ご子息の木越俊介さんである。お二人も近世文学の研究者。内容をみると、近世を中心に、中世から近代、そして中国の怪談も俎上に載せられている。しかも、斬新な視点をもつ、かなりレベルの高い論文が集まっている。いくつか触れておこう。
高橋明彦さんは怪異における実在論と観念論の問題を論じる。大きな問いがそこにある。
木越俊介さんは、『四方義草』という、前期読本の系譜の最語尾に位置する作品を取り上げるが、これは、父の治さんが論じたものをを引き継いだもの。対象作品だけでなく、論のテーマそのものが「引き継ぐ」ことを問題にしているところが面白い。
木越治さんは、勝又さんが選んだLong Distant Call という「吉備津の釜」論。かなり前の論文だが、全く古びていない一級の作品論である。
勝又基さんの「都市文化としての写本怪談」は、近世中期の写本怪談と江戸の前期戯作に発想の繋がりを見出したもの。
井上泰至さんは、秋成を「音の作家」と位置づけて分析。眼疾のあった秋成の聴覚が研ぎ澄まされていたのは疑いなく、私もかつて「血かたびら」の聴覚表象を分析したことがある(引いてくださっている)。
もちろん、この他の論文も読みどころがたくさんある。帯の裏には木越治責任編集の、現在5巻中4巻が刊行された『江戸怪談文芸名作選』のラインナップが載る。このシリーズの姉妹編が本書だと位置づけていいだろう。そしてこれから出る最終巻の校訂代表は、勝又さんと木越俊介さん。これもまた感慨深い。私はこのシリーズの方に参加させていただいたが、声をかけていただきありがたかった。
私が背中を追いかけた研究者のお一人が木越治さんだった。末尾の木越さんの著作目録が載る。これも編者渾身の仕事である。「その他」の終わりから4番目に「飯倉洋一氏へ」というタイトルがある。「菊花の約」をめぐる作品論のあり方についての論争をした。本当に正面から拙論を批判していただき、それへの私の反論に、さらに答えたのがこの文章だった。背中を追いかけてきた研究者が振り向いて、「勝負」してくれた。これは研究者冥利につきることなのである。
2019年01月04日
新選百物語
あけましておめでとうございます。
本日仕事はじめで早速会議でした。
それはともかく2019年の初投稿である。昨年紹介したかったのに紹介しきれない本が数冊。
そのうちの1冊が、『新選百物語』(白澤社、2018年11月)。
ハンディな造本だが、これ、〈江戸怪談を読む〉叢書の1冊である。監修は篠原進さん、翻刻・注・現代語訳は教え子の岡島由佳さんである。
百物語の翻刻は、藤川雅恵さんの『御伽百物語』に続いてで、ありがたい。堤邦彦さんと近藤瑞木さんという、近世怪談研究最前線のお二人がコラム執筆というのも贅沢。
さて、明和五年(1768)に大坂で刊行されたこの本、浮世草子っぽいところがあるが、例によって「奇談」書のひとつである(「奇談」書については何度も書いてきたが、『日本文学』2012年10月号の「近世文学の一領域としての「奇談」」が概観的なもの)。未翻刻の「奇談」書が翻刻されていくのは、「奇談」書研究者(?)としてはまことに嬉しい限りでして、着々とひとつひとつ進んでいるのです。版元の吉文字屋も「奇談」書の担い手の一人で、作者でもあり、版元でもある。江戸時代は本屋作者って結構いるのですよね。さて、明和五年といえば、秋成が『雨月物語』を脱稿した年(序による)ということになっているが、かなり味付けが違うにもかかわらず、女性の嫉妬を主題とする類話もあって、比較すると興味深いと思う。
岡島さんには、『新選百物語』についての論文もあるが、その一部をここで披露してもよかったのではないかと思ったが、本書では解説を師匠が担当したのですね。
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本日仕事はじめで早速会議でした。
それはともかく2019年の初投稿である。昨年紹介したかったのに紹介しきれない本が数冊。
そのうちの1冊が、『新選百物語』(白澤社、2018年11月)。
ハンディな造本だが、これ、〈江戸怪談を読む〉叢書の1冊である。監修は篠原進さん、翻刻・注・現代語訳は教え子の岡島由佳さんである。
百物語の翻刻は、藤川雅恵さんの『御伽百物語』に続いてで、ありがたい。堤邦彦さんと近藤瑞木さんという、近世怪談研究最前線のお二人がコラム執筆というのも贅沢。
さて、明和五年(1768)に大坂で刊行されたこの本、浮世草子っぽいところがあるが、例によって「奇談」書のひとつである(「奇談」書については何度も書いてきたが、『日本文学』2012年10月号の「近世文学の一領域としての「奇談」」が概観的なもの)。未翻刻の「奇談」書が翻刻されていくのは、「奇談」書研究者(?)としてはまことに嬉しい限りでして、着々とひとつひとつ進んでいるのです。版元の吉文字屋も「奇談」書の担い手の一人で、作者でもあり、版元でもある。江戸時代は本屋作者って結構いるのですよね。さて、明和五年といえば、秋成が『雨月物語』を脱稿した年(序による)ということになっているが、かなり味付けが違うにもかかわらず、女性の嫉妬を主題とする類話もあって、比較すると興味深いと思う。
岡島さんには、『新選百物語』についての論文もあるが、その一部をここで披露してもよかったのではないかと思ったが、本書では解説を師匠が担当したのですね。
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