これ、『宗因千句』注釈の本の題名である。和泉書院から、2019年5月刊行。副題に「夫婦で『宗因千句』注釈」とあって、「そうなのか」、とわかる。
そう、これは夫婦で連歌俳諧研究者である深沢眞二・深沢了子夫妻の、対談形式による注釈である。今回はその上巻で、雑誌「近世文学研究」に連載のもの。
このブログではじめてとりあげたのが2011年の秋だった。あのころは私も少しはブログ記事に工夫をしていて、『雨月物語』「浅茅が宿」の登場人物である勝四郎・宮木夫婦の対談形式でのレビューだったのだ(レビューって、内容ほどんど触れていないのだが・・・)。読んでいない人もいるだろうからここで再掲しておこう。
勝四郎:ノリコとシンジがユニットだよ。
宮木:えーっ、酒井法子と原田真二?!
勝:古いなあ。深沢夫妻のことだよ。
宮:あーっ、なるほど。了子さんと真二さんね。あなた夫婦だからユニットあたりまえでしょ。
勝:でも、俺たちはそうじゃなかったな。ってその話じゃないよ。そうじゃなくて、「近世文学研究」第3号(2011年10月)に、宗因独吟「つぶりをも」百韻注釈を、対話形式でやっているって話。
宮:知っているわよ。「世の中に」に次ぐ第2弾ね。
勝:あの二人だから、中身はすごく充実しているし、勉強になるね。
宮:でも対話形式ってところが面白い趣向ね。
勝:そこだよ。むかし木越治さんが「対話形式による文化五年本春雨物語論の試み」だったっけな、そういう論文を対話式で書いていたし、新聞での五人女の連載もりえとひかるという女子大生を登場させてやってたし、西田耕三さんが、対話形式による書評というのをやっていたが、いずれも一人二役。でもこれは、正真正銘二人の対話形式。しかも夫婦だよ。
宮:拾い読みしたけど、面白いわね。夫婦ならではの会話というか、ちょっと脱線するじゃない。
勝:どちらかというとノリコさんの方が、面白いことをよくいうよね。
宮:私とちがって、ユーモアがあるわね。
勝:こういう注釈なら、すらすら読めるなあ。
宮:って、読んだの?
勝:いや、まだ。少しだけ。葛のうら葉のかえる秋にはきっと読むよ。
宮:もう秋なんだってば。
いや、なかなか草。(追記:これを書いている時に「草」というのはDisりだと思っていて、自分のギャグを自虐的にくさしていたつもりでしたが、どうも、草には「笑い」という意味しかないようなので、それだと自賛みたいになってしまいます。それで、「草」を「ださー」に改めておきます)
そのあとも何回か紹介しているが、「この注釈は、ご夫妻が本当に楽しそうに会話しているかのように作文されています。しかし実のところ、どういう風に作られているのだろう?と、どうでもいいことに興味が向かいます」と疑問を呈していたら、「それは企業秘密です」とこの本の後書きで答えられていた!とは嬉しいというべきか、恥ずかしいというべきか。だって他の方の名前もたくさん出ているけれど、みなさん、お二人の注釈の内容に具体的に関わるご指摘やご意見を述べた方ばかりですから。そういうことを述べて後書きに載るとは、なんとも恥ずかしいのう、やはり(←なんで急にじいさんになる)。
とくに、尾崎千佳さんが何度も登場する。尾崎さんが宗因研究の第一人者であることと、尾崎さんの誠実さ。真面目さによるもので、すごいなあと一々感心する。そう、この注釈は夫婦対談形式というのが異例なら、そこに寄せられたコメントを(多分、許可が得られた方のは全部)そのまま掲載しているということである。さらに、それへのご夫婦のコメントもまた載せているのである。まさに場の文芸に相応しい本づくりである。
さて、またまた内容に関わらないことばかり申し上げているが、この注釈が連載されていた『近世文学研究』が終刊となってしまって、ユニークな夫婦注釈の掲載誌がなくなってしまった・・・。そこでわが『上方文藝研究』がご相談をうけた。「査読しますよ」というのを条件に、投稿していただいたのが、前号の注釈だった。合評会には尾崎さんもいらっしゃって、激論が戦わされたことは記憶に新しい。そういうことで、この本は深沢夫妻+そこに積極的にコメントした人々が作り上げた、注釈の巻なのであります。忘却散人はそれを紹介するだけなのであります。
こちらに詳しい情報があります。
2019年05月13日
2019年05月05日
2019年05月04日
木越治さんの問い
2018年12月に出た『北陸古典研究』33号について書く。
木越治追悼特集が編まれていて、教え子や研究仲間がそれぞれに木越治の投げかけた問いに答えている。
丸井貴史・紅林健志・奥野美友紀・高橋明彦・山下久夫・山本一のめんめんである。
北陸古典研究会は木越さんが立ち上げた研究会である。私も1度だけ参加したことがある。その時は、小林一彦さんや山本淳子さんも発表されたと記憶する。九州や関西のいくつかの研究会に参加したことがあるが、一番尖っている研究会だな、という印象で、それはやはり、木越さんとそれに共振する人々の「文学」への熱い思いに由来するものと思われる。
木越さんは、今の、ご自身の、作品に対する感覚を大事にされていたと思う。「文学」とは、「語り」とは、という彼の問いは、すべて、いまここのご自身から発せられている。
追悼の文章も、「読む」とは、「語り」とは、「面白さ」とは、「文学性」とは、という木越さんの問いを受け止めて、各人が真摯に答えたものと捉えられる。紅林さんの「〈つまずき〉と〈語り〉」では、ちらっと「菊花の約」の語りをめぐる木越飯倉論争が取り上げられている。紅林さんは、『雨月物語』全体の語りを、そして近世小説全体についての〈語り〉についてどう考えるかを詳しく説明せよという宿題を私に下さった。感謝申し上げるが、私はそれについて書くことはない。今の私には、「文学」とは、とか「語り」とは、という問いはない。「菊花の約」の場合も、あくまで近世の読者はこの話をどのように読んだか(もちろんその読みは多様だろうが、多様の中の可能性のひとつとして)、という着想で考えた結果、語りの問題が不可避となったわけであり、最初から「語り」とはという問いがあったわけではないからである。
しかし、木越さんは、「それも飯倉の(今の)読みだ」と言われるのである。そう言われてみれば、その通りなのだが、なぜ私がそういう読みをするかという出発点は、大いに木越さんとは違うのである。
だが、江戸時代の人はどう読んだか、という考え方は、私の師から学んだと言ってよいが、元々私は近代人だし、また「読み」の人間なので、本当は木越さんの言うとおりなのかもしれない。江戸時代のことも本当はあまり知らないしなあ。だけど、そういう私が、今の感覚で放恣な読みをすれば、他人が読んでも多分どうしようもなくつまらないだろう。しかし木越さんの読みは、凡百の秋成作品論とちがって、無視できない存在感がある。そういう木越さんの「読み」を経た作品だから、論じたくなるということは否めない。私の作品論は私が後輩だから当然だが、木越さんの読み方が大きな影響力をもたらしている作品を扱ったものが多いのだ。「菊花の約」「血かたびら」「海賊」「二世の縁」などなど。
書いているうちに、わけがわからなくなったが、この特集に触れて、やはり何かを動かされるのは、木越治さんの問いの魅力から私も逃れられないからだろう。
木越治追悼特集が編まれていて、教え子や研究仲間がそれぞれに木越治の投げかけた問いに答えている。
丸井貴史・紅林健志・奥野美友紀・高橋明彦・山下久夫・山本一のめんめんである。
北陸古典研究会は木越さんが立ち上げた研究会である。私も1度だけ参加したことがある。その時は、小林一彦さんや山本淳子さんも発表されたと記憶する。九州や関西のいくつかの研究会に参加したことがあるが、一番尖っている研究会だな、という印象で、それはやはり、木越さんとそれに共振する人々の「文学」への熱い思いに由来するものと思われる。
木越さんは、今の、ご自身の、作品に対する感覚を大事にされていたと思う。「文学」とは、「語り」とは、という彼の問いは、すべて、いまここのご自身から発せられている。
追悼の文章も、「読む」とは、「語り」とは、「面白さ」とは、「文学性」とは、という木越さんの問いを受け止めて、各人が真摯に答えたものと捉えられる。紅林さんの「〈つまずき〉と〈語り〉」では、ちらっと「菊花の約」の語りをめぐる木越飯倉論争が取り上げられている。紅林さんは、『雨月物語』全体の語りを、そして近世小説全体についての〈語り〉についてどう考えるかを詳しく説明せよという宿題を私に下さった。感謝申し上げるが、私はそれについて書くことはない。今の私には、「文学」とは、とか「語り」とは、という問いはない。「菊花の約」の場合も、あくまで近世の読者はこの話をどのように読んだか(もちろんその読みは多様だろうが、多様の中の可能性のひとつとして)、という着想で考えた結果、語りの問題が不可避となったわけであり、最初から「語り」とはという問いがあったわけではないからである。
しかし、木越さんは、「それも飯倉の(今の)読みだ」と言われるのである。そう言われてみれば、その通りなのだが、なぜ私がそういう読みをするかという出発点は、大いに木越さんとは違うのである。
だが、江戸時代の人はどう読んだか、という考え方は、私の師から学んだと言ってよいが、元々私は近代人だし、また「読み」の人間なので、本当は木越さんの言うとおりなのかもしれない。江戸時代のことも本当はあまり知らないしなあ。だけど、そういう私が、今の感覚で放恣な読みをすれば、他人が読んでも多分どうしようもなくつまらないだろう。しかし木越さんの読みは、凡百の秋成作品論とちがって、無視できない存在感がある。そういう木越さんの「読み」を経た作品だから、論じたくなるということは否めない。私の作品論は私が後輩だから当然だが、木越さんの読み方が大きな影響力をもたらしている作品を扱ったものが多いのだ。「菊花の約」「血かたびら」「海賊」「二世の縁」などなど。
書いているうちに、わけがわからなくなったが、この特集に触れて、やはり何かを動かされるのは、木越治さんの問いの魅力から私も逃れられないからだろう。