今年度、日本文学の集中講義には大谷雅夫さんをお招きし、和漢比較文学の視点で、さまざまなトピックを縦横に講義していただいた。
通うのはちょっと大変ということで、大学近くのホテルに宿をおとりになったのを幸い、食事も連夜おつきあいいただいたのであった。
大谷さんは、研究会などでお会いすると、親しくお声がけしてくださるけれど、そもそも私は〈親しい〉間柄でもなく、〈友達〉というわけでもないのであるが、とにかく、その学問を敬愛するがゆえに、また学生に是非聞いてもらいたい一心で、思い切ってお願いしたところ、ご快諾をいただいたというわけである。しかし・・・、実は、大谷さんのお話によれば、私が九州大学助手のころに、大谷さんが九大を訪ねてこられ、京大の先輩である今西祐一郎先生が、一席もうけて、中野三敏先生も同席された会があり、そこに私もいたのだという。恐ろしいことに、そのことを全く憶えていないのである!普通、忘れていても話をきくと思いだすものだが、なぜか思いだせない。水炊き屋だったというから、たぶん芝なんだろうが・・・。
それはともかく、伊勢物語と仁斎、仁斎学と宣長学がテーマの2コマだけはお願いして、聴講させていただいた。伊勢物語で昔男が、おばあちゃん?の望みをかなえてあげる段については、最近の注釈書でも結構評判が悪いことを紹介したあと、近世期の注釈では、昔男のふるまいを称賛している例を挙げて、仁斎の「恕」の思想と関係づける。非常に面白い。また宣長の「物のあはれを知る」説は仁斎の「思無邪」(これは論語の詩経解釈のことば)についての注釈、つまり「正に帰す」という朱子学的解釈ではなく、仁斎『論語古義』の「思無邪」は「直」、つまりストレートに述べたものだという解釈を受け継いでいることを、仁斎ー東涯ー景山ー宣長の流れで説明し、ともすれば近代的な文学観と評価されがちな宣長の「もののあはれ」の説も、倫理的な面があって、近世的といえるということ、非常に説得力があった。この話は鈴屋学会でお話しされたものだという。
学生も大谷雅夫先生の講義が聴けるということで昂揚し、喜んでくれていたので、よかったよかった。4日間15コマみっちりやっていただいて、お疲れ様でした。本当にありがとうございます!