2019年08月28日

田中則雄『読本論考』

田中則雄さんの『読本論考』(汲古書院、2019年6月)が刊行されてかなり時が経ってしまった。ともあれ遅ればせながら紹介する。
8月中旬に京都大学で大高洋司さんの科研研究会があり、そこで本書の書評会のようなことが行われると聞いていた。科研メンバーではないものの、参加も可と聞いていたので参加するつもりだったが、あいにくその日は東京出張だったためコメントだけを寄せることにした。以下は、そのコメントをベースにしているが、同じ内容ではない。
 田中さんの積年の研究成果の多くが一書にまとまったことはまことに喜ばしい。私自身はもちろん、演習、卒業論文、修士論文の作成において、学生が、よく田中論文を参照するのだが、このたびの本書刊行で、今後はすぐに当該論文に行き着くのみならず、関連論文にも目を通すことができるということになった。学界にとっても非常にありがたいことと言わねばならない。
 全体として、非常に緻密で隙がなく、実証的手法に厳格に則り、あくまで論理的整合性を求めるという、論文としてまさに模範的な論考がならんでいる。読んでいて想起したのは日野龍夫先生の論文である。その文体もそうだが、論の運びにも師の調子(私に云う日野調)が継承されていると感じられた。私は個人的に、日野先生の「読本前史」、「秋成と復古」「秋成と時代浄瑠璃」に強く影響を受けていて、何度も読み返しているので、田中さんの論文には、日野先生の血が流れていると実感できると豪語しておこう。
 一書にまとめていただいて見えてくることがある。田中さんは文芸思潮に強い関心があり、近世文芸思潮史の構想をお持ちだということ。これが実によくわかった。それがよくあらわれている「上田秋成と当代思潮」についてすこし私見を述べる。
 本論は『雨月物語』の「貧福論」の中の銭の霊の言説を発端に、その思想的背景について深い読み込みを行っている。金の集散離合は人の善悪と関わらない認識を示すこの議論は合理思想とも神秘思想とも言われてきたが、田中さんは、それを止揚する新たな見方を提示する。田中さんの論は、宣長との比較に及ぶが、その際に、秋成『安々言(やすみごと)』の中の儒仏容認論を検討し、「そのふさへる大理」の次元から問題を捉える思考態度であることに着目するのはユニークである。秋成が宣長と異なる点として、宣長の絶対的思想に対する相対的思想をもつということがよく言われるが、田中さんは相対的思想を支える老子的な「道」にベースを置く当代思潮の流れに秋成も位置づけられるのだと説いている。ここからは私の批評だが、「理」を以て現実をとらえるという思考方法をとるがゆえに、その現実が不条理きわまりないと意識し、「理」は不測であるとの認識を深めたという解説の仕方は私にはややわかりにくい。「事物みな自然に従ひて運転するを」(『安々言』)という時の「自然」と理の関係はどうなるのか。私の理解不足である可能性が高いが、「自然」「理」「道」が相互互換性があるかのような論展開に戸惑ってしまった。ただ、理を以て世界を見るからこそ、不条理を強く意識するという論理構造は、命録という運命を享受しながらも自らの不遇を憤るという秋成における精神の拮抗状態とパラレルであるという点で興味深い。「貧福論」の議論は、懐徳堂の、蓄財は仁と矛盾しないという思想(やや乱暴な言い方だが)へのアンチテーゼと捉えられないかなどと私は妄想するのだが、田中さんの「貧福論」分析は、「理を以て見る」という秋成の根本思想に到達するというスリリングな展開になっているものの、この短編で「金」が主題として選ばれた背景については、述べられていない。今後、そこまで論が及ぶことを期待したい。
 秋成についての論はもう1篇あるが、重要なことは秋成を論じるというより、秋成を当代思潮との関わりにおいて論じることに大きな意味があるということ、これは本書のとくに前半が、作品を媒体にした当代思潮史の構築という前人未踏の試論だったのではないかと思うのである。ただ、そのことを、この本は謳ってはいない。そこが田中さんの奥ゆかしさなのかもしれない。本書はむしろ近世思想史研究者に読んでいただきたいものである。近年高山大毅さんが取り上げて注目されている「断章取義」も、高山さん以前に田中さんがとりあげて論じていたのだということがわかった。文学史と思想史の狭間に田中さんの諸論考は埋もれてしまい、研究のトレンドを作る力が、高山さんのようにあるにも関わらず、田中さんの論文集は、あまりにも地味な顔をしている。しかし、本書の本領は必ず明らかになる。この本を多くの日本思想史研究者に読んでもらうことで、さまざまな議論が生まれることを切に願う。
 田中さんは後半の後期読本論においても、重要な提言をしている。上方風というものについて、である。ある論文からの一部引用という形で、田中さんの意に悖るかもしれないが、次のようなところにそれは明確に出ている。
 「浄瑠璃を読本化するに当たり、苦悩の発生やその終結の背後に超越的な力の作用を置くか、人間的な要因に帰結されるかというところに、大きな捉え方としてそれぞれ江戸・上方の作風を見て取ることができると考える。ただもう一つ踏み込んで、超越的な力に如何なる意義を持たせるか、あるいは、人の心情の如何なる面を追究し描写を如何に組み立てるかといった点に即して見たならば、各の作者が考えた読本の様式とはどのようなものであったかという、より細緻な問題へ行き着くものと思われる。(「浄瑠璃の読本化に見る江戸風・上方風」)
 読本総論として、大高さんのいわゆる「読本的枠組」があるが、田中さんは、どちらかといえばそれを江戸読本の枠組とし、上方読本では、江戸読本の影響を受けた場合も、人間の心の動きの必然が連鎖するという構成が行われる、とする見方が面白かった(これはやや粗雑な私の整理であって、田中さんの物言いはもっと慎重で周到である)。
 最後に、田中さんは大江文坡についても2論文を収めておられるが、ここで私の科研報告書に掲載した『荘子絵抄』を使って下さっていて深謝する。一部の方に、『荘子絵抄』をわざわざ(科研報告書に)載せるかね?みたいな評をいただいていたので、お役に立てたのが嬉しいのである。

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