2020年初投稿。今年もよろしくお願いします。
ブログで紹介したい本や図録など数点を年越ししてしまった。これからのスケジュールを考えると一気に挽回というわけにもいかないようだ。
短い記事でも少しずつ書いてゆきます。
さて、昨日は、大阪大学国語国文学会の総会(研究発表+総会)があり、昨年10月に着任された滝川幸司教授の講演が行われた。
題して「渡唐の心情は詠まれたのか−寛平の遣唐使と漢詩文−」。
中公新書の『菅原道真』164頁以降に触れられていることだが、道真が寛平6年に遣唐使可否再検討の状を出したのは、自身の渡唐に不安があったからだという説があるが、それはありえないということを話された。渡唐不安説は、状を出した5日前の重陽宴で道真が詠んだ漢詩を根拠にしている。しかし、天皇が催す詩宴で、詩題にそって詠まれた漢詩は、題意をふまえて詠むものであり、私情を詠むことはあり得ないこと、また詩に使われている「賓鴻」「向前」の典拠・用例を踏まえて解釈すれば、渡唐の心情を詠んだという解釈は成り立たないことを明快に述べた。
もともと権威ある漢詩文研究者の説を、歴史研究者が鵜呑みにして、何十年も疑われなかったという状況があったということだ。
そして、このようなことが起きないようにするには、やはり文学研究者が、注釈という文献解釈の方法をきちんと一般に説明し、啓蒙する必要があるのだということを主張された。学生にとっても非常に重要なメッセージとなったし、すごく意義のある講演だったと思う。
歴史学者は史料を厳密に読むが、こと詩とか和歌についてはどうだろう。そのへんの注釈書を鵜呑みにしていないか?どの注釈書を使うかということも重要なスキルである。詩や和歌ばかりではない。最近もある歴史学者の論文で、文学テクストを扱ったものを見たが、そもそも、注釈や現代語訳さえ備わるテキストなのに、大昔のテキストを用いていて驚いた。ちょっと文学研究者に聞けばわかることなのだが・・・。
しかし、同様のことを文学研究者もしているかもしれない。自戒しなければならない。そして、これはやはり人文学の蛸壺化が招いてきた弊害であろう。学際化・国際化が叫ばれているが、実際どうやってそれをやるのか?まずは、人的交流だろう。学生も、専門以外の授業を受けてみるといいと思う。一つ学問の境界を越えると、同じことを別の用語で称することもあることがわかる。
そういうことをいろいろ考えさせられる講演だった。