そういえば、こちらでは告知していなかったのですが、少し前にくずし字学習アプリKuLAのウェブサイトができました。こちらです。東京大学地震予知センターの加納靖之先生の御発案で、開発者の橋本雄太さんが作成してくださいました。嬉しや。
それで、思い出しました。2018年はいろいろKuLAがらみで講演とか講習を頼まれていたのですが、なかでも国立国会図書館関西館で行われた「司書と研究者のための日本関係資料研修」は、しみまるキャップをかぶってやったのでした。最近、たまたまその研修の報告をしたページを見付けたのですが、そこに私の講演のPPT(抄)が公開されていることに気づきました。KuLA開発の成り立ちについては一番詳しいやつかな、と思いますので、ご興味のある方はご覧下さい。こちらです。
2020年05月31日
2020年05月30日
はじめての古筆切
日比野浩信さんの『はじめての古筆切』(和泉書院、2019年4月)。もう出版から1年以上。すでに定評のある古筆切入門書である。古い筆跡の書籍が切断されたもの、それが古筆切。美術的な価値、文学的な価値、史料的な価値・・・さまざまな立場から重宝され、収集の対象となってきた「古筆切」の基本知識、そしてその魅力を、ここまでわかりやすく書けるのは、日比野さんの古筆切についての豊富な知識と愛情のなせる業。しかも、ほぼご架蔵の資料を使われた解説である。ゆえに図版をふんだんに使っている。さて古筆切の価値とはどんなところにあるのだろうか。それを最初にまとめてくださっている。1古さ、2美しさ、3有名さ、4珍しさ、5資料性。断簡だから、同じ書籍のツレがある。でもそれは別の呼ばれ方をすることがある、何故?という謎解きの面白さもある。まさにモノからの古典文学研究入門である。くずし字を勉強して、ある程度上達した人は、きっと古筆切を読みたくなりますね。刀剣に通じるところもいろいろあります。価格もリーズナブル。お勧めの一書です。
2020年05月28日
津軽デジタル風土記
紹介したい本、論文、プロジェクトがたまりすぎている。まずは弘前大学と国文学研究資料館の共同研究成果報告書『津軽デジタル風土記資料集』は、2020年3月に刊行されたA4版400頁超のプロジェクト報告書。プロジェクト名は、文献観光資源学「津軽デジタル風土記の構築」。津軽デジタル風土記のサイトはこちらである。津軽デジタル風土記は、「弘前大学を始めとした地元の研究者と地域の自治体が協働して『津軽旧事談』のような外部に開かれたチャンネルをインターネット上に作り、津軽の豊かな資料と人々が自由に往還できる環境を整備していくことを目指している」というもの。津軽関係の面白くて珍しい資料をデジタルで公開するだけでも、すばらしい事業だが、講演やイベントを絡めて、攻める共同研究になっているところが注目される。なかなか、こういう試みはむずかしいけれども、津軽モデルとして、大いに参照されるべきものであろう。太宰の「津軽」、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」に並ぶ「津軽」アピールになってほしい。
2020年05月05日
山本読書室の世界
松田清著『京の学塾(まなびや)山本読書室の世界』(2019年12月、京都新聞出版センター)を紹介する。
読書室とは、京都の本草漢学塾である。山本封山・亡羊以下明治まで本草・漢学を継承した山本家の堂号が読書室である。
この読書室には、本草漢学に関わる資料の他に、新聞でも大きく報道された岩倉具視関係をはじめとする維新史料が注目されている。
松田清氏は早くから山本家土蔵の調査に携わり、目録を作成(これはWEBでも公開されている)資料は京都府立総合資料館に搬入された。
平成27年から、山本読書室資料に基づくコラムを1年間京都新聞に連載、この中には秋成資料の紹介もあり、松田氏から直接教えていただいたことがある。この連載に、岩倉具視資料を加え、また重要資料の解説を増補したのが今回の本で、資料紹介部分はオールカラーである。本はやや細長い唐本風仕立て、2700円はリーズナブルである。
山本読書室の資料を広く知らせ、活用していただきたいという著者の情熱が伝わってくる本である。
読書室とは、京都の本草漢学塾である。山本封山・亡羊以下明治まで本草・漢学を継承した山本家の堂号が読書室である。
この読書室には、本草漢学に関わる資料の他に、新聞でも大きく報道された岩倉具視関係をはじめとする維新史料が注目されている。
松田清氏は早くから山本家土蔵の調査に携わり、目録を作成(これはWEBでも公開されている)資料は京都府立総合資料館に搬入された。
平成27年から、山本読書室資料に基づくコラムを1年間京都新聞に連載、この中には秋成資料の紹介もあり、松田氏から直接教えていただいたことがある。この連載に、岩倉具視資料を加え、また重要資料の解説を増補したのが今回の本で、資料紹介部分はオールカラーである。本はやや細長い唐本風仕立て、2700円はリーズナブルである。
山本読書室の資料を広く知らせ、活用していただきたいという著者の情熱が伝わってくる本である。
2020年05月04日
「国文学」の批判的考察
『「国文学」の批判的考察』というタイトルの本が出た。文学通信。2020年3月。空井伸一氏の論文集で、副題は「江戸のテキストから古典を考え直す」というものである。いただいて1ヶ月以上たってしまったが(もっともっと紹介が遅れている本がたくさんあるが)、この本はコメントをさぼりつづけている訳にはいかない理由がある。
なにせ、著者の批判の矛先は、この私に向かっているからなのだ(がーん)。もちろん私だけではないが、かーなり私が狙われている。正面から批判される対象になるとは、研究者冥利につきる・・・嬉しい・・・だがやはり、言われっぱなしというわけにもいかないので。
序の「江戸のテキストを読むということ」。書き下ろしである。ここで私が標的になっているのだ。
著者は秋成研究の現状に触れ、かつては『雨月物語』『春雨物語』だけが論じられ、世間を白眼視した「頑固おやぢ」、反骨などというイメージで語られていた秋成の文業が、近年総体的に捉えられるようになり、歌人・国学者としての業績が前景化し、そこから見えてくる春雨物語像も変わってきたと。ありがたいことに、その流れを作った一人に私がいるという認識をされているようで(その前からたくさんいらっしゃいますが)、そういう秋成観によって、テキストは閉じられたものになり、「言ってしまえば内輪受けの同人コンテンツのようなものだ」と。同人コンテンツだって、誰かが見出せば画期的な文学テキストになる可能性あるでしょ?という突っ込みもしたくなるが、これは私の論が未熟であるがゆえのことでもある。写本でないと見えてこない部分をとりあげて指摘したものを、それは普遍的ではないと言われても困るわけだ。近代的な読み方では見えないところを指摘しているのに、それは近代的な読み方では耐えられないと言われているようなものだ。だが、写本でごく少数の知人にしか流通していないから開かれていない、というのは形式論だし、まして「出版する可能性があった」(『春雨物語』の出版を許している秋成の新出書簡を紹介した長島弘明さんの論文をふまえる)とたんに「開かれたテキスト」になるというのも、飛躍である。写本が開かれていないのであれば、中世以前のテキストはどれもこれも本来開かれていないテキストということになってしまう。
とまれ、意図的なのかそうでないのか、こちらが言ってもいない、考えてもいないことを「幻視」して、「國文学」像を作り上げて批判されても、それは的外れなんですけど・・・と言うしかない。ちなみに、p20に、「飯倉の「絆の文学」に言うところの」という言い方があるが、私は「絆の文学」という言い方をどこかでした記憶がないのだが・・・。「見落とされてきたことを認識させるために、これまで評価されてきたところを引き落とす物言いは筋がよいとは思えない」とも言われているが、『雨月物語』の評価を引き落とすような物言いをどこかでしているだろうか?『雨月物語』のへんてこりんな読み方は引き落としたいが・・・それさえもしていないと思うが。
そもそも、私じしん「国文学」という言い方が好きではなく、自分ではまず使わない。空井氏のいうように「国文学」の中にある「尚古主義」とか「過去の美化」とか、「ナショナリズム」への志向といった、まあコンサバティヴな部分を、私自身も批判的にとらえてきた。そういう陳腐な「国文学」像の中に勝手に押し込められては迷惑である。
和本リテラシー普及活動についても、「失われた過去を理想として仰ぐ」ものという空井氏の理解は的外れである。本来和本リテラシーとは、眠っている膨大なテキストの掘り起こしのために必要な技術として、普及をめざしているものである。日本文学研究という狭い範囲のことではなく、古地震研究のための歴史文献の読解にも必要なものである。いわば未知の世界の探検道具であり、過去を向いたものではない。専門家だけではなく、一般の人が、これだけインターネットで歴史的典籍画像が提供されている現在、それを読めたら楽しいではないか、可能性が広がるではないか。
言っておくが『雨月物語』や『春雨物語』には時代を超えた普遍的な価値があると私も思っている。それを、どの時代にあってもきちんと読めるようしてきた、また未来にあってもそうするのが研究者の仕事である。校訂・註釈・現代語訳。仮に、雨月物語の稿本が出てきたら、それを解読し、校訂し、註釈できる能力があるのが研究者である。そうした校訂本文を読んで、専門外の方に普遍的な文学として読んでいただくのは研究者の悦びである。もちろん研究者自身がそれをやって悪いことはない。しかし、研究者がそればかりやっているわけにはいかない。未来の日本文学研究者も、活字化された本文、校訂本文が本当に正しいのか、註釈はそれで正しいのかを検証する能力を持っていなければならないのである。
なお本書には「菊花の約」論が収められていて、そこでも私の論が俎上に載せられている。ありがたい。これへの反論もしないといけないのだが、これはまた機会を改めることにしよう。
なにせ、著者の批判の矛先は、この私に向かっているからなのだ(がーん)。もちろん私だけではないが、かーなり私が狙われている。正面から批判される対象になるとは、研究者冥利につきる・・・嬉しい・・・だがやはり、言われっぱなしというわけにもいかないので。
序の「江戸のテキストを読むということ」。書き下ろしである。ここで私が標的になっているのだ。
著者は秋成研究の現状に触れ、かつては『雨月物語』『春雨物語』だけが論じられ、世間を白眼視した「頑固おやぢ」、反骨などというイメージで語られていた秋成の文業が、近年総体的に捉えられるようになり、歌人・国学者としての業績が前景化し、そこから見えてくる春雨物語像も変わってきたと。ありがたいことに、その流れを作った一人に私がいるという認識をされているようで(その前からたくさんいらっしゃいますが)、そういう秋成観によって、テキストは閉じられたものになり、「言ってしまえば内輪受けの同人コンテンツのようなものだ」と。同人コンテンツだって、誰かが見出せば画期的な文学テキストになる可能性あるでしょ?という突っ込みもしたくなるが、これは私の論が未熟であるがゆえのことでもある。写本でないと見えてこない部分をとりあげて指摘したものを、それは普遍的ではないと言われても困るわけだ。近代的な読み方では見えないところを指摘しているのに、それは近代的な読み方では耐えられないと言われているようなものだ。だが、写本でごく少数の知人にしか流通していないから開かれていない、というのは形式論だし、まして「出版する可能性があった」(『春雨物語』の出版を許している秋成の新出書簡を紹介した長島弘明さんの論文をふまえる)とたんに「開かれたテキスト」になるというのも、飛躍である。写本が開かれていないのであれば、中世以前のテキストはどれもこれも本来開かれていないテキストということになってしまう。
とまれ、意図的なのかそうでないのか、こちらが言ってもいない、考えてもいないことを「幻視」して、「國文学」像を作り上げて批判されても、それは的外れなんですけど・・・と言うしかない。ちなみに、p20に、「飯倉の「絆の文学」に言うところの」という言い方があるが、私は「絆の文学」という言い方をどこかでした記憶がないのだが・・・。「見落とされてきたことを認識させるために、これまで評価されてきたところを引き落とす物言いは筋がよいとは思えない」とも言われているが、『雨月物語』の評価を引き落とすような物言いをどこかでしているだろうか?『雨月物語』のへんてこりんな読み方は引き落としたいが・・・それさえもしていないと思うが。
そもそも、私じしん「国文学」という言い方が好きではなく、自分ではまず使わない。空井氏のいうように「国文学」の中にある「尚古主義」とか「過去の美化」とか、「ナショナリズム」への志向といった、まあコンサバティヴな部分を、私自身も批判的にとらえてきた。そういう陳腐な「国文学」像の中に勝手に押し込められては迷惑である。
和本リテラシー普及活動についても、「失われた過去を理想として仰ぐ」ものという空井氏の理解は的外れである。本来和本リテラシーとは、眠っている膨大なテキストの掘り起こしのために必要な技術として、普及をめざしているものである。日本文学研究という狭い範囲のことではなく、古地震研究のための歴史文献の読解にも必要なものである。いわば未知の世界の探検道具であり、過去を向いたものではない。専門家だけではなく、一般の人が、これだけインターネットで歴史的典籍画像が提供されている現在、それを読めたら楽しいではないか、可能性が広がるではないか。
言っておくが『雨月物語』や『春雨物語』には時代を超えた普遍的な価値があると私も思っている。それを、どの時代にあってもきちんと読めるようしてきた、また未来にあってもそうするのが研究者の仕事である。校訂・註釈・現代語訳。仮に、雨月物語の稿本が出てきたら、それを解読し、校訂し、註釈できる能力があるのが研究者である。そうした校訂本文を読んで、専門外の方に普遍的な文学として読んでいただくのは研究者の悦びである。もちろん研究者自身がそれをやって悪いことはない。しかし、研究者がそればかりやっているわけにはいかない。未来の日本文学研究者も、活字化された本文、校訂本文が本当に正しいのか、註釈はそれで正しいのかを検証する能力を持っていなければならないのである。
なお本書には「菊花の約」論が収められていて、そこでも私の論が俎上に載せられている。ありがたい。これへの反論もしないといけないのだが、これはまた機会を改めることにしよう。