2020年11月15日

学会記(法政大学オンライン)

 日本近世文学会秋季大会は、法政大学を会場校として、オンラインで行われた。春の大会はコロナ禍で中止、その後、事務局が移転、新事務局と会場校の法政大学は、初めてのオンライン大会の運営に臨むことになる。そのための実行組織が編成され、少し前に絵入本ワークショップでオンライン大会を経験していた、事務局実践女子大学の佐藤悟さんと会場校の私も召集されたのだが、すくなくとも私はただただ、着々と緻密に進んでゆく準備をあんぐりと口を開けて見ているだけだった。つまり何もしませんでした(できませんでした)、ぺこり。実行組織は、あらゆる事態を想定して万全の体制を整えて行ったのである。
 舞台裏ではいろいろと大変なこともあったようだが、学会自体はスムースに進行した。そしてなにより7本の発表とシンポジウムが非常に充実していた。学会運営側のご苦労も報われたというものである。
 なかでも初日のシンポジウムは聞き応えがあった。テーマは「つながる喜び − 江戶のリモート・コミュニケーション」。「手紙」によるコミュニケーションの、さまざまなあり方がパネリストによって紹介され、手紙のもつ豊かな繋がる機能と文芸性が明らかにされた。素晴らしかったのは、そのあとのパネリスト同士やフロアとのやりとりである。お互いの発表の意義が別の側面から浮かび上がり、シンポジウムそのものがまさしく学術的コミュニケーションとなった。このシンポジウムを企画・人選した会場校の小林ふみ子さんの慧眼である。秋成晩年の文芸を「人と繋がる文芸」と捉え、「人的交流」をキーワードに18世紀の上方文壇を見ていく共同研究を続けてきた私にとっては、非常に感慨ぶかいシンポジウムだった。

 2日目も、5本の多彩な発表があり、たいへん勉強になったが、私にとって最もインパクトがあり、本学会史上有数の発表だと思ったのが中森康之さんの発表である。「古池や蛙飛こむ水のおと」が、支考によって「蕉風開眼の句」として喧伝されたが、さて、支考はいかなる意味でこの句を「開眼」と言ったのかと改めて問う。中森さんにとって、支考の、「古池」句誕生のプロセスの捉え方は、詩の、詩としての成立の過程を根源的にとらえた、普遍的な詩論であり、世界的な詩論の議論の中におく価値のあるものである。芭蕉が実際に作句のときにそのように考えたのかという質問もあったが、芭蕉論や俳諧史という枠組を超える問題提起だったように思う。それを近世文学会という場でやるということ、それは実は非常に勇気の要ることだと思うのだが、この発表は、それをやったということに最も大きな意義がある。いつぞやの田中道雄先生の発表に連なるともいえる。発表資料には出てこなかったが、発表スライドには『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』の表紙カバーも一瞬だけど、重要なところで使われた。ただ、この画期的な発表も、リモートだから出来たという面があるように思う。学会の「いつもの空気」ではない、オンラインという場が、この画期的発表を可能にした。もしかするとシンポジウムもそうだったのかもしれない、と書いていてそう思う。
 つまり、リモートであることを、見事にプラスに転じて見せた、今回の企画・運営・発表だったということなのである。すべての関係者の皆様へ、ありがとうございました。そして、中森さんの発表の活字化が待ち遠しい。
 
posted by 忘却散人 | Comment(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする