菱岡憲司・高倉一紀・浦野綾子編『石水博物館蔵 小津桂窓書簡集』(和泉書院、2021年2月)が刊行された。原簡の画像のDVDの付録も収めている。
この書簡、川喜田遠里と桂窓の、本をめぐるやりとりがほとんどなのだが、近世後期の学芸・読書の空気が実にリアルに伝わってくる書簡群で、無類に面白い。しかし、この伊勢の豪商たちの、実に広範な本への関心、その耽溺ぶりと、冷静な批評眼には驚くしかない。いろいろ付箋をつけていたら、付箋だらけになってしまった。『近世畸人伝』に掲載された人物の書画を集めて九十人っばかりになったけど、アンタも集めてんでしょ?とか、宣長の説はよいけど道はダメねと評したりとか、看過できない記事がたくさん。中でも、桂窓の秋成クラスタぶりは尋常ではない。「をだえごと」とか「江の霞」とか、超マニアック。好きなのね?と、こちらも嬉しくなります。
この書簡集を翻刻して年代順に並べるのは大変なご苦労があったと思われる。解説でそのことに言及されているが。
また、書名に『』を付して下さっているのはありがたい。これは簡単なことではない。なぜこれを書名と認定できたのかしら、と思うものもあるくらいで、よくぞ付してくださいました。これは通読する際にとても助かりました。
さて、小津桂窓こと久足の面白さ、翻刻が整えば整うほど、明らかになってきましたね。久足を視点とした文化論もありでしょう。現代の久足といってもよい菱岡さんに期待するところ大であります。
2021年02月27日
2021年02月24日
国際シンポジウム「古典のジャンルと名所−デジタル文学地図の活用」のご案内
国際シンポジウムのお知らせです。
2020年度文学研究科国際共同研究力向上推進プログラム「デジタル文学地図の構築と日本文化研究・教育への貢献」主催の国際シンポジウム
「古典のジャンルと名所−デジタル文学地図の活用」を開催いたします。
ご多忙の折とは存じますが、ご関心のある方の、ご参加をお待ちします。
部分的なご参加も歓迎いたします。
日時 3月12日(金)15:00〜19:15
Zoomによるオンライン
第T部 日本古典ジャンルと名所(15:00-17:35)
〇開会挨拶 飯倉洋一(大阪大学)
〇講演 (15:05-16:05)
名所絵の型
鈴木健一(学習院大学)
(休憩)
〇研究発表(16:15-17:15)
謡曲と名所
中尾薫(大阪大学)
漢詩と名所
山本嘉孝(国文学研究資料館)
〇総合討論(17:15-17:35)
鈴木健一、中尾薫、山本嘉孝、ユーディット・アロカイ 司会 飯倉洋一
(休憩)
第U部 デジタル文学地図と教育・研究(17:45-19:15)
〇報告(17:45-18:35)
デジタル文学地図について
ユーディット・アロカイ(ハイデルベルク大学)
レオ・ボルン(ハイデルベルク大学)
〇コメント(18:35-19:15)
コメンテーター
永崎研宣(人文情報学研究所)
橋本雄太(国立歴史民俗博物館)
ご参加は事前登録制です。以下のURLをクリックしてお申し込み下さい。
https://docs.google.com/forms/d/1TS3i_4OXgEdONrMCsnE3MNTEsrVx-Kq2hwwPapLxEKA/edit#responses
登録された方には、開催日が迫ったらZoomのURLをお送りいたします。
発表要旨などの詳細は以下ののフライヤーをご覧下さい。フライヤー掲載のQRコードからも申し込み可能です。
2020年度文学研究科国際共同研究力向上推進プログラム「デジタル文学地図の構築と日本文化研究・教育への貢献」主催の国際シンポジウム
「古典のジャンルと名所−デジタル文学地図の活用」を開催いたします。
ご多忙の折とは存じますが、ご関心のある方の、ご参加をお待ちします。
部分的なご参加も歓迎いたします。
日時 3月12日(金)15:00〜19:15
Zoomによるオンライン
第T部 日本古典ジャンルと名所(15:00-17:35)
〇開会挨拶 飯倉洋一(大阪大学)
〇講演 (15:05-16:05)
名所絵の型
鈴木健一(学習院大学)
(休憩)
〇研究発表(16:15-17:15)
謡曲と名所
中尾薫(大阪大学)
漢詩と名所
山本嘉孝(国文学研究資料館)
〇総合討論(17:15-17:35)
鈴木健一、中尾薫、山本嘉孝、ユーディット・アロカイ 司会 飯倉洋一
(休憩)
第U部 デジタル文学地図と教育・研究(17:45-19:15)
〇報告(17:45-18:35)
デジタル文学地図について
ユーディット・アロカイ(ハイデルベルク大学)
レオ・ボルン(ハイデルベルク大学)
〇コメント(18:35-19:15)
コメンテーター
永崎研宣(人文情報学研究所)
橋本雄太(国立歴史民俗博物館)
ご参加は事前登録制です。以下のURLをクリックしてお申し込み下さい。
https://docs.google.com/forms/d/1TS3i_4OXgEdONrMCsnE3MNTEsrVx-Kq2hwwPapLxEKA/edit#responses
登録された方には、開催日が迫ったらZoomのURLをお送りいたします。
発表要旨などの詳細は以下ののフライヤーをご覧下さい。フライヤー掲載のQRコードからも申し込み可能です。
2021年02月21日
ゆめみのえ−ないじぇる芸術共創
国文学研究資料館が現代芸術家と古典籍を用いて新たな芸術を創出する全く新しい試みはロバート・キャンベルさんの発案ではじまった。そして、その区切りとなる特別展が国文学研究資料館で行われている。ないじぇる芸術共創ラボ特別展「時の束を披く」である。翻訳・演劇・小説・絵画・絵本・インスタレーションと、多様で魅力的なアートが誕生した。詳しくは、
https://www.nijl.ac.jp/pages/nijl/tokinotaba/index.htmlをクリックしていただきたいのだが、私の予想を上回る素敵なものになっているようである。図録もいま予約すれば無料で手に入れることができる。
この事業のために、国文研では「古典インタプリタ」という新しい職業を創った。古典籍と芸術家をつなぐ専門家である。初代インタプリタに有澤知世さんが就任した。学振特別研究員(PD)からの転身。現在は神戸大学と国文研を兼任中。彼女が教え子であることやキャンベルさんとは同じ釜の飯を食ったかつての仲間という関係もあって、この事業には関心をもって見守ってきた。そして私も少しだけ関わり、図録にコラムも書かせていただいた。到着を楽しみにまっているところである。
内覧会の案内もいただいたし、2月には本来は東京で会議があるはずだったが、この緊急事態状況下でオンラインとなり、不要不急の出張も自粛せねばならないという状況の中では、なかなか行けない。4月まで展示はあるらしいのでなんとか時間をみつけて行きたいのだが・・・。
さて、この事業に参加しているクリエーターの一人が絵本作家の山村浩二さんで、国文研准教授の木越俊介さんとのコラボで「ゆめみのえ」という絵本を制作された。鍬形寫ヨの略画的画法で『雨月物語』「夢応の鯉魚」の世界を描いた、ほのぼのとした、しかし深い、「夢」の世界を表現した傑作絵本である。木越さんから、絵本『ゆめみのえ』とともに、山村さんとの対談をおさめた『LOOP』10号(東京藝術大学映像研究科、2020年3月)という、さすが芸大の研究誌というカッコいい雑誌をいただいた。もともと木越さんは間口の広い方で、こういう事業には適役であるが、この対談でも、江戸文学の立場から、さまざまに興味ある発言をしている。「夢」がテーマなので、虚実そして「寓言」について自由に語っているが、私の関心ともリンクするので、非常に刺激を受けた。また山村さんが元々夢に関心があり、さまざまに考究されていたところに、日本古典がもつさまざまな「夢」の話がヒントとなったことがよくわかり、一方で古典研究者である木越さん、そしてそれを読んでいる私も逆に山村さんから大いに学んだ。
共創ラボは、今後もまだ続けるようだ。続けることで、今予想もできない何かが生まれると思う。そういう感触を少なくとも私を持っている。
https://www.nijl.ac.jp/pages/nijl/tokinotaba/index.htmlをクリックしていただきたいのだが、私の予想を上回る素敵なものになっているようである。図録もいま予約すれば無料で手に入れることができる。
この事業のために、国文研では「古典インタプリタ」という新しい職業を創った。古典籍と芸術家をつなぐ専門家である。初代インタプリタに有澤知世さんが就任した。学振特別研究員(PD)からの転身。現在は神戸大学と国文研を兼任中。彼女が教え子であることやキャンベルさんとは同じ釜の飯を食ったかつての仲間という関係もあって、この事業には関心をもって見守ってきた。そして私も少しだけ関わり、図録にコラムも書かせていただいた。到着を楽しみにまっているところである。
内覧会の案内もいただいたし、2月には本来は東京で会議があるはずだったが、この緊急事態状況下でオンラインとなり、不要不急の出張も自粛せねばならないという状況の中では、なかなか行けない。4月まで展示はあるらしいのでなんとか時間をみつけて行きたいのだが・・・。
さて、この事業に参加しているクリエーターの一人が絵本作家の山村浩二さんで、国文研准教授の木越俊介さんとのコラボで「ゆめみのえ」という絵本を制作された。鍬形寫ヨの略画的画法で『雨月物語』「夢応の鯉魚」の世界を描いた、ほのぼのとした、しかし深い、「夢」の世界を表現した傑作絵本である。木越さんから、絵本『ゆめみのえ』とともに、山村さんとの対談をおさめた『LOOP』10号(東京藝術大学映像研究科、2020年3月)という、さすが芸大の研究誌というカッコいい雑誌をいただいた。もともと木越さんは間口の広い方で、こういう事業には適役であるが、この対談でも、江戸文学の立場から、さまざまに興味ある発言をしている。「夢」がテーマなので、虚実そして「寓言」について自由に語っているが、私の関心ともリンクするので、非常に刺激を受けた。また山村さんが元々夢に関心があり、さまざまに考究されていたところに、日本古典がもつさまざまな「夢」の話がヒントとなったことがよくわかり、一方で古典研究者である木越さん、そしてそれを読んでいる私も逆に山村さんから大いに学んだ。
共創ラボは、今後もまだ続けるようだ。続けることで、今予想もできない何かが生まれると思う。そういう感触を少なくとも私を持っている。
2021年02月20日
明治期戦争劇集成
日置貴之さん編の『明治期戦争劇集成』が刊行されました(2021年2月)。「歌舞伎と戦争に関する総合的研究」という科研若手研究の成果報告書です。A4版376頁。ご本人が装丁されたということですが、市販本にひけをとらない素晴らしい装丁です。おさめるところは、上野戦争とその戦後を描いた黙阿弥作品を原作とする草双紙『明治年間東日記』、日清戦争がらみの『日本大勝利』『会津産明治組重』および川上音二郎一座の『日清戦争』。歌舞伎が速報性をもったメディアであった(今では考えられないが)時代の作品から、当時の演劇ひいては社会のありようが浮かび上がります。WEBサイトでも公開予定とか。この本のこと「速報性」が大事と思いまして、告知しました。というのは、なんと、日置さんのtwtterによると、希望者には送料負担のみで頒布して下さるとの事。ただし早いもの勝ちとのことです。もちろん的確な解説付き。
2021年02月15日
みんなで翻刻サミット
2月15日、「みんなで翻刻サミット」というZoom集会が開かれた。「みんなで翻刻」というのは、もともとアップされた地震関係史料を、クラウドソーシング、つまり「みんなで」翻刻しようとする企画である。発足は2017年。地震研究者だけで翻刻していてはどれだけ時間がかかるか分からない、膨大な地震史料の翻刻作業を、一般の方のご協力を得て実現しようとするもの。参加者側からいえば、くずし字解読の練習となる。また自分が翻刻したものがまちがっていたら誰かが添削してくれる。また達成度や、翻刻字数ランキングなどのゲーム的要素もあり、サイト作成者も予想しなかった驚くほどの数の人々が、驚くほどのスピードで次々に翻刻を完成させ、当初アップした史料がなくなってしまった。地震に限らない資料を次々に投入し、現在は10数件の翻刻プロジェクトがこのサイトの上で動いている。現時点で数千人が参加し、900万字ほどが翻刻されているという(数字大丈夫でしょうか、間違っていたらご指摘下さい)。コロナ禍になって、その参加者・翻刻字数の増え方はさらにアップしたという。
この「みんなで翻刻」の波紋はさまざまなところに拡がり、また連携が起こった。発足から4年もたっていないが、その広がりをいったん総括し、今後の展望につなげようというのが、おそらく主催者の意図だっただろう。正直、このところ参加したZoom集会の中で、いちばんエキサイティングだった。
サミットは、第1部が「翻刻プロジェクトの事例紹介」、第2部が「テクノロジーとみんなで翻刻」で、登壇者は各部5名で合計10名。私は第2部終了後のコメンテーターとして参加した。
さて第1部は、皇學館大学の井上さんらが同大学での「みんなで「みんなで翻刻」をたのしむ」というプロジェクトを紹介。楽しくくずし字解読を覚えていくツールとして「みんなで翻刻」を活用していた。また琉球大図書館の與那覇さんの沖縄資料デジタルアーカイブ事業と「みんなで翻刻」のリンクの話。ハワイ大学との連携は同大学のヒューイ先生からうかがっていた話だ。そして東大総合図書館中村さんの、同大地震史料石本コレクションの「みん翻」への提供にいたるドラマチックな報告、関西大学菊池さんのアジア映画・中国語関係資料のデジタルアーカイブの「みん翻」への参加と、史料から歴史へとつなぐ仕掛けを作りたいという提案、福井県文書館柳沢さんのデジタルアーカイブ福井が、とあるtwitterの書き込みから怒濤のごとき成り行きで史料を開く経緯などを報告。
コメンテーターの岡本真さんはこの事業が「偶然」の繋がりで展開してきたこと、プロジェクトの開放性、特に大学図書館や文書館の人たちの献身的な貢献などを挙げ、「人」の大切さを痛感したとコメントされたが、深い共感を覚えた。
第2部は、テクノロジーを駆使してみんなで翻刻とつながったり、みんなで翻刻サイトを充実させてきた人々の報告。このあたりから私の脳裏には、中島みゆきの「地上の星」が回り始めていた。プロジェクトXの主題歌だ。東京学芸大高橋さんの「かるたLOD」、永崎さんの「みんなで翻刻サーチ」の実演、そして圧巻はタリンさんのAIくずし字認識の開発。現在開発中のスマホでくずし字認識は、スマホで史料を撮影したら次にボタンを押した瞬間翻刻が出てくるというもの。人はAIに助けられて翻刻し、AIは人に教えられて成長する、人とAIの美しい関係がそこにあった。最後に「みんなで翻刻」を主宰する加納さんと橋本さんから、現状と今後の課題など、進化する「みんなで翻刻」の明るい未来を予告する素晴らしい発表があった。
登壇者の中ではたぶん最長老の私は興奮の絶頂、思わず「しみまるキャップ」を被ってコメント。2011年に師中野三敏の『和本のすすめ』(岩波新書)から10年、くずし字普及運動もここまで来たかという感慨を吐露し、くずし字研究論集や、本プロジェクト史の新書出版など、妄想たくましく提案したのであった。とあっという間の4時間。全ての発表報告、質疑応答にいたるまで面白く、ためになり、なにより楽しかったサミットだった。
サミット開催に関わった皆様、Zoomウェビナーやyoutube放映を担当した文学通信さん、ありがとうございました。
この「みんなで翻刻」の波紋はさまざまなところに拡がり、また連携が起こった。発足から4年もたっていないが、その広がりをいったん総括し、今後の展望につなげようというのが、おそらく主催者の意図だっただろう。正直、このところ参加したZoom集会の中で、いちばんエキサイティングだった。
サミットは、第1部が「翻刻プロジェクトの事例紹介」、第2部が「テクノロジーとみんなで翻刻」で、登壇者は各部5名で合計10名。私は第2部終了後のコメンテーターとして参加した。
さて第1部は、皇學館大学の井上さんらが同大学での「みんなで「みんなで翻刻」をたのしむ」というプロジェクトを紹介。楽しくくずし字解読を覚えていくツールとして「みんなで翻刻」を活用していた。また琉球大図書館の與那覇さんの沖縄資料デジタルアーカイブ事業と「みんなで翻刻」のリンクの話。ハワイ大学との連携は同大学のヒューイ先生からうかがっていた話だ。そして東大総合図書館中村さんの、同大地震史料石本コレクションの「みん翻」への提供にいたるドラマチックな報告、関西大学菊池さんのアジア映画・中国語関係資料のデジタルアーカイブの「みん翻」への参加と、史料から歴史へとつなぐ仕掛けを作りたいという提案、福井県文書館柳沢さんのデジタルアーカイブ福井が、とあるtwitterの書き込みから怒濤のごとき成り行きで史料を開く経緯などを報告。
コメンテーターの岡本真さんはこの事業が「偶然」の繋がりで展開してきたこと、プロジェクトの開放性、特に大学図書館や文書館の人たちの献身的な貢献などを挙げ、「人」の大切さを痛感したとコメントされたが、深い共感を覚えた。
第2部は、テクノロジーを駆使してみんなで翻刻とつながったり、みんなで翻刻サイトを充実させてきた人々の報告。このあたりから私の脳裏には、中島みゆきの「地上の星」が回り始めていた。プロジェクトXの主題歌だ。東京学芸大高橋さんの「かるたLOD」、永崎さんの「みんなで翻刻サーチ」の実演、そして圧巻はタリンさんのAIくずし字認識の開発。現在開発中のスマホでくずし字認識は、スマホで史料を撮影したら次にボタンを押した瞬間翻刻が出てくるというもの。人はAIに助けられて翻刻し、AIは人に教えられて成長する、人とAIの美しい関係がそこにあった。最後に「みんなで翻刻」を主宰する加納さんと橋本さんから、現状と今後の課題など、進化する「みんなで翻刻」の明るい未来を予告する素晴らしい発表があった。
登壇者の中ではたぶん最長老の私は興奮の絶頂、思わず「しみまるキャップ」を被ってコメント。2011年に師中野三敏の『和本のすすめ』(岩波新書)から10年、くずし字普及運動もここまで来たかという感慨を吐露し、くずし字研究論集や、本プロジェクト史の新書出版など、妄想たくましく提案したのであった。とあっという間の4時間。全ての発表報告、質疑応答にいたるまで面白く、ためになり、なにより楽しかったサミットだった。
サミット開催に関わった皆様、Zoomウェビナーやyoutube放映を担当した文学通信さん、ありがとうございました。
2021年02月06日
『虚学のすすめ』は虚学居直り論ではない。
大阪大学文学部の一般入試倍率が3.0で昨年度の2.9を上回っている。阪大の全学部の中で倍率トップである。他の国立大でも文学部は受験者を結構集めている傾向にあるようだ。不景気で国立志向というのもあるが、「社会の役に立たない」「就職には不利」というイメージの文学部が、他学部より相対的に「安定」しているのは皮肉である。数字はたとえばこちらをご参照いただきたい。もちろんこれはコロナ禍と無関係ではあるまい。安定と思われていた大企業がまさかの危機に直面しているのを、受験世代はリアルタイムで見た。この先どうなるのか、どうすればいいのか。それを根本的に考えることのできる学部は、やはり文学部・・・。たとえば金水敏元文学部長のあの送辞を思い出した人もいるかもしれない。人生の岐路に立ったときに文学部の学びが意味を持つというあのメッセージが与えた影響があったのではないかと。これはポジショントークではなく、真面目に考えるべき現象だろう。
そもそも「虚学」といわれる文学部の学びについては、このブログでも度々書いてきた。「何の役に立つんだ」と揶揄され続けながら、「虚学」であることにむしろ胸を張る文学部側のありがちな主張に対して、あえて文学部の学びは役に立つ「実学」であることを私は主張してきた。文学部は官僚を育てるべきだとも言ってきた。「虚学」に開き直るのは文学部縮小論者にとって都合のいいことではないか、そういう形の主張は内輪むけではないかという思いが、このところずっとあった。
そういう時に、白石良夫さんから『虚学のすすめ』(文学通信、2021年2月)を贈っていただいた。このタイトルからして、私が「虚学居直り論」と目している論陣をはった本ではないかというイメージがわくだろう。事実その冒頭は「虚学の論理」である。実はこの「虚学の論理」、私は初出の1997年に読んで感銘を受けたエッセイだ。たった一人の受講生と、彼に対してあたかも大人数講義のごとき講義をするインド哲学の教授の姿を垣間見たときの感慨を印象的に綴っていて、忘れられなかった。受講生が〇人以上いないと授業は不成立というような大学もある中、あるべき大学の姿として白石さんはこの情景を私に焼き付けたのである。それから私はこの文章をずっと読んでいなかった。私の中では、たった一人のためであれ、それが社会に役に立たないと言われる虚学であれ、真理を求める学生がいる以上、膨大な図書と知識と方法を授けるその分野の専任教員が確保できているのが大学、という論というイメージが刷り込まれていた。私自身が、この虚学の論理を駆使して、いろんなところで受け売りをしていたように思う。
しかし近年の文学部不要論は、20年前、30年前の文学部不要論とは違い、本気でつぶしにかかってくるような勢いである。私は白石さんの「虚学の論理」では弱いと考えるようになった。文学部の学びは役に立つ、実学だという主張とその理論武装を志すようになった。
今回、そういう批判の対象のつもりでこの本を披き、「虚学の論理」を再読した。そうすると違った。白石さんは虚学に「」をつけて「虚学」と書いていた。つまり、「学問=すぐに役に立つもの」と考える人々がイメージする学問、いわゆる虚学、の意味である。しかし、すぐに役に立つためには、すぐに役には立たない学問・研究が必要である。これは当たり前すぎる話である。すぐには役には立たないけれど、それがなければ、すぐに役に立つ知識も考え方も成り立たない。つまりなんのことはない、文学部の学びは結局「実学」だ、と白石さんは言っていたのである。それが今回再読して確認できた(白石さんは、飯倉、違う、違うんだと言うかも知れないが)。
それにしても、次のエッセイ(これは未発表原稿ゆえ、私も読んだことがなかった)を読むと、この「虚学の論理」に対して、「よくぞ言ってくれた」的反応が数件あったが、いずれも理系基礎学の研究者からだったそうだ。たしかに基礎学と応用学という考え方でいけば、この論理は文理を分けない。いや理系こそがより深刻である。この本では、過去のロシアや中国で、基礎学を追放しようとした動きがあったことを記すが、近年の日本の動きをみているとその愚を繰り返そうとしているのか、と心配にもなる。だが、ここ二十年の文学部縮小論の中でも、やはり文学部で学びたい人たちは一定数必ずいるという事実がある。文学部の学びは過去との対話、「死者との対話」(塩村耕さん)である。しかし何のためにそれを学ぶかといえば、今のため、そして未来のためである。未来のため、ということを授業の最初の1コマで言いませんか?いやその必要はないのかもしれない。きちんと学べばそれはわかるから。でも言う人もやはり必要かな。もちろん、古文と漢文(前近代のテキスト)の研究は、基礎学中の基礎学である。
白石良夫さんは母校の先輩である。近世文学専攻で私が大学院に入った時、同じ専攻の先輩の院生が大学院にいなかった。近くの大学に講師として勤務していたのが白石さんだったので、私にとっては兄のような存在といえる。白石さんは学問を開くために多くの著書を書いてこられた。達意の文章である。敬服している。根っこは文学青年である。その青さがやはり魅力なのだ。
そもそも「虚学」といわれる文学部の学びについては、このブログでも度々書いてきた。「何の役に立つんだ」と揶揄され続けながら、「虚学」であることにむしろ胸を張る文学部側のありがちな主張に対して、あえて文学部の学びは役に立つ「実学」であることを私は主張してきた。文学部は官僚を育てるべきだとも言ってきた。「虚学」に開き直るのは文学部縮小論者にとって都合のいいことではないか、そういう形の主張は内輪むけではないかという思いが、このところずっとあった。
そういう時に、白石良夫さんから『虚学のすすめ』(文学通信、2021年2月)を贈っていただいた。このタイトルからして、私が「虚学居直り論」と目している論陣をはった本ではないかというイメージがわくだろう。事実その冒頭は「虚学の論理」である。実はこの「虚学の論理」、私は初出の1997年に読んで感銘を受けたエッセイだ。たった一人の受講生と、彼に対してあたかも大人数講義のごとき講義をするインド哲学の教授の姿を垣間見たときの感慨を印象的に綴っていて、忘れられなかった。受講生が〇人以上いないと授業は不成立というような大学もある中、あるべき大学の姿として白石さんはこの情景を私に焼き付けたのである。それから私はこの文章をずっと読んでいなかった。私の中では、たった一人のためであれ、それが社会に役に立たないと言われる虚学であれ、真理を求める学生がいる以上、膨大な図書と知識と方法を授けるその分野の専任教員が確保できているのが大学、という論というイメージが刷り込まれていた。私自身が、この虚学の論理を駆使して、いろんなところで受け売りをしていたように思う。
しかし近年の文学部不要論は、20年前、30年前の文学部不要論とは違い、本気でつぶしにかかってくるような勢いである。私は白石さんの「虚学の論理」では弱いと考えるようになった。文学部の学びは役に立つ、実学だという主張とその理論武装を志すようになった。
今回、そういう批判の対象のつもりでこの本を披き、「虚学の論理」を再読した。そうすると違った。白石さんは虚学に「」をつけて「虚学」と書いていた。つまり、「学問=すぐに役に立つもの」と考える人々がイメージする学問、いわゆる虚学、の意味である。しかし、すぐに役に立つためには、すぐに役には立たない学問・研究が必要である。これは当たり前すぎる話である。すぐには役には立たないけれど、それがなければ、すぐに役に立つ知識も考え方も成り立たない。つまりなんのことはない、文学部の学びは結局「実学」だ、と白石さんは言っていたのである。それが今回再読して確認できた(白石さんは、飯倉、違う、違うんだと言うかも知れないが)。
それにしても、次のエッセイ(これは未発表原稿ゆえ、私も読んだことがなかった)を読むと、この「虚学の論理」に対して、「よくぞ言ってくれた」的反応が数件あったが、いずれも理系基礎学の研究者からだったそうだ。たしかに基礎学と応用学という考え方でいけば、この論理は文理を分けない。いや理系こそがより深刻である。この本では、過去のロシアや中国で、基礎学を追放しようとした動きがあったことを記すが、近年の日本の動きをみているとその愚を繰り返そうとしているのか、と心配にもなる。だが、ここ二十年の文学部縮小論の中でも、やはり文学部で学びたい人たちは一定数必ずいるという事実がある。文学部の学びは過去との対話、「死者との対話」(塩村耕さん)である。しかし何のためにそれを学ぶかといえば、今のため、そして未来のためである。未来のため、ということを授業の最初の1コマで言いませんか?いやその必要はないのかもしれない。きちんと学べばそれはわかるから。でも言う人もやはり必要かな。もちろん、古文と漢文(前近代のテキスト)の研究は、基礎学中の基礎学である。
白石良夫さんは母校の先輩である。近世文学専攻で私が大学院に入った時、同じ専攻の先輩の院生が大学院にいなかった。近くの大学に講師として勤務していたのが白石さんだったので、私にとっては兄のような存在といえる。白石さんは学問を開くために多くの著書を書いてこられた。達意の文章である。敬服している。根っこは文学青年である。その青さがやはり魅力なのだ。
2021年02月03日
蘆庵本歌合集
安井重雄責任編集『蘆庵本歌合集』(思文閣出版、2021年1月)が出版された。龍谷大学世界仏教研究所の共同研究である蘆庵本歌合の研究の成果で、加藤弓枝さんなど蘆庵文庫研究会メンバーも参加している。内容は龍谷大学図書館写字台文庫所蔵の10冊の歌合の影印(カラー)と解説。いずれも蘆庵が書写に関わったもの。この研究会に1度招かれて、龍谷大学で講演をさせていただいたご縁もあり、紹介させていただく。箱は明治書院の新釈漢文大系風であるが、これは龍谷大学善本叢書シリーズの1冊である。歌合は歴史的に見ると、一時衰退し、近世後期になって、地下歌壇から復興する。蘆庵もこれに熱心な一人である。近世文学研究目線でいえば、蘆庵の歌合研究という点で興味深い。このような享受面も含め、近世期歌合の総合的研究が望まれる。