2021年07月27日

欧米圏デジタル・ヒューマニティーズの基礎知識

『欧米圏デジタル・ヒューマニティーズの基礎知識』(文学通信、2021年7月)が刊行された。一般財団法人人文情報学研究所が刊行する無料のメルマガ『人文情報学月報』に掲載された記事を元に、加筆修正して編まれたものである。編者のお一人である永崎研宣さんには、これまで国文学を学ぶ学生のためのVFのレクチャーをしていただいたり、諸々のプロジェクトでご助言・ご協力をいただいているのだが、その永崎さんから、ありがたくもいただいた。これは、デジタルに関わるプロジェクトをやってるんなら、これくらい知っておきなさいよ!という叱咤激励と受け止めた。たくさんのトピックから成るが、一編は短いので、どこからでも気軽に読める。もちろん、体系的に編成されているのだから、最初から順に読んでいくのがいいのだとはわかっているが、ついつい興味深そうなところからまずつまみ食いしている。キーワードを手がかりに記事を探すには、「本書のタグMAP」(16、17頁)が便利かもしれない。
 欧米が、DHの分野では日本の先を行っていることは当然であるが、ではどのくらい先を行っているのだろう。いろんな執筆者の与えてくれる情報や実践報告から、具体的に学ぶことができる。そして自分がしていることのDH的な位置づけや、今後やるべきことも見えてきそうである。DH以前にITの基礎知識がない私ではあるが、とにかくいまDHを引っ張ってくれている人たちは、本当に忍耐強く、我々に対して手取り足取り教えてくれてるんだなとあらためて実感する。この本のタイトルが「基礎知識」をうたっているのも、そういうココロだと思う。
 DHというのは協働的な学問である。この世界を覗いて気持ちがいいのは、公私の「公」の部分をDHの人々が大事にしているということだ。人文学は「個人商店」といわれることがあるが、DHは違う。個人経営者がこぞって参加する組合のような存在である。手弁当で活動しているイメージがある。人文学に共同研究が多くなり、それぞれがネットワークで結ばれるという時代になってきた。しかし、やはり人間個々の気持ちと意見交換が非常に大事であることは、DHも同じ、というよりDHがそのことを率先して教えてくれているのではないだろうか。ともあれ、毎日、少しずつ読んでゆきます。
 
 
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2021年07月20日

羽倉本『春雨物語』の影印本レビュー

ここでも何度か書きましたが、新出秋成自筆『春雨物語』、天理図書館藏の羽倉本『春雨物語』が、天理冊子本・西荘本を併せて、影印が公刊されましたが、その本のレビューを書かせていただきました。ALL REVIEWSという書評サイトで、本日、WEBで配信されました。Yahoo!ニュースでも配信されました。

●ALL REVIEWS
https://allreviews.jp/review/5567

●Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/24435141ca8069d391ae6b520c2af43eef9aec39

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2021年07月11日

こてほん論争の現在

2021年7月11日付西日本新聞朝刊の「オピニオン」欄に、古典要不要論争の現在というテーマで寄稿したものが、掲載されました。こちらがWEB版。有料記事ですが、アプリを使えば1記事だけ閲覧可です。
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2021年07月09日

近代初期(アーリーモダン)文学

 『近世文芸 研究と評論』(2021年6月)が100号を達成した。戦後の近世文学研究を牽引してきた、早稲田大学の暉峻康隆・神保五弥・谷脇理史・雲英末雄という先生方を引き継ぎ、現在は、中嶋隆・倉員正江・池澤一郎の諸氏が研究会を引き継ぎ50年、年2回の研究誌刊行を積み重ねてきて現在に至る。研究同人誌でここまで続いている雑誌は、少なくとも近世文学では他にないだろう。心より敬意を捧げたい。
 さて、100号記念号にも、力作が並ぶ。冒頭の南陽子さんの武家物論は、西鶴の武家物の研究史そのものを考察する。2015年の京都近世小説研究会の井上泰至さんの西鶴研究への挑発的な発表に刺激されての論だが、その研究会の模様は印象に残っているので、興味深く読んだ。倉員さんの浮世草子と実録の相互影響を浮き彫りにする手際は例によって鮮やかである。また池澤さんの漢詩研究に対する発憤的論述は迫力がある。中で触れておられる山口剛の「明和の一人」は中野三敏先生の愛読する文章であったなと思い出す。
 そして、今回、とてつもなくおおきな文学史的構想を提案するのが中嶋さんの「近代初期(近世)文学史論序説」である。文学史の通時軸をそれぞれの研究者が持つべきであること、その通時軸の数だけ文学史があってよく、通時軸をめぐる対話・論争によって、「今」が反映された文学史パラダイムが形成されるとし、中嶋さん自身がその通時軸を据えるきっかけとなったのが、中野三敏先生の「西鶴戯作者説」をめぐる論争であったという。
 中野先生は「現実の全肯定」「表現第一主義」「教訓と滑稽を第一義」とする三点の通時軸を示されたが、その三点は作品解釈を通した「読み方」であって通時軸に措定するのは妥当ではないという批判がまずご自身の旧稿によって示される。中嶋さんは「メディア」と「文化構造」を視座とした座標軸の設定が必要だという。中世までの文化がメディアによって再編され、立ち上がったのが十七世紀であることが、周到な論述によって主張される。
 中野先生の近世文学観というのは、江戸時代を「青年期」「壮年期」「熟年期」のように擬人化し、壮年期である近世中期に魅力のピークがあるという捉え方で、そこに雅俗のバランスを絡め、雅俗のバランスのもっともよいのが近世中期であるというものである。中野先生の座標軸は「雅俗」であったかもしれない。中世や近代との連続と断絶については、あまり言及されなかったと思う。これは中野先生の中で、江戸こそが論じるに足る文化を持っているものであって、中世や近代にはあまり魅力を感じておられなかったということであり、中世から近代の中間点としての江戸という発想をあまりされなかったように思う。
 しかし、一たび世界の日本文学史研究に目を向けると、江戸時代または近世という時代把握はあまり普遍的ではなく、江戸時代はアーリーモダンとされることが一般的だろう。ましてや「雅俗」の概念は国際的にはなかなかわかりづらいようだ。私がアーリーモダンという語を身近に認識したのは、2015年のハイデルベルクでのシンポジウムだった。その際に、一緒に行ったドイツ文学の三谷研爾さん(現文学研究科長)が、アーリーモダンの話をされた。近代を用意した時代というよりも近代はこうであったかもしれないという可能性が胚胎している時代というような捉え方を示されたと記憶する。その時のことはこのブログでも書いているが、私にとって非常に新鮮だったことを覚えている。
 だが、日本近世文学の研究者で、近世を「近代初期」(アーリーモダン)と称した人は、これまでいなかったのではないか。中嶋さんはアーリーモダンを積極的に用いようとしている。いろいろとお尋ねしたいこともあるが、序説に次ぐ本論も準備されているということであり、続考を心待ちする次第である。
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