2021年09月26日

デジタル文学地図国際研究集会覚え書き

昨日オンラインでおこなわれたデジタル文学地図プロジェクトの国際研究集会の覚え書き。ご多忙の中、40名ほどのご参加を得ました。
デジタル文学地図は、歌枕をマッピングし、それぞれの歌枕についての概要・特徴・連想を示し、古典文学テキストの用例で集積し、その底本としている国文研のオープンデータの画像にリンクをはり、またやはりオープンデータの名所絵にもリンクを張る総合的な名所WEB事典の役割をめざしています。歌枕の立項と、用例は日々追加していて、有用性は日々高まっていると思います。
今回は、このデジタル文学地図が、研究や教育にどう資するかの実践報告2本と、若い研究者による名所イメージ形成に関わる発表2本です。
デジタル文学地図は、着々と「拡張」を続けていて、歌枕の立項は75地点が準備されていて、八代集、伊勢物語、源氏物語、平家物語、奥の細道の用例が網羅され、現在は謡曲に力を入れています。今回は、杉本亘さんの能における「逢坂」についての発表から、和歌系と謡曲系で、異なるイメージ形成が行われていることが浮かび上がったことに興味を覚えました。また黄夢鴿さんの名所詩歌合についての発表を通して、中国と日本の名所の「組み合わせ」から、用例収集とは違う方法でのイメージ分析が行える可能性が示唆されました。ちなみに私は『雨月物語』「白峯」の冒頭や「浅茅が宿」の作中歌に出る「逢坂」についてデジタル文学地図を援用した考察を行いました。ハイデルベルク大学のアロカイさんは、文学地理学的方法からの作品アプローチの教育実践について報告されました。
フランコ・モレッティの提唱する「遠読」と日本の文献実証主義をうまく掛け合わせて、新しい方法による文学研究が生まれる期待も出てきましたし、教育への活用や、社会貢献まで、可能性が示されました。
とくに終了後の懇親会では、デジタル文学地図の今後へむけて、他のマッピングプロジェクトとのコラボの可能性や、「みんなで翻刻」方式によるクラウドソーシングの展望などについても意見交換ができました。だんだんと「使えるツール」になってきている実感を味わえました。
参加してくださった方々に感謝申し上げます。
このプロジェクトは今年度、ゲストをお招きしてのシンポジウムを予定しています。
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2021年09月13日

古典をトモダチにするには?(コテキリの会参加記)

 昨日オンラインで行われた第3回コテキリの会(古典教材の未来を切り拓く!研究会)には160名近くの方々が参加して盛況だった。現役の教員の方が多かったと思うが、発表はもちろん、質疑応答やグーグルフォームに寄せられた多数のコメントから、国語教員の皆さんの熱意を強く感じた。その概要は、コテキリの会代表の山田和人さんのまとめが委細を尽くしているので、そちらをご参照いただきたい。
 私なりの感想をここでは述べてゆく。正直、レベルの高さに驚いた。みなさんまぎれもないプロフェッショナルで、何度も唸った。ここでは仲島ひとみさんの基調講演にふれる。タイトルは「本当に必要なのかと言わせない古典」。「本当に必要なの?」と問うのは現役高校生という想定の講演と拝聴した。彼らにそれを言わせないためにはどうしたらいいのか。まず古典を教える/学ぶ意義として、コンテンツ・リテラシー・アイデンティティの3要素があり、それぞに肯定的立場、否定的立場があることを整理された。もっとも重要なのはリテラシーであるというご意見だと理解した。これは私も同意見である。「必要」「役に立つ」の観点から言えば、コンテンツもアイデンティティも客観的指標になりにくい。そしてなぜ「古典は本当に必要か?」と問われるのかといえば、「役に立つ」とも「面白い」とも実感できないからとされ、前者は外発的、後者は内発的な問題と整理された。これもその通りだと納得した。講演、そしてそのあとの3つの実践報告でも、内発的な問題について主に報告・提案・議論されていたように思う。仲島さんは、どんな授業がいいのかという問いに対して、3つの心理的ニーズを満たすことだという。ひとつは「できる」感。ひとつは自分で決める(選ぶ)という動機付け。ひとつは誰かと繋がるという関係性である。提案された具体的方法は、
〇助動詞などの活用表を参照しながら読むことでハードルを下げる。
〇本物(原本・くずし字)をみる。(解読のためのアプリも利用)
〇読みやすいものを読む。(むしろ近い時代から)
〇全文音読チャレンジ
〇翻訳・翻案チャレンジ
〇「推し」をつくる。推し作品、推し作者、推し歌人、推しキャラ、推し単語、推し助動詞・・・
 非常に理論的で説得力のある講演であった。
 第二部、三宅宏幸さんは授業に使えるデータベース。淡々と、でもとてもわかりやすく、具体的な実践例を示しながらの解説だった。
 第三部は、こてとも意見交換会「古典をトモダチにするには?」と題して、有田祐輔さん、岩崎彩香さん、江口啓子さんの現役教員の報告と、同志社大学でくずし字を教えるプロジェクト授業を履修している学生さんの発表であった。どういう学生を対象に、何を目的に授業をデザインするか、そのきめ細かさをみなさんお持ちであった。オタク語りを自称する江口さんの「面白さ」を伝えるんじゃなくて、「面白いと思う人がいる」ことを伝える。「好きなことを隠さない」という金言?が印象に残った。
 それにしてもコロナのために、ICT授業技術が一気に進んだ。古典的な黒板授業は、方法のひとつとしてはもちろん残るが、ベースではもはやないのだと実感する。我々が習った古典の授業とはまったく違う授業が、そこには展開されていたのである。
 今回はどちらかというと、「古典に親しむ」また「古典は面白い」ことを伝える工夫についての議論だった。現役高校生は、嫌いであろうが、面白くなかろうが、授業で実際に読んでいる人たちである。まずは彼らが、「読むのは楽しい」と思うのが第1歩である。そういう意味で、このような草の根運動は重要だし、ネットを活用して、徐々にでも広げて行けたら、コテキリの会の目標のひとつはかなえられることになる。古典の授業について語り合うプラットフォームとしての役割をコテキリの会が提供するという形が、今回かなり明瞭になってきたのではないか。

 もちろん、課題は残る。私は会のあとで、発表者の皆さんに意地悪な質問をした。「生徒は古典が好きになってよく勉強するようになった。ところが、その親御さんが保護者面談で、『子どもにはもっと英語など受験や将来に大事な科目を勉強してほしいのに、古典ばっかりやっているようです。先生、楽しいだけで今の社会に役に立たない古典ってそんなに勉強する必要ありますか?』と突っ込まれたら、どう回答しますか?と。これは「こてほん論争」に戻ってしまう論点でもあるのだが、あとでフォームに寄せられた中にも、いくつか同様のことを書き込んている意見があった。この点は、高校の先生ではなく、むしろ大学教員が考えていかねばならない課題なのであろう。
 
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2021年09月09日

デジタル文学地図国際研究集会のお知らせ(2021年9月25日)

国際研究集会のお知らせです。

国際研究集会「デジタル文学地図の構築と日本古典文学研究・古典教育への展開」
 主催 2021年度大阪大学文学研究科国際共同研究力推進プログラム
「デジタル文学地図の構築と日本文化研究・教育への貢献」(代表者:飯倉洋一)
科研基盤研究(B)
「デジタル文学地図の構築と日本古典文学研究・古典教育への展開」(代表者:飯倉洋一)

日時9月25日(土) 15:00〜18:00
場所 Zoomによるオンライン

第T部 基調報告
1デジタル文学地図の研究への活用−『雨月物語』を例に 飯倉洋一(大阪大学)
2デジタル文学地図を利用した文学史教育の提案 ユディット・アロカイ(ハイデルベルク大学)
                    
第U部 研究発表    
1 『和漢名所詩歌合』における名所  黄夢鴿 (大阪大学大学院)
2 能の中の逢坂 杉本亘(大阪大学大学院)

参加申し込みはこちらからお願いします。また下記のチラシをご参照ください。(チラシのQRコードからも参加申し込みが出来ます)チラシには各報告・発表の要旨も掲載されています。
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2021年09月06日

コロナとコロリ

 日比嘉高氏編『疫病と日本文学』(三弥井書店、2021年7月)は、名古屋大学国語国文学会のシンポジウム企画「疫病と日本文学」を元に、同会メンバーが論考をさらに寄せて成った論文集である。国文学研究資料館前館長のロバート・キャンベルさん編『日本文学と感染症』(角川ソフィア文庫、2021年3月)という国文研スタッフ中心で編まれた文庫オリジナル論文集もあった。この2年、急速に文学研究が「病」と向き合った。人間が過去、病にどう向き合ったのか、を知るには、記録(日記)と文学作品を読むことである。これまで日本文学研究は、「病」というテーマで縦断的に議論したことはあまりなかったわけだが、よく考えると、病は生きている者が、ほぼ必ず遭遇するものだ。それもほとんどの場合前触れもなく、急速に。自分だけではなく、家族や恋人の病も同じである。作者自身が病に苦しんでいる場合も少なくないし、医者の立場から書いているものもある。ちなみに上田秋成は、一生病に苦しみつづけ、病を描き、そして病を治療する医者でもあった。私は6月に、機会を得てその話をしたが、その時の講座のテーマも「病との対峙」だった。
 人にとって病は外から来るのか、中から生じるのか、というのも考えれば考えるほど謎である。新型コロナのような感染症は「外から」ウィルスが入ってくるのものだが、それを恐れる心、感染者への差別、病の拡散で起こる社会不安は、外から来るものとは言えない。過去の人間の心の動きを研究する学問ともいえる日本文学研究は、今こそ「病」と向き合う時を迎えているのである。
 さて、前置きが長くなったが、この本の編者の「はじめに」の最初に紹介されているのが、幕末のコレラの話を書き付けた見聞記録。本書の執筆者のひとり塩村耕さんが、例によって西尾市岩瀬文庫から見つけ出してきた珍書奇書のひとつ、『後昔安全録』である。タイトルは「コロナとコロリ」。コロリはコレラのことである。塩村さんはこの記録を「ルポルタージュ文学」と呼ぶ。おそらくほぼ虚構はない。しかしまぎれもなく「文学」なのだ。まさに、抜き書きされたところを少し読むだけで、十分にその呼び方がふさわしいことがわかる。塩村さんは、急遽大学の授業のテキストをこの本に代えて学生とともに読んだらしいが、古人を身近に感じることのできる絶好のタイミングでの予定変更だっただろう。学生はここから何を感じ取ったのか、それも聴いてみたい。さてこの本の著者は号「真木廼屋」ということしかわからないのだが、塩村さんは記録からわかる事実を手がかりに、どこの誰が作者なのかを特定していく。この考証の過程、事実が少しずつ埋められて、ジグソーパズルのように一人の人物が浮かび上がっていく叙述は、いつもながらエクセレントである。
 それにしても名古屋大学国語国文学会の取り組みは素晴らしい。毎回持ち回りでテーマ設定をし、シンポジウムを企画するのだという。さらに多くの論考を会員からあつめ、短期間で刊行するチームワークに感心した。今回は、現在の同僚である尹芷汐さんもコラムを寄稿している。
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2021年09月04日

『万葉集に出会う』

 学部生のころに受けた演習というのは記憶に残る。今井源衛先生の源氏物語、中野三敏先生の西鶴、洒落本。奥村三雄先生の平曲。そして、いちばん怖かったのが、非常勤でお見えだった鶴久先生の万葉集だ。国歌大観番号とともに万葉歌をほぼ暗記していらっしゃって、我々の訓について、その手続きの不備を徹底的に追及される。2年間受講したが、その緊張感はいまでも甦る。鶴先生はよく佐竹昭広先生の名前を出していらっしゃった。その佐竹先生の学統に連なる大谷雅夫さんが『万葉集に出会う』(岩波新書、2021年8月)を上梓された。岩波の新大系、そして岩波文庫の『万葉集』を担当されての知見の一部を、分かりやすくスリリングに説いたものだが、内容はきわめて学術的。全6章のうち最初の4章は、いずれも定説的な訓に対する疑義や定説の定まらない歌の解釈をめぐる考察である。そう読まれてきた研究史や背景を丁寧に説き、大谷さん自身の読みを披露する。以下「ネタバレ注意」。
 第1章、「石走垂水の上のさわらびの」の「石走」は「いはばしる」と訓むのか、「いはそそぐ」と訓むのか。これに関して賀茂真淵の完璧(に見える)論証を紹介、なるほど「いはばしる」なんだ、と思わせておいて、「いはそそぐ」が正しいという大逆転。第2章、私の好きな、そして秋成がこだわった人麻呂の近江荒歌歌(長歌)を紹介、その反歌「楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ」。これは港が大宮人を待っているのか、人麻呂が待っているのか。契沖は港。春満や真淵は人麻呂。ここでもなるほど人麻呂かな、と思わせておいて逆転。第3章「苦しくも降り来る雨か三輪の崎佐渡の渡りに家あらなくに」。これも秋成が雨月物語の「蛇性の婬」に取り込んだ歌。この場合「家」が昭和四十六年の日本古典文学全集以後、「家人」の意味で解釈されてきたと。さてこれはどういう結論だろう?そして第4章は、「ひむがしの野にがぎろひの立つみへてかへり見すれば月かたぶきぬ」の名歌。この訓は知られるように真淵の創見であり、真淵以来、ずっとそう訓まれてきた歌である。真淵の訓がいかに凄いかということを説いてゆくのだが、例によって大逆転・・・。ところでこの歌は白石良夫さんの『古語の謎』(中公新書)でも冒頭に取り上げられて、真淵訓への疑義を論じていたことが思い出される。問題にするところは違うのであるが、この真淵の訓がいかに人麻呂歌のイメージを鮮やかに作り、甚大な影響を与えたかがよくわかる。実はそう読まないという大谷さんや白石さんの説に従うならば、真淵の訓は、ひとつの「テクスト遺産」だな、と思う。「テクスト遺産」については前のエントリーをご参照下さい。
 第5章と第6章はこれまであまり紹介されていない万葉集の歌について述べていく。
 というわけで、斎藤茂吉の『万葉秀歌』のような秀歌鑑賞タイプの本ではない。あえていえば万葉学の面白さを知らしめる新書だといえよう。このところ、このタイプの新書が増えてきている印象である。読者の目が肥えてきたのかもしれない。万葉学の歴史で真淵の存在は偉大だが、大谷さんは契沖を愛しているように思える。私個人の感想をいえば、契沖で古学に目覚め、真淵の孫弟子であった秋成の万葉学を考える際に、大いに参考にしたいと思った。
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