2021年10月19日

連歌師の紀行とはそういうものなのだ

 ブログを何のために書いているかというと、ひとつには本や論文を紹介顕彰するためであるが、もうひとつは、私自身のための研究データベースという意味がある。自分に関心のあることを基本的に書いているので、検索することで、思い出せない論文を思い出したり、発想のヒントを得たりする。自分で、作っておけばいいではないかと思うかも知れないが、人に紹介するという前提だからこそ、ある程度きちんと書こうとするので、自分が読み返したときも、何のメモだっけこれ?ということがないのである。
 さて、必要があって島津忠夫著作集(第9巻)を読んでいたら、「旅と紀行文学」という講演録で、伊地知鐵男先生の『東路のつと』諸本研究に言及されていて、「いくつか終りの部分が違う諸本があることに着目し、その諸本を細かく調べ上げて、行く先々で世話になった人に与えるのに、そこだけ詳しく書いているのだ、連歌師の紀行というのはそういうものなのだ、ということを書かれているのを見て、私はたいへん納得しました」とある。これは私にとって、「おお!」という指摘で、今私が想定している近世中後期雅文の写本のあり方(おくる相手に合わせて文章をアレンジする)と同じなのである(最近見た「蒐められた古」でもそういうテキストがあったと記憶する)。連歌研究の人ならずとも、この伊地知先生のご研究のことはよく知られているのかもしれない。だがこのブログは半分は自分のために書いているので許されよ。そして情けないかな、この島津先生の講演録、一度読んだ記憶があるのだが、ここを読み過ごしていて記憶に残っていなかったのである。ありがたやありがたや。
 おっと、私の必要なことは、その先に書かれているのだった。論文ってこういう思わぬ収穫があったりすると嬉しいですよね。島津先生の論文だからだ、というのもありますが。
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2021年10月17日

近世文学・作者と様式に関する私見

 濱田啓介先生が、『近世小説・営為と様式に関する私見』を刊行されたのが1993年。この名著で先生は角川源義賞を受賞した。その時先生は63歳であられた。次いで『近世文学・伝達と様式に関する私見』を出されたのが2010年、80歳である。その後、『国文学概論』という、今日濱田先生以外には書けないだろう、とてつもなく分厚い日本文学通史を刊行されたのが2019年であった。これには度肝を抜かれた人も多かっただろう。しかし、驚くべきことに、「濱田先生は3冊めの近世文学の論文集を準備されている」と風の噂に伝わって来た。それが実現したのが、91歳で出された論文集『近世文学・作者と様式に関する私見』(2021年9月)なのである。なお、ここにあげたすべての本は京都大学学術出版会から刊行されている。
 本書の刊記は9月10日、その12日後、先生は逝去された。まさに濱田啓介学を論文集3冊、通史1冊(その他多くの注釈などのお仕事がある)として、集大成されて、往生を遂げられたのだ。見事というしかなく、感謝のことばも思い浮かばないほど感謝している。本書の「後記」には、「学界人として、論文集の刊行は不可欠の業務である」とあり、前2冊に収めなかった論文を後世のためにまとめようと思ったということが書かれている。
 濱田先生の学恩を受けた人は、数え切れないくらいだろう。先生の学問やお人柄については、それを語るに相応しい方が何人もいらっしゃる。私はただ、この本についての感想を述べることで、追悼の意を表したい。
 やはり名論文ばかりである。先生の御論文は、ある一作を論じるというものもないではないが、多くはすさまじい読書量と調査量による「遠読」的な読み方による知見をのべるものが多い。先生自身が気に入っていたタイトル名の「比較文学偏西風」を巻頭においておられるのはなんだか微笑ましい。スケールの大きい比較文学論である。また「秩序への回帰−許嫁婚姻譚を中心として−」は、読本の様式(枠組)をストーリー展開の類型から考えるものである。「〈愛想づかし〉概観」も膨大は調査の成果である。しかし、秩序への回帰とか愛想づかしをテーマに立てるというところが実は余人の真似できないところなのである。すさまじい調査量は、文学史の叙述にも反映する。「幕末読本の一傾向」や「吉文字屋の作者に関する研究」は何度も読み返したもので、これらの論文のお世話になった人は多いはずである。
 そして「外濠を埋めてかかれ」は、西鶴ワークショップを京都で開いたときに、全体講評をお願いした時の原稿化である。私がお願いした原稿で、『上方文藝研究』に寄稿していただいたものだけに、感慨深い。西鶴研究の指針を示されたものである。そのワークショップは京都近世小説研究会という研究会が拓いた物であったが、私がはじめてその研究会に出させていただいた2001年以来、濱田先生はほぼ毎回、出席されていた。濱田先生のいないこの研究会は私の中ではちょっと考えにくいものである。そこでどれだけのことを学ばせていただいただろう。先生の存在が本研究会の求心力になっていた。
 コロナ禍で、先生にお会いできないまま、お別れする日が来てしまったとはまことに残念でならない。いまはご冥福をお祈りするばかりである。
 
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2021年10月15日

詩文と経世

 山本嘉孝さんの『詩文と経世−幕府儒臣の十八世紀』(名古屋大学出版会)が刊行された。「詩文」と「経世」という言葉を書名に選んでいるのには、彼のこだわりがある。そもそも「漢詩文」という言葉は現代日本語の言葉である。当時の漢詩文は「詩文」と呼ばれていた。詩といえば、文といえば、漢字で書かれたものを指すのが前近代である。だが、近代になって新体詩が登場し、漢字かな交じり文が普通になることで、漢詩文とわざわざ「漢」を冠することになったというわけである。「経世」という言葉も、江戸時代に使われていたことばである。いまなら「治世」か。いずれにせよ、江戸時代の概念で江戸時代の詩文を把握していこうという志がこのタイトルにみられる(元となった博士論文ではこのタイトルではなかったようだ)。
 山本さんは書き下ろしの序論で述べている。中国の詩人はすなわち士大夫すなわち政治家・官僚である(あった)人々であった。しかし江戸時代の日本ではそうではない。渡辺浩によれば、格の低い芸能者の一種だった。平安時代の漢詩文研究が経世(経国)と漢詩文の関係が論ぜられるのはごく普通だが、江戸時代の漢詩は経世から離れた庶人の漢詩制作に関心が向いていたのは当然だった。漢詩文の根幹である経世ではなく、枝葉である技芸的側面が注目されてきたのである。しかし、枝葉を理解するためにはやはり根幹を知ることが肝要、江戸時代の政治の中枢である幕府の儒臣こそ、その根幹である。その儒臣の中でも、とくに江戸時代の中期である十八世紀の儒臣に注目する。真ん中を押さえることで前後も展望できるからである。かくして室鳩巣・新井白石・中村蘭林・柴野栗山らが、本書の中心に据えられる。
 本書では、従来比較的言及されることの少ない木門の儒者を重視する。脚光をあびる徂徠派とは違う木門の擬古的作詩の試行錯誤にあらためて注目し、祇園南海がとりあげられている。こうして、新視点による新しい漢詩文史の提言が、堅実な各論文の積み上げによって説得力をもってくる。
 最後の結語(これも書き下ろし)も読み応えがある。「経世」に注目したからこそ出てくる「朝野」という視座が提起される。木門の儒者の朝野の往来が指摘される。ちょっとまて!これは、まもなく出る予定のアナホリッシュ國文學の上田秋成特集で私が書いた「雅俗往来」概念とつながるし、大いに参考になる考え方だ。山本さんのいう「朝野」は「官民」とは微妙に違うが、「堂上と地下」という、どちらかというと歌壇や和文研究の世界でいわれる概念に近いのかもしれない。(ちなみに山本さんのいう「朝」とは幕府をさすが、「堂上」とは朝廷社会である)。だんだん自分のメモのようになってきたので、いったんここらあたりで筆をおいておこう。
 最後に、巻末の参考文献が圧巻だが、上手く使えば本書を窓口に、近世漢詩文をはじめ、近世文学のことがかなり勉強できると思う。それだけ信頼のおける本が並んでいる。
 十八世紀というのは、やはり中野学の流れである。拙編の『十八世紀の文学』(ぺりかん社)にも触れていただきありがとうございます。
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2021年10月10日

蒐められた古(いにしえ)

 さて、1年7ヶ月ぶりに東京。長らくできなかった資料調査を土曜午後、日曜午前で行い、なかなかの収穫があった。やはり、現物を調査するということで、ネットの画像データだけでは得られないものを得ることがあるが、今回もそれである。画像だけでは得られない情報とは、出納してもらってはじめて出てくる所蔵者のメモ(おおむね画像データでは省略されている)とか、紙質など。今回、私が土曜日に調査したある叢書の中の作品は、それだけ紙質が違っていたし、日曜日に調査したものは、旧蔵者の貴重なメモがあり、そのメモのおかげで重要なことに思い至った。調査自体久しぶりで、ただでさえ昂揚していたが、次々に「当たり」が出ると、目が覚めるというものである。
 そして、午後は、東京駅近くの丸善4階ギャラリーで行われている、慶應大学図書館所蔵貴重書展「蒐められた古(いにしえ)−江戸の日本学−」の展示へ。あらかじめ予約していた一戸渉さんのギャラリートークを聴きに行く。この展示、実は近世上方文壇における堂上と地下をつなぐキーパースンのひとり、橋本経亮旧蔵の書物や遺品の展示なのである。20人までと制限されていたが本当に20人くらいいた。中には、よく存じ上げている研究者の方も。
 さてこの展示、あらかじめ図録をざっと見ていたとはいえ、やはり現物とトークで格段に理解が深まった。一戸さんに感謝である。
 コーナーは「あつめる」「うつす」「しらべる」「えがく」「つくる」「つながる」「つかう」「つたえる」に分けられ、それぞれ、スゴイ目玉がひとつならずいくつもあるという贅沢な展示。いくつか1では、新出の自筆『橘窓自語』。これまで随筆大成で読んでいたが、異文があるということで、翻刻紹介がまたれる。2では、唐の許敬宗奉勅編の『文館詞林』の、佚文とされていた一部がこれでわかるというキツい写し。3ではまるで宝物だらけの「香果抜粋」。4では文晁えがく足利学校宣聖像など。6では経亮のために書いた蘆庵自筆の「ふりわけ髪」や蘆庵書簡、天明から秋成と経亮の交友を示す秋成の朱の添削。7では光格天皇の后となる欣子内親王の立后の儀式の敷物に使われた法隆寺の古い宝物のキレの写し。・・・あっ、自分の関心に引きつけて書いてしまいましたが、他にも満載。展示は12日までです。江戸の好古、尚古に興味のある方は、是非足をお運びください。駅の近くで交通至便。無料です。
 
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「テクスト遺産」という概念

 Edoardo Gerliniさんと河野貴美子さんの編による『古典は遺産か−日本におけるテクスト遺産の利用と再創造』(勉誠出版、2021年10月)が刊行された(もしかするとまだ書店には並んでないかもしれません)。
 ジェルリーニさんが提唱する、「テクスト遺産」という新しい研究視角。これは遺産研究(Heritage Studies)の考え方を参照にしつつも、従来「文化遺産」とは見做されていない文学作品をはじめとするテクストを文化遺産と位置づけることで、古典研究を学際的な研究対象とするとともに、「古典の危機」への打開策のヒントにする意味もありそうである。私は、この概念は有効であると今のところ思っていて、なぜくずし字教育が必要かを話す講演でも、使わせていただいた。しかし、今では定着している「間テクスト性」とか「カノン」のような概念も、当初「それって何?」「〜とどう違うの?」という反応があったように、「テクスト遺産」という概念も、既存の文学研究者たちに受け入れられるかどうかは、あと10年くらいたたないとわからないだろう。
 現に、ジェルリーニさんの趣旨に理解を示したと考えられるこの本の執筆者たちの「テクスト遺産」概念が、実はまちまちであることが本書巻末の「テクスト遺産とは何か」で示されている。そこには編者たちの依頼によって、各執筆者の考える「テクスト遺産」の定義が語られているのである。
 この事態は、「テクスト遺産」の理解の困難を示すとともに、「テクスト遺産」が議論すべき、可能性に満ちた概念であることを示すのではないか。本書の執筆者たちは、一筋縄ではいかない、研究の最前線を走る研究者たちであり、与えられた「テクスト遺産」という概念から、様々な問題系を引き出してきているのである。
 とはいえ、「テクスト遺産」概念はただの「おのころじま」のようなものではない。議論の叩き台としては、やはり冒頭のジェルリーニさんの緒論「なぜ「テクスト遺産」か」を挙げるべきであろう。あえていえば、古典研究者必読である。ここでは「テクスト遺産」という発想にいたる経緯として「遺産研究」の解説がまずなされ、「テクスト遺産」の概念の妥当性が主張される。そして「テクスト遺産」の好例として「古今伝授」が取り上げられている。「テクスト遺産」とは、単なるモノとしての資料や典籍ではなく、そこへの関わり、営みのプロセスそのものをいう。この切り口によって、「古今伝授」学が急に生き生きと動き出したと感じるのは私だけだろうか。テクスト遺産への関わりは、今だけではなく、過去においてもなされ続けていたから「テクスト遺産史」という構想も生まれるのである。
 さて、もはや各論に触れる余裕はないが、昨年7月に行われたオンラインワークショップの発表者に強力なゲストを加えた豪華な執筆陣は、さすがにこの新しい概念を縦横に活かして論述している。「所有性」「作者性」「真正性」の3本柱に、「テクスト遺産の広がり」を加えている。私もこの新しい概念で、江戸時代中期の読物に「作者」が明記されるようになることをからめて考えてみた(「近世中期における「テクスト遺産」と「作者」」)。
 最後になってしまいましたが、編者以外の執筆者は、佐々木孝浩、海野圭介、盛田帝子、兵藤裕己、高松寿夫、陣野英則、前田雅之、山本嘉孝、阿部龍一、Wdward KAMENS、荒木浩、Roberta STRIPPOLI、佐野真由子、林原行雄、稲賀繁美の各氏。https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101251

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