『アナホリッシュ國文學』10号(2021年11月)は、「特集〈文人〉の季節−上田秋成とその時代」と銘打って、久しぶりに「上田秋成」の雑誌特集が出た。岩波の『文学』が没後200年を記念して出して以来12年ぶりである。この間、秋成研究はどう進んできたかというと、それほど隆盛というわけではなかった。実は少し前某雑誌で秋成特集の編集を打診されたことがあったが、なんとなく時期ではないと思った。しかし、羽倉本『春雨物語』が今年春に誰でも見られるようになって、にわかに活気づいてきた。その前からこの特集は予定されていたから、これは本当に偶然なタイムリーである。この雑誌のあちこちに、羽倉本についての言及があるだけでなく、はじめての本格的な論文も2本出た。羽倉本の出現で、秋成研究の景色が変わる、その発端となる雑誌特集になったのである。
巻頭は高田衛先生と長島弘明さんの対談。ここ30数年、高田先生にいたっては50年ちかく、秋成研究を牽引しつづけてきたお二人である。高田先生の不朽の名著『上田秋成年譜考説』の出版裏話がはじめて具体的に公にされる。また新出羽倉本『春雨物語』出現の意義を長島さんが語る、そして村上春樹『海辺のカフカ』と秋成についての高田説や映画『雨月物語』談義。
論文についてもいくつか。稲田篤信さんの「「天津処女」考」は、春雨物語を絵詞として読むシリーズのひとつ。同話のエピソードが画題と重なる内容があるという指摘。私には魅力的な説にうつる(私も「目ひとつの神」を「絵のない絵巻」として読むことをかつて述べた)。
『雨月物語』では風間誠史さんの「仏法僧」論や井上泰至さんの「菊花の約」論。いずれも独自の問題設定が肝。問題設定が独自であれば、どんなに論じ尽くされた作品でも、新しい読みが可能であるという事例である。もっとも私は「仏法僧」をつまらないとは思わないし、「菊花の約」で「男色」を敢えて秘したとは思わないが。こういう作品論はやはり議論の俎上に載せないとね。西鶴は最近けっこう議論されたが、秋成は秋成でおおきな論点がなくみんなが好きに言いっ放しなような気もするから、どっかでそういう場を設けられればと思うが(菊花の約では木越さんと私の論争がちょっと前にあったし、空井伸一さんからもこっぴどく批判されていたから、おまえがやれって言われそうだ)。
一戸さんの橋本経亮(つねすけ)は、もう第一人者の貫禄か。それにしても「つねあきら」と読み誤られてきたことについて、かなり憤慨しておられるのは当然か。ただ冒頭「秋成」を「あきなり」と読めない人は一般人でもいないだろうとおっしゃっていますが、「シュウセイ」という人は結構いますね。
長島さんの羽倉本『春雨物語』論は、さすが緻密な、そして大胆な分析と考察。この本の出現によって、秋成が読者によって本文を変えるという、私や高松さ亮太さん(鈴木淳さんもそういう感じがある)の考え方を長島さんもちょっと認めてくださってきたというのは誤解でしょうか?
その高松さんも羽倉本を含めた春雨の本文系統論を図で示した。これを機会に春雨本文論が再び活発化してほしい(これも、おまえもやれよと言われそう)。
劉さん、丸井さん、高野さんら、秋成研究もようやく若い方が出てきて、世代交代の萌しを見せてきたのも嬉しいことです。
私の論は、雅俗往来という言葉で、堂上と地下の人的交流の中に秋成をおいて、とくに京都時代の文事を考えたものであります。ご批正を。
とりあえずは、上田秋成研究最前線を示した雑誌特集だったといえるだろう。