2022年07月25日

『雅俗』復刊十周年記念号

 近世文学研究誌の『雅俗』21号(2022年7月)は、復刊十周年記念号を謳う。
特集は、昨年末行われたシンポジウム「雅俗論のゆくえ」。登壇者5名の論考とディスカサント、傍聴記も。
川平敏文さんの「雅俗論史」は、今後の雅俗論の基礎文献になるだろう。小西甚一の雅俗論をとりあげている点がユニークである。
深沢了子さんの「雅俗の境目」は、宗因に即して「雅俗」を考察。
私の「浪花人秋成」は、秋成の意識に即して、都=雅、浪花=俗という空間的雅俗論の可能性を検討したもの。
小林ふみ子さんの「「雅俗」をどう語り直すか」は、国際的な視座からの雅俗論を提案、南畝の雅俗意識を検討しながらも、雅俗の価値意識が研究者に内面化けるされているのではという警鐘?を鳴らす。分析は正しいが、俗文学研究の低調打破には、別の論点が必要だろう。
菱岡憲司さんの「馬琴と小津桂窓の雅俗観」は、標題通り当時の文人の雅俗観を探る。
まさに基調報告1+事例報告4という形にきれいに構成されているように見えるが、各論文は事例報告という意味ではなく多面的な問題意識に基づく大胆な提言を行っている。それが絡んだのはシンポジウムのあとの懇談会の席だったようにも記憶するが、あらためて思うのは「大事なのは問い」という研究の基本である。
論考編では、高松亮太さんが上田秋成『毎月抄』の完本の紹介。これは貴重。写本流通論にも論を展開している。
高山大毅さんの「「石鏡」=鏡山詠の展開−徂徠学派の定句表現」はよくある〈詩語の歴史的展開を追う〉論文のようなタイトルだが、その根っこにある問いが「なぜ徂徠学派中心の文学史理解が江戸期において受け入れられたいたのか」というユニークなものである。徂徠学派の文学史的記述、つまり文学史の創造が「石鏡」という詩語を普及させたからくりを解き明かすのだが、もちろんこの構想自体が高山さんの学術的イマジネーションである(いい意味で)。「詩と文学史叙述を総合して彼らの作品であると見なしてもよいのではなかろうか」ときた。このくだりを読むと、いろんな問いが生まれる。問いを誘発する論文はやはりいい論文なのだ。
 これでまだ半分も紹介していないのだが、今回は220頁超のボリュームとなった。学会誌がやせ細っている状況なのに、研究同人誌は元気。この元気をまた学会誌に返すことができればいいのだが。いやもっと根本的な地殻変動が起こるのかも知れない。
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2022年07月06日

日本書物史ノート

 書物史とは、「モノとしての本」の歴史のことである。私は師の中野三敏先生から、とにかく原本をたくさん見ろという教えを受けた。私自身はあまり守れていないが・・・。「原本を見る」とは、その字面を画像で確認するという意味ではない。江戸時代に刊行された、あるいは写された本を、実際に手にとって、その感触を確かめろという意味である。そうしないと、その本の江戸時代における意味はわからない。大きさ、重さ、紙質、紙のつかれ、綴じ糸、墨付きの感じ、運筆のあり方、綴じ糸、刷りの良さ、埋木のあと、汚れ方、それら全ては江戸の人の営みの跡であり、その本の性質を考えるヒントであり、誤解を怖れずにいえば「本を読む」ことである。
 書物史学の第一人者である佐々木孝浩さんの「日本書物史ノート」という連載が、岩波書店のPR誌『図書』で始まった。初回は「写本と版本で織り成す和本の歴史」。その冒頭に「みなさん本はお好きですか?」という問いがある。これは「モノとしての本」のことなのだ。そして言う「書物の形態や外見の意味するところを見極める行為も、広義の読書と呼んでもいいのではないでしょうか」と。これに同意する人が、佐々木さんのいう「本好き」である。我が師はこれを「本道楽」と称した。いや、そこまではなかなかという人も、この連載を読むと、「本好き」になるかもしれない。
 今回は、写本と版本の特徴を押さえ、両者を見比べながらでないと、バランスの良い書物史は出来ないという。これが今回のポイントだろう。
 一般向けに書かれているので、非常にわかりやすいが、専門知が惜しげもなく披瀝されていて、今後の展開が楽しみである。

 ここからは私のたわごとだが、写本と版本の違いは、前者が原則として誰か特定の人(自分であったり、子孫であったり、友人であったり、依頼者であったり)のために作られたものであり、後者は原則として特定ではない複数の人のために作られたものであるとも言えるだろう。つまり写本は縦につながり、版本は横に拡がる。とはいえ、佐々木さんも述べている通り、もともと版本は写本をコピーするという意識で作られているので、どこか写本意識を引きずっているのである。だから版本であっても実は特定の人を読者として想定しているケースもあるだろう。
 特定の誰かのためであれば、字形や本の装丁にも気を遣うわけで、つまりモノとしての本は、人的交流の産物として捉えられるのではないか(またまたポジショントーク)。本を書いた人と、それを読む人との関係を明らかにすることも、書物学の延長に、あるいは書物学の一部ではないだろうか。
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歴史で読む国学

國學院大學日本文化研究所編『歴史で読む国学』(ぺりかん社、2022年3月)。国学史の新しい入門書を標榜している。これまでの国学史は、どちらかというと主要な国学者の言説内容を時系列に並べるという体のものが多かった印象だが、本書は共同執筆ながら、国学を政治史的・文化史的に位置づけるという方法で一貫している。つまりその言説内容よりも、それが生まれた背景の説明に注力している。具体的にいえば、朝幕関係、儒学や神道、あるいは歌壇の動向、出版史などによく目配りしているし、人的交流にも叙述を割いている。荷田国学と懐徳堂との関係など、注目すべき指摘も備わる。江戸時代の中では荷田派国学の動向に紙幅を割いている点で国学院色を出しているが、全体的には最新の研究成果を十分に取り入れつつバランスのとれた国学史になっている。
 以下は本書に導かれた述懐であるが、「国学」ということば自体は近代に生まれたものであり、江戸時代に和学・古学と呼ばれる学問を指すものとされるが、有職学・史学・歌学、そして神道などとの線引きも難しい。我々は、どうしても既存の枠組に呪縛されていて、当時の学のあり方をありのままに見ることが出来ていないように思われる。その言説の歴史的意味や現代的意義を考えることも重要だが、その言説がどういう場で生成したかという点にも注目すべきではないだろうか。それはわりとグローバルな問題意識であるように思うからである。どういう場で生成したかというのは、言説主体の人的交流をおさえる必要があるだろう。本書はその視点も有している。
 この投稿の後半は、「人的交流と文芸生成の場」の研究の重要性を主張している私のポジショントークですな。ははは。
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2022年07月04日

秋成新資料考

『東海近世』30号(2022年5月)に、長島弘明さんの「秋成新資料考」が掲載されている。東海近世文学会の記念講演の活字化である。ご講演のことは仄聞していたが、活字化はまことにありがたい。新資料がなんと48も!秋成の資料がまだまだ眠っていることを知らしめる、長島さんならではの論考である。的確な解釈と位置づけも流石である。村田春海の季鷹宛書簡に、伴蒿蹊の和歌を拝受した、そして蒿蹊への謝礼を秋成に託したと。これだけでも凄い情報量。この資料を持っていたのが塩村耕さんというのがまた唸る。
 以下余談。なぜか後半の安田文吉先生、服部仁さん、服部直子さんの東海近世300回記念鼎談の中で、私が服部仁さんに「服部さんがそんな敬老パスなんて、そんなダメだ」と言ったという話が紹介されているんですが、記憶にありません。忘却しました。
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2022年07月01日

羈旅漫録

 7月に入りました。退職後は時間がいっぱいあるから、ブログも毎日のように更新、というのは絵に描いた餅でした。いただくメールは確かに激減したが、なぜか余裕がない。その結果、依然としてコメントすべき本が山のようにあります。さて、猛暑の中、今日はやや熱中症的な症状を発してしまいました。そこに届いた涼風、いやそうではなく、平凡社東洋文庫の『羈旅漫録』。木越俊介さんの校注。ようやく、丁寧で信頼できる注で、この本を読めるときが来たのかと、感慨深い。
 かつてこのテキストを大学院の演習で読んだことがある。各自興味のある条を選んでの注釈である。だから懐かしくもある。
 馬琴が上京した前年に大田南畝も大坂に仕事で長期滞在したが、毎日生き生きと名所旧跡を訪ね回っている。この当時の馬琴はまだまだ全国区ではない。南畝の紹介状を携えて、あこがれの上方へやってきた。そのワクワク感が伝わってくる。しかしさすがは馬琴、あとあと創作に役立つだろうと、戦略的に細かく記録を作っている。これが一流である。真似したくても真似できない。
 秋成のことも高く評価している。「京にて今の人物は皆川文蔵と上田余斎のみ」といい、「余斎は浪花人」と注記する。南畝から何か訊いていたのだろうか?いろいろ想像が膨らむ。南畝もそうだが、やはり一流の文人の見聞記は、ポイントを衝いていて面白く、勉強になる。
 デジタル文学地図プロジェクトの観点からも、この注釈付きの決定的テキストの刊行は、まことにありがたい。
 
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