2022年07月06日

日本書物史ノート

 書物史とは、「モノとしての本」の歴史のことである。私は師の中野三敏先生から、とにかく原本をたくさん見ろという教えを受けた。私自身はあまり守れていないが・・・。「原本を見る」とは、その字面を画像で確認するという意味ではない。江戸時代に刊行された、あるいは写された本を、実際に手にとって、その感触を確かめろという意味である。そうしないと、その本の江戸時代における意味はわからない。大きさ、重さ、紙質、紙のつかれ、綴じ糸、墨付きの感じ、運筆のあり方、綴じ糸、刷りの良さ、埋木のあと、汚れ方、それら全ては江戸の人の営みの跡であり、その本の性質を考えるヒントであり、誤解を怖れずにいえば「本を読む」ことである。
 書物史学の第一人者である佐々木孝浩さんの「日本書物史ノート」という連載が、岩波書店のPR誌『図書』で始まった。初回は「写本と版本で織り成す和本の歴史」。その冒頭に「みなさん本はお好きですか?」という問いがある。これは「モノとしての本」のことなのだ。そして言う「書物の形態や外見の意味するところを見極める行為も、広義の読書と呼んでもいいのではないでしょうか」と。これに同意する人が、佐々木さんのいう「本好き」である。我が師はこれを「本道楽」と称した。いや、そこまではなかなかという人も、この連載を読むと、「本好き」になるかもしれない。
 今回は、写本と版本の特徴を押さえ、両者を見比べながらでないと、バランスの良い書物史は出来ないという。これが今回のポイントだろう。
 一般向けに書かれているので、非常にわかりやすいが、専門知が惜しげもなく披瀝されていて、今後の展開が楽しみである。

 ここからは私のたわごとだが、写本と版本の違いは、前者が原則として誰か特定の人(自分であったり、子孫であったり、友人であったり、依頼者であったり)のために作られたものであり、後者は原則として特定ではない複数の人のために作られたものであるとも言えるだろう。つまり写本は縦につながり、版本は横に拡がる。とはいえ、佐々木さんも述べている通り、もともと版本は写本をコピーするという意識で作られているので、どこか写本意識を引きずっているのである。だから版本であっても実は特定の人を読者として想定しているケースもあるだろう。
 特定の誰かのためであれば、字形や本の装丁にも気を遣うわけで、つまりモノとしての本は、人的交流の産物として捉えられるのではないか(またまたポジショントーク)。本を書いた人と、それを読む人との関係を明らかにすることも、書物学の延長に、あるいは書物学の一部ではないだろうか。
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歴史で読む国学

國學院大學日本文化研究所編『歴史で読む国学』(ぺりかん社、2022年3月)。国学史の新しい入門書を標榜している。これまでの国学史は、どちらかというと主要な国学者の言説内容を時系列に並べるという体のものが多かった印象だが、本書は共同執筆ながら、国学を政治史的・文化史的に位置づけるという方法で一貫している。つまりその言説内容よりも、それが生まれた背景の説明に注力している。具体的にいえば、朝幕関係、儒学や神道、あるいは歌壇の動向、出版史などによく目配りしているし、人的交流にも叙述を割いている。荷田国学と懐徳堂との関係など、注目すべき指摘も備わる。江戸時代の中では荷田派国学の動向に紙幅を割いている点で国学院色を出しているが、全体的には最新の研究成果を十分に取り入れつつバランスのとれた国学史になっている。
 以下は本書に導かれた述懐であるが、「国学」ということば自体は近代に生まれたものであり、江戸時代に和学・古学と呼ばれる学問を指すものとされるが、有職学・史学・歌学、そして神道などとの線引きも難しい。我々は、どうしても既存の枠組に呪縛されていて、当時の学のあり方をありのままに見ることが出来ていないように思われる。その言説の歴史的意味や現代的意義を考えることも重要だが、その言説がどういう場で生成したかという点にも注目すべきではないだろうか。それはわりとグローバルな問題意識であるように思うからである。どういう場で生成したかというのは、言説主体の人的交流をおさえる必要があるだろう。本書はその視点も有している。
 この投稿の後半は、「人的交流と文芸生成の場」の研究の重要性を主張している私のポジショントークですな。ははは。
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