デジタル文学地図のプロジェクトは現在進行中で、データやシステムは逐次更新されています。
日本文学において長い伝統を持つ歌枕・名所はジャンルの境を越える空間的な秩序を形成しています。歌枕・名所は関連文献を呼び起こしながら、古来のテクストやイメージを連想させます。このプログラムは日本文学における歌枕・名所を地図上に表示し、その背景にある歴史的、文化的、ポエティックな意味を提供しています。「日本のデジタル文学地図」は、科研基盤研究(B)「デジタル文学地図の構築と日本文化研究・教育への貢献」(進行中)の研究成果であり、国文学研究資料館、ハイデルベルク大学日本学研究所との共同研究です。もともとはハイデルベルク大学のユディット・アロカイ教授がはじめたもので、もう10年くらい継続しています。今後も改良を重ねて参ります。
さて、デジタル文学地図を授業や研究、趣味の支援ツールとして使っていただくべく、アンケートを実施することになりました。上述のリンクからトップページを開き、アンケートのリンクへと飛んでください。実際に使ってみた方も、見ただけの方も、率直なご感想、ご意見、ご提案を賜れば嬉しいです。
アンケートの締め切りは2023年3月末です。よろしくお願いいたします。
2022年08月30日
2022年08月29日
吉祥院本『稲生物怪録』
杉本好伸さん著『吉祥院本『稲生物怪録ー怪異譚の深層への廻廊』(三弥井書店、2022年7月)が刊行された。
杉本さんが二十年ほどまえからか、『稲生物怪録』に正面から取り組み、こつこつと成果を重ねてこられていたのは、いただいたご論文や偶然に目にした雑誌などで知っていたが、そのひとつの区切りとなる、堂々たる一書が成ったことは、慶賀の至りである。
稲生物怪録は、怪談好きでなくとも、その書名を聞いたことがある人は多いに違いない。いわゆる屋敷怪談、これでもか、これでもかと執拗に化け物に来襲されるというストーリーを有する奇書である。しかし、杉本さんによれば、その諸本の関係、実態、その全貌はほとんど理解されていなかった、というより多くは誤解されていたようである。かなりきちんとしているはずの研究書においても、である。
原本に相当する本はいまだに不明。しかし現時点で判明する諸本の関係を整理し、重要な本文をもつ吉祥院本をきちんと位置づけ、その全貌を明らかにし、影印、校訂本文、注釈を提供する、吉祥院本『稲生物怪録』研究の決定版が本書である。
その解題にあたる総説は、本書の虚実、本文の成立過程から書写者の意識、作品の構成、歴史的・地理的背景にいたるまで、きわめて厳密な研究的叙述に貫かれている。杉本さんの研究者としての誠実さ、そして稲生物怪録への強い思い入れを感じる部分である。本文の注釈も、長い時間をかけて醸成された、良質さが光っている。
本書との出会いについて、杉本さんは「縁」の不思議さを述懐しているが、その縁をたぐりよせたのは、おそらく杉本さんの誠実なお人柄である。稲生物怪録という、世界の解明はこれからも続くだろう。後進に期待をこめつつ、杉本さん自身の探究もまだまだ続きそうである。
杉本さんが二十年ほどまえからか、『稲生物怪録』に正面から取り組み、こつこつと成果を重ねてこられていたのは、いただいたご論文や偶然に目にした雑誌などで知っていたが、そのひとつの区切りとなる、堂々たる一書が成ったことは、慶賀の至りである。
稲生物怪録は、怪談好きでなくとも、その書名を聞いたことがある人は多いに違いない。いわゆる屋敷怪談、これでもか、これでもかと執拗に化け物に来襲されるというストーリーを有する奇書である。しかし、杉本さんによれば、その諸本の関係、実態、その全貌はほとんど理解されていなかった、というより多くは誤解されていたようである。かなりきちんとしているはずの研究書においても、である。
原本に相当する本はいまだに不明。しかし現時点で判明する諸本の関係を整理し、重要な本文をもつ吉祥院本をきちんと位置づけ、その全貌を明らかにし、影印、校訂本文、注釈を提供する、吉祥院本『稲生物怪録』研究の決定版が本書である。
その解題にあたる総説は、本書の虚実、本文の成立過程から書写者の意識、作品の構成、歴史的・地理的背景にいたるまで、きわめて厳密な研究的叙述に貫かれている。杉本さんの研究者としての誠実さ、そして稲生物怪録への強い思い入れを感じる部分である。本文の注釈も、長い時間をかけて醸成された、良質さが光っている。
本書との出会いについて、杉本さんは「縁」の不思議さを述懐しているが、その縁をたぐりよせたのは、おそらく杉本さんの誠実なお人柄である。稲生物怪録という、世界の解明はこれからも続くだろう。後進に期待をこめつつ、杉本さん自身の探究もまだまだ続きそうである。
2022年08月13日
〈作者〉とは何か
神戸大学文学部国語国文学会2022年度研究部会の2日目のシンポジウム「近世俗文芸の作者の姿勢=mポーズ]――序文を手掛かりとして」のラインナップは次の通り。8月27日午後2時から。ハイブリッドで行われ、オンラインではどなたも参加できるようだ。
丸井貴史(専修大学准教授) 序文の虚実――『太平記演義』を中心に
天野聡一(九州産業大学准教授) 『雨月物語』序文小考
飯倉洋一(大阪大学名誉教授) 作られた序者――『ぬば玉の巻』と『春雨物語』に即して
小林ふみ子(法政大学教授) 主体の虚構性と実体性――大田南畝周辺から
有澤知世(神戸大学助教) 自序に登場する〈作者〉――山東京伝の戯作から
私も登壇するのだが、あらためて気になるのは「作者」って何?ということである。
今回のシンポジウムでみなさんが扱う「作者」は、いずれも実体としての作者そのものではなさそうである。では作者とは?
そこで、手がかりになるだろう論集が昨年3月に岩波書店から刊行されたハルオ・シラネ、鈴木登美、小峯和明、十重田裕一編『〈作者〉とは何か』である。バルトの「作者の死」、フーコーの「作者とは何か?」とその後の〈作者〉論を受けて、現代社会におけるメディア・ネット文化の中で、歴史的に〈作者〉を問い直すという鋭利な問題意識(ハルオ・シラネ「はじめに」)の下、多様な立場の研究者が、多様な〈作者〉像を描き出している。
中でも、今回のシンポジウムのテーマと最も関わり深いのが、長島弘明「変装する〈作者〉−上田秋成の小説を例として−」である。ここで詳細は述べないが、「模倣のオリジナリティ」というキーワードを据えて、精読者を対象とする創作のあり方を論じ、「戯号」に注目し、実体ではない、作品個別に存在する〈作者〉(これが変装する「作者」)について論じ、さらに読者もまた変装することを述べている。今回のテーマ「作者のポーズ」とぼっちり重なることを論じているのである。私もこの長島さんの論に共鳴するところが多い。
鈴木俊幸「江戸時代の出版文化と〈作者〉」も、近世小説の社会的位置が低かったことと戯名との関わり、そして誰でも「作者」であった時代における作者と読者の距離の近さを指摘するなど、看過できない論文である。
さらに金文京「東アジア前近代における〈作者〉の語義とその特徴」は、中国における「作者」の意味とその変遷を明らかにしてくれていて貴重。「作者」の原義は古代の聖天子であり、それに続く人々は、聖人の言葉を祖述する「述者」、選ぶ「選者」、顕在化させる「著者」、編集する「編者」であると。もちろん意味は派生するが、原義からすれば「作者」とは優れた作品を創った人を聖人に擬えていうことば、日本の「作者」も優れた詩歌を作る人といった意味が中心にあるのだと。「作者」を論じる上で押さえておくべき基本的論文であろう。
さて、本論集の多くの人が引用しているのが「機能としての作者」の概念を提示した、ミシェル・フーコーの『作者とは何か?』である。いくつかの論文を読んで、バルトの「作者の死」に基づくナイーブなテクスト論はおおむね乗り越えられてはいるが、「機能としての作者」はまだ生きている、現状はそういう認識段階だと感じた。
『作者とは何か?』(清水徹+豊崎光一訳、哲学書房版)でフーコーは「機能としての作者」の四つの特徴を指摘している。しかしそれを要約することは、ちょっと困難だ。ただ今回のシンポのテーマに即すると、次のくだりあたりがリンクしてこよう。「作者を現実の作家の側に探すのも、虚構の発話者の側に探すのも同様に誤りでしょう。機能としての作者はこの分裂そのもののなかで−この分割と距離のなかで作用するのです」。
さて、『作者とは何か』に戻ると、商偉「『石頭記』と〈作者〉」が興味深かった。というか『石頭記』という作品そのものが面白い。
シンポジウムは、「序文」を手がかりにして、という副題がついているが、これは「作者」=「序者」、つまり「自序」を扱いますよ、ということになる。しかし自序にはもともと、謙譲、韜晦が含まれるのが常である。他序はその反対。それをもポーズというのであれば、型としての序を前提とした議論が必要となるだろう。
おそらく、それぞれの登壇者が自分の関心のある「作者」の書いた「序」について、そのポーズについて事例報告をし、ディスカッションで論じあうという形になると思う。自分の発表準備は出来ていないが、楽しみである。
丸井貴史(専修大学准教授) 序文の虚実――『太平記演義』を中心に
天野聡一(九州産業大学准教授) 『雨月物語』序文小考
飯倉洋一(大阪大学名誉教授) 作られた序者――『ぬば玉の巻』と『春雨物語』に即して
小林ふみ子(法政大学教授) 主体の虚構性と実体性――大田南畝周辺から
有澤知世(神戸大学助教) 自序に登場する〈作者〉――山東京伝の戯作から
私も登壇するのだが、あらためて気になるのは「作者」って何?ということである。
今回のシンポジウムでみなさんが扱う「作者」は、いずれも実体としての作者そのものではなさそうである。では作者とは?
そこで、手がかりになるだろう論集が昨年3月に岩波書店から刊行されたハルオ・シラネ、鈴木登美、小峯和明、十重田裕一編『〈作者〉とは何か』である。バルトの「作者の死」、フーコーの「作者とは何か?」とその後の〈作者〉論を受けて、現代社会におけるメディア・ネット文化の中で、歴史的に〈作者〉を問い直すという鋭利な問題意識(ハルオ・シラネ「はじめに」)の下、多様な立場の研究者が、多様な〈作者〉像を描き出している。
中でも、今回のシンポジウムのテーマと最も関わり深いのが、長島弘明「変装する〈作者〉−上田秋成の小説を例として−」である。ここで詳細は述べないが、「模倣のオリジナリティ」というキーワードを据えて、精読者を対象とする創作のあり方を論じ、「戯号」に注目し、実体ではない、作品個別に存在する〈作者〉(これが変装する「作者」)について論じ、さらに読者もまた変装することを述べている。今回のテーマ「作者のポーズ」とぼっちり重なることを論じているのである。私もこの長島さんの論に共鳴するところが多い。
鈴木俊幸「江戸時代の出版文化と〈作者〉」も、近世小説の社会的位置が低かったことと戯名との関わり、そして誰でも「作者」であった時代における作者と読者の距離の近さを指摘するなど、看過できない論文である。
さらに金文京「東アジア前近代における〈作者〉の語義とその特徴」は、中国における「作者」の意味とその変遷を明らかにしてくれていて貴重。「作者」の原義は古代の聖天子であり、それに続く人々は、聖人の言葉を祖述する「述者」、選ぶ「選者」、顕在化させる「著者」、編集する「編者」であると。もちろん意味は派生するが、原義からすれば「作者」とは優れた作品を創った人を聖人に擬えていうことば、日本の「作者」も優れた詩歌を作る人といった意味が中心にあるのだと。「作者」を論じる上で押さえておくべき基本的論文であろう。
さて、本論集の多くの人が引用しているのが「機能としての作者」の概念を提示した、ミシェル・フーコーの『作者とは何か?』である。いくつかの論文を読んで、バルトの「作者の死」に基づくナイーブなテクスト論はおおむね乗り越えられてはいるが、「機能としての作者」はまだ生きている、現状はそういう認識段階だと感じた。
『作者とは何か?』(清水徹+豊崎光一訳、哲学書房版)でフーコーは「機能としての作者」の四つの特徴を指摘している。しかしそれを要約することは、ちょっと困難だ。ただ今回のシンポのテーマに即すると、次のくだりあたりがリンクしてこよう。「作者を現実の作家の側に探すのも、虚構の発話者の側に探すのも同様に誤りでしょう。機能としての作者はこの分裂そのもののなかで−この分割と距離のなかで作用するのです」。
さて、『作者とは何か』に戻ると、商偉「『石頭記』と〈作者〉」が興味深かった。というか『石頭記』という作品そのものが面白い。
シンポジウムは、「序文」を手がかりにして、という副題がついているが、これは「作者」=「序者」、つまり「自序」を扱いますよ、ということになる。しかし自序にはもともと、謙譲、韜晦が含まれるのが常である。他序はその反対。それをもポーズというのであれば、型としての序を前提とした議論が必要となるだろう。
おそらく、それぞれの登壇者が自分の関心のある「作者」の書いた「序」について、そのポーズについて事例報告をし、ディスカッションで論じあうという形になると思う。自分の発表準備は出来ていないが、楽しみである。
2022年08月11日
鈴木淳さんとゴンクールの『北斎』
鈴木淳さんの『エドモン・ド・ゴンクール著『北斎』覚書』(ひつじ書房、2022年8月)が上梓された。大変瀟洒な横書きの研究書、表紙のゴンクールの写真がなんだか鈴木さんに重なってくる。
鈴木淳さんには『江戸和学論考』『橘千蔭の研究』『江戸のみやび』など、多数の著書がある。「和様文人」というタームを作った方であり、国学・和学というより、とくに江戸における和風の文人のいとなみを探究されてきた。その延長で絵画への関心も深く、多くの業績がある。海外に渡った江戸の絵本、とりわけ北斎のそれを求めて、欧米への訪書を重ねてこられた。そのなかで、ゴンクールの『北斎』への思いは特別だったようである。鈴木さんは最近大病をされたが、奇跡的に研究に復帰した。2018年に我々の科研で出した『文化史のなかの光格天皇』にご寄稿をお願いしていたものの、病状のことを仄聞し諦めていたところ、きっちり原稿を出してこられたので驚いた。ただ、鈴木さんの場合、「研究への執念」というのとはちょっと違うかも知れない。「あくなき好奇心」が、鈴木さんを研究の世界に生還させたのではないか。
本書の「まえがき」を読むと、それが伝わってくる。まずゴンクール『北斎』を自力で翻訳されたこと。語学がお好きなことも存じあげてはいたが、そこまでやる!?と唸った。しかもそれは結果的に出版されずに終わるが、翻訳を手元におけば研究上、検索に便利だったという。ご病気が発症する直前の訪書のことが詳しく書かれているが、海外での単独調査をすこしだけ経験したことがあるので、不安の中での閲覧の日々、胸が痛むくらいに伝わって来た。
不如意の執筆環境の中で、最大限の学問的な手続きがきちんととられ、ようやくご上梓にこぎつけた感激はいかばかりだろうか。
私も少しだけ在仏の北斎に触れたことがある。柏木加代子先生の科研の連携研究者となり、柏木隆雄先生・加代子先生とともにニースのシェレ美術館に所蔵される『北斎漫画』の調査に、同行した。同館所蔵の書き入れを読むのがミッションだった。ニースのあとはパリに渡り、柏木先生ご夫妻の伝手もあって、VIP待遇の美術館巡りのすばらしい旅を経験させていただいた。加代子先生(私も連名)の報告書(京都市立芸術大学美術学部研究紀要58、2012年)には、フェリックス・ブラックモンと親しかったヴィタ男爵がコレクションをシェレ美術館に寄贈したと解説されている。鈴木さんの本には、フェリックス・ブラックモンも出てくるので、辛うじて縁があることよと、私は勝手に喜んだのである。
本書を評する資格は私にはないが、近世文学研究者の目から見た、しかもゴンクールに寄り添った、ゴンクールの北斎研究が見事に描き出されているのではないだろうか。
鈴木淳さんは、博士論文を中野三敏先生に提出されたし、蘆庵文庫の研究でも長い間ご一緒し、研究上では兄のような存在である(兄貴的存在は何人か他にもいることはいるのだが)。北海道の学会の時には、その蘆庵文庫研究関係で同宿した際、囲碁の手合わせをしたこともある。どちらが勝ったかは忘れたが、同じくらいの棋力だったような。それももう10年以上前の話である。とりあえず、私のことを、無知な研究者だと呆れながらも、暖かい眼差しで見守ってきてくれた(と思いたい)。
私は修士課程2年の秋に、始めて近世文学会に参加したが、その時に鈴木さんは秋成の『春雨物語』「目ひとつの神」について発表されていたと思う。いつごろから言葉を交わすようになったか憶えていない。九大の助手時代だろうか。昭和60年で私が実務をやった九大での近世学会の時に、展示のことでチクリと一言刺されたことが記憶にある。次第に口をきいてもらえるようになったが、一流の皮肉な言い回しの中に親しみをこめる独特な会話術をお持ちであった。私の科研研究会でもご講演いただいたことがある。
私的な思い出の方が多くなってしまった。あらためて本書のご上梓を心から祝福したい。
鈴木淳さんには『江戸和学論考』『橘千蔭の研究』『江戸のみやび』など、多数の著書がある。「和様文人」というタームを作った方であり、国学・和学というより、とくに江戸における和風の文人のいとなみを探究されてきた。その延長で絵画への関心も深く、多くの業績がある。海外に渡った江戸の絵本、とりわけ北斎のそれを求めて、欧米への訪書を重ねてこられた。そのなかで、ゴンクールの『北斎』への思いは特別だったようである。鈴木さんは最近大病をされたが、奇跡的に研究に復帰した。2018年に我々の科研で出した『文化史のなかの光格天皇』にご寄稿をお願いしていたものの、病状のことを仄聞し諦めていたところ、きっちり原稿を出してこられたので驚いた。ただ、鈴木さんの場合、「研究への執念」というのとはちょっと違うかも知れない。「あくなき好奇心」が、鈴木さんを研究の世界に生還させたのではないか。
本書の「まえがき」を読むと、それが伝わってくる。まずゴンクール『北斎』を自力で翻訳されたこと。語学がお好きなことも存じあげてはいたが、そこまでやる!?と唸った。しかもそれは結果的に出版されずに終わるが、翻訳を手元におけば研究上、検索に便利だったという。ご病気が発症する直前の訪書のことが詳しく書かれているが、海外での単独調査をすこしだけ経験したことがあるので、不安の中での閲覧の日々、胸が痛むくらいに伝わって来た。
不如意の執筆環境の中で、最大限の学問的な手続きがきちんととられ、ようやくご上梓にこぎつけた感激はいかばかりだろうか。
私も少しだけ在仏の北斎に触れたことがある。柏木加代子先生の科研の連携研究者となり、柏木隆雄先生・加代子先生とともにニースのシェレ美術館に所蔵される『北斎漫画』の調査に、同行した。同館所蔵の書き入れを読むのがミッションだった。ニースのあとはパリに渡り、柏木先生ご夫妻の伝手もあって、VIP待遇の美術館巡りのすばらしい旅を経験させていただいた。加代子先生(私も連名)の報告書(京都市立芸術大学美術学部研究紀要58、2012年)には、フェリックス・ブラックモンと親しかったヴィタ男爵がコレクションをシェレ美術館に寄贈したと解説されている。鈴木さんの本には、フェリックス・ブラックモンも出てくるので、辛うじて縁があることよと、私は勝手に喜んだのである。
本書を評する資格は私にはないが、近世文学研究者の目から見た、しかもゴンクールに寄り添った、ゴンクールの北斎研究が見事に描き出されているのではないだろうか。
鈴木淳さんは、博士論文を中野三敏先生に提出されたし、蘆庵文庫の研究でも長い間ご一緒し、研究上では兄のような存在である(兄貴的存在は何人か他にもいることはいるのだが)。北海道の学会の時には、その蘆庵文庫研究関係で同宿した際、囲碁の手合わせをしたこともある。どちらが勝ったかは忘れたが、同じくらいの棋力だったような。それももう10年以上前の話である。とりあえず、私のことを、無知な研究者だと呆れながらも、暖かい眼差しで見守ってきてくれた(と思いたい)。
私は修士課程2年の秋に、始めて近世文学会に参加したが、その時に鈴木さんは秋成の『春雨物語』「目ひとつの神」について発表されていたと思う。いつごろから言葉を交わすようになったか憶えていない。九大の助手時代だろうか。昭和60年で私が実務をやった九大での近世学会の時に、展示のことでチクリと一言刺されたことが記憶にある。次第に口をきいてもらえるようになったが、一流の皮肉な言い回しの中に親しみをこめる独特な会話術をお持ちであった。私の科研研究会でもご講演いただいたことがある。
私的な思い出の方が多くなってしまった。あらためて本書のご上梓を心から祝福したい。
2022年08月05日
茶と日本人
佃一輝『茶と日本人 二つの茶文化とこの国のかたち』(世界文化社、2022年3月)。
どうも「茶文化の歴史」を学ぶことが苦手だった。秋成が茶人でもあったので、茶に関するいろいろな本を少しは読んだが、なにかピンと来ない。自分が茶を嗜んでいないからかもしれない。
しかし、この本はほんとうに腑に落ちた。たぶん、これまでこういう切り口で茶文化を論じた人はいなかったのではないか。それほどユニークな茶文化論である。
副題の「二つの茶文化」とは、「わび茶」(=「茶道」)と「文人茶」である。ほとんどの茶文化の本は、利休を中心とした前者中心で論じられ、後者は添え物的に記されていたのではなかっただろうか。しかし著者は、「わび茶」を国ぶり、「文人茶」を異国ぶりと見立て、その違いを見事に説明している。特に茶会の場に即した違いの説明を行う第三章は、著者が茶人であることを活かして緻密に論じられている。いわく、露地と園林、懐石と醼席、聖性とその喪失、序破急と起承転結、型物と自娯など。その二つの文化のせめぎあいが茶の歴史を作ってきたのである。
そもそも茶を「ぶり」の文化と規定したところが非凡である。そして文学的表現として捉えるところもである。さらにふたつの茶文化の〈場〉のありよう、その意味を「道」と「情」で表す。「利休にかえれ」という江戸時代前期の茶道のスローガンを支えたのは徂徠学だという卓説に唸る。そして朱子学・徂徠学・陽明学と茶文化の関係が鮮やかに浮き彫りにされる。
春に京都近代美術館で大坂画壇の展覧会があり、私も観に行ったが、そこで本書の著者をホストとして、中谷伸生先生など四人の美術史家が、著者のご子息がいれた茶を飲みつつ、大坂の美術品を自在に論じるというビデオが上映されていた。この自由なあり方こそが「文人茶」の流儀だったのである。そしてまたこの本自体が「文人茶」の精神を体現しているのだ。
著者は「文人茶」の伝承と再生を図り、「文会」としての茶事を提唱している方である。その論じ方はどこか哲学的でありながら、モダンで、軽やか。ここにも本書の特徴があると思う。快著である。
どうも「茶文化の歴史」を学ぶことが苦手だった。秋成が茶人でもあったので、茶に関するいろいろな本を少しは読んだが、なにかピンと来ない。自分が茶を嗜んでいないからかもしれない。
しかし、この本はほんとうに腑に落ちた。たぶん、これまでこういう切り口で茶文化を論じた人はいなかったのではないか。それほどユニークな茶文化論である。
副題の「二つの茶文化」とは、「わび茶」(=「茶道」)と「文人茶」である。ほとんどの茶文化の本は、利休を中心とした前者中心で論じられ、後者は添え物的に記されていたのではなかっただろうか。しかし著者は、「わび茶」を国ぶり、「文人茶」を異国ぶりと見立て、その違いを見事に説明している。特に茶会の場に即した違いの説明を行う第三章は、著者が茶人であることを活かして緻密に論じられている。いわく、露地と園林、懐石と醼席、聖性とその喪失、序破急と起承転結、型物と自娯など。その二つの文化のせめぎあいが茶の歴史を作ってきたのである。
そもそも茶を「ぶり」の文化と規定したところが非凡である。そして文学的表現として捉えるところもである。さらにふたつの茶文化の〈場〉のありよう、その意味を「道」と「情」で表す。「利休にかえれ」という江戸時代前期の茶道のスローガンを支えたのは徂徠学だという卓説に唸る。そして朱子学・徂徠学・陽明学と茶文化の関係が鮮やかに浮き彫りにされる。
春に京都近代美術館で大坂画壇の展覧会があり、私も観に行ったが、そこで本書の著者をホストとして、中谷伸生先生など四人の美術史家が、著者のご子息がいれた茶を飲みつつ、大坂の美術品を自在に論じるというビデオが上映されていた。この自由なあり方こそが「文人茶」の流儀だったのである。そしてまたこの本自体が「文人茶」の精神を体現しているのだ。
著者は「文人茶」の伝承と再生を図り、「文会」としての茶事を提唱している方である。その論じ方はどこか哲学的でありながら、モダンで、軽やか。ここにも本書の特徴があると思う。快著である。
2022年08月04日
ボストン美術館展
上野の都立美術館で行われている「ボストン美術館展」。目玉の「平治物語絵巻」、「吉備大臣入唐絵巻」、本展示のために修復された増山雪斎の「孔雀図」は評判通りに素晴らしかった。「平治物語絵巻」はとにかく細部がすごい。こんなことが描かれている!と驚いた。余りにリアル。そして「孔雀図」の鮮やかさ。「いつの日か「第2の若冲」と呼ばれるようになるかもしれない(ナカムラクニオ氏『ボストン美術館修復探訪記』)」というが、まさに。そしてお殿様だけあって隠せない品性がある。しかししかし、目を剥いたのは、光格天皇の新内裏入りを描いた「寛政内裏遷幸図屏風」だ。全くノーマークだったので驚愕。このモチーフの図は以前たしか内閣文庫でも見たことがあるが、ボストン美術館のは屏風だし、鳥瞰的迫力と彩色の鮮やかさが半端ない。吉村周圭、やるな。都の町人たちが大なる期待と興味を持ってこぞって見物していたのがよく分かる。天皇の乗る輿の周囲には百人を越える官人、そして行列は全部で何人いるのだろうか。その長さも凄い。どういうコースで遷幸したかも一目瞭然。横開きになる特別なクリアファイルが売っていて思わず買いました(笑)。
2022年08月03日
歌枕展(サントリー美術館)
六本木のサントリー美術館で「歌枕 あなたの知らない心の風景」展が開催中である。「デジタル文学地図」で歌枕をめぐる共同研究をやっている者としては見逃せない。
展示は素晴らしかった。学ぶところが多いのは言うまでもないが、何より平安時代あたりから江戸時代にかけての、人々の歌枕に対する思いのようなものが、感覚的に伝わってくる。中でもいくつか注目したもの。
〇伊勢物語下絵梵字経断簡 現在認められる最古の伊勢物語絵。東下りを描いたものだが、定番の燕子花ではない。
〇清涼殿名所絵下絵 寛政に再建された御所の清涼殿の障子画。諸国の名所(歌枕)を一望する構図。有名歌枕に囲まれる全国の縮図。畿内を中心におく配置や季節感など周到に構成されたことがわかるとともに、王朝復古のイメージの具体的事例として貴重。
〇松川十二景色和歌画帖 相馬藩主が、藩内の新しい歌枕創出を目指して成った十二景。実景を見ずに作ったというところに「歌枕」を考えるヒントがある。
歌枕の展示を見ると、やはり歌枕のイメージは作られたものという感をあらためて認識させられるが、一方で西行はそれを実際確かめるように旅をした。そこで詠んだとされる和歌がまたイメージを増殖する。その西行に憧れて芭蕉も旅をし、その芭蕉に憧れて現代に至るまで歌枕を旅する人々がいる。
歌や絵だけではなく、人を介することで歌枕イメージが膨らんでゆくということを感じさせられた。
また、歌枕を並べること、尽くすことに、いろんな意味があること。もちろん本としてそのようなものは、宗祇を初めとして多くあるのだが、それぞれに思惑があるのだと。
とまれ、さまざまなこと思わせる展示かな であった。