杉本好伸さん著『吉祥院本『稲生物怪録ー怪異譚の深層への廻廊』(三弥井書店、2022年7月)が刊行された。
杉本さんが二十年ほどまえからか、『稲生物怪録』に正面から取り組み、こつこつと成果を重ねてこられていたのは、いただいたご論文や偶然に目にした雑誌などで知っていたが、そのひとつの区切りとなる、堂々たる一書が成ったことは、慶賀の至りである。
稲生物怪録は、怪談好きでなくとも、その書名を聞いたことがある人は多いに違いない。いわゆる屋敷怪談、これでもか、これでもかと執拗に化け物に来襲されるというストーリーを有する奇書である。しかし、杉本さんによれば、その諸本の関係、実態、その全貌はほとんど理解されていなかった、というより多くは誤解されていたようである。かなりきちんとしているはずの研究書においても、である。
原本に相当する本はいまだに不明。しかし現時点で判明する諸本の関係を整理し、重要な本文をもつ吉祥院本をきちんと位置づけ、その全貌を明らかにし、影印、校訂本文、注釈を提供する、吉祥院本『稲生物怪録』研究の決定版が本書である。
その解題にあたる総説は、本書の虚実、本文の成立過程から書写者の意識、作品の構成、歴史的・地理的背景にいたるまで、きわめて厳密な研究的叙述に貫かれている。杉本さんの研究者としての誠実さ、そして稲生物怪録への強い思い入れを感じる部分である。本文の注釈も、長い時間をかけて醸成された、良質さが光っている。
本書との出会いについて、杉本さんは「縁」の不思議さを述懐しているが、その縁をたぐりよせたのは、おそらく杉本さんの誠実なお人柄である。稲生物怪録という、世界の解明はこれからも続くだろう。後進に期待をこめつつ、杉本さん自身の探究もまだまだ続きそうである。