2022年09月29日

伊藤一彦『言霊の風』

 久しぶりに歌集一冊丸々読んだ。懐かしい感覚だ。伊藤一彦さんの第十六歌集『言霊の風』だ。
 多くの賞を受賞し、今や日本を代表する歌人の一人である伊藤さん(お会いした時は先生と呼んでいるがここでは伊藤さんと書く)の七十代半ばから後半にかけての歌集である。妻がお世話になっていた関係で、私も親しくさせていただいていたが、たぶんここ十年ほどはお会いしていなかった。お酒を飲み交わして、伊藤さんほど愉快な相手はめったにいない。文学や人生や哲学のようなことを朗らかに語り合える。伊藤さんは宮崎の高校の教員でもあった。教え子で伊藤さんを慕っている俳優が堺雅人で、お二人で共著も出しておられる。
 『言霊の風』は石牟礼道子が日向弁を称した言葉だという。この歌集はまさに「言霊の風」と呼ぶにふさわしい。思考する歌人である伊藤さんの面目躍如である。自然・世界・社会を見つめ、そして家族・友人に語りかけ、自分自身へと深く降り、時に古典と対話するその言葉の重たくも優しく吹いている感じである。「公園の蛍光灯の切れかけの点滅に見入り去らぬ老いあり」。伊藤さん自身も、老いを実感し、時に人生を振り返る。平成の年月を年ごとに振り返る連作も、私自身の三十代後半から五十代への重なるので感慨深く読んだ。酒好きの伊藤さん、やはり酒好きの若山牧水はもちろんだが、その子旅人と大伴旅人を重ねた短歌も。最近、大伴旅人の有名な酒を讃える歌連作について、考える機会を与えられていた私にとっては響いた。ちょっと縁を感じて嬉しい。
 チャンスがあれば、この1冊を肴にぜひ一献といきたいところだ。
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2022年09月22日

上野洋三先生

 上野洋三先生が亡くなったという知らせが届きショックを受けた。芭蕉を中心とする俳諧研究、さらには和歌研究にも大きな業績を遺された。
 九州大学で学部生のころから井上敏幸先生に大変お世話になっていた私は、井上先生のご学友である上野先生には比較的若いころからご教示を受ける機会があった。井口洋先生とともに、日本近世文学会で同時にデビューしてからの付き合いだ、とうかがったことがある。三先生は年齢も近い。そのころ上野先生は、夏休みに九州にやってきては井上先生と調査旅行するということをやっていて、それを楽しみにしている風であった。
 私が助手の時か、山口大学に勤務し始めたころか、はっきり憶えていないが、臼杵市立図書館を中心に、大分の図書館を回る調査の旅に、私も同行させていただいたことがある。上野先生は、大阪からフェリーを利用して自家用車で来られていた。トレードマークの和服ではなくカジュアルな洋装であった。先生が車を運転されているのを初めて見て、イメージと違うなあ、と思ったものだ。車はフォルクスワーゲンの丸っこいやつだったと思う。そして、日出(ひじ)の図書館に向かったのだが、到着時だったか途中で昼食を取った時だったか、上野先生の車のバッテリーが上がってしまった。その時の先生の茫然として、途方に暮れた様子も、それまでみたことのない表情だっただけに印象に残っている。車は親切な方がブースターケーブルで繋いでくれて、無事エンジンがかかったのだが。
 こういう思い出が蘇るのは、上野先生が自らにも、他人にも厳しく、学問の鬼のようなイメージがあったのに、案外に人間的なところがあったのでホッとしたからかもしれない。お酒の入った時には、はしゃぐような可愛いところもあって、だんだん怖くはなくなってきた。「ジュリー(沢田研二)は美しい!」とおっしゃっていたこともあったような。
 『雅俗』を立ち上げたころには、怖いもの知らずというか、「同人になってください」と頼み込み、ご快諾いただき、論考をお寄せいただいた。
 思い出を手繰り寄せれば、いろいろ浮かぶのだが、やはり若い頃に読んだ『芭蕉論』の所収の諸論考に痺れた経験を思い出さずにはいられない。とりわけ「「も」考」のインパクトは忘れられない。さらに俳諧を研究するには和歌研究が必要だと、堂上和歌の資料整備や歌論研究に注力し、近世和歌史の新たな地平を開く『元禄和歌史の基礎構築』を著された。さらに中尾本『奥の細道』(芭蕉自筆とされる)を世に知らしめた功績は多くの人の知るところである。
 上野先生は「論の人」と見られがちだが、徹底的な調査と厳密な本文研究の上に立つ論だった。臼杵でご一緒したころ、40歳前後だった上野先生は、たしか反古紙を自分で製本された調査ノートを持参されていたが、それは調査箇所別に作られたものだった。また、どんなに疲れていても、酔っ払っていても毎日和歌十首を必ず翻刻することを日課としているということもうかがったことがある。論文に影響を受けるという意味では、私の中では五本の指に入る方だった。それが甚しかったころに、『芭蕉、旅へ』という岩波新書をご恵投賜り、便箋10枚くらいの感想を書いてお送りしたこともある。
 あれやこれやの記憶はもしかすると部分的には間違っているかもしれないが、私の中の上野洋三先生は、そういう感じである。心よりご冥福をお祈りします。
 
 
 
 
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2022年09月10日

百人一首の撰者は藤原定家にあらず

 国文学研究資料館の創立50周年記念式典の基調講演で、田渕句美子さんは、『百人一首』の撰者が藤原定家ではないという内容の講演をされ、オンラインで公開されていたため、私も興奮しながら拝聴していた。文学史を塗り替えるこの衝撃的な説は、2020年に既に論文として発表されていたようであるが、この基調講演ではじめて知った人も多かっただろう。私も噂には聴いていたが、元の論文を読んでいなかった。しかし、この説はまだまだ知られていないだろう。なにしろ、教科書の文学史を書き換えなければならないレベルの話で、なかなか信じられない人も多いのではないか。
 さて、岩波書店のPR雑誌『図書』9月号で、この説がコンパクトに、一般読者にもわかりやすく、田渕さんによってあらためて書かれている。わずか4頁であるが、必要な情報がきちんと収められた文章となっている。題して「『百人一首』をゼロ時間へー藤原定家が撰者ではないこと」。「ゼロ時間へ」は、アガサ・クリスティの傑作ミステリから来ている。
 『百人一首』によく似た『百人秀歌』というアンソロジーがある。約70年前宮内庁書陵部で発見され、近年冷泉家でも見出された。『百人一首』とは97首が重なるが、百人一首の巻末二首、後鳥羽院と順徳院の歌が『百人秀歌』には採られていない。鎌倉幕府に反旗を翻し、敗北した後鳥羽院とその子順徳院の歌を、定家は『新勅撰集』に入れられなかった。そこで『百人一首』に二人の歌を新たに入れたのだという説がこれまで有力だったという。 
 しかし、『明月記』に載る、宇都宮頼綱(蓮生)からの依頼で「古来に人の歌各一首」を送ったという記事を田渕さんは改めて検討、定家の嫡男為家の養父で幕府の有力御家人である蓮生に、贈呈するのに、幕府と戦い隠岐と佐渡に流されていた後鳥羽院と順徳院の歌を、定家が選ぶはずはないだろうという。『明月記』の記事は、彼らの歌の載らない『百人秀歌』のことを指すのだろうと。さて、そうなると小倉山荘の障子に飾られたとされる『小倉百人一首』伝説も疑わねばならない。同時代にそのような資料はなく、没後百二十年ほど百人一首撰者について言及する文献はないのだという。
 さて私が読んでいて「その通り!」と思わず拍手したくなったのは、「これまでの『百人一首』研究には、蓮生への贈与品という視点がほとんど欠落していた。定家の個人的な心情を盛る器ではないのだ」というくだりだ。ここ十年ほど私は、秋成の写本作品を見ていくうちに、そもそも写本とは特定の誰か(複数の場合もあるし、神に向けて、祖先や子孫に向けてというのも含める)に向けて書かれたものであり、想定された読者が誰かということを含めて作品を読解しなければならないと私なりに感得し、あちこちでそのことを言ったり書いたりしている。まさに田渕さんの着眼はそこであり、実に頼もしい視点なのだ。
 ゼロ時間へ、つまり当時の記録だけを辿って憶測を削り落とした時、「百人秀歌』が定家撰、『百人一首』は鎌倉時代中期以降に後人の誰かが手を加えて編纂したもの、ということが明確に浮かび上がる」という。
 実に明快で、これを否定するのは難しいだろう。しかし、学界がこの説を受け入れ定説となるには、もう少し時間がかかるかもしれない。できるならば、大学はもちろん、百人一首を教える小中高の先生も、この短い文章を読んで、生徒たちに一言付け加えてほしいと思う。いずれ教科書も書き換えられるだろう。
 小川剛生さんの、「兼好」は「吉田」ではなかったという説(中公新書『兼好法師』)も衝撃だったが、この田渕説は、それと同じくらいインパクトがある。
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2022年09月05日

江戸漢詩の情景

 揖斐高さんの『江戸漢詩の情景ー風雅と日常』(岩波新書、2022年8月)が刊行された。
 揖斐さんの文章は、実に読みやすい。今回の著書もそうである。中野三敏先生や日野龍夫先生が、それぞれ独特の表現、文体をお持ちだったのに対して、揖斐ぶり、揖斐調と呼べるような個性的な文体とはいえない。しかし読者にやさしい、わかりやすい文章である点は、卓越している。
 今回の文章は、江戸漢詩の魅力をさまざまな実例にを示して紹介したものである。「風雅と日常」は、「雅と俗」に置き換えることができるが、あえてそれをしないで、現代人にすぐわかる言葉を用いたのも、揖斐さんらしい配慮であろう。それだけではないかもしれないが、それについてはここでは贅言しない。
 全体としては、体系的な著書ではなく、エッセイ集の趣なのだが、所々に、私にとってはハッとするような指摘があって、大いに学ばせていただいた。それは漢詩のことにとどまらない。俳句や小説など自在に、適確に引用する。
 「もうひとつの詩仙堂」の章では、詩仙の選択をめぐる林羅山と石川丈山の交流を描く。ふたりが同年生まれだったというのも意外。丈山への意見を伝えるのに、息子の読耕齋に下書きをさせていたという話も、最近考えさせられている「作者とは何か?」の問題に連なるものである。
 だが、読み進めていくうちに、この本は漢詩の情景もさることながら、それ以上に「漢詩人の情景」を見事に切り取っているとの感をいだく。四角四面であるか、破天荒であるか、なんとなくその二択で、漢詩人の多様なあり方をうまく想像できないでいる人も多いのではないか。この本を読めば、身近な家族に対する情や、食に対する思い、遊蕩的な生活などなど、漢詩以外の手紙や日記から、漢詩人のさまざまな日常が浮かび上がる。その結果、日常を超えて風雅をめざそうという志もより理解できる。本書は、「漢詩人たちの肖像」を描いた本だとも言えるのだ。
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