2022年10月31日

百人一首の現在

 『百人一首の現在』(青簡舎、2022年10月)を、執筆者複数の方の連名でご恵投いただいた。本ブログでも既報した通り、近年、田渕句美子氏の立論により、『百人一首』は藤原定家の撰ではない、ことが確実になりつつあり、それを踏まえて、『百人一首』と『百人秀歌』と、その両者の関係、撰者、本文、伝本、注釈、研究史を見直し、新たな展開へと導こうする重厚な一冊が本書である。中川博夫・田渕句美子・渡邉裕美子三氏の編。執筆者は編者の他に久保田淳・小川剛生・田口暢之・久保木秀夫・木村孝太・川上一・加藤弓枝・吉海直人・渡辺泰明・山本皓葵・平藤幸・齋藤瑠花・小林賢太(敬称略)。
 田渕氏「『百人秀歌』とは何か」は、既発表の二論文(前論文)に続いて、『明月記』の文暦二年五月二十七日の記事が「百人秀歌」の成立を述べる記事であることを改めて指摘、この記事を「百人一首」のことだとする樋口芳麻呂氏の推測(「百人秀歌」から短期間のうちに歌の出し入れをした結果が「百人一首」であるという説)を「アクロバティックな仮定が先行しており、残念ながら殆どあり得ないであろう」と断じる。田渕氏は「明月記」にみる定家の冷静な状況把握や『新勅撰集』の詞書の分析などから、定家は慎重に物事を進めたとする(樋口説のような感情的とも思われる性急なふるまいはしないということだろう)。田渕氏の前論文は「百人秀歌」は献呈する相手宇都宮蓮生に着目し、献呈相手を意識して編纂されたゆえに、後鳥羽院・順徳院の歌が載せられないのは当然だとした。今回は「百人秀歌」の諸問題についてご自身の見解を述べながら、他の秀歌撰においても献呈先・目的を配慮して選んでいることを確認している。
 本書の執筆者はほとんどこの田渕説を認めているようである。樋口説を蒸し返すのではなく、新たな論拠による有力な反論があれば一層この百人一首成立論は盛り上がるだろうが、いったんこの説が定説として落ち着きそうな状況のようである。知らんけど。
 これまで『百人一首』と『百人秀歌』の撰者についてどういう研究がなされてきたかを知るには、田口暢之氏「『百人一首』と『百人秀歌』の研究史」がある。前近代の説の紹介、論拠となってきた資料の整理、主要な説の要約と親切な記述。伝本と本文については久保木秀夫氏「『百人一首』『百人秀歌』の伝本と本文」が、「『(百人)一首』については」伝本・本文研究が「実はほとんど為されてこなかった」という衝撃的?な冒頭部からはじまり、「通行の本文」と言われるものが何を以て「通行」とするのかもわからないという状況を明らかにし、版本や小倉色紙にも言及する。これからどう調査すべきかを示す「『百人一首』要調査伝本一覧抄」は、格好の指標であり、伝本研究の出発地である。
 とても全部の論考に触れられないし、コメントする能力もないが、私の守備範囲の立場から言うと、やはり加藤弓枝「絵入百人一首の出版ー女子用往来物を中心に」は逸することができない。先行研究をしっかり踏まえていただいていることを含め、版本絵入百人一首について何か調べる必要があれば、まずはこの論文に帰ればよいという安心の場所ができた。書籍目録では「歌書」扱いの絵入百人一首というのも重要な指摘。私も調査に参加したホノルル美術館レインコレクションには、すごい数の絵入百人一首があって、調査を指揮した中野三敏先生が、それだけで一つの分類を作ったくらいである。本の外見から言えば、これらはまあ紛れもなく女子用往来だろうと思われる。江戸時代の女子に最も読まれたテキストは『百人一首』に違いない。加藤氏が提言するように、江戸時代の女子の学びを明らかにするには、まずは合本型を含めて、この女子用往来としての百人一首の全貌を押さえなければならないだろう。
 巻末中川博夫氏の「『百人秀歌』を読む」は圧巻。単なる注釈ではなく、定家の選歌の背景を丁寧に説明している点が秀抜である。数ある『百人一首』注釈と、一線を画す注釈、つまり選者定家を前面に押し出した注釈と言えるのだろう。
 ちなみに「百人一首の現在」ではなく「百人一首研究の現在」ではないのか?という声があるかもしれないが、いえいえ、漫画や国語教科書にもちゃんと触れていて、百人一首研究をふくむ百人一首の現在、なのである。
 まったくのど素人が、えらそうに評してしまいました。ごめんなさい。
 
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2022年10月14日

京都国立博物館「茶の湯」展

 京都国立博物館で開催されている「京に生きる文化 茶の湯」展。まあまあじっくりみてきました。「茶の湯」ー私にはちょっと遠い世界ではありますが、江戸時代の文学・文化を研究するものには、スルーできない文化です。この展示は、茶碗など茶に関わる陶器・磁器、茶掛けになる書画、茶事が描かれている絵巻が、テーマに即して自由なセンスで展示されている。非常にいい展示でした。
 国宝の曜変天目は23日までの展示。人が少なくてじっくり拝見できた。古い茶器の味わい、輝きを実感できる展示ではあった。また、茶器の素晴らしさもさることながら、片隅に描かれた茶事を見過ごすことなく展示された絵巻や屏風の数々、これはよかった。意表をつかれた感じ。茶の歴史と美術史と文化史の融合みたいな。それにしても国宝・重文だらけの見応え十分の展示、さりげなく言経卿記の自筆本。自分的にはおお〜っと。そして、今なら全然混んでいません。お勧めです。そして今回の目玉のひとつは、多分待庵の復元でしょうか。ビデオ展示でもこれやってました。復元にあたって非常に細かく配慮されていました。お金もかかっているぽい。意外にもこの復元茶室も人だかりはなし。もうひとつ秀吉の黄金茶室は1994年に復元されたものらしいですが、これはどこかで、多分山口県立美術館で見たことがありました。
 そして、私的には光格天皇下賜の「旅用茶道具」一式ですかねえ。尼寺の宝鏡寺に下賜されたもの。光格天皇の皇女が門跡として入っているのでその時のものかもということです。

 
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2022年10月11日

古今和歌集

備忘録。こんな感想文を晒すのも恥ずかしくないほど馬齢を重ねております。角川文庫で『古今和歌集』通読。いま週3回ほどお仕事があるので、電車に乗ることが多くなった。そこでお供に古典中の古典である『古今和歌集』を持ち歩いていた。少し必要もあって。で、思うところあって巻7から読み始め、巻20まで読んで巻頭に戻り、巻1から6の四季の和歌を読んだ。以下はほんとうに一読者の感想。学術的な根拠はまったくない。
季節の歌が読みやすい。すっと情景も心情もはいってくる。しかし巻7以降は結構技巧的で、考えながら読まねばならない歌がしばしば。それにしても恋の5巻というのは多い。春夏秋冬で6巻なので、ほぼそれに匹敵するわけだ。上田秋成が倫理的観点から「多すぎる」と非難したが、私も正直いささか食傷気味。いや恋の只中にある人だったら、共感の連続なのかも。そして、そこが『古今和歌集』なのだろうな。しかし、なぜ食傷気味かというと、恋するつらさみたいなものを理屈(むずかしい比喩)で歌ったのが多いからかな。夏の素材というかコンテンツはほぼホトトギスだけ。秋はバラエティに富むけれど、松虫はあっても鈴虫の歌はなかったような。きりぎりすはあるんだけど。これは個人的に重要なこと。全体に古今集は、そもそも題号がそうなのだが、時間の流れを感じさせる。あるいは、昔をしのぶとか。その一方で、旅情のようなものが少ない。あくまで個人の感想です。
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2022年10月04日

歴史学のトリセツ

小田中直樹『歴史学のトリセツー歴史の味方が変わる』(ちくまプリマー新書、2022年9月)。ちかごろ評判で、2週間もたたずに重版が決定したという。
考えてみると、大学で歴史(世界史)を学んだのは45年も前。それからは、興味深そうな本をつまみ食いしたくらいで、歴史学の考え方の流れがわかっていない。日本史はまだ自分の研究の隣接分野だから、いやでも目にはいってくるが、世界史となるとフォローできていない。大学入学のころは西洋史を学ぼうと、授業も受けたし、本も読んでいた。方法的には、マルクス主義、大塚史学、その後アナール学派など授業や本で学んだ。その後、世界システム、グローバル・ヒストリー、ジェンダー史学といろいろ潮流があるのはなんとなく知っていても、それらの相互関係とか流れとか、その背景とか、哲学との関係とか、よくわかっていない。そんなことをわかりやすく教えてくれる本があればね〜、と思っていたところ、この本の噂を聞いて、早速本屋に行って入手。あまりにも読みやすくて、1時間あまりで読破。非常に多くのことを学んだ。世界の史学史をこれだけわかりやすく語れる才能はすごいと思う。
 19世紀なかばのラカンの登場から最近の潮流まで。ラカン史学は「それは実際いかなるものなのか」を明らかにすることが歴史学だとした。実証主義である。記憶にたよってはいけない。できるだけ公文書でそれを明らかにする。その公文書が正しいかどうかを資料批判で検証する。これが歴史家の仕事、歴史研究のパラダイムだった。それは「記憶の排除」・「ナショナルヒストリー」・「欠如モデル(歴史研究者が知識の欠如している非専門家に教えるというスタイル)」を招く。しかし、そのやり方で取りこぼすものは少なくない。「ナショナルヒストリー」では見えてこないものを批判する「世界システム論」。公文書だけではわからない労働者や民衆の歴史を掲げる「労働史学」・「アナール学派」、そして日本の比較経済学史が登場するが、そこでも科学を標榜する実証主義が揺らいだわけではない。歴史学は科学だという主張をする限りはそこから離れらないというわけだ。
 だが、そもそも、そのような歴史学は本当に有効なのか?「言語の恣意性」を前面に掲げると、「事実」とは、とりあえずの、ナンチャッテ「事実」ではないのか。歴史学自体に根源的な疑問を投げかけるポストモダニズムの嵐は歴史学にもやってきた。
歴史学者が妥当とみなす手順に従って明らかにされ、実際にあったと考えてよいと大多数の歴史学者が考えていることやモノ。それらは実は言語先行で作られたものではないのか・たとえば「労働階級」という言葉が先にあって、「労働階級」という実体ができるとか。ここらあたりの話は、文学にも大いに関わるのでとりわけ面白い。たとえば「雅俗」というパラダイムもそうで、「雅俗」という概念がさきにあって、さまざまな文学・芸術がその概念に収められるというようなことがあるだろう。身近な問題として読める。
しかし、歴史学に根源的な疑問を投げた、言語論的転回を、大部分の歴史学者は無視した。それはそうでしょうね、歴史学自体が否定さえるのだから。
ナショナルヒストリーに対する反省から生まれたグローバルヒストリー、「記憶の排除」の反省から出てくる記憶研究、「欠如モデル」に対して万人が知識の提供者かつ受容者であるとするパブリックヒストリー、そういう新しい考え方が現在進行形で語られる。それでもやはり今でも強いランケ学派、やっぱりそうでしょうね。
とにかく語り方が抜群にうまい。そして流れがものすごくわかりやすい。プリマー文庫だからという次元ではなく、わかりやすく語る技術がすごい。あえていえば、あまりにもわかりやすいのが怖い。でもやはり、「文学史」を考える者には、非常にヒントを与えてくれる著作だと思う。
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2022年10月02日

The Heroes

兵庫県立美術館で、ボストン美術館所蔵の刀剣(鐔も)と武者絵を展示する展覧会が行われています。
題して”Heroes"
神代から江戸後期の京伝・馬琴の小説の登場人物まで、さまざまな「武者」の姿がそこにはありました。
土蜘蛛や鬼の退治、演劇でも有名な戦いの名場面、弓の名人・・・お馴染みのイメージが次々と展開していきます。
定番になっている画題は、ほとんど網羅されていて、まさしく「武者絵の歴史」と称するに足る展示。さすがボストン美術館。
しかも撮影自由は嬉しいですね。
相当量の武者絵を見て、いろいろなことを考えさせられました。浮世絵といえば、美人絵、役者絵、風景画がすぐ思い浮かぶのですが、ヒーローたちを
描いた武者絵の需要は相当あったんだろうなと。その背景となっている軍記や時代物、これがやはり江戸の読み物や演劇の中心なんだろうなと。
武者絵には怨霊との対峙の場面もよく出てきて、「幽霊といえば女」というイメージもこれを見ていると、いやいや、戦いに敗れた男の幽霊もたくさん。
怪談を考えるヒントにもなりました。
頭ではわかっていても、やはり実物を見ると実感できます。
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