絵入本ワークショップXVがオンラインで開催されます。今回も公開で行います。
発表は10本+講演。土曜日は、平安女房装束復元の小特集です。
開催校は大阪大学(実行委員長門脇むつみ先生)、形態は完全オンラインです。
ぜひご参加ください。
参加登録フォーラム、若干不完全ですが、
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLScsg-0D1kllAZM1nwefRneAJ0a7oBkYIYqdN4wcFqXCCVFMjQ/viewform?usp=sf_link
メールアドレス(必須)
氏名(必須)
所属(任意)
で入力してください。12月6日が登録締切です。
参加登録者者にはZoomのURLが送られます。
以下プログラムです。
12月10日(土)
14;00
開会
小特集趣旨説明 佐藤悟
1 井孝 絵巻による平安期女房装束復元の試み
2 倉永佳 『源氏物語絵巻』 宿木二の女房装束の描写
3 佐藤悟・永井とも子 『源氏物語絵巻』に見る裳の形状
休憩
18:00
zoom懇親会
12月11日(日)
9:30
4 樋口純子 平安朝物語の絵入版本の挿絵について
5 波瀬山祥子 近世上方狂歌壇における肖像画制作の背景 ―鯛屋貞柳像と栗柯亭木端像について―
6 李俊甫 山東京伝の『水滸伝』絵本―『梁山一歩談』『天剛垂楊柳』について
7 北川 博子 北斎の「詩哥写真鏡 在原業平」を読み解く
12:20
総会 議長選出・新会長選出・新事務局長選出・実行委員追加 昼食休憩
13:30
8 伊藤美幸 明治期における切附本の認識とその位置づけをめぐって
9 日並彩乃 吉田初三郎『嚴嶋新案内』における厳島図の影響について
10 江南和幸 17世紀〜19世紀の江戸時代の絵入り刊本と浮世絵に用いられた用紙の科学分析休憩
15:30
特別講演会 芳澤勝弘 画賛について――絵と文字のコラボレーション
新会長挨拶
閉会
2022年11月29日
2022年11月28日
日本近世中期上方学芸史研究
稲田篤信さんの最新の研究論文集『日本近世中期上方学芸史研究 漢籍の読書』(勉誠出版、2022年11月)が刊行された。
稲田さんは私より9歳年上で、学会では頼り甲斐のある先輩である。大学院生のころ、学会の懇親会ではじめて言葉を交わした時に、秋成よりも、「金砂」とか「をだえごと」という国学的著作が面白いとおっしゃっていて、私も同じ気持ちだったので、嬉しかったという記憶がある。もう40年以上も前の話か。その後、ご著書の書評をさせていただいたり、シンポジウムにお招きしたり、座談会でご一緒したのは、やはり秋成の縁だった。
しかし、当初から稲田さんは、秋成個人というよりも、時代思潮に関心があり、雨月物語を論じても、閉じられた作品として論じることはなく、時代思潮と関わらせて論じられていた。若い頃の私はそこにあまり気づいていなかった。「近世中期上方学芸史」の構想はかなりはやくからあったのであろう。
都立大学では、高田衛先生の跡を継ぐポストにいらっしゃったので、外から見ても、秋成研究者としての稲田さんという印象があったのではないか。高田先生との雨月物語注釈の共著もある。しかし、実は学芸に関心のあった稲田さんは、都立大から二松学舎大学に移られて、「近世漢学」の研究者として活発に研究を展開される。本書もその初出は多く二松学舎でのお仕事だといえる。
、とはいえ、秋成に言及する3本の論文は気になる。とくに第9章「上田秋成の『論語』観」は、『経典余師』を補助線に使うという、従来の秋成研究では見られない方法である。鈴木俊幸さんの研究を踏まえているようだ。それだけでなく、つねに最近の研究をしっかり踏まえる論述は、研究者としての誠実さを窺わせるものである。
本書は重厚で、実を言えば、これからじっくり拝読するという段階である。
おそらくは、副題にあるように、都賀庭鐘の『過目抄』や奥田拙古の読書録など、近世上方文人の読書録が稲田さんのこの研究の基盤にあるのだろう。近世中期の上方文化を、漢籍の読書という人々の営為から浮き彫りにしようという本書は、地道な文献研究に根差しながらも、さまざまな示唆に富む発言が散りばめられた魅力的な研究書であろう。取り急ぎ、刊行を祝う気持ちを表してみた次第である。
稲田さんは私より9歳年上で、学会では頼り甲斐のある先輩である。大学院生のころ、学会の懇親会ではじめて言葉を交わした時に、秋成よりも、「金砂」とか「をだえごと」という国学的著作が面白いとおっしゃっていて、私も同じ気持ちだったので、嬉しかったという記憶がある。もう40年以上も前の話か。その後、ご著書の書評をさせていただいたり、シンポジウムにお招きしたり、座談会でご一緒したのは、やはり秋成の縁だった。
しかし、当初から稲田さんは、秋成個人というよりも、時代思潮に関心があり、雨月物語を論じても、閉じられた作品として論じることはなく、時代思潮と関わらせて論じられていた。若い頃の私はそこにあまり気づいていなかった。「近世中期上方学芸史」の構想はかなりはやくからあったのであろう。
都立大学では、高田衛先生の跡を継ぐポストにいらっしゃったので、外から見ても、秋成研究者としての稲田さんという印象があったのではないか。高田先生との雨月物語注釈の共著もある。しかし、実は学芸に関心のあった稲田さんは、都立大から二松学舎大学に移られて、「近世漢学」の研究者として活発に研究を展開される。本書もその初出は多く二松学舎でのお仕事だといえる。
、とはいえ、秋成に言及する3本の論文は気になる。とくに第9章「上田秋成の『論語』観」は、『経典余師』を補助線に使うという、従来の秋成研究では見られない方法である。鈴木俊幸さんの研究を踏まえているようだ。それだけでなく、つねに最近の研究をしっかり踏まえる論述は、研究者としての誠実さを窺わせるものである。
本書は重厚で、実を言えば、これからじっくり拝読するという段階である。
おそらくは、副題にあるように、都賀庭鐘の『過目抄』や奥田拙古の読書録など、近世上方文人の読書録が稲田さんのこの研究の基盤にあるのだろう。近世中期の上方文化を、漢籍の読書という人々の営為から浮き彫りにしようという本書は、地道な文献研究に根差しながらも、さまざまな示唆に富む発言が散りばめられた魅力的な研究書であろう。取り急ぎ、刊行を祝う気持ちを表してみた次第である。
2022年11月26日
古典文学研究は社会とどうつながるのか
いいお天気の土曜日。本当に久しぶりに西に向かう新幹線に乗った。
岡山の就実大学で講演をするためである。
研究の社会発信について、話をしてほしいというご注文だったので、「古典文学研究は社会とどうつながるのか」などという大上段に構えたタイトルで、90分弱話させていただいた。
古典文学研究は、その時代の社会と古典をつなぐ役割を果たすのだという、いつもの私の持説を話したあと、自分自身の社会連携・社会発信の経験に即して、具体的事例を話した。特にくずし字アプリ開発の話とデジタル文学地図の話を中心に。
質問を受けるため、5分ほど時間を残して終わった。司会の瓦井さんが、「質問はありませんか」というと、さっと手があがった。「古典文学研究は役に立つというお話でしたが、いままでに先生の経験した具体的例はどういうことですか」という、いきなりグサリと刺さる質問が・・・。驚いたのは、それから次から次へと質問が続き、15分くらいのやりとりがあった。すべて学生の自主的な質問である。こういう経験はあまりない。しかも、なぜか質疑応答が終わるたびに拍手が起こるという。
教員になる予定だという学生さんからの真摯な質問もあり、聴講してくれた学生さんたちが、「自分の事」としてこの話をきいてくれたのが何よりも嬉しかった。なにか私自身が希望を感じた講演会だった。
阪大OBである川崎さん、瓦井さん、そして岩田さん、近世文学研究仲間の竹内さんら、知っている方がたくさんいらっしゃったので、非常にリラックスして講演ができた。岩田さんの夫で私のゼミ生だった岡田さんにも会えてたいへん嬉しかった。就実大学のスタッフの皆さん、ありがとうございました。
岡山の就実大学で講演をするためである。
研究の社会発信について、話をしてほしいというご注文だったので、「古典文学研究は社会とどうつながるのか」などという大上段に構えたタイトルで、90分弱話させていただいた。
古典文学研究は、その時代の社会と古典をつなぐ役割を果たすのだという、いつもの私の持説を話したあと、自分自身の社会連携・社会発信の経験に即して、具体的事例を話した。特にくずし字アプリ開発の話とデジタル文学地図の話を中心に。
質問を受けるため、5分ほど時間を残して終わった。司会の瓦井さんが、「質問はありませんか」というと、さっと手があがった。「古典文学研究は役に立つというお話でしたが、いままでに先生の経験した具体的例はどういうことですか」という、いきなりグサリと刺さる質問が・・・。驚いたのは、それから次から次へと質問が続き、15分くらいのやりとりがあった。すべて学生の自主的な質問である。こういう経験はあまりない。しかも、なぜか質疑応答が終わるたびに拍手が起こるという。
教員になる予定だという学生さんからの真摯な質問もあり、聴講してくれた学生さんたちが、「自分の事」としてこの話をきいてくれたのが何よりも嬉しかった。なにか私自身が希望を感じた講演会だった。
阪大OBである川崎さん、瓦井さん、そして岩田さん、近世文学研究仲間の竹内さんら、知っている方がたくさんいらっしゃったので、非常にリラックスして講演ができた。岩田さんの夫で私のゼミ生だった岡田さんにも会えてたいへん嬉しかった。就実大学のスタッフの皆さん、ありがとうございました。
2022年11月23日
雅俗悼辞(中野三敏先生追悼文集)
中野三敏先生を偲ぶ会編『雅俗悼辞』が先生の命日の日付で刊行された。
九大の川平さんが編集実務をされ、美しく瀟洒な本に仕上がっていた。昨日朝届き、仕事の行き帰りの電車と、ちょっと顰蹙だが歩きながら全部読んだ。やめられなくなってしまったのだ。
コロナで一度延期になった「偲ぶ会」が、一周忌の際に福岡で行われることになったのだが、そのころ第三波がはじまったころで、予定の方が多く参加を見合わせた。しかし、あらかじめ振り込んだ参加費はお返ししなくてよいという方がたくさんいて、結果、余剰金がかなり出ることになった。そこで追悼文集を出すことになったという。
先生の傘寿を記念して「雅俗小径』という記念文集を、やはり川平さんを中心に作っていたが、追悼文集はまた違う。先生をうしなった人たちの悲しみと先生への感謝とがぐっと迫ってくる。40人以上の方(ほとんどの方を存じ上げているが)が、思い出とともに、それぞれの心の中の中野先生を描いている。そして、ご長男の学而さんが、最後を締めているが、その文章がこの上なく美しく胸を打つ。
そのひとつひとつに、コメントしたい衝動にかられる。とりわけ、同世代とそれに近い世代の文章は、忘れていたことを思い出させるとともに、彼らの中野先生への想いが分かりすぎで分かりすぎで。
いまさらながら、わたしたちは幸せだったなあと振り返ることしきりであった。そんなに先生としょっちゅう話を交わしていたわけではないけれど、あのころの院生たちは、国生雅子さん(近代文学、福岡大学名誉教授)がいうように、中野先生を中心に居こごちのいい雰囲気の中で過ごしていたのである。
本書は、偲ぶ会の参加者(参加費を払った方をふくむ)と、「雅俗」同人に配布されたはずである。
九大の川平さんが編集実務をされ、美しく瀟洒な本に仕上がっていた。昨日朝届き、仕事の行き帰りの電車と、ちょっと顰蹙だが歩きながら全部読んだ。やめられなくなってしまったのだ。
コロナで一度延期になった「偲ぶ会」が、一周忌の際に福岡で行われることになったのだが、そのころ第三波がはじまったころで、予定の方が多く参加を見合わせた。しかし、あらかじめ振り込んだ参加費はお返ししなくてよいという方がたくさんいて、結果、余剰金がかなり出ることになった。そこで追悼文集を出すことになったという。
先生の傘寿を記念して「雅俗小径』という記念文集を、やはり川平さんを中心に作っていたが、追悼文集はまた違う。先生をうしなった人たちの悲しみと先生への感謝とがぐっと迫ってくる。40人以上の方(ほとんどの方を存じ上げているが)が、思い出とともに、それぞれの心の中の中野先生を描いている。そして、ご長男の学而さんが、最後を締めているが、その文章がこの上なく美しく胸を打つ。
そのひとつひとつに、コメントしたい衝動にかられる。とりわけ、同世代とそれに近い世代の文章は、忘れていたことを思い出させるとともに、彼らの中野先生への想いが分かりすぎで分かりすぎで。
いまさらながら、わたしたちは幸せだったなあと振り返ることしきりであった。そんなに先生としょっちゅう話を交わしていたわけではないけれど、あのころの院生たちは、国生雅子さん(近代文学、福岡大学名誉教授)がいうように、中野先生を中心に居こごちのいい雰囲気の中で過ごしていたのである。
本書は、偲ぶ会の参加者(参加費を払った方をふくむ)と、「雅俗」同人に配布されたはずである。
2022年11月21日
久保木秀夫さんのレクチャーを聴く
非常勤の出講日の今日、たまたまではあるが、久保木秀夫さんが、その大学に講演に招かれていた。院生たちが呼びたい研究者を呼ぶイベントらしい。私の授業に出席している学生さんが、「先生もいらっしゃいますか?」とかねてから誘ってくれていたので、「(ラッキー!)もちろん」と、楽しみにしていた。 折りしも、今日は名物クリスマスツリーのイルミネーションの準備も完璧のようである。授業が終わって、さっそく講演会場に移動。控室に久保木さんはいなくて、すでに書画カメラのところで、数十の古典籍を積んで、準備をされていた。
「これ、全部持って来られたのですか?」「ええ、あの海外旅行用のキャリーバッグに」「(ひょえかー!)全部、ご自分のですよね?」「ええ」。
講演は「古い書物の面白さー國文学研究と書誌学ー」と題して、久保木さん自身の研究経験(学生時代・国文研時代、鶴見時代)をほぼ時系列に辿って、現在の集書に至るまでの、気づきや、集書テーマの形成をお話しいただいたあと、具体的にどのように古典籍を扱っていくか、興味深い具体例をいくつも示された。小学生向け和本レクチャーでは、小学生が有名古典の原本よりも、明治ごろの雑本に興味津々だったという経験を話された。たしかに、明治の和本にはモノとしての面白さが満載だ。和漢洋が融合した試み、英語教科書の和本や、新約聖書の和本などの実物を紹介された。左綴じの和本や、鳥羽絵の絵本とその板木のなど。小学生ならずとも面白い。
しかし、やはり真骨頂は古写本・古筆切の話だ。若い頃から、のコツコツと集めた古筆切の写真は何万点。その知見があってはじめて、とてつもない原物を入手するチャンスをものにできるという話の実例をいくつか。入手方法もさることながら、わずか一葉の紙と記載内容から、これだけの情報が引き出されるという超スリリングな展開。むかし、中野三敏先生から伺った、「本の方からしかるべき人のところにやってくる」の話を思い出した。
超レア本を含む、古典籍を、全て学生に開放、学生さんは、大喜びで、本を触っていた。
とても、いいレクチャーを受けた。教室に出ると、とっぷりと暮れていて、クリスマスツリーのイルミネーションが無数の光を放っていた。
「これ、全部持って来られたのですか?」「ええ、あの海外旅行用のキャリーバッグに」「(ひょえかー!)全部、ご自分のですよね?」「ええ」。
講演は「古い書物の面白さー國文学研究と書誌学ー」と題して、久保木さん自身の研究経験(学生時代・国文研時代、鶴見時代)をほぼ時系列に辿って、現在の集書に至るまでの、気づきや、集書テーマの形成をお話しいただいたあと、具体的にどのように古典籍を扱っていくか、興味深い具体例をいくつも示された。小学生向け和本レクチャーでは、小学生が有名古典の原本よりも、明治ごろの雑本に興味津々だったという経験を話された。たしかに、明治の和本にはモノとしての面白さが満載だ。和漢洋が融合した試み、英語教科書の和本や、新約聖書の和本などの実物を紹介された。左綴じの和本や、鳥羽絵の絵本とその板木のなど。小学生ならずとも面白い。
しかし、やはり真骨頂は古写本・古筆切の話だ。若い頃から、のコツコツと集めた古筆切の写真は何万点。その知見があってはじめて、とてつもない原物を入手するチャンスをものにできるという話の実例をいくつか。入手方法もさることながら、わずか一葉の紙と記載内容から、これだけの情報が引き出されるという超スリリングな展開。むかし、中野三敏先生から伺った、「本の方からしかるべき人のところにやってくる」の話を思い出した。
超レア本を含む、古典籍を、全て学生に開放、学生さんは、大喜びで、本を触っていた。
とても、いいレクチャーを受けた。教室に出ると、とっぷりと暮れていて、クリスマスツリーのイルミネーションが無数の光を放っていた。
2022年11月18日
蝶夢全集続
田中道雄・田坂英俊・玉城司・中森康之・伊藤善隆編『蝶夢全集続』が届いた。正編から九年、待望の900頁超。書簡編が圧巻である。そして、田中先生の「列島にくまなく蕉風俳諧を」と題した解説。要熟読。しかし、今はこの本を手にした昂揚感を記すにとどめたい。書簡編を摘読すると、文芸への熱い思いが伝わってくる。これが田中先生の熱い文学観と重なって見えるのは私だけだろうか。帯にも記された、光格天皇が新しい御所の壁に掛けた座右の銘のことを記す書簡。蝶夢は、情報の切り取り方も一流だ。この書簡編は、安永から寛政にかけての上方文壇を研究するものには必読であろう。
そして、蝶夢の文芸への確かな信頼を説く田中先生の解説には、時々目が釘付けになるような記述がある。
蝶夢が、火災にあった知人に「風雅(文学)は、かかる時の役に立申候ものにて候」と書き送ったことをとりあげて、「蝶夢の〈文芸は人を苦しみから救う力を持つ」との認識は、甚だ深く、また新しく、近代的とさえ言えよう」と。
本書については、あらためて書きたい。まずは、ご上梓への祝意を表したく、かくのごとく候。
そして、蝶夢の文芸への確かな信頼を説く田中先生の解説には、時々目が釘付けになるような記述がある。
蝶夢が、火災にあった知人に「風雅(文学)は、かかる時の役に立申候ものにて候」と書き送ったことをとりあげて、「蝶夢の〈文芸は人を苦しみから救う力を持つ」との認識は、甚だ深く、また新しく、近代的とさえ言えよう」と。
本書については、あらためて書きたい。まずは、ご上梓への祝意を表したく、かくのごとく候。
2022年11月13日
賀茂社家古典籍セミナー参加記
11月12日(土)は、国文研共同研究が主催する「第1回賀茂社家古典籍セミナー」に参加した。京都である。まもなく告知する2月の国際シンポジウム(私も運営に関わっている)の会場で行われるので下見の意味もある。会場となる箱は立派なもので、安心した。アクセスと周囲の様子も検証したが、周囲に飲食店があまりないようである。もすこし調査を続けよう。
セミナーは3本立てで、宇野日出生さんの基調講演「上賀茂神社と社家のふしぎ」、小林一彦さん(共同研究代表)の「鴨長明『方丈記』の性格」、家人である盛田帝子の「賀茂季鷹と王朝文化復興」である。いろいろ学びがあった。
ここでは小林さんのご講演について。方丈記の流布本系の本文の性格を考えるという問題意識だが、実に興味深いのは、本文の性格を考える際に、後代、それも江戸時代の天明飢饉・沖縄戦・阪神大震災での証言などの画像資料や証言資料を使うという斬新な方法である。まさにデータサイエンスのモデルとなる発表である。方丈記の本文には、圧死で目玉が飛び出すとか、災害で亡くなった母親の乳を子供が求めているという記述が出てくるのだが、その記述は長明が現場で見たものなのかどうなのか。災害や戦争では、多くの「死体」が現場に残される。それがどのような有様であったか、江戸時代の飢饉の記録、沖縄戦の記憶を描いた映像、阪神大震災後の被災者の証言が、驚くほど方丈記で描かれたそれと一致することを示した。これにより、長明が、現場に出向き、死体のありさまを正確に描写し、それを伝えようとしたこと、つまり長明のルポルタージュの精神が浮き彫りにされた。こういう方法で古典本文を読むことができるのかという驚きとともに、「古典に学ぶ」ことができるという実例を示されたご講演であった。
会場には国文研館長の渡部泰明さんもいらしており、久しぶりに、しばしお話することができた。「鎌倉殿の13人」の和歌考証がどのようになされているかなどの秘話を聞けたのはラッキー。
個人的にお世話になっている賀茂季鷹のご子孫にあたる現山本家ご当主もはるばる香川からお見えで、ご挨拶ができた。ご本人は英文学の先生だが、古典籍の継承には非常にご理解がある。会場では展示コーナーがあり、京都産業大学所蔵の競馬(くらべうま)関係資料が展示されていた。立派なものだった。
セミナーは3本立てで、宇野日出生さんの基調講演「上賀茂神社と社家のふしぎ」、小林一彦さん(共同研究代表)の「鴨長明『方丈記』の性格」、家人である盛田帝子の「賀茂季鷹と王朝文化復興」である。いろいろ学びがあった。
ここでは小林さんのご講演について。方丈記の流布本系の本文の性格を考えるという問題意識だが、実に興味深いのは、本文の性格を考える際に、後代、それも江戸時代の天明飢饉・沖縄戦・阪神大震災での証言などの画像資料や証言資料を使うという斬新な方法である。まさにデータサイエンスのモデルとなる発表である。方丈記の本文には、圧死で目玉が飛び出すとか、災害で亡くなった母親の乳を子供が求めているという記述が出てくるのだが、その記述は長明が現場で見たものなのかどうなのか。災害や戦争では、多くの「死体」が現場に残される。それがどのような有様であったか、江戸時代の飢饉の記録、沖縄戦の記憶を描いた映像、阪神大震災後の被災者の証言が、驚くほど方丈記で描かれたそれと一致することを示した。これにより、長明が、現場に出向き、死体のありさまを正確に描写し、それを伝えようとしたこと、つまり長明のルポルタージュの精神が浮き彫りにされた。こういう方法で古典本文を読むことができるのかという驚きとともに、「古典に学ぶ」ことができるという実例を示されたご講演であった。
会場には国文研館長の渡部泰明さんもいらしており、久しぶりに、しばしお話することができた。「鎌倉殿の13人」の和歌考証がどのようになされているかなどの秘話を聞けたのはラッキー。
個人的にお世話になっている賀茂季鷹のご子孫にあたる現山本家ご当主もはるばる香川からお見えで、ご挨拶ができた。ご本人は英文学の先生だが、古典籍の継承には非常にご理解がある。会場では展示コーナーがあり、京都産業大学所蔵の競馬(くらべうま)関係資料が展示されていた。立派なものだった。
2022年11月12日
多田南嶺と八文字屋
堅牢で100年は持ちそうな汲古書院の『八文字屋本全集』の完結から20年以上経つ。学界への貢献は計り知れない。だが、全集完結以来、「八文字屋」を冠した研究書は、寡聞にして知らない。このたび、本家の汲古書院から、ついにそれが刊行された。神谷勝広さんの『多田南嶺と八文字屋』(2022年10月)である。南嶺は、八文字屋の重要な「代作者」で、南嶺研究なしに、八文字屋研究はない。ちなみに南嶺についても、古相正美さん以来の研究書ということになるのではないか?
本書はまず南嶺・八文字屋本研究史を振り返る。これは非常に有益。今後の浮世草子研究には必読になる。そして第一章が「多田南嶺」。まずは伝記的に押さえられるところを、実証的にひとつひとつ潰していくというやり方。生年、俳諧、淡々との関係、八文字屋との関わり、尾張時代、師系、と白話小説への意識。問題点・疑問点をまず明示し、資料を提示してそれを解きほぐす姿勢は一貫している。無駄のない、そっけないとさえ思える文章は禁欲的である。南嶺浮世草子の検討でも、モデル論に力点を置く。
後半第二章は八文字屋。まずその経営、その基幹出版物である役者評判記、劇書、絵本、挿絵の様式、挿絵典拠論と続く。
そして結章が、書名と同じく「多田南嶺と八文字屋」。全体のまとめにあたる。
南嶺のことにしろ、八文字屋にしろ、なにか調べたいと思ったら、まずこの本に就くということになる。
本書には、これからの課題も散りばめられている。長谷川強先生の、浮世草子研究への思いは、確実に受け継がれ、次世代へのバトンも準備されているのである。
本書の奥付にも明記されているように、神谷さんは2020年に同志社大学を退職された。在職中もその仕事の速さには瞠目していたが、退職後はいっそう専心されているようである。2021年12月には『近世文芸とその周縁ー江戸編ー』(若草書房)を上梓、1年もたたずに本書、さらに、「近世文芸とその周縁」の上方編も準備されているという。どれだけのペースで研究書を今後出されていくのだろうか。
また全集が整備された作者・本屋の研究ということについても考えさせられる。八文字屋全集よりもずっと早く完結した洒落本大成を使い倒した洒落本の研究書はまだ出ていない。WEB化で、全集のあり方も今後は変わってくる。いま刊行中の全集についても研究が続々出ることで、完結へむけての機運が高まることを期待したい。
本書はまず南嶺・八文字屋本研究史を振り返る。これは非常に有益。今後の浮世草子研究には必読になる。そして第一章が「多田南嶺」。まずは伝記的に押さえられるところを、実証的にひとつひとつ潰していくというやり方。生年、俳諧、淡々との関係、八文字屋との関わり、尾張時代、師系、と白話小説への意識。問題点・疑問点をまず明示し、資料を提示してそれを解きほぐす姿勢は一貫している。無駄のない、そっけないとさえ思える文章は禁欲的である。南嶺浮世草子の検討でも、モデル論に力点を置く。
後半第二章は八文字屋。まずその経営、その基幹出版物である役者評判記、劇書、絵本、挿絵の様式、挿絵典拠論と続く。
そして結章が、書名と同じく「多田南嶺と八文字屋」。全体のまとめにあたる。
南嶺のことにしろ、八文字屋にしろ、なにか調べたいと思ったら、まずこの本に就くということになる。
本書には、これからの課題も散りばめられている。長谷川強先生の、浮世草子研究への思いは、確実に受け継がれ、次世代へのバトンも準備されているのである。
本書の奥付にも明記されているように、神谷さんは2020年に同志社大学を退職された。在職中もその仕事の速さには瞠目していたが、退職後はいっそう専心されているようである。2021年12月には『近世文芸とその周縁ー江戸編ー』(若草書房)を上梓、1年もたたずに本書、さらに、「近世文芸とその周縁」の上方編も準備されているという。どれだけのペースで研究書を今後出されていくのだろうか。
また全集が整備された作者・本屋の研究ということについても考えさせられる。八文字屋全集よりもずっと早く完結した洒落本大成を使い倒した洒落本の研究書はまだ出ていない。WEB化で、全集のあり方も今後は変わってくる。いま刊行中の全集についても研究が続々出ることで、完結へむけての機運が高まることを期待したい。
2022年11月07日
学会記(同志社大学)
2019年秋以来となる対面(オンライン併用)での日本近世文学会が同志社大学で、11月5日、6日の両日開催された。
私も対面参加したが、参加した方が予想の2倍くらいいて驚き、とても嬉しかった。
申し込みが160名、実際に足を運んだ方も130名いたという。オンライン申し込みが120名。
今回、参加費を徴収したにもかかわらず、オンラインを含め280名が申し込み、対面参加がオンライン参加を上回ったのである。
いかに、学会員が対面の学会開催を待ち望んでいたかがわかる。
懇親会は、懇談会と名称を変え、アルコールはなし。それでも100名が参加し、いつもと変わらず楽しそうな歓談の輪がいくつも見られた。
私も多くの人を話しが出来、旧交を温めることができて幸せだった。対面だからこそ痛感するみなさんの研究への熱意、対面だからこそ得られる貴重な情報、対面だからこそ痛感する自分の怠惰・無知。そしてがんばらないとな、と言い聞かせるのは、院生時代と少しも変わらない(←成長がない!笑)
初日のシンポジウムは、演劇を起点とする越境・交流というテーマで、5人のパネリスト、2人のディスカッサントが登壇。
それぞれの研究を通して、越境・交流の事例報告をおこなった。「越境」「交流」という言葉が多義的なため、全体としては拡散的な議論になったが、そこがむしろ面白かったとも言える。個別の発表には学ぶところが非常にたくさんあったし、久しぶりの対面議論ならではの「空気」(としかいいようのない雰囲気)を実感できた。そして、乱反射する議論を見事に捌いた日置貴之さんの手腕、すばらしい。
日曜日の発表7本は、新人・中堅・ベテランとバランスのよい布陣で、質疑応答の時間をしっかりとっていたため、それぞれの発表の意図や意味が、議論をきいてより深く理解できた。この質疑応答にも、対面のよさが表れていたと思う。同時期に開催のタイミングとなった源氏物語展示もよかった。すぐ近くの冷泉家が秋の特別展観で開いていたので、そちらに出かけた人もいたようだ。
それにしても、今回、ハイブリッドという困難な開催方法に途中で変更されたにもかかわらず、短期間で準備された開催校同志社大学の山田さん、大山さん、事務局の池澤さん、日置さんをはじめ、大会実行組織のみなさん、同志社大学の学生さんに、心から感謝したい。
学会終了後は、かねて予定されていた昨年12月に行われた雅俗シンポジウムの打ち上げを京都らしい某所で。めちゃくちゃ楽しかったです。
私も対面参加したが、参加した方が予想の2倍くらいいて驚き、とても嬉しかった。
申し込みが160名、実際に足を運んだ方も130名いたという。オンライン申し込みが120名。
今回、参加費を徴収したにもかかわらず、オンラインを含め280名が申し込み、対面参加がオンライン参加を上回ったのである。
いかに、学会員が対面の学会開催を待ち望んでいたかがわかる。
懇親会は、懇談会と名称を変え、アルコールはなし。それでも100名が参加し、いつもと変わらず楽しそうな歓談の輪がいくつも見られた。
私も多くの人を話しが出来、旧交を温めることができて幸せだった。対面だからこそ痛感するみなさんの研究への熱意、対面だからこそ得られる貴重な情報、対面だからこそ痛感する自分の怠惰・無知。そしてがんばらないとな、と言い聞かせるのは、院生時代と少しも変わらない(←成長がない!笑)
初日のシンポジウムは、演劇を起点とする越境・交流というテーマで、5人のパネリスト、2人のディスカッサントが登壇。
それぞれの研究を通して、越境・交流の事例報告をおこなった。「越境」「交流」という言葉が多義的なため、全体としては拡散的な議論になったが、そこがむしろ面白かったとも言える。個別の発表には学ぶところが非常にたくさんあったし、久しぶりの対面議論ならではの「空気」(としかいいようのない雰囲気)を実感できた。そして、乱反射する議論を見事に捌いた日置貴之さんの手腕、すばらしい。
日曜日の発表7本は、新人・中堅・ベテランとバランスのよい布陣で、質疑応答の時間をしっかりとっていたため、それぞれの発表の意図や意味が、議論をきいてより深く理解できた。この質疑応答にも、対面のよさが表れていたと思う。同時期に開催のタイミングとなった源氏物語展示もよかった。すぐ近くの冷泉家が秋の特別展観で開いていたので、そちらに出かけた人もいたようだ。
それにしても、今回、ハイブリッドという困難な開催方法に途中で変更されたにもかかわらず、短期間で準備された開催校同志社大学の山田さん、大山さん、事務局の池澤さん、日置さんをはじめ、大会実行組織のみなさん、同志社大学の学生さんに、心から感謝したい。
学会終了後は、かねて予定されていた昨年12月に行われた雅俗シンポジウムの打ち上げを京都らしい某所で。めちゃくちゃ楽しかったです。
2022年11月03日
教養としての日本古典文学史
村尾誠一氏『教養としての日本古典文学史』(笠間書院、2022年11月)。
村尾氏は東京外国語大学で長い間教鞭をとられていて、留学生と日本人学生の合同授業の経験を元に、この本が書かれたという。
そのようなわけで、教科書的な性格が強いとはいえ、ひとりで古典文学史を書くというのは、大変なことである。
しかし、文学史というのは、理想としては一人で書くべきである。それを実践しているのは、並大抵のことではない。
特徴としては、世紀別編成になっていること。岩波講座日本文学史と同じ方法である。これも国際的な教科書ということを意識されているからだろう。
不思議な縁で、本書を手にする事ができたことに感謝している。
村尾氏は東京外国語大学で長い間教鞭をとられていて、留学生と日本人学生の合同授業の経験を元に、この本が書かれたという。
そのようなわけで、教科書的な性格が強いとはいえ、ひとりで古典文学史を書くというのは、大変なことである。
しかし、文学史というのは、理想としては一人で書くべきである。それを実践しているのは、並大抵のことではない。
特徴としては、世紀別編成になっていること。岩波講座日本文学史と同じ方法である。これも国際的な教科書ということを意識されているからだろう。
不思議な縁で、本書を手にする事ができたことに感謝している。