『日本文学研究ジャーナル』25号(2023年3月、古典ライブラリー)は、浅田徹・田中康二編で「近世の論争」を特集。
冒頭長島弘明さんの「秋成と架空の論敵」は、重要な指摘がそこここに鏤められている。まずは『春雨物語』「海賊」が「歌舞伎読本」だという見立て、面白い。「秋津は不在の論敵、あるいは架空の論敵に向かってただ一方的に語りかけている」。そして『雨月物語』の「白峰」や「菊花の約」にも論争になりきれなかった論争があると指摘する。論争の中断や不成就という点では同じだが、しかし雨月物語は暗く海賊は明るい。そこに秋成の「憤り」と「命録」という、若いときと老年のときの生き方が反映しているとみる。
さらに、秋成は「本質的な論争をほとんどしなかった人であるように思われる」という。『胆大小心録』にはいろんな歴史上の人物にくってかかるけれどそれは「放言」である。たしかに『胆大小心録』は「ひとりごと」と自ら言っているので、そう言えるだろう。
『胆大小心録』は置いといて、私は『雨月物語』や『春雨物語』で、秋成が自説を登場人物に語らせるありかたを〈学説寓言〉としてとらえ論じてきた。秋成の方法は〈学説寓言〉史においても、非常に重要である。多くのヒントをいただいた長島さんに感謝する。
板東洋介・高松亮太・田中康二各氏の論文も、秋成と宣長の論争に触れる。板東氏の「犬をめぐる論争」は発想がユニークである。禽獣観から思想史を構築するとは。高松氏は、先行研究を踏まえ秋成の対宣長意識を丹念に追う。田中氏は、宣長の論争の戦略、「論破」の方法を分析する。なにやら〈はい論破〉という決め台詞が話題になった最近の「論壇」(?)のことが想起された。宣長は論争が上手いということを明らかにする。
巻末の浅田徹さんの「『筆のさが』の香川景樹歌を読むー伝統を踏み破る思想−」は、当代きっての江戸の歌人らから非難された景樹の和歌を、ほかならぬその非難を手掛かりに、その新しさを指摘していくもので、実に手際がよい。これは近世和歌研究者にはなかなか及ばない方法で、伝統的な和歌の詠み方に精通している中世和歌研究者ならではの論であった。