2023年06月06日

大田南畝の世界

「大田南畝の世界」展については、5日付の投稿「学会記」(日本女子大学)で触れた。この展示の会期は4月29日から6月29日で、展示期間が前期@・前期A・後期と、3期に分かれている。私たちが見たのは後期であったが、実は前期のみの展示も数多くあったということが出品目録からわかった。関東地区に住んでいれば2回は行っただろうにと残念だが、それを補うのが、図録『大田南畝の世界』である。なんとか写真で渇を癒やせるのだ。こちらもまた素晴らしい出来である。そして特筆すべきは所収論考がどれも非常に面白いことである。いくつか短評。巻頭の揖斐高「大田南畝の自由と「行楽」」はさすがの手練れ。小林ふみ子「「著作」の範囲―大田南畝の知の広がり」は、南畝全集に収められていない南畝の「自著」について触れる。それは既存の文献からの抜き書き、また他人の著書への書き入れ、編纂された叢書など。近世文人の「著作」活動にはこのようなものがきわめて多い。たしかにそれはオリジナルの作品ではないが、まぎれもない文事である。まだ院生のころだったか、中村幸彦先生に近世的な随筆の定義を教わった記憶が甦る。抜き書きを記録に留めることもまた随筆なのだと。牧野悟資「狂歌指導者大田南畝を考えるー方法としての狂歌判者」は展示で『狂歌角力草』稿本における南畝の添削を見た直後に読んだのでよくわかった。池澤一郎「漢詩と狂歌との接点―日野龍夫先生の洞察された大田南畝の文藝の特質―」は、日野先生の、性霊派漢詩論を南畝の狂歌が摂取していたという卒論の話題(もともとは本多朱里さんの文章に書かれていたことらしい)から始まる。その先見性に敬服しつつ、「漢詩が狂歌を支えていた」例として源氏物語に取材した狂歌を取り上げて論じる。そこでは南畝の源氏物語の読みも炙り出すという名人芸。これには唸った。宮崎修多「大田南畝の「日本」」。南畝の「日本」意識を論じるものだが、なんとも江戸文学に習熟していると舌を巻く文章である。どこか既視感があると思ったら、宮崎さんの師(私の師でもある)中野三敏先生の文章の呼吸にそっくりだった。短評は無理なんで、味わい深かったとだけ言っておこう。
 
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする