2023年06月09日

蝶夢思想の浄土的側面

 田坂英俊さん。広島府中市の慶照寺のご住職。親戚関係にあたるおなじく府中の明浄寺出身の昇道研究の第一人者である。昇道は、秋成の歌文集『藤簍冊子』の編集を担当し、版下も書いた。晩年の秋成を語るのになくてはならない存在である。田坂さんとは面識はないが、研究上、さまざまな便宜をお図りいただき、著書もたくさんいただいている。研究書は20冊以上に及ぶが、資料の博捜ぶりは並みの研究者では及ばない。
 田坂さんは、蝶夢の研究者でもあり、蝶夢全集の編集にも携わっている。今回、出版された『蝶夢思想の浄土的側面』(慶照寺、2023年6月)は、蝶夢の仏教者としての側面を緻密に描きだした画期的な研究書である。もとより浄土真宗のお寺のご住職であるから、仏教思想はまさに専門であり、田坂さんでなくてはこのような本は書けない。本書の意義については、田坂さんと30有余年の付き合いをされてきたという田中道雄先生が「奇特なお坊様の蝶夢論」と題された序文につくされている。
 江戸中期の捨世派の僧侶たちが与えた蝶夢への影響を裏付けた点。蝶夢の思想の根底に懺悔心があるという指摘。近江石山寺に石灯籠を建立した意図や、蝶夢の書簡に頻出する全国各地の作柄や米価についての記事から、庶民の貧窮を憂慮する蝶夢の心の読み取り。
 田中道雄先生は、「私は俳人・文人次元の蝶夢は理解したかも知れぬが、仏者としての蝶夢の理解にまでは、とても至っていなかった。しかし、その蝶夢の仏教思想の探究こそ、蝶夢研究の根底に置くべき課題であり、それゆえに不可欠であろう。(中略)私は、蝶夢をそれなりに理解していると思い込んでいた。皮相な理解を。何と浅はかで、傲慢であったことか。田坂さんこそが、現在もっとも深く蝶夢を理解しておられるお方である」と言い切っている。蝶夢研究を領導する田中先生のこの謙虚な、しかし正直に発せられる言葉は、私の胸を打つ。田中先生のすごさをここに感じる。そして、田中先生の言う通り、本書は蝶夢研究の必読書となるに違いない。
 まことに残念ながら、田坂さんは、そのほとんどの著書を自費出版されており、本書も非売品の少部数印刷ということである。蝶夢全集の別巻として出版されればいいなあと心から願望する。
 
 
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする