ついこの間、21号をうけとったような気がするのにもう22号ですか。『雅俗』は相変わらず堅調に号を重ねている。前身の『雅俗』よりも、構成員が広くなった。その分、九大OBの方の執筆が少なくなっているように見えるのはちょっと寂しい気がする。来号には多数ランナップされることを期待。
さて、今号は、私の教え子が二人も執筆しているのに驚いた。論考編の巻頭にのる浜田泰彦氏の「元禄の『古今著聞集』版本登場前夜」は、かなりの長編論考である。元禄版本出現以前の、近世における『古今著聞集』受容史を『昔物語治聞集』を中心にみており、近世説話史の模索という問題に繋げている。労作ではあるが、タイトルがややわかりにくいのと、もうすこし論点を整理する必要があるだろう。「近世説話史」構想は30年位前にいろいろな人が言っていたが、今は下火になっている印象であり、文学史の構築は難題である。本人が末尾で言っているように共同研究プロジェクトを組織し、説話文学DB構築を射程に入れて進めてもらえばすばらしい。如何。いまひとりの有澤知世さんは「名著巡礼」で鈴木重三『絵本と浮世絵』を手堅く語る。
位田絵美さんの「民撰書「長崎旧記類」の実態と編纂意図」は、非常に魅力的な研究対象を論じるが、これも一人の手だと相当膨大な調査研究になりそう。西田耕三先生(「儒学への道」)の相変わらずの筆力には脱帽せざるを得ない。
木場貴俊さんの「絵入年代記考」。鈴木俊幸さん的なアプローチを思わせる、まさに書物学であり、読書学である。
連載エッセイ菱岡憲司さんの「小津久足とガーデニング」。連載3回目だが、名人芸に達しているではないの! 前半は後水尾天皇が、3年ごとに一つの専門を徹底的に勉強したという上野先生講義ばなしをうけて、ご自身も柱になる読書とは別に3年ごとに何かやろうと、中国語、自転車、ドラム、フルマラソン、合気道、ベランダ・ガーデニングと次々に学び、大西巨人の『神聖喜劇』の「浅学」論をはさみつつ、江戸の朝顔栽培そして小津桂窓のガーデニングに至る。この自在な筆致はもう熟練のエッセイストと言っていい。これには驚いた。蘊蓄というのでもなく、軽妙というのとも違う、菱岡流としか呼びようのない巧みさである。こりゃ、この連載のあとを受けて書く人は大変だ。気の毒だw(内輪向け)
少し時間が合ったので、到着後摘読できたのだが、やはり本(雑誌)の感想は、到着後すぐ読んでが理想ですな。とはいえ、未紹介の重要な本がたくさんございますので、順次紹介して参ります。たとえ1年以上経った本であっても。
2023年07月28日
2023年07月20日
高田衛先生
昨日、高田衛先生の訃報が入ってきた。93歳。この半世紀、秋成研究を文字通り牽引してきた方だった。研究者というよりも文学者のオーラをまとっていた。先生のご逝去で、まちがいなく秋成研究のひとつの時代が終わった。
院生のころは、雲の上の存在で、見かけただけで「高田衛だ!」となった。すでに伝説的な存在だった。しかし、この世代の先生方はほぼみなそうであるが、後進に対して実に懇切丁寧である。私の最初の論文にも丁寧なお葉書を頂戴し、感激したことを覚えている。そして、高田門下のひとたちとも知り合っていくと、高田先生は研究者を育てる力も一流であると気づかされた。私より少し上に稲田篤信さん、西田耕三さんら。私と同世代では佐藤深雪さん、高木元さん、風間誠史さん、鈴木よね子さんら。少し下には高橋明彦さんらがいる。他にも個性的な研究者がたくさんいらっしゃる。一筋縄ではいかない方ばかり。とくに高木元さんは、「おたがい師匠の学風をストレートには継いでいない。むしろ逆ね」という点で妙に意気投合していた。もちろん、私はともかく、高木さんには高田衛の血が流れているのを私は知っている。
よく考えると、私の研究の3つの柱である、秋成・奇談・上方文壇は全部高田先生がらみなのだ。
秋成はいうまでもないだろう。学部時代、当時古書価格が高価でとても手の出なかった『上田秋成研究序説』と『上田秋成年譜考説』(後者は10万円近くした)を中野先生にお借りしてコピーし、座右に置いた。
私が院生か助手のころ、叢書江戸文庫を高田先生は企画された。その1冊『佚齋樗山集』を中野三敏先生に頼んでこられた。「秋成ばかり読んでいては、秋成はわからない」と日頃おっしゃていた中野先生は、ちょうど飯倉にさせるといいと思われたか、その仕事を私に振ってくださった。そこから私の「奇談」書研究は始まっている。もっとも樗山のことを始めたときには全国の樗山の版本を見て歩くだけで、その先を何も考えていなかった。しかし板本書誌学の授業を受けた以上、とりあえず見られる板本は全部みないといけないという倫理観が私にはあった。この時の書誌調査で、なにか書誌学的なことへの自信のなさが少し解消したかと思う。これも高田先生のおかげだったわけである。
さらに、私が研究に行き詰まりを感じていたころ、高田先生から「妙法院宮サロン」と「大坂での太田南畝」について書くようにご下命を受けた。『共同研究秋成とその時代』の企画だった。前者は宗政先生の代打だった。今思えば、このご依頼が、私を「上方文壇の人的交流」研究へと誘ったものである。中野三敏先生の演習で学んだ文壇研究の方法が役に立った(大学院で頼春水の『在津紀事』などを読んでいたので)。ひとつの論集に文壇研究的な論文を2本も書かせていただいたことが、その後の私の研究を少し拡げることになった。
高田先生のおかげで、今の研究者としての自分がある。私はいまそう確言できる。
高田先生は、秋成歿後200年記念展示を京都国立博物館で、「若冲」や「蕭白」と同じような規模でやりたいとおっしゃっていた。さすがにそこまでのことはできなかったが、京博で秋成展をやることができた。稲田篤信さん、木越治さん、長島弘明さんと私とで、何度も打ち合わせをし、京博に通い、資料撮影をした。この時の経験で、私の秋成観はかなり変わった。私は『上田秋成 絆としての文芸』で、その秋成観を書いた。つまりこれも高田先生のおかげである。
私は『日本文学』で、先生の2冊の本の書評をした。依頼された時は感激した。ひとつが『春雨物語論』、もうひとつが『秋成 小説史の研究』である。私なりに一生懸命読んだ。そして、今思えば書評というより高田衛論を書いていた。我々が一歩一歩頂上をめざしてのぼっていく難路を横目に、先生は飛翔する蝶のように、春雨物語を山の上から見ていたと。先生はそれを「批判」と受け取られたが、書評自体には感謝をされた。そして秋成研究最後の論文集である、『秋成 小説史の研究』については、なぜ秋成を論じているのに「小説史の研究」かについて考えた。私は中村幸彦先生の『近世小説史の研究』を意識されていると思った。この書評について、高田先生から、信じられないようなお言葉をいただいた。その言葉は私の大切な宝である。
高田先生の追悼文なのに、私自身のことばかりを語ってしまったが、私の研究は、高田衛先生とともにあることを、書きながら改めて確信したのである。
ご冥福をお祈りします。本当にありがとうございました。
院生のころは、雲の上の存在で、見かけただけで「高田衛だ!」となった。すでに伝説的な存在だった。しかし、この世代の先生方はほぼみなそうであるが、後進に対して実に懇切丁寧である。私の最初の論文にも丁寧なお葉書を頂戴し、感激したことを覚えている。そして、高田門下のひとたちとも知り合っていくと、高田先生は研究者を育てる力も一流であると気づかされた。私より少し上に稲田篤信さん、西田耕三さんら。私と同世代では佐藤深雪さん、高木元さん、風間誠史さん、鈴木よね子さんら。少し下には高橋明彦さんらがいる。他にも個性的な研究者がたくさんいらっしゃる。一筋縄ではいかない方ばかり。とくに高木元さんは、「おたがい師匠の学風をストレートには継いでいない。むしろ逆ね」という点で妙に意気投合していた。もちろん、私はともかく、高木さんには高田衛の血が流れているのを私は知っている。
よく考えると、私の研究の3つの柱である、秋成・奇談・上方文壇は全部高田先生がらみなのだ。
秋成はいうまでもないだろう。学部時代、当時古書価格が高価でとても手の出なかった『上田秋成研究序説』と『上田秋成年譜考説』(後者は10万円近くした)を中野先生にお借りしてコピーし、座右に置いた。
私が院生か助手のころ、叢書江戸文庫を高田先生は企画された。その1冊『佚齋樗山集』を中野三敏先生に頼んでこられた。「秋成ばかり読んでいては、秋成はわからない」と日頃おっしゃていた中野先生は、ちょうど飯倉にさせるといいと思われたか、その仕事を私に振ってくださった。そこから私の「奇談」書研究は始まっている。もっとも樗山のことを始めたときには全国の樗山の版本を見て歩くだけで、その先を何も考えていなかった。しかし板本書誌学の授業を受けた以上、とりあえず見られる板本は全部みないといけないという倫理観が私にはあった。この時の書誌調査で、なにか書誌学的なことへの自信のなさが少し解消したかと思う。これも高田先生のおかげだったわけである。
さらに、私が研究に行き詰まりを感じていたころ、高田先生から「妙法院宮サロン」と「大坂での太田南畝」について書くようにご下命を受けた。『共同研究秋成とその時代』の企画だった。前者は宗政先生の代打だった。今思えば、このご依頼が、私を「上方文壇の人的交流」研究へと誘ったものである。中野三敏先生の演習で学んだ文壇研究の方法が役に立った(大学院で頼春水の『在津紀事』などを読んでいたので)。ひとつの論集に文壇研究的な論文を2本も書かせていただいたことが、その後の私の研究を少し拡げることになった。
高田先生のおかげで、今の研究者としての自分がある。私はいまそう確言できる。
高田先生は、秋成歿後200年記念展示を京都国立博物館で、「若冲」や「蕭白」と同じような規模でやりたいとおっしゃっていた。さすがにそこまでのことはできなかったが、京博で秋成展をやることができた。稲田篤信さん、木越治さん、長島弘明さんと私とで、何度も打ち合わせをし、京博に通い、資料撮影をした。この時の経験で、私の秋成観はかなり変わった。私は『上田秋成 絆としての文芸』で、その秋成観を書いた。つまりこれも高田先生のおかげである。
私は『日本文学』で、先生の2冊の本の書評をした。依頼された時は感激した。ひとつが『春雨物語論』、もうひとつが『秋成 小説史の研究』である。私なりに一生懸命読んだ。そして、今思えば書評というより高田衛論を書いていた。我々が一歩一歩頂上をめざしてのぼっていく難路を横目に、先生は飛翔する蝶のように、春雨物語を山の上から見ていたと。先生はそれを「批判」と受け取られたが、書評自体には感謝をされた。そして秋成研究最後の論文集である、『秋成 小説史の研究』については、なぜ秋成を論じているのに「小説史の研究」かについて考えた。私は中村幸彦先生の『近世小説史の研究』を意識されていると思った。この書評について、高田先生から、信じられないようなお言葉をいただいた。その言葉は私の大切な宝である。
高田先生の追悼文なのに、私自身のことばかりを語ってしまったが、私の研究は、高田衛先生とともにあることを、書きながら改めて確信したのである。
ご冥福をお祈りします。本当にありがとうございました。
2023年07月19日
上方文藝研究20号(正木ゆみさん追悼)
『上方文藝研究』20号(2023年6月)が刊行された。今号は、若くして亡くなった正木ゆみさんの追悼特集号であった。正木さんが研究者として日本近世文学(演劇)研究に多大な貢献をされたことは言うまでもない。『上方文藝研究』は、19年前に創刊された。当時、大阪大学文学研究科の日本文学研究室には、古代中世文学研究の雑誌『詞林』があったが、近世文学研究の雑誌はなかった。阪大の院生らが研究成果を発表できる雑誌を作ろうとしたが、これは私と院生だけでできるわけがなく、阪大のOBの方数名にまずはご相談し、ご協力を仰いだのである。
そのなかの一人が、正木ゆみさんで、本当に「献身的」ということばがぴったりのお働きで、私を助けてくださったのだ。御恩返しもできないままで、忸怩たる思いがあった。20号を正木さんの追悼号にすることに迷いはなかった。幸いに多くの賛意を得て、たくさんの原稿が集まった。正木さんのご人徳である。今号は140ページ超で、合併号なみのボリュームである。
私も特集にエッセイというか論文もどきを寄稿した。俳諧紀行文に虚構のキャラクターを登場させることで、一種の文学論を展開する。これは和文紀行の『秋山記』でも取った方法。読本などの読み物ではなく、自分自身の紀行にそういうのを登場させるというのは実に秋成っぽいと私は思う。
さて、先週の土曜日、20名弱が集まって、いつものように合評会が行われた。合評会を厳しくも温かい研究交流の場にしたのも、正木さんの功績。とにかく事前の予習が半端なかった。会場は神戸大学。私の退隠とともに、事務局も神戸大学に移り、有澤知世さんが代表をつとめている。懇親会も当然いつもと違って三宮のおしゃれなレストランだった。そして正木さんに献杯。
そして、これからも上方文藝研究をよろしく。
そのなかの一人が、正木ゆみさんで、本当に「献身的」ということばがぴったりのお働きで、私を助けてくださったのだ。御恩返しもできないままで、忸怩たる思いがあった。20号を正木さんの追悼号にすることに迷いはなかった。幸いに多くの賛意を得て、たくさんの原稿が集まった。正木さんのご人徳である。今号は140ページ超で、合併号なみのボリュームである。
私も特集にエッセイというか論文もどきを寄稿した。俳諧紀行文に虚構のキャラクターを登場させることで、一種の文学論を展開する。これは和文紀行の『秋山記』でも取った方法。読本などの読み物ではなく、自分自身の紀行にそういうのを登場させるというのは実に秋成っぽいと私は思う。
さて、先週の土曜日、20名弱が集まって、いつものように合評会が行われた。合評会を厳しくも温かい研究交流の場にしたのも、正木さんの功績。とにかく事前の予習が半端なかった。会場は神戸大学。私の退隠とともに、事務局も神戸大学に移り、有澤知世さんが代表をつとめている。懇親会も当然いつもと違って三宮のおしゃれなレストランだった。そして正木さんに献杯。
そして、これからも上方文藝研究をよろしく。